月次霊祭教話 教会長 三宅光雄17年2月20日 只今は共々にこの月の「月次霊様」のおかげを頂きました。有り難いことですね。 皆さんは「お気付け」。今では言葉だけになっているかも分かりませんが、「お気付け」を頂いておられますか。いや、必ず頂いておられると思います。 これは、言葉通り「気付け」ということですよね。それに「お」が付いているのは、例えば用事に「お」が付いたら御用(ごよう)になるわけですよね。御(おん)、用事ですからね。だから、ただの気付きではなく、気付に「お」が付くのですから、用事に「お」が付いて、御用(ごよう)となるのと同じように、気付けが「お気付け」ということは、神様から「気付け」という思召しですね。 神様から気付きなさいということで、「コトッ」と音がするかも分からない。別に音だけではないのですよ。何か感じるとか…。それをしっかり頂けているかということなのです。 勿論極端な言い方をしてバーンとぶつかった。そのぶつかったことによって、何かを気付けということです。ぶつけた手だけが痛いのではないのです。そこのところをしっかり頂かせてもらうというのが、私は本当に大事だなと、今、御祭を頂きながら、そのように思わせていただいておりました。 「お気付け」は、毎日のようにあるのです。今も御祭の途中ぐらいから、ほとんど音がしなくなりましたが、それまで風の音が非常に激しかったでしょう。私が祭典の一時間前にお結界に座らせてもらうために、お広前に上がらせてもらうときには、非常に激しい風が吹いていて、ガラス戸がガタガタガタガタと鳴っていました。 そうすると物理的には風が吹いて、ガラス戸とガラス戸に隙間があるので、そこに風が吹き込み、ガラス戸とガラス戸が当たってガタガタ鳴るのですが、私にはその音が「お気付け」に聞こえるのですね。これだけ大きな音が鳴っているのですよ。「気付きなさい」と…。もう一度自分の足跡を見直せ。点検してみろ。ぬかりがないのか…。あのこと、このこと…。 そうしますと多くのことが出てくるのですね。勿論物理的な処理もしないといけません。物理的な処理は、所員に言って、ガラス戸が鳴らないように隙間に詰め物を差し込むように言いました。だからその後は音が鳴らなくなりましたね。それと同時に、それができた時点で、30分もしないうちにきつい風そのものが吹かなくなりました。少しは吹いているのでしょうけども、そんなに音が鳴るほど吹かなくなりましたね。 それで気付いて、ああこれはいろんなことに「お気付け」だなと思ったらですよ、今度は外殿の障子がいつもならスーッと開くのに、ガシャガシャガシャと音がするのですね。これも物理的に言うと、ほこりか何かを噛んだのでしょうね。だからそれは御祭の後、あの障子を外して拭いて軽く蝋を塗ります。そうしたら、きっとスーッと開きます。例えばそういうことでさえも、「もう一度自分というものを見直せ」ということなのですよ。本当に有り難い場に置いてもらっているのですね。 「いやいや親先生、私は有り難いといっても、今日歩いて参拝してくるだけでも大変でした」。「いやもう経済が大変で」、「いやいや子供が言うことを聞いてくれません」…。皆それぞれ言うのですね…。さあ果たしてそうなのか。今日参拝できているのはどれだけ有り難いことなのか。 私で言うと、今から二十数年前に、無くなっていた命であったのかも分からないのですよ。肝臓の病気で入院をしましたね。後日お医者さんに聞きますと、9割は命が無く、1割がこちらへ戻ってこられるというぐらいの確率だったそうですね。劇症肝炎でした…。まずほとんどの人は命が無くなるというところを通らせてもらった。そうしたら、後は、そこから出合うことは全て、どんなことがあっても、命が無くなったことから比べれば大したことはないはずですね…。私の原点がそこなのですから。 ということは、私の命は、自分の命ともいえますが、実は神様から「世の人のお役に立つためにもう一度頂いた命」であるはずなのですね。それが分からないから「お気付け」として、ちょっとのことで気付かないから、バシッということを頂いた。これで気付かなかったらどうしているのかということです。 でも果たしてどうでしょうか。皆さん方もそういうところが、大なり小なりあられるのですね。そのことに気付かないまま、毎日のように通っておられるはずなのです。車でヒヤッとした…。しかしヒヤッとしたことだけは覚えていますが、ヒヤッとしなかったことは全て忘れているでしょう。大変な中を、例えば車、いや歩いていますといっても、車が飛び込んでくるかも分からないですね。私はそう思いますと、大恩師親先生がコトッと音がしたら「何があったのか、誰か困っていないか」と祈られた…。 大恩師親先生は車に乗っておられて、遠くで救急車のサイレンの音が聞こえたら、それは車の中だけではないのですが、私がご一緒するのはそういう時しかないので、その時見せていただくのですが、黙って合掌しておられました。どこの誰かも分からない、しかしきっと苦しんでいる人があるのだろう。と同時に、自分が今日こうして元気に使ってもらっているのは、というお礼と、両方兼ねてのご祈念だと思いますね。そしてその中に私達が有るのだし、私達もなければいけない。そこを何か御祭中に、これは「気付け」ということだなと…。 毎朝「お出まし」させていただいて、「拝める宮」会堂を見上げさせてもらいますと、「拝める宮」の上に神様がおられるのです。そしてその時その時によって、神様の大きさが違うのです。「提灯の御用」をしている所員は、その私の姿を見られるかも分かりませんが、それ以外の人は見ることがないのですね。会堂の階段の前で御祈念をしたのち、必ず私は会堂を見上げて、もう一度あらためて頭を下げてお礼するのですね。雨が降っている時は傘があるでしょう。お広前の入口でお迎えをされているご信者は、いくら雨でも親先生は傘を差しておられるのに、「なぜ親先生は濡れておられるのか」と、不思議に思われているでしょうね。 31メートルある大屋根の上は、傘を差していては見えないから、傘を後ろにして見るのです。だから私は濡れるでしょう。お出ましに透明のビニール傘というわけにはいきませんからね。あれは会堂の上に神様がおられて、毎日その時その時で、神様の大きさが違うのですね。そしてそれは、私の喜びの大きさだと思っています。 風という話をしましたが、特に教会は「みどりの百選」に選ばれているくらい、非常に緑が多い。しかもなぜ選ばれたかといいますと、ここはゼロメートル地帯なのですよ。そもそもが木を植えるのが難しいのですね。さらに育つということは難しい。この育つのが難しい中で、これだけの緑がある。普通ゼロメートル地帯では、もしマイナス2メートルだったら植木には盛り土を3メートルとか4メートルするのですよ。そして盛り土をした所に木を植えるのです。そうしたら植木は、植木そのものはゼロメートルではないですね。それはなぜかといいますと、土に塩が浸みてくるのですよ。自然にそこの海抜の高さまで…。これは「連通管の原理」ですね…。見た目には同じ土ですが、海水が上がって、塩分のある土になるのですよ。だから根っこが下に伸びて行きにくいのです。太い根っこは下には行くのですが、それは木が倒れないための根っこであって、本当の水を吸う根っこは細かいのが有るのですが、それらは塩の無い上の方にしか伸びない。それなのにこれだけの緑。それこそが大恩師親先生のお祈りなのですね。 しかも当初は全て信者さんの献木(けんぼく)ですね。ご信者が植木をお供えされたのですね。それをまた次々に、二代、三代と増やしていかれて…。挿(さ)し木(き)というのですね。枝を切って、それを3日ほど水に浸けて、その枝が強くなったら土に挿すのですね。挿したら今度は水を根が付くまで、毎日毎日やり続けるのですね。 昨夏に所員に勉強のためにプランターに挿し木をさせたのですね。「毎日水をやりなさい」。しかし、あれだけ毎日やりなさいと言っても半年後に根のしっかりついたのは半分です。だいたい10本のうち5本ということですよ。一般的に根の付く確率はそんなものですね。それは、毎日通る通り道の、絶対忘れないところに挿し木をしているからですが、あれが離れているところだったらどうだったでしょうかね…。しかも本数が当時は数百本とかでしたね。まあ、水やりを忘れたり、雑にしたりしてしまいますよ。 極端な言い方をして、一般的には悪い時に使うのですが、「執念」ですね。この場合は良い意味ですよ。そのぐらいの思いで、願いで育てられたから、これだけの緑が根付いたのです。 実は私達もそうなのです。それほど「大きな願い」で大恩師親先生から祈られているのですよ。その上に今の私達がいるのですね。そうしたのちに植えられた木は楽なのですよ。そうするとゼロメートル地帯なのですが、その前の代の木の散った葉っぱで、何年もの間に土地の質が変わるのですね。腐葉土になりますね。微生物の働きですね…。1メートルほどは変わりますね。だから水が案外保たれるのですね。それこそ私が子供の頃は毎日、特に夏休みは毎日、朝から晩まで皆でバケツで水やりをずっとしていましたね。毎日ですよ。それぐらいしないと土地に塩が上がってくる。それが毎秋には葉っぱが落ちて、良い土を作るというのですね。土がだんだんだんだんそれになって、薄いところにしっかり栄養が溜まる土に変わるのですね。だから教会には多くの植木があるのですね。 だから風が吹くとよく分かるのですね。植木がザーッと揺れるでしょう。建物しかなければ、風が吹いても音がしないですね。教会ももし植木がなかったらそんなに音はしない。植木があるおかげでザワザワザワザワと聞こえるのですね。「ああ風がきつくなってきたな…」。 教組様は「目出度目出度の若松さまよ、枝も栄える葉も繁る」とこうおっしゃった。これは『御理解』第一節の「今、天地の開ける音を聞いて、目を覚ませ」と、第百節の「目出度目出度の若松さまよ…」。これが第一節と第百節なのです。この2つはとても大事なのです。「お気付け」というのが「今、天地の開ける音を聞いて、目を覚ませ」。これこそがお気付けなのです。そして最後は「信心相続」なのです。「目出度目出度の若松さまよ、枝も栄える葉も繁る」。分かりますか。この間に第二節〜第九十九節。今は言わないですよ。昔私が学院で学んでいた頃は、第一節、第二節、第三節…と、そして第百節となったのですね。 ということは、今日は霊様の御祭ですね。私共は、「枝も栄える葉も繁る」とこう言いますが、私達自身は枝、そして子供達は葉なのですよ。葉が繁るために、そして枝が張るためには「太い幹」がいるのです。幹とは何かといいますと、それは親なのです。そして親は親だけで立っているかというと、その親には根っこ、親先祖があるのです。親先祖がしっかりお土地に根を張って、そして幹が太くなり、枝がしっかりと伸びて、そこに葉っぱが繁る。そしてその葉っぱがまた散って、土になって、先程の循環ですね。ということは子供が嬉しい生活をしてくれないと、霊様は嬉しくないのです。そのように循環しているのですから。 そしてそれはどこにあるかというと、土の上にあるのでしょう。ということは何かというと「天地」なのですよ。天というのは空気であり、例えば温度であったり、湿度であったり、雨であったり。地というのは支えたり、栄養であったりするわけです。ということは神様なのです。神様のところに…。 だから全て神様の中で風も吹き雪も降ります。極端なことを言って、折角大きく育った木なのに雷が落ちて、バキバキバキと折れるかも分からない。だけどその折れたことは、その木そのものには悪いかも分からないけれども、空いた所に、そのおかげ様でそこに次の木が生えてきて、もっと立派な木になる。落ちた雷のことだけで物事を考えたらいけないのです。勿論私が木だとして、私に落ちてきたら、「ええーなぜ私に落ちたのか」と、こうなるかも分からない。しかしそれはまた子供や孫がおかげを頂いていく元かも分からない。しかもそういうことが多く複雑に絡み合っているのですよ。私一人の木ではないので、隣の木もあれば、東京の木もあれば、ニューヨークの木もあれば、アフリカの木もあって、全て絡み合っている。皆がいろいろあるわけです。 それを全て包んでくださっているのが神様なのです。分かり易いように私だけで言ったらそういうことです。今日はその御祭なのです。この根っこに対して。親先祖は根っこですね。だから霊祭は「信心相続祭」だと私は言うのですよ。その一番の信心相続は、子供が助かっていくことが、実は霊様が喜んでくださっているのです。しかもそれは全部神様の中で行われているということです。私はそのことを思いますと今日の御祭…。 今はもう風の音は全くしませんね。御祭が始まる前にあの激しい音を聞いて、ハッと思い、「月次霊祭」を頂いて、霊様、『御理解』第一節、「今、天地の開ける音を聞いて、目を覚ませ」というそのお気付けを頂いて、さらには第百節、「目出度目出度の若松さまよ、枝も栄える葉も繁る」と親先祖のことを祈らせてもらうことによって、さらに「枝も栄える葉も繁る」というおかげを頂いていかないといけない。神様がそれに気付けと、ガタガタガタガタとガラス戸が鳴ったのだと思うのですよ。 ここで私達は変わらないといかんのです。私自身が。気付いたな、良かったな、ではない。気付いたことによって中身を変わらせてもらうということがとても大事なことだと思わせてもらいます。 いよいよと3月2日から来年の7月15日の「創立90周年記念婦人大会」に向けて、『御布教九十年記念大祭』の御礼の五百日信行が始まる。そういう意味では今日からいうと約10日後ですね。 そしていよいよと500日後には、「枝も栄える葉も繁る」というおかげを、お礼申せるような、中身を今から頂かないといけませんね。 そのためにも、先ず今日の霊様の御祭に参拝させていただいたことにお礼を申し上げ、そして霊様のお働きにお礼を申し上げ、さらにはここからしっかりと向かわせてもらうということに願いを、誓いを立てて、おかげにしていただければ有り難いと、このように思わせていただきます。 |