二代大奥様一年祭ご挨拶

教会長 三宅光雄
17年11月5日


只今は共々に「二代大奥様一年祭」を拝ませていただき、お一人お一人のお心に今、霊様は響いておられると思います。今日はお天気のおかげを頂きましてね。こうして「二代大奥様一年祭」のおかげを頂いたのですが、昨年の11月6日、1年前の明日ですね、と言いますか、今晩ですね。明日の未明 朝の4時58分に二代大奥様はお国替え、ご帰幽なされたわけですが、あれから1年という日が経ったのですね。

皆さん方は今日「よろこび信心」というご本(冊子)を頂かれたと思います。本来でしたら、勿論教会長であればこういうような御祭をお広前でさせていただきますが、しかし二代大奥様は常に奥での御用をされていましたね。裏方での御用ですね。本来なら、そういう場合は奥の御霊舎でさせていただくのかも分かりませんが、しかし私は、「今日は1年前のお葬儀を、もう一度させていただきたい」…。そういう思いで、今日はお広前で「二代大奥様一年祭」を仕えさせていただきました。だから時間もかかりましたが、祭典中に参拝者の皆さんの玉串。やはりそれだけで20分近くかかっています。その間、皆さんにはお待ちいただいたのですが、それでもお詫びして、急がせて急がせて、玉串を奉奠していただいたのですね。本当に有り難いなと思わせていただいております。

二代大奥様、私の母でありますが、母は昭和8年、その冊子「よろこび信心」にも書かれてあるとおり、滋賀県で生まれるわけでありますが、滋賀県での生活は、人生の4分の1で、残りの4分の3を、この泉尾教会で暮らしました。4分の1は滋賀県で暮らし、そして21歳という歳にご縁を頂かれて、金光教とのご縁を頂かれたのですね。ご実家は仏教のお家です。だから私は母が23歳の時の子です。21歳といいましても結婚式が12月で、私が3月生まれですから2年も空いているのかと言われますが、実は2年ではなくて、1年と4ヶ月ですね。それでも私は母が23歳の時の子であります。それからの人生の4分の3がこの泉尾教会で、83歳でご帰幽になるのですが、その間、今も私の弟であります春日丘教会長の善信先生、また神戸灘教会長の修先生、また、私の母から言いますと、孫のうちの、年の上から4人が教師のおかげを頂いて、今日も祭員の御用をさせていただいている。

母は、大恩師親先生、初代大奥様にお仕えして、二代親先生をお支えして、3人の子供を育て、そして8人の孫のうち上から4人がこうして教師のおかげを頂いて、この泉尾教会の全てといって良いほど二代大奥様は、1つには「一番大変な道」を選ばれ歩まれたと思います。そしてもう1つは「一番幸せ」だったと思う。どちらもなのですね。難しい大変だから幸せなのですよ。

幸せというのは楽だとか楽しいから幸せではないのです。後に何が残るかです。大恩師親先生は「私ほど幸せな者はない。上(かみ)三代下(しも)三代」とおっしゃった。上(かみ)は、お祖母さんの湯川さと様。そしてお父さんお母さん。ご自身。それから下(しも)は、二代親先生ご兄弟。さらには私たち孫たち。今日は常盤台教会長の道人先生も祭員のおかげを頂いていますが、「男の孫4人が教師のおかげを頂いている。有り難いことだ」と、道人先生が学院を出られた時に、そういうことを私におっしゃっておられましたね。

そういう意味では私の方がもっと幸せですね。娘たちもこうして御用を頂いている。しかも私はそういう言い方をしますと、上(かみ)五代ですね。これは勿体ないですね。

全ての一番の芯の芯は何かと言いますと、扇子(せんす)には要(かなめ)があるでしょう。扇子は何でできていますかと問いますと、紙と竹ですと答えますね。そこには唯一、金属の小さな要(かなめ)があるのですね。これがなかったらまとまらない。この「要(かなめ)の御用」を二代大奥様がしてくださった。この要(かなめ)には一番負担が掛かりますね。開く場所ですから。しかし見えないですね。そのおかげ様を以って私共が不十分ですが大恩師親先生、二代親先生のあとの御用人として、今こうして御用をさせてもらっている。それは皆二代大奥様、母のよろこび信心のおかげであります。ですからこの度の「二代大奥様一年祭」は、本来でしたら宗教婦人連盟理事長までされていますから、女性の宗教者の方が100人位参拝されるだろうけれども、今回はお葬儀のやり直しという意味で、ご信者で勤めさせてもらいたいと、願い立てをさせていただいたのですね。

昨年の10月19日にご危篤になられて、そこから18日間。どうぞ10月25日の「ご大祭」まではと願い、おかげを頂かれた。どうぞ11月朔日の「感謝祭」まではと願い、おかげを頂かれた。どうぞ神戸灘教会の「20年の記念大祭」の11月3日まではと願い、おかげを頂かれた。そして4日にお礼参拝があった。そして、昨年の今日ですね。その夜の5日の日からさらに悪くなられて、そして6日の早朝にご帰幽になったのですね。朝5時前でした。二代親先生の時もそうでした。私の50歳を待ってくださり、また二代大奥様も私の60歳を待ってくださった…。

だから今も私の中にそのことがある。勿論皆さん方の中にもあるのだと思いますが、教組様は「信心するは親に孝行するも同じことぞ」とおっしゃっている。親孝行こそ信心の元だとおっしゃっている。また「信心は家内に不和のなきが元なり」…。ということは、金光教の信心は親孝行であり家族信心なのです。家族の助かりが、一つの小さな固まりなのです。そしてそれが世界へ広がっていく。分かりますか。私や家族が助かることから世界へ広がっていくのですよ。それがこのお道の信心です。

私はそれこそ、例えば小学校の6年生の時にこの会堂が建った。その時、前の宮をまだ崩していない時に、何をしたのか忘れたのですが、もの凄くお叱りを頂いて、「お広前で拍手打ってご祈念してきなさい」と大恩師親先生に言われました。20分程ご祈念をしていますと、後ろの受付に、昔の黒い電話がジリンジリンと鳴ってくるのです。そうしましたら電話の向こうの声が聞こえているのです。「光雄を奥に戻しなさい」。所員の「ハイ」という声が聞こえるのです。親先生(大恩師親先生)が「奥に入ってくるように」とおっしゃっています…。

小学生の私は、2、30分ご祈念したら許してもらえたなと思って、大学に入った頃でしたかフッと気が付いたのですね。神様が許してくださっているけれども、誰がそのお詫びをしてくださったのだろう…。実はそのお詫びは、私に代わって大恩師親先生が奥の御神前でお詫びしてくださっていたのですよ。その奥の御神前でお詫びをしてくださって、そのお詫びが通ったから、電話で「光雄入ってきなさい」だったのですね。ということは親先生であり、お祖父さんですが、親でしょう。ということは、親というものは、自分のことを自分以上に願い、祈って、お詫びしてくださる人が親だ。

これは例えば連れ合いでもそうしているでしょう。しかし本当に親子というのは何かといいますと、願い祈ってくれるのは勿論ですよ。お礼を申してくれるのは勿論ですよ。子供に成り代わって、いや成り代わってではない。成って、お詫びをしてくださる人。これが親なのですよ。この親の御恩を忘れたら私たちはもう何も無いのと同じ。自分のお詫びをしてくれるのですよ。まだお願いをしてくれたり、お礼を申してくれる人はもしかしたら1人や2人あるかも分からない。しかしお詫びをしてくれる人は親しかいないのですよ。その親の恩を忘れたら…。ということは皆さんにとって二代大奥様は教会のお母様でしたから、しかも直接は表に出てこられない。裏方でありますね。要(かなめ)ですからね。このご恩をしっかり頂くことです。

家に帰ってもそうです。もう私の両親は亡くなりました。それなら霊様がある。親先祖がある。自分に成り代わってお詫びをしてくださった人に対して、勿論このことをしてもらった、あのことをしてもらった、こんな思い出があります。それは勿論です。しかしもっともっと行くと、そこなのですよ。今日は、ご信者さんと親戚の方々。特に今日は車椅子で滋賀県から北村の伯父さん(母の兄)が参拝されている。母にとりましては勿論兄なのですが、母は早く親を亡くしました。特にお父さんですが、私が1歳の時に亡くなった。もう60年ということですね。私が今年61歳ですから。またお祖母さんも私が高校の時に亡くなった。だから親代わりに、兄だけれども親代わりになってくださって…。それはそれは大変なお思いを掛けてくださった。だから私はどうしても今日ご参拝をしていただきたかったのですが、「お足が悪いのでご無理されませんように」と申しておりましたら、本当にご無理していただいたと思うのですよ。今日はご参拝いただきまして、本当に有難うございます。心から心からお礼申し上げます。霊もそのように思っていると思うのですよ。

それは皆さんも同じですね。皆さん方もそれぞれにあると思いますよ。たまたまお1人のことを言いましたが、それぞれあると思う。今日は心ゆくまで、しっかりとお礼を申してください。そして自分自身の親にも、それから自分も親ですから、お詫びのできる信心。しっかり頂かれまして、今日の一年祭の中身にしていただけたら有り難い、このように思わせていただきます。