淡路地区信徒大会教話 教会長 三宅光雄16年8月28日 皆さん、「淡路地区信徒大会」おめでとうございます。昨日までは雨という天気予報であったにも拘わりませず、今日はお天気のおかげを頂きまして、こうして地区信徒大会のおかげを共々に蒙り、147日後(来春1月22日)に頂きます『御布教九十年記念大祭』、大恩師親先生が昭和2年1月24日に泉尾の地にお座りくださって、90年の御礼の御祭をさせていただく。その御祭は、皆さんの今日のこの大会へ参加される、この願いで支えられているのですね。そのように今感じながら、お話をさせていただいております。 この会場の前に、伊弉諾(いざなぎ)神宮がありますね。四十数年前、私がボーイスカウトで高校1年生の時でしたか、生穂でキャンプをしましてね。夜間ハイクというのがあったのです。その時の目的地がこの伊弉諾神宮でしたね。そして一休みして、また生穂まで歩いて帰ったのですね。先程そこの前を車で通りまして、ああここだったなと思い出しましたね。また更には21年前の「阪神淡路大震災」の時に、私は翌々日には津名港に高速艇で入り、生穂の街から始まり、1日かけてこの一宮(いちのみや)の伊弉諾神宮の辺りでもご祈念をさせていただいて、震源地の北淡町まで車で移動したのですね。ああ、あの時もこちらの前を通ったなと…。いろんな思いのあるこの地で、もっと言えば、5年前の「淡路地区信徒大会」も、こちらで開催されましたね。だから私は、この会場には思い出があるのですね…。 そのような中でこうして皆さんと147日後の『御布教九十年記念大祭』に向かって、さあこれから私たちがしっかりさせてもらいましょうという願いを、共に持たせていただけることは、本当に有り難いことですね。そのことを力強く感じさせていただいております。 直ぐ近くに「台風10号」ですね。このような台風は何か初めてのような気がしますね。一度西に進んだ台風がもう一度東に戻って来て、もしかしたら関東に上陸して日本海に進んでいくのか…。今日天気予報を見ますと関東ではなくて、もう少し北側の方に行くような気がしますね。これは分からないのですよ。そんなもの昨日と今日の天気予報が違うということは、今日と明日の天気予報が違う可能性だってあるわけですよ…。しかしその中で今日はこうして雨の降らないおかげを頂けたということは、先ず何と言っても一番有り難いことだと思わせていただくのですね。 今もお話ししました「阪神淡路大震災」。その3年前の12月から翌年の1月にかけて、実は私は肝臓の病気で1ヶ月半ほど入院したのですね。今日の講題は「難あり有り難し」と頂いております。私が今から当時のことをお話ししますが、その前に、「難」とは何なのだろうかということを、私の話を聞きながら、皆さん方はあらためて考えてみてください。 平成4年10月の「秋の御大祭」の翌日から、私はシンガポール経由で、バングラデシュとスリランカで御用がありました。しかしこちらの事務的なミスで、出発前日までにバングラデシュのビザを取得することができなかったのですね…。とはいえ、スリランカにはどうしてもという御用があったので、シンガポールで2泊して、直接スリランカに入ったのですね…。 スリランカでは「リフォームプロジェクト」という、スリランカ支部が3年かけて進めていた大プロジェクトがありまして、それは100メートル四方のワンブロックの土地を、そこは大変貧しい人達が住んでおられる街で、それを全部潰して、新しい小さな家を、掘っ建て小屋のような家ですが、それを住民の方々にプレゼントするというプロジェクトですね…。 掘っ建て小屋というと、日本ではあまり良いイメージがありませんが、今までの家が、壊している家が、土壁で大変狭く、衛生的でない家々なのに対し、掘っ建て小屋は木造なので、それに比べれば非常に良いのですよ。その当時ですよ。それをスリランカ支部の皆で約3年かけて毎日のように街に出て募金をして、勿論泉尾教会からも援助させていただいたのですね。それでその100メートル四方の、土壁だけの家々を一旦壊して、これを木造の家に建て替えてプレゼントするというプロジェクトをしていたのですね。そこへ私は、スリランカ支部の活動現場として視察に行かせてもらったのですね。そこでA型肝炎になったのですね。 A型肝炎は口から入るのですね。だいたい潜伏期間が1ヶ月ということですね。帰国して12月に入って直ぐにぶっ倒れました。病院に行きますと、先ず「これは急性胃腸炎ですね」と言われました。胃腸炎と言われて薬を飲んでも、熱は全く下がらないのですよ。その夜には40度を超えていましたね。私も40度を超える熱は人生で数度程しか経験がない、そのうちの1回ですね。それで倒れまして、結果それが翌日にA型肝炎だということが分かるのですね。何とその時の数値はGPTが3,500を超えていました。GPTは31までが正常値なのです。そして70を超えますとちょっと危なく、普通は点滴に通ってくださいというのですが、その数値が3,500なのですね。そのまま入院です…。 入院して4日目に大恩師親先生がお祈りに来てくださいました。私の母(大奥様)がお伴で、御神前からお下げくださった御神酒とバスタオルを数枚持たれて、枕元で御祈念をしてくださり、私の頭に一升瓶1本分の御神酒を吹いてくださったのですね。肝臓はここ(手で胸を指されて)にあるのですよ。しかし大恩師親先生は母に「頭、頭…」とおっしゃっているのですね。熱でボーッとしていた私にも聞こえてくるのですね。頭の下にビニールとバスタオルを数枚敷いて、極端なことをいって、御神酒を吹いてくださっているというのか、こぼしているというほどビッシャビシャでしたね。一升瓶1本分ですからね。 後で分かったのですが、「それは肝臓ではない。お前の人生、運命そのものをもう一度ここで清める」…。あらたまるという意味で頭に吹いてくださったのですね。その夜、私は初めてベッドから降りてトイレに行ったのですが、トイレの鏡で自分の顔を見てびっくりしました。土色ですね。黄疸(おうだん)というのですよ。なんというか土色の手に土色の顔。ともかくその数日で15キロ落ちたのですよ。たったの1週間ほどの間に、上げ下(くだ)しですからね。覇気も何も無い顔ですね。大恩師親先生は私の頭に御神酒を吹いてくださったのですね。 おかげを頂きまして、何とこれは不思議なことですが、23年前は1月24日が『御布教六十六年記念祭』ですね。その前日に退院のおかげを頂いたのですね。入院して1ヶ月半です。主治医は最初は「3月末頃まで入院ですね」と言っておられ、そして「その後も半年は通院してもらわないといけないでしょうね」と言われていたのですね。後で聞いた話では、「9割は命は無いでしょう」ということでしたね。そして「もし残りの1割になっても、またその9割はA型肝炎が慢性化するでしょうね」ということでしたが、今では一切ないのですよ。勿論その時を吉祥にお酒をやめましたね。これで私がお酒を飲んで肝臓が悪くなったら、直接関係なくても何のための「お気付け」かということですよね…。勿論A型肝炎なので、肝臓はお酒で悪くなったのではなくて、ウイルスで悪くなったのですが、私は、自分としてお酒をやめようと思いました。これが「阪神淡路大震災」の2年前ですね。同じ1月です。 先程も、「親先生が『阪神淡路大震災』直後の1月19日に、この淡路の地に来てくださり、お祈りしてくださいました」と、生穂会の松井恵美子さんが感話をされていましたね。あの時は、1月17日に大震災があって、私はその時本当のことを言いますと、大正区の辺りが震源地だと初めは思っていたのですね。そのぐらい泉尾教会の辺りも揺れたのですよ。大正区は埋め立て地ですからね。 今NHKで「真田丸(さなだまる)」という大河ドラマをしているでしょう。もう少しで「大坂冬の陣、夏の陣」ですね。歴史書によりますと、「徳川方の軍船(軍艦のこと)が、豊臣方に向けて大筒(大砲のこと)を放った」とありますね。それが泉尾教会の辺りなのですね。教会の辺りまで軍船で来ていたのですね。徳川軍がですよ。そこから大砲を撃つのですよ。ということは、400年程前は泉尾教会はまだ海の中だったのです。だから埋め立て地で、せいぜい400年なのですね。だから地震があったら大きく揺れるのです。更にそれより200年程してから教会から1キロ半程のところが、新田(しんでん)として開発されたのですね。だから泉尾教会より2キロ程のところでは、家が沈んでいたのですね。液状化ですね。 私が震源地の北淡町に行った時、近くの神社の辺りは全壊でしたね。そこから数十メートルほど離れたご信者さんのお家は大丈夫でした。なんと前の筋までは、液状化で多くの家々が沈んでいましたよ。私はそのお家で御祈念をさせてもらったのですね。それと同じ状態が、実は大正区でもあったのですよ。 液状化で家が傾き、その家が隣の家に重なっていたのですからね。よっぽど大正区は地盤が弱いのですね…。淡路は地盤が弱いのではなくて、本当の震源地ですから地面ごと落ちたのですね。それとは意味がちょっと違いますが、でも見た目には同じ状態でしたね。北淡町ではその神社の本殿も鳥居も灯籠も全部落ちて倒れていましたね。そしてもう一度こちらの前を通って、津名より一番最終の高速艇に乗って大阪に戻りました。高速艇に乗ると言いますが、高速艇の桟橋も、まるで浮き桟橋のように50センチほどずれていましたね。 先程挨拶をされた木村先生の仮屋浦教会へも参りました。私はその日お祈りに行かせてもらったのですね。それはもう驚かれたのですね。仮屋浦教会の前の通り、その次の通り、その次の通り、通りがちょっと違うだけで被害が大きく違いましたね。何かきっと、あの辺で、地震の筋があるのでしょうかね。 屋根も天井も落ちて、空が見えている生穂会のご信者さんのお家があったのですよ。その中で私は「天地書附」を書かせてもらった。家の中で空が見えているのですよ。天井がないのですからね。床がないのは当たり前。その中で皆が守られたのですよ。だから今度の「熊本地震」でも一番対応が早かったのはこの淡路の人たちですよね。皆「熊本地震」のためにお使いくださいと、何人もの方が直ぐにお供えをされた。そしてその心からのお供えは直ぐに「熊本地震」救済に使わせてもらっています…。 先日も「大阪災害救援隊」に、婦人大会の際の「熊本地震の募金」を、婦人会の役員さんと共に全額持参して、「どうぞ使ってください」と申したのですね。私は泉尾教会ほど有り難い教会は他にないと思っております。「婦人大会」の数時間だけの募金で、勿論それ以外にもいろいろな募金もあるのですよ。その中であれだけの額を皆さん方お一人お一人が募金箱に入れてくださったのですね。持参した際に「大阪災害救援隊」の先生が、「本当に失礼ですが、泉尾教会さんにはなぜそんなに募金とかWCRPの活動を始め多くの平和活動や、世界助けにお使いになるお金があるのですか…」と言われたので、私は「決して泉尾教会には余裕のあるお金はありませんよ」と言ったのですね。「きっと他のお教会と一緒ですよ」…。「ただ私たちは、例えばあの建物が建った、これが便利になったということよりも、それは我慢してでも、他人様(ひと)が困っていたら何かさせていただくということが、私たちの助かりです」と言ったのですよ。泉尾教会の信心は、最初からそうなのですね…。 私が二代親先生から直接お聞きしたことのひとつは、戦後直ぐに、和歌山方面から毎日「白米のおにぎり」を持って参拝される農家のご信者がおられたのですね。今はおにぎりはコンビニへ行ったら100円程でいつでも買えますが、当時は白米そのものが無いのですね。でも農家ですから親先生(大恩師親先生)に食べていただこうと思われて毎日持参されて参拝されたのですね。それを大恩師親先生は「有難う」と頂かれたのですね。 大恩師親先生は、そのおにぎりを近所のお年寄りに1個ずつ配るように役員さんに言われて、毎日それを続けられたのですね。ある日に、そのご信者さんが参拝されたあと、前日の空のお弁当箱を台所に頂きに行かれたときに、ちょうどその役員さんが台所へ帰って来られたのですね。 役員さんが、「有難う、あなたのおかげで近所のお年寄りは喜んでますよ」と言われて、その人は驚かれたのですね。その方は、親先生(大恩師親先生)や親奥様(先代大奥様)に食べていただこうと思っておにぎりを持って毎日参拝しているのに、ご自身は召しあがらずに、しかもその上、「有難う」と毎日言ってくださっている。だからその方は毎日ご自分(大恩師親先生)が食べられておられると思っておられたのですね…。 恥ずかしい話ですが、それこそバングラデシュでの「ミヤケホーム」ですね。ちょうど30年前、私が30歳の時です。私はこれを私の信心の「分水嶺(ぶんすいれい)」と言っています。「分水嶺(ぶんすいれい)」って分かりますよね。こっちに行くかあっちに行くかで、そこでは一寸の違いでも、全然違う結果になる、分かれ目のことですね。 30年前、バングラデシュでの「ミヤケホーム」の開所式に大恩師親先生が行かれたのですね。その当時は、子供さんを2,000人近く預かっておりました。その日は、あの歴史的な大洪水があった日から1ヶ月ぐらい後でしたね。それなのにまだ街では水が引かないのですよ。バングラデシュのダッカは、それこそ大正区と一緒ですね、ゼロメートル地帯ですね。一旦浸水しますとなかなか水が引かないのです。皆さんはヒマラヤ山脈はご存知ですね。ネパールからバングラデシュの辺りは、半世紀程前から開発が進むのですね。そうしたら山に木が無くなり、また田畑が無くなり、いざという時に雨水を溜められないのですね。短時間にいくらでも山から水が流れてくるのです。そして一番低いところに溜まる。それがバングラデシュのダッカという都市ですね。首都ですよ。そこへ水が溜まってなかなか抜けないのです。その中で「ミヤケホーム」の開所式があったのですね。この予定は3ヶ月も前から決まっていましたから行かせてもらいますと、そういう状態でしたね。その状態の中に行かせてもらった時に、大恩師親先生がその2,000人近い子供さんの前でおっしゃったお言葉は、これはもう忘れることができないですね。それは「皆さんはミヤケホームで共に暮らせることに感謝しないといけません」…。 私はそれまでは孤児院は、どちらかというと「可哀想な」というイメージがあったのですね。しかし実際は違ったのですね。孤児院に入れたら、その日の命があるのです。入れなかったらそこで死ぬかもわからないのですね。そのくらい、その当時のダッカは厳しかったのですね。たった30年前ですよ。今は違いますよ。 その中でその子供さんたちにおっしゃるのですね。「あなた方にはお礼がいります。それは神仏に向かうことは勿論ですが、一番しないといけないお礼は、あなた方の後に続く子供たちのためになる人になることです」と言われたのですよ。大人に対して、「これからの未来の子供のために」という話ではないですよ。子供に対して、あなた方が頑張って、もっとあなた方よりも小さな子供達が立派に暮らせるような社会になるために、皆で「お礼の心で頑張りなさい」という、お話をされたのですね。 その瞬間に私は、実はそれは私にされたお話だと思ったのですね。私は恵まれているのですから。「ミヤケホーム」の子供たちはホームに入れたら命が助かる。そこの人たちは生死がかかっているのに、私は初めから生きる側にいる。では私が生きる側にいるのは何のためなのか。それは「人を助けるため」に…。そのために頂いた私の命なのですから。だから私はそれをさせてもらっているのですね。 しかし、ここまではもしかしたら信心ではなく、ボランティアかも分かりませんよね。ここからが信心です。させてもらってお礼を申し上げるのが信心。なぜかというと、それは、神様に私自身がしていただいているからです。神様にしていただいているということを自分が分かれば、自分は他人様(ひと)にさせてもらうのですね。神様にお礼を申すのだから、他人様(ひと)にもお礼を申す…。当たり前のことなのです。 そのことが、神様と私だったら分かるけれども、他人様(ひと)と私だったら分からない…。あの人、私はしてあげたのに、あの人は私に何もしてくれない。あの人こそお礼を言わないといかんのに、私はしてあげたのに…。違うのですよ。そこが分かってくると物事が前へどんどんと進んでいくのですね。しかし、分からなかったら10年信心しても三十年していても、教会の前で立ったままですね。いや実際は入っているのですよ。しかしそこから信心は進んでいない。そんなことではいかんのですよ。 そこのところを私は「私の信心の分水嶺(ぶんすいれい)」と言っているのですね。その時私に、その現場で気付かせてくださった。子供たちの前で大恩師親先生はお話をされていますが、それは私におっしゃったこと…。そして同じことを、実は皆さん方にも願われているのですね。 「いいえ、私は大恩師親先生が亡くなってから泉尾教会に参拝して、大恩師親先生のご信心に触れました。二代親先生の時代からの信心です」という方も、実は二代親先生は、大恩師親先生の、そのままのご信心なのです。「いいえ、私は今日初めて参拝しました」という人もいるでしょう。その人は私だと思われるかも分かりませんが、実はこれは大恩師親先生のご信心ですね。二代親先生を通して、いやそれは玉水教会初代大先生であるし、大阪教会初代大先生であるし、教祖様であるわけですよね。だから金光教そのものの、「人が助かりさえすればよい」なのですね。 どの手続きであろうが、何であろうが、本当は違うのですよ。人が助かる拠点が教会なのです。そしてその延長が皆さんの家庭なのです。皆さんの家庭が、そしてそこから「助かり」が広がっていくこと。それがなければ金光教というのはただの1つの教団だけで終わってしまう。だから金光教の「八波のご紋」は、中心の「金」の字が教祖様の教えです。この教えが四方八方に広がっていっている。それが「八波」ですね。広がらなかったら、ただの「金」ですね。教祖様の教えだけですね。それでは学問と変わらない。広がっていっているということこそが大事です。それをさせてもらっているのが私たちなのです。私たち…。私たちがどうさせてもらえるか。それは教会が拠点だけれども、実はその延長は家庭。それぞれのお家。そしてそれぞれ皆さん方ですね…。 だから本当はよく出社(でやしろ)という言葉を使いますが、出社とは便宜的に、教会が手続きの教会を出社と言っているのですが、本当は違うのですよ。出社とは皆さん方お一人お一人なのです。皆さん方お一人お一人の心の中が出社(でやしろ)でなかったらいかん。神様がおられる社(やしろ)。であるのならば、皆さんと触れた人は皆助かっていかないといかん。それにはどうするのか。「させてもらってお礼が申せる。嬉しい、有り難いという生き方」を皆さん方がし続けられたら、これはもうそのままになるわけですね。 皆さん方も、今日の信徒地区大会にどれだけ向かえたかによって、今日の嬉しさは違いますよ。何ヶ月も前から一所懸命取り組んだ人と、そうでない人とでは、その嬉しさは違いますね。皆有り難いのですが、特に取り組んだ人は有り難いですね。どれだけ汗を流すかこそが大切ですね。自分が汗を流して、人に喜んでもらえたら凄く嬉しいでしょう。違いますか。私はそうだと思います。 自分が「有難う」と、人が言う前に先に言えたら、どれだけ嬉しいか…。そうすれば、いつでも泉尾教会の関係の人は皆さん、「有難う」ばかり言ってますね…。それで良いのです。「有難う」ばかり言えるような生き方をしていけばいいのですね。私はそう思います。それを心から言わせてもらうような生き方をさせてもらえば、自分がおかげの中にあるということが分かる。そしてそれさえ分かれば、自分は他人様(ひと)にそれを伝える。 「人を助けて私が助かる」というのですが、実はそのことによって、先ず自身が助かっていっているのですね。そこに気付くのはなかなか難しいかも分かりません。でも今は気付かなくても、「とにかくやる」のですね。最低限、147日間、毎朝起きたら「有難うございます」と口に出して言ってみる…。それだけで来春の1月22日が違いますよ…。 どうぞひとつ、今日は嬉しいのですよ。台風だって皆さんの願いで本当に引き返しました。この思いでしっかり向かわれて、それぞれの皆さんにとられましての『御布教九十年記念大祭』をしっかり頂かれますようにお願い申して、今日のお話とさせていただきます。 |