早朝勢祈念ご教話 教会長 三宅光雄18年5月22日 おはようございます。昨日は和歌山市の新堀(しんぼり)会のご大祭、そして今日は奈良県の菖蒲池(あやめいけ)教会のご大祭ですね。昨日私は新堀会にやらせていただいたのですが、その前に和歌山市営の今福霊園(いまふくれいえん)共同墓地にあります「三宅家奥城(おくつき)(墓所)」に参拝させていただきました。 皆さんもご存知のように三宅家には、というより大恩師親先生の奥城(おくつき)は、@泉尾教会(泉光園(せんこうえん))の祈りの塔 納骨堂、Aご本部の泉尾教会奥城(おくつき)、B大阪市営の瓜破霊園(うりわりれいえん)、そして和歌山の奥城との、4ヶ所にあるのですね。私は、祈りの塔は毎日、そして、できる限り瓜破と今福の霊園は毎月、ご本部には年数回と、お参りをさせていただくのですね。ですから、和歌山の今福霊園には、和歌山会、新堀会、御膳松(ごぜんまつ)会の、大祭や月次祭に参拝させていただく度に、参拝させていただいています…。 そして今日は、菖蒲池教会のご大祭ですね。菖蒲池教会は私が兼任教会長を務めさせていただいているのですが、本日は他の御用と重なりましたので、善信先生に祭主の御用をお願いしました。本来菖蒲池教会は、春のご大祭は5月19日なのですが、今回はご大祭の日程をやむなく変更させていただいたのですね。 というのは、5月19日はどうしてもの御用と重なりまして、それは、この7月の末から8月にかけて、米国のワシントンDCで開催されます「第35回IARF世界大会」へ出席する日本からの参加者の、関西組の学習会が、泉尾教会であったのですね。「アメリカにおけるマイノリティ問題」をテーマに、弁護士の南 和行(みなみ かずゆき)氏を招いて、2時間の学習会には、一燈園の西田多戈止(にしだ たけし)先生を始め30名程の参加者があり、短い時間でしたが、今夏の訪米に向けて勉強をさせていただきました。 また、1時間の差で別会場(会堂1階ロビー)では、「金光教大阪府第一教会連合会 信徒研修会」が開催され、泉尾教会はもとより、大阪教会、難波教会、玉水教会を始め、第一連合会の、信徒の研修会があり、百余名の参加者が熱心に「大阪災害救援隊」の、現場の責任者である鶴橋教会の竹内信治(たけうち しんじ)先生より、特に2年前の「熊本群発地震での救援活動を始め、救援活動とは」ということについて、しっかりとお話を聞かせていただいたのですね。 この2つの行事があり、19日の菖蒲池教会のご大祭を今日に変更させていただいたのですね。勿論そのために菖蒲池教会のご信者さんにもそのことを話し、神様にお願い申し上げて、お日柄を変えるご無礼のお詫びをさせていただいたのですね。 私の若い頃に、特に二代大奥様、母ですね。大恩師親先生が「壽賀子(すがこ)、壽賀子」と、私の居る前で母を呼ばれる。「あんた 光雄の顔 変わったやろ、分かりますか…」と言われる。それにはいくつも意味があるのですね。良い時には誉めていただいているということです。悪い時にはその反対ということです。それを同じ表現でされるのですね。勿論中学・高校生の頃と、結婚して子供ができてという頃と、さらには大恩師親先生のご晩年の頃とは、同じことをおっしゃっても、そのお言葉を頂くこちらの中身が変わってきていますから、頂き方が違ってきていますよ…。今、私の言っているのは、中学・高校生の頃ですよ。本当に若い頃ですよ。何も分からないで、そのお言葉そのものを聞いていた時代ですね。 ただその時代であったとしても、その意味が誉めていただいているのか、そうでないのか、の中身の違いぐらいは分かっていたのですね…。しかしその幅も、当時は狭く浅かったですね。歳を重ねていくと、だんだんとその幅も、広く深くなっていくのですね…。 そしてまたそれこそ、そこに今度は、結婚して子供ができた頃になると、そのことにプラスして、こうおっしゃったこともあるのですね。「人は変わらないといかん。そして3日経てば自分も分かり、10日経てば人も分かる」とおっしゃったのですね。そのことは子供の頃から教えられていましたが、その頃は分かっていませんでしたね。 私は小学生の頃から、何か失敗しますと、「お広前に行って、神様に拍手を打って、お詫びしてきなさい…」。奥で大恩師親先生にそのように叱られて、お広前まで走って行って、ご祈念をしました。20分程しますと、「光雄入ってきなさい」という電話がお広前の受付に掛かってきて、私は奥に戻るのですね…。 ということは、拍手を打って神様にお詫びをさせてもらえば、何か失敗してもお許しくださるのだと思うのですね。そして少し経って、ちょっと大恩師親先生のご機嫌が良くなれば、許してもらえるんやと…。 しかし、本当に私がしたことというのはほんの少しで、そのほとんどは、弟たちか、教会の修行生の子供たちがしたことだったのですね…。当時教会の修行生の子供たちが何か叱られるようなことをした時には、私が学校から帰ってきた途端に叱られるのですね。それは私でなく他の子が何かしたのですね。私が学校から帰って来ますと、その子を叱った後に私も叱られるということになるのです。まあ言えば、それが大恩師親先生の長孫の宿命なのですかね…。 その頃の私は、「私は関係ないのに…」と思ったり、それからなぜ怒られているのかなと思ったりしていましたね。その時にただ、大恩師親先生のご機嫌が悪いのかなと思っていたのですが、それは違うということに、黒衣を着て御用を始めさせていただいた頃には気付くのですね。遅いですね…。 それは、私がお詫びをしているようですが、実は奥で、大恩師親先生が神様に向かってくださって、ご自身がそのことに対してお許しを頂かれた時点で、私に「それで良し」とおっしゃってくださっていたということに、後で気付くのですね。そのことには、小学生や中学生の頃は分からなかったのですね…。 そういうこともあるのですが、そのこととはまた別に、「3日あれば気付く…」。しかし本当は、「その瞬間に変わっている」のです。神様からのお許しを頂いたら、その瞬間から変わっているのですが、そのことに自分自身が気付くにも3日かかるということですね。そしてそのことをさらにさせていただけば、周りの人もそのことに10日で気付くのですね…。 皆さんはどうですか。例えば、例えばですよ。自分の都合のよい日に、月に一度か二度の参拝をされていた人が、毎月5回の吉祥日毎に参拝をさせていただくようになれば、その人を違う人が見ても、「あれ、あの人変わったな」と思われるでしょう。ところがその人自身は、その変わったなという人がなぜ変わったか分からないですが、変わったなということは分かるのですね。 実はその人が、例えば大祭をお迎えする期間なら、朝の5時から拝礼殿での特別ご祈念に参拝してから、6時からの広前での勢祈念に参拝されている。そのことをその人は、毎日見ているはずがないですね。吉祥日毎にしか参拝されていない人はですからね…。しかし早朝の眠いところを、寝る時間を少なくして、拝礼殿の石の上に座って一所懸命にご祈念をあげている人は、10日間そのことをさせてもらえば、そのことを直接見ているということでなくとも、その人の在り方、信心の内容が、今までとは何か違うということを、その人を直接見ていない人でも、その人と会えばその変化に気付くのですね。「あっ、姿勢が低くなられたな」とか、「笑顔が良くなられたな」とか、「前に一歩出ようとされているな」とか…。何か気付かれるわけです。だから「10日経てば人も気付く」のですね。 今は泉光園(せんこうえん)(泉尾教会)には竹が本当に多く生えているでしょう。あの竹は、最初は、もう35年程前でしたか、ご信者のお宅の庭にあった竹を、「立派な竹なので」ということで献木されたのですが、1年目にはまったく竹が根付かず、それでその土(お土地)ごと、トラック5台分ぐらい、移したのですね。そうしますと、その翌年には根付いて、筍が出たのですね…。 そして「旬(しゅん)」という言葉がありますね。旬という字の上に竹が付いたら「筍(たけのこ)」なのですよ。そして言葉の中で、上旬、中旬、下旬という言い方をしますね。ということは、だいたい旬というのは一番短くてその瞬間でしょうね。そして一番長くて10日間ですかね。上旬は、次の中旬になるまでですからね。テレビで言えば、今この人よく売れているな。「今が旬だな」という言い方をしたら、それは1クールの3ヶ月かも分からないですね。でも一般的には、本当にその言葉からいうのならば、半月ぐらいですからね…。 どうですか今、教会にはたくさん竹がありますが、平均4月の上旬くらいから、5月の頭くらいに地面に頭を出した筍が、もう今では立派な竹になっているでしょう。まだ少し皮を付けてはいますが、新しい竹になっていっていますね。 あれも「雨後の筍(うごのたけのこ)」という言葉があるくらいで、10日程でスッーと伸びるのですよ。教会の一番高く伸びる竹は、15メートルを越しますね。15メートルを越すような竹であっても、その、いうところの10日間程で、その時に、ほとんどがワッと伸びるのですよ。「旬」。それは竹の世界。しかし私たちの世界にも旬があるのです。 私たちの世界の旬は、「お気付け」を頂いた時なのです。だから歳とは違うのですよ。10歳でも30歳でも50歳でも関係ない。80歳代でもあるのです。神様に向かってお気付けを頂いて、それを頂き切れば、その時が旬なのです。何事もスッと行けるのです。ところが先ず、お気付けを頂けん。それはなぜか。それは、目を瞑り、耳をふさいで、ともかく人の言うことを聞かない。もっと言えば神様に向かわない。それではもう旬は頂けませんよ。伸びませんね。逆に70歳でも80歳でも90歳でも、歳に関係無しに、自分はいつも神様に向かい、物事に向かっておれば、お気付けが頂ける。それが「旬」ですよ。 そして頂いたらさせてもらう。それが大事なのですね…。だから「10日あれば人も気付く」…。本当に変われるのですよ。ただしその為には、お気付けを頂かないといかん。そしてお気付けを頂く為には、常に神様に向かわないといかん。常に心が、気持ちが神様に向かっているということが大事なのです。ある時は向かう、ある時は向かわない。そして向かうといっても、ある時には一所懸命、ある時にはお付き合い…。そんなのはいかんのですよ。一所懸命神様に向かうと、必ず頂けるのですね…。 だから私は、神様のお姿が、神様のお声が聞こえてこないという人は、本当の信心をしていないと思っています。そうしていれば必ず皆、聞こえてくるはずです。「氏子よ助かってくれよ」という神様の願いの声が聞こえるのですよ。 そうであるのなら、自分はどうさせてもらうことがいるのか。その時が「旬」なのです。その時にグッと伸びるのですよ。だから私たちは、そのことさえしっかりさせていただければ、永遠に伸びていけるのですね。私たちが向かえばですよ…。しかしその逆に、向かわなければ、ずっとそのまま…。 筍のままで腐っていく筍だってあるのを知っていますか。筍として地上に頭を出したけれども、そこで何かがあったのでしょうね。何があったのか分かりません。地下茎で繋がった他の筍がグッと伸びたのか、それともその時の雨との関係なのか、私はどうして筍が伸びるのか伸びないのかまでは分かりませんが、確かにあるのですよ。 私たちも、せっかくお気付けを頂いて、そこまで出ている(頭を出している)のに、そのことにしっかり向かえなかったら途中で腐っていってしまうのですよ。どうぞひとつ本当にですよ、本気になって、神様に向かってください…。 泉尾教会はそもそも大恩師親先生が昭和2年に、91年前に、この泉尾の地にお座りくださった。勿論この、今の6,200坪の泉尾教会(泉光園)ではないのですよ。ここから150メートルほど南南東に離れたところにあった小さな教会ですが…。だから私は「泉尾の地」にと言っているでしょう。それはこの地域そのものを言っているのですね。泉尾の地にお座りくださった。 その一番最初のご信心のあり方が、「暮らし向きのおかげを頂く」とおっしゃった。これは暮らしのおかげだけではないのですよ。暮らしの向き。一般的に「暮らし向き」といえば、経済ということを指しますが、しかし本当に大事なのは「向き」なのですよ。方向なのですよ。暮らしの向き、有り様なのです。ここが大事なところなのです。 何事も有り様が大切なのですね。だからいつも話しますが、今でも、私の方(目を)をちゃんと見て、しっかり話を聞いている人と、親先生がお話しされているけれどもと流してしまっている人と、流石に後ろを見ている人はいないでしょうが、しかしどこを見ているか分からん人とか…。そんなもの、向きが間違っているから、初めから入ってこない…。 鏡を見たらよく分かるでしょう。真正面にきた時にだけ自分自身の顔が鏡に映って見えるのですよ。10°ずらしたら、鏡の真ん中を越えて20°向こうの景色が見えるのですね。自分でなく、向こうの景色が映っているはずですよ。真正面にきた時だけ自分の顔が映っているのですよ。だから「その向きを間違えたらいかん」のですよ。分かりますか。向きを間違ったらいかん。 確かに一人ひとりその鏡の大きさは違いますよ。これはもうそれぞれの器の大きさで違いますが、それはそれを少しずつ大きくすればよいだけですが、向きを間違えたらいけませんね。たとえ小さい鏡でもよいのですよ。 今頃はあまり見ませんが、昔の映画で海で遭難したら、通りかかる船に光る物を向けて、助けを求めるのですね。ピカッピカッと光ってあそこに遭難者が居てると…。そんな映画があったでしょう。あれはその船に向きを合わせているから光るのです。ただし真っ直ぐではない、太陽と鏡と救助船との間を、ちょうど角度を合わせているわけでしょ。そしたら(手を大きく挙げられて)太陽はここ、救助船はここだったら、そして鏡がここなら、こう反射する。あれはわざとずらすわけでしょう。そしたらキラキラキラキラと救助船に光って見える。太陽がこっちにあればですよ。ということは、角度を合わせるのが一番大事なのですよ。 その角度の合わせ方が「大恩師親先生のご信心」だと、私は常に言っているのです。@大恩師親先生のご信心で、私たちは日々全てのことに向かえば A「お気付け」を頂き、Bお気付けを頂いて、そのことにしっかりと向かわせてもらえば、Cそれが旬ですね。D必ず伸びるのです。しかしそのどこかに間違いがありますと、仮にですよ、仮に筍までなったとしても、筍の状態で腐ってしまうということですね。そこのところを分かっていただいて、常に神様に向かわせていただき、全てのことから「お気付け」を頂いて、そしてそのことに一所懸命に向かわせていただけば、必ずおかげとして頂かせていただけるのですね。そのためには「暮らし向き」ですね…。 7月15日は『御布教九十年記念大祭』御礼の500信行の結願の日、それはそのまま「婦人会創立九十周年記念大会」の日ですね。その日まで本当にあと54日ですよ。皆さんはどういう思いで毎日を頂いておられますでしょうか…。 私は寝られませんね。お礼ができていませんね。500日信行の9割近くの日が終わろうとしているのに、1割もお礼ができていませんよ。「御礼の500日信行」ですからね。それはただ『御布教九十年記念大祭』のお礼ではないのですよ。90年間という、大恩師親先生がご布教されてからの90年間の御礼の500日信行ですからね。 ということは昭和2年からの、勿論私は生まれていません。しかしそんなこと関係ないのですよ。生まれている、生まれていないは関係ない。「私はそんな昔から信心していません」なんて関係ないのですよ。大恩師親先生のそのお徳の積み上げの上に、今日初めて参拝した人も、パーンとおかげを頂いているわけです。その御礼の…。 勿論この500日の期間が終わったら、御礼がなくなるのではないのですが、特に御礼の500日信行ですから…。普段だってお礼はいるのですよ。喜びはいるのですよ。しかし特に、「御礼の500日信行」です。それが残す54日なのに、どれだけ御礼ができていますかね。これは私自身がですよ。皆さんも考えてみてください。 確かに皆していますよ。しかし頂いている中身に比べて、それで十分ですかね。いつもそれを思います。私は大恩師親先生が「喜びが足らん」。「足らん者の自覚」とおっしゃっておられましたが、若い頃、そのお言葉を聞かせていただいた時には、「親先生にそう言われてしまったら私達はどうしたらいいのか」と思っていました。 でもそれはその通りだと、だんだん分かってくるのですね。それはなぜか。頂いているおかげの大きさを知っておられるということなのです。だから「喜びが足らん」とおっしゃったのですね。頂いている中身を自分自身が分かっていないから、「これで良い」と思うのです。だから「これで良いとは思えません」という信心ですね。 どうぞひとつ、何事にもしっかりと向かってください。そしてそのことを通して、それぞれおかげを蒙られますように。 |