早朝勢祈念ご教話

教会長 三宅光雄
18年3月26日


おはようございます。今日は「御布教九十年記念大祭」御礼の500日信行、結願の日(「婦人会創立90周年記念大会」)まで111日ですね。1が三度重なっている日ですね。確か222日と、2が三度重なった日も話しましたね。「それがどうしたのですか」と思われる方もいるかも分かりませんが、何事も何からでも教えられているのだと思わないといけませんね。どんな場合でもですよ。それを平気で過ごしてしまう人は、何事も平気で過ごしてしまうのですね。

今日もカルガモが2羽御神田(ごしんでん)に居ましたが、「お出まし」で、私と提灯(ちょうちん)の御用の所員の歩む下駄の音が大きかったのでしょうか、もしくは昨日よりも1日分明るくなって良く見えるようになったのでしょうか、昨日までは飛び立たなかったカルガモが、私たちが近くまで行くと、パサパサパサパサっと飛びましたね。そのことからでも何かを感じないといけないのですね。「カルガモが飛んだくらいどうしたのですか」と思う方と、「何で飛んだのだろう」と思う方では違うのですよ。

「何で飛んだのだろうか」と思わないと、何事も物事は見えてこないのですね。しかもどちらか1羽が羽に傷がありますね。風きり音が普通とは違ったのですね。違和感のある風きり音がしていました。どちらかの1羽がきっと羽が1本抜けているのか、何か分かりませんが…。鳥が飛ぶときには音がするでしょう。あれは風きり音ですね。普通はあまり音を出さずにスーッと飛ぶのですが、パフパフパフっと、抜けた音がしていました。きっと羽を傷つけているのですよ…。

勿論それは、ほとんど風きり音をさせずに飛んでいるカルガモの、飛び立つ時の音を聞いたことがあるので、それと比較して、あっ変な音がしてるなと思うわけですね。ということは、前の時にも気を付けて聞いておかないといかんわけですよ。そのぐらい物事は見ていないと、見えてこないのですね。

学院時代に男子寮の入口に「足下(そっか)」と書いてある書がありました。「足下(あしもと)を見よ」ということですね。自分の足下ですよ。「地に足を着けて」とよく言いますが、これは別に足下だけを見るのではないのですよ。周りでコトッと小さな音がしたら大恩師親先生はおっしゃいました。「小さなことも良い加減にしない、コトッと音がしたら何事かと思う気持ちが大切だ!」という話を、私が子供の頃よく聞かせていただいたのですが、コトッと音がしても、コトッと音がしたことが分かっていない人なら、コトッと音がしたことは問題にならないでしょうね。ということは、普段からアンテナを張っていないといかんのです。

例えば確か1ヶ月ぐらい前でしたか、私が「1階ロビーの辺りで匂いがするね」と所員に言いますと、そのことを誰に聞いても匂いがすると言わないので、私の鼻がおかしいのかなと思っていますと、30分ほどして三女の泉が部屋に戻って来まして、「今日ロビーで匂いがしましたね」と言うのです。ああやっぱり私は正しかった…。

他の人は匂いを感じなかったのですよ。私たちは匂いまで感じないといけないのですよね。そうでなかったら、人の心とか気持ちとかが、どうして分かるでしょうか。匂いどころか、もっと見えないですよ。匂いはまだ注意してかげば分かりますよね。しかし人の心は、ニコッと笑っていても嫌な時もあるし、逆に嫌な顔をしていてもそんなこともない人も大勢いるでしょう。その心が、気持ちが、思いが助かっていくようにお願いするためには、今その人が3なのか、6なのか、8なのか分からないと、お願いできないではないですか。

という意味でも、私は風きり音まで聞こえますね。何事もよく見るのですよ。「えっ今日はカルガモが飛びましたか…」。もしかしたらそれさえ気が付かない人もいますよね。さすがに目の前をあの大きな鳥が飛べば分かりますよね。ということは何事にもしっかりとアンテナを張っていないといかんということですね。

アンテナを張っていないといかんということは、いくら良いアンテナを持っていても、先ずはスイッチを入れていないといかんということです。それは何のスイッチか、それは「神様のお言葉を聞かせて頂くスイッチ」を入れていないといかんということですよ。そのためには、先ずは物が見えないといかんのです。そして物が見えるためにはスイッチが入っていないといかんのです。それだけの話です。

私が若い頃に乗っていた車のエンジンでしたら、特に寒い冬だったら、それこそゆっくりエンジンを掛けないといかんのです。失敗をしてエンジンが掛からなかったら、30分ぐらい待たないと再度掛けることができないのです。排ガスを噛んでしまっているのですね。エンジンを掛ける時に、アクセルを上手く踏みますとトントントントンとエンジンが掛かるのですね。しかし今のエンジンはボタンを押したら掛かりますね。機械も、システムそのものも、もの凄く上等になっていますが、かといっても、スイッチを押さないと掛からないでしょう。どんなに技術が進んでも、簡単で時間も短くはなるけれども、どこかでエンジンを掛けないといかんということはあるわけです。今では昔のようにエンストしている人は見たことがないですね。それは運転する人の能力が上がったのではなく、機械が上等になったのです。それでも少なくともスイッチは押すわけです。私はいつもそう思っていますね。

さて昨日も少しお話ししましたが、特に神道(しんとう)は、作法というものが厳しいですね。それはどちらが上位かということですね。昨日もそれは「神様が上位なのだ」ということを申しましたね。金光教の祭典にも作法があり、習礼(しゅうれい)といってそれを習いますね。それは「神様に向かって」ということなのですが、今の本教は、そもそも、その向かう神様のお扉がないのですね。それは「神様をお扉の中にだけではいかん」ということから、そうなっているのでしょうが、やはり私はお扉がいると思うのですね。イスラム教の方はメッカの方向を見て拝まれるでしょう。そこが世界の一番尊い中心だということですよね。そして、天理教と金光教の違いは何か。天理教は「甘露台(かんろだい)」という信仰上の中心があるのですね。世界の中心だという場所があるのです。それが天理市の天理教本部の本殿の中にあるわけですよ。そこに向かって拝む。だから広前も天理教本部は四方広前といって、真ん中に本教でいう内殿があって、そこから東西南北にお広前が4つあって四方から拝んでおられるのですね。しかもそれがずっと回廊で?がっていて一周するのには数百メートル歩くのですね。ここから大正駅まで歩いて行くのと同じだけの距離を歩くのですね。そこを毎日祈られて、ご信者はご信心が進むように拭き掃除をされているのですよ。

ということは、どこが上位かということがしっかりしている信仰と、世界中が神様だからどちらをみても良いという信仰は違うのですね。どちらがどうかはそれぞれですが、私はお扉のあるのが教会だと思っています。だから「足運び」なのですよ。足運びがおかげになるのです。

足を運ばないといかんのです。それはなぜか、それはそれぞれの教会長(もり)が祈っておられる神様を、それぞれの教会のご信者が共に祈る。それは、それぞれのお家でもそうです。それぞれお家に神様をお祀りしていたら、家族中の人が1日1回はそこの前へ行って、拍手だけでも打つということを子供のときから教えないといけませんね…。寝ない人もいなければ食べない人もいないでしょう。それと同じように、せめて1日一度は神様の前で祈る…。

私が子供のころはよく「ご神飯を頂いて育てられる」と二代親先生がおっしゃいました。勿論あの小さなご神飯だけで足りるはずがないのですが、そうではなくて「神様のお下がりで育った=生かされている」という意味ですね。そしてそれは皆さん方も実は同じなのです。いいえ、私は自分がお金を出して食べ物をスーパーマーケットで買っています…。確かにそうです。お金を出さなかったら泥棒ですからね。しかしそれは全部神様からの授かり物なのです。だったらお礼を申さないといかん。「頂きます」ですよね…。

洋画を見ていたらよくあるでしょう。だいたい最後のシーンぐらいに、正義の人たちが食卓で家族揃って手を握って、誰かが神様に「今日の食事をお恵みいただきまして有難うございます。さあ皆で頂きましょう」…。笑顔でワイワイ…。そしてTHE ENDと…。あれですよね。食卓でも良いのです。しかし本当は金光教はご神前で祈る…。その前で1日1分でも良いです。365日毎日祈らせていただく…。

昨日も「どこが上位か」という話をしましたね。そしてその次に、「何が大切か」ということを今日はプラスして話しますが、自分にとって今、何が大切かをもっと考えないといかんですね。ということは答えは簡単なのです。「神恩師恩(しんおんしおん)」という言葉があるでしょう。神恩とは神様の恩。師恩とは師匠の恩ですね。同じように「神願師願(しんがんしがん)」という言葉がある。神様の願い。師匠の願い。私は神様も師匠も、「自分のことを自分以上にお詫びし、願ってくださっている」と頂いているのですね。その中身を分からずして、どうして私はおかげを頂けるのかと、常々思うのですね。

ということは、この願いというものを頂くのが泉尾教会の信心といってもよいのです。他の金光教のお教会のことは、私は100パーセント分かるわけではないです。ましてや他宗教も分かるわけではない。しかし金光教泉尾教会は「御神願=助かってくれよという神様の願いと、そして同じく師匠の願い」なのです。その「助かってくれよ」という神様の、そして師匠の願いを、その願いを頂くのがこの泉尾教会の信心なのです。
しかし金光教泉尾教会まではあっている。金光教であって、仏教でもなければイスラム教でもない。そして金光教といえども難波教会でも玉水教会でもない。それは分かっておられても、その次に付くのです「金光教泉尾教会○○流」。そんなのは駄目なのです。金光教泉尾教会といえば大恩師親先生のご信心が泉尾教会の信心。大恩師親先生のご信心に添わせていただくのですね。私を始め皆さんがですよ。そういう皆さんでなければいかんのです。ということは自分流はいかんのですよ…。

何事でも自分流になったらいけない。ということは答えは一つ、簡単なのです。「我(が)を捨てる」ということです。それを大恩師親先生は「捨(しゃ)」とおっしゃいました。「あんたら」とは和歌山弁で「あんた」ということですね。「あんたら捨(しゃ)ですよ。捨(しゃ)ですよ」と二度繰り返されるのです。さらにもう一度言われることもある。「捨ですよ。捨ですよ。捨ですよ」と、三度言われる時もある。捨(しゃ)とは捨(す)てるという意味です。

では何を捨てるのか。それは「お前の我(が)を捨てなさい」ということですね。我(が)を捨てないとものが見えてこないのです。色眼鏡(いろめがね)という言葉があるでしょう。本当の色が白であっても赤い眼鏡を掛けたら赤色っぽく見えるでしょう。青い眼鏡を掛けたら青色っぽく見えるでしょう。その我(が)という眼鏡を捨てなさいということです。それはあなたの「われさえ良かったら良い」。「私は正しい」という我(が)を捨てなさいということなのです。そうしたら見えてくるとおっしゃっている。だから「あんたら捨(しゃ)ですよ。捨ですよ」…。捨(しゃ)というのは捨(す)てる。それは何か、それは我(が)ですね。

私は高校時代から、大学時代、そして御用をさせていただいた数年間は、特に最初のころは、もの凄く「捨(しゃ)」ということを言われました。初めは分からなかったですね。私は人一倍やっているのに…。人と比べてはいけませんね。そらそうですね。
子供のころから、私が何も間違ったことをしていないと思っても、教会所員の子が何かしたら、その子が叱られて私も一緒に叱られるか、その子を叱らずに私が叱られるか…。その時の私は何にも事情は分からないのです。パシッと叩かれて「お詫びしなさい」と言われたら、そこで頭をクルクル回して、誰が何をしたのかと思って…。だからこそ相手の心も分かるようになりました。これを帝王学というのですかね。勿体ないですね。本当なら月謝を払わないといかんのです。こんなこと誰もしてくださいませんよ。

個々の人間の能力の差は、少ししかないと私は思いますね。それをこれだけ(手を大きく広げられて)の差にするには、努力以外に何があるのですかね。勿論確かに天性というのはありますよ。ありますが天性だけでなんて、できることは限られていますね。皆努力しているのです。そして努力するということは自分が壁に頭をぶつけているということでしょう。

本当は壁でなくても、空気でさえも、大空の空気でもマッハ1で飛んだら、それを越える時にはボンと音がして、衝撃があるそうですね。超音速になるときにですね。何事にも絶対に壁というものがあるのですよ。それを越えずして、どうしてスピードが出るのですか。私はそのことをいつも思うのですよ。

ということは「我(が)を捨てないといかん」ということです。そして「我(が)を捨てる」ということは何か。よく「わがまま」というでしょう。よく考えてみてください。「わがまま」とは、私の我(が)の儘(まま)に生きることを「我が儘」というのですね。何でも自分の我(が)の儘(まま)にするのですね。自分のことばかりで、人のことを考えていない。それは神様が願われている「氏子よ助かってくれよ」の反対側でしょう。御神願の反対は「わがまま」だと思ったらよいですね。

しかし「わがまま」の人も一所懸命しているのですよ。私がいつも言うように。どなたもしていないとは言わないのですよ。もしかしたら人以上にしているのですよ。では、していない人以上にしてるからそれで良いかといったらそうはならないのですね。していない人よりしていても、決して自分流になったらいかん。それは金光教泉尾教会○○流の信心。そんなことを私は求めていませんね。本当に助かっていくには、金光教泉尾教会大恩師親先生のご信心でないといかんのですね。では大恩師親先生はどうされたか。それは第一に「神様の願い」ですね。「助かってくれよ」との「御神願」ですね。
私は今から30年程前に、和歌山会に月次祭に行かせてもらった時に、古い信者さんに聞いたのですね。その方が若い頃に、それは私の生まれる前の戦後直ぐぐらいだったということですが、泉尾教会へ参拝しますと、祭典後の御教話で大恩師親先生が、「私には私のために死ねるという人が50人は居てる」というお話をされたそうですね。私のためにとは、「世人の為に、助かりの為に、お役に立って、あなたは死ねますか」ということを話されたそうですね。

「私が頼んだら、私と一緒に世人のために死んでくれる」…。そして、そういうことをしてくれる人は「50人は居てる」という話を聞いた時に、はたして自分は、大恩師親先生の頭の中に、その50人に入れてもらっているのか…。もし入れてもらっていないのなら、入れてもらえる自分にならないといかんと思った、という話を聞いたのですね。そういうことだと私は思っているのです。

私の為にとは言わないです。もし私が、「世人の為に私と一緒に死んでください」と言ったら皆さんは死ねますか…。それができなかったら、本当の大恩師親先生のご信心は分からない。大恩師親先生はそう祈られていたのですからね。だからよくご晩年に、「七転八倒(しちてんばっとう)して私は死にたい」とおっしゃったのですね。あなたのメグリを私が持ってということですね。普通の人は「楽に死にたい」とか、「知らないうちに死にたい」とか、「元気で死にたい」とか言いますよ。しかし大恩師親先生は違いましたね。「七転八倒して」。それはそういうことなのです。そうして死にたいとおっしゃいましたね。

それは、それをいつもいつも抱えてくださり、願ってくださっていたということですね。その上に自分が乗せてもらっているのですね。高級なイヤホンは、雑音と反対の音を出していらない音がないようにするのですね。それと同じで、下がこんなところ(手を下げられて)にあって、大恩師親先生がそれと反対にここ(高く手を出されて)で動いてくださる。そのおかげなのに私たちはその上を平気な顔をしていて…。私も(大きく手を上げられて)ここへいかないといかん。それこそが台人(だいびと)ということでしょう。だから(人様と共に)泥の中に突っ込んで行かないといかん。問題の中に突っ込んで行かないといかんと、いつも言うのですね。そんな綺麗なところに居て、山の上から物事を見ていて、「あの人は大変だな。助かってくれたら良いな…」。それだったらいかんと言うのです。絶対にいかん。特に私は教会人に言うのです。

「こうやって、こうやったら、こうなるから、こうしなさい…」。それに対して「ハイ」と言うか言わないか…。例え「ハイ」と言っても、言っただけでしないのか、するのか…。でもその人も含んでの私だと思うから、分かってくれるまで何度も何度も私がお詫びするのですね。本当なら私の方が速く丁寧にできるのです。でもそうしたらこの人が成長しませんね…。

昔テレビで視たのですね。藤山寛美(ふじやまかんび)さんの松竹新喜劇で、番頭(ばんとう)が間違って手代(てだい)を怒るのです。しかし本当は番頭が間違っていたのです。そのことを主人は「知っています。あんたが失敗したのではない。しかし番頭がダメだと言う以上、悪いけれどもあなたには辞めてもらわないといかん。その代わりこの大黒(だいこく)さんを貰ってくれ」と言われるのですね。「暖簾(のれん)分けというわけではないけれども、この大黒さんを私と思って、違うところでお店を出して頑張ってくれ」と言って別れるのですね。そして何十年か経ったら、今度は場面が変わって、そしてこちらの店がショボンとしてしまって、その手代(てだい)さんは頑張って大きな店になったところに、元の主人が通りかかるのですね。

「ああご主人様」。「あの時は悪かったな」。「いや分かっておりました。でも苦労して苦労して苦労して、特に資金に苦労しました」。「あなたはその時に、私のあげた大黒(だいこく)さんに気付かなかったですか」。「それはどういうことですか」と言って、神棚から大黒様を持ってきますと、大切にしている大黒様を手を滑らせてポーンと落とすのですね。そうすると大黒様がパーンと割れて、その中から小判がバラバラっと出てくる。大黒様を持っていけとは、これ(小判)を持って行けという意味だったと分かり、2人で泣くわけですね。泣き笑いですからね。藤山寛美さんは片方では阿呆な役をしたり、時々ああいう良いのがあるのですね。私は中学生ぐらいの時に泣いてね…。

そうだな、その思いが分からないといかん。しかし主人として、手を上げた番頭(ばんとう)を立てないといかん。しかし最初から主人は番頭の勘違いだと分かっているのですね。でもそれは、番頭が一度手を上げたらもうしようがない。番頭にその仕事のことは託していたのですからね。

そんなことはいっぱいあるのですよ。もう分かっているのです。多くのことで信者さんに迷惑かけているなと思うけれども、しようがない。その代わり、そこを祈っていこう。10年後に分かってくれて、共にお礼を申し上げられるようにならせていただこう…。そんなことはいっぱいある。そして分かっていると言っても、私の分かっている中だけの、分かっているですから、分かっていないところが本当は山ほどある。それを分かっている以上に神様がここ(手を出されて)をカバーしてくださっているわけです。だからカルガモの羽音まで聞こえるのです。

今日は昼から和歌山会、新堀会の御用をさせてもらい、夜は終祭、明日は告別式と、ご信者のお葬儀があります。さらに明日は午前中に瓜破参拝。そしていよいよ明後日は、二代親先生が12年前にお隠れになられた日ですね。その話は明日させていただきますが、そのお祈りがあって、しかも宝泉会(ほうせんかい)はその日にお花見ですね。

どうぞひとつ、それぞれにしっかりと神様に向かってください、そしてもう1週間で「二代親先生十二年祭」が来ますよ。そこさえ分からせていただいたら、全てがおかげになるのですね。それぞれにしっかり向かわれまして、おかげを蒙っていただかれますように。