早朝勢祈念ご教話 教会長 三宅光雄18年9月2日 おはようございます。昨日は「大恩師親先生十九年祭」のおかげを共々に頂きまして、いよいよと「二十年祭」に向かってスタートさせていただいたのですね。今度の正式な信行期間としては11月5日よりの「三百日信行」として頂きますが、昨日より信行が始まったと同然でありますね。いや始まったのです…。お一人お一人が必ずやこの「二十年祭」には、大恩師親先生の神霊様にご安心していただける、言い訳の無い生き方をさせていただかないといかんのですね…。 仮に貴方に10歳の子供がいたら、どうしてもこの子供がということであれば、その子が生まれた時に、10年戻れば、その子は赤ちゃんですよ。同じく仮に60歳の人がいたら、60年戻ってお詫びをすれば、その人だって無垢な赤ちゃんですよ。赤ちゃんの時は汚れのない「本当の生き方」というものを絶対しているはずなのです。どこかで自分の「我(が)」が出て、汚れが積み上がっていっているのですね。 先ずはそこからのお詫びをすることがいりますね。と同時に、実は私自身も、皆さん方も、そのように皆さん方の親様は、貴方自身に成り代わってお詫びをしてくださっているのですね。そのおかげ様で今の自分があるのですね…。そしてそれは、その親様がお亡くなりになられて霊様になられたとしても、今もなお、お詫びしてくださっているのですよ。もし貴方が80歳であっても、90歳であっても、その90歳の方のお父さん、お母さんがお亡くなりになって霊様になられておられても、今もなお、お詫び、お礼、そして願いを持ってくださっているのですね。その願いに私たちはお応えしていくということが大切です。その血の?がった親様と同様に、願いの親である、皆さん方の師匠である大恩師親先生の「十九年祭」を頂いて、今私が一番最初に申しましたように、「神霊様にご安心していただける者になる」ということが大事なのです。そしてその願いにお応えさせていただく…。 ではどういう願いであり、それはどういうように願っていただいているのか…。昨日も「十九年祭」のお話の中で、「あの大きな大恩師親先生のお写真を一度しっかり見てください」と…。大恩師親先生の神霊様は皆さんをどのように今願ってくださっているのか…。必ずや「一心に向かえ」と、そのお声が聞こえてくるはずですよ。しっかり向かえば聞こえてくるのですね…。そのことのおかげを一人ひとり頂いていただきたいと思います…。 そもそも大恩師親先生は15歳の年に、金光教玉水教会初代大先生に連れられて玉水教会で教会修行に入られたのですね。大先生とは伯父と甥という関係であったのですが、その伯父と甥という関係を越えて、師匠と弟子という関係を頂かれて、玉水教会でご修行に入られるのですね。そして24歳でこの泉尾の地にお座りくださるのですが、その間、大先生は、「三宅の家はメグリが深い、おまえは信心しなければ、おまえは30歳を迎えることができない」とおっしゃって、一所懸命祈ってくださったのですね。大恩師親先生もその師匠のお言葉を頂かれて一所懸命に向かわれたのです。おかげ様をもって、神様のおかげ様、親先祖の霊様のおかげ様、初代大先生のお祈りのおかげ様をもって、大恩師親先生は96歳という、30歳を迎えられないと言われた青年が、96歳というような長寿のおかげを頂かれて、ご帰幽になったのが19年前の一昨日の夜、7時57分ですね。 その間に、特に大恩師親先生は昨日でいうのならば、95年前の9月1日の「関東大震災」の時には、金光教銀座教会の布教の為に、教会長ご夫妻のお伴をされて上京しておられたのですね。そしてそこで「関東大震災」に遭われるのですね。その際に、銀座教会から浜離宮(はまりきゅう)(公園のようなもの)へ避難されたのですね。仮に銀座の中心だったとしても、今だったら中央通りの銀座4丁目の交差点ですかね。そこから数えても1.3キロ。そんな近くに浜離宮があるのですね。そちらへ逃げられてお命を頂かれた…。あの時は、死傷者だけでも10万人を超えたのですね。お昼の11時58分でしたから、昼食の為、火を使っていた。その火が結局大火事になったわけですね。その中で大恩師親先生はお命を頂かれた。 そしてそれから76年後。これも不思議なことですよ。亡くなったのは8月31日ですが、二代親先生は、「日が暮れたら、こういうことは古くは翌日のこととして数える…」と言われて、9月朔日をご命日とされたのですね。そしてそのことを後日、一年祭を頂くに当たって、玉水教会へお届けに上がらせていただいた時に、玉水教会大奥様が私に応接室で、「それは良かったですね。大先生(初代大先生のこと)も二月朔日だから、同じ朔日で有り難いですね…」と言われたのですね。 よく考えてみたら、もしかしたらですよ。浜離宮に向かう途中に何回か、右か左に分かれるポイントがあったはずですよ。その時に1つ間違って違う方向に走っておられたら、命があったかどうか分からないわけでしょう…。そしてそこから76年間、命を継いでいただかれたのですね。@神様 A親先祖 B師匠の、その御恩というものを…。だからよく大恩師親先生は報恩感謝というお話をされましたね。そこがなかったら、もうそこから後はないのですからね。だから「何倍お返ししてもお返ししたことにならない」と、ずっとおっしゃっていました。こうしたらお返しができた、こうしたらまだだという、そういうものではない。どれだけしてもお返ししたことにならない。だから大恩師親先生のご信心は、@神様いませばこそわれあり、A親先祖の霊様いませばこそわれあり、B師匠である、玉水教会初代大先生いませばこそわれありと、自分の存在そのものが、その三者のおかげ様で、今の自分があるのだというご信心になるのですね。 今日はこの後、和歌山市内の、三宅家の奥城に参拝いたしますね。奥城にご信者の皆さんもバスでの団体参拝をしていただきます。私がどれだけお詫びしお礼申し上げることができるかということですね。私はそのことを今日、今願いながら、このお話をさせていただいているのですね…。 その20歳の大恩師親先生は、銀座教会長ご夫妻が「関東大震災」直後に大阪に戻られたのちも、お1人で東京に残られて、「人助けの御用」に励まれたそうですね。もうそこからは自分の命だけではないのですよ。神様から頂いた命ですよ。勿論最初からそうなのですが、しかしなかなかその時には自分には自覚がないわけですね。しかし本来は全てそうなのですよ…。 その自覚というものが大恩師親先生は15歳からの教会修行からといわれるのか、それともそれ以前の祖母様の湯川さと様(玉水教会初代大先生の実母)と過ごされた少年時代からといわれるのか、いくつもポイントはあるとは思いますが、私はこのことが、大きな大きな1つの、ご自身の中身であられたと思うのですね。それが、この95年前の9月朔日の「関東大震災」ではなかったのかなと思わせていただくのですね。 そしてさらにそこから4年。24歳でこの泉尾の地にお座りくだされた。といっても、今のこの大きな泉光園、泉尾教会ではないのですよ。ここから南南東に150メートル程離れた、今のこのお広前からは想像のつかない、本当に小さな小さなお広前であられたそうですね。そのお広前に、玉水教会初代大先生が「ここに座れ」とおっしゃったのですね。その当時は、そのお広前の入口には鍵がかかっていたそうですね。いうところの、毎日の勢祈念がなかったということですね。そのお広前にお1人で座られた。そこから…。だから泉尾教会では大恩師親先生の「御布教○○年記念祭」というでしょう…。最初から「開教記念祭」ではなく、「御布教記念祭」と申していましたね。だから、その座られた日からなのですね。 そのご信心に対して、私共が親先生(大恩師親先生のこと)が神様にお礼を申し上げられると同時に、私共がお礼を申し上げる日として、その日を「記念祭」と頂いているのですよ。だから他の多くの教会とは、そこが違うのですね。 大恩師親先生が泉尾の地に布教されるのと時期を同じくして、わが国では「モラトリアム」が発令されたのですね。昭和2年(1927年)の4月20日からですからね。お広前に座られて、まだ3ヶ月というような時ですよ…。これが1929年の7月まで、2年間も続いたのですね…。そして世界的な流れから言いますと、「世界大恐慌」ですね。1929年10月24日ですね…。 「モラトリアム発令」とは、銀行に預けていた自分のお金が払い戻しできないという…。そして「世界大恐慌」ですからね。もう日本中、世界中、政治も経済もグチャグチャになっていったのですね。その中で、昭和2年(1927年)3月24日には中国大陸で「南京事件」が起こったのですね。そしてそれから「第二次世界大戦」と、戦争というものが続いてくるのですね。でもこんなことを言っていますが、明治はもう150年ですよ。戦後73年ということは、その約半分です。半分は戦争のない時代でありました。しかしその前の半分は、殆ど日本人は戦争をしていたといってもいいほど、世界的にいっても、「第一次世界大戦」「第二次世界大戦」は言うまでもなく、「日清戦争」「日露戦争」もありましたし、何々事件とか事変とか…、さらには日本人同士でも明治10年の「西南戦争」を始め、争いが尽きなかったのですよ…。明治元年から前半の七十数年の中でですね…。もう殆ど戦争戦争戦争という時代でした。そういう中でその一番大きな「第二次世界大戦」に向かう、そういう時代に、この泉尾の地に座りきられて、祈られたのですね。 だから大恩師親先生のご信心は、「人が助かるということは、その人が助かるということと同時に、世界が平和でなければ、その人が助かるということにならない」ということを、最初の最初から、そう祈られていたわけなのですね。 私は子供の頃、春秋のご大祭には風船をもらえるのですね。確か幼稚園の頃でしたかね。赤や青や黄や緑や、いろんな色の風船を…。その風船に白の字で「人よ幸いであれ」と書いてありました。その風船を全色集めるのですね。子供ですからくれるのですが、つい手を放してしまい空高く飛んでいってしまう…。その風船には「人よ幸いであれ」と書いてありました…。皆さんもいろんな区切りの大きな御祭には、例えば教会から頂くタオルにも「人よ幸いであれ」と書いてありますよね。 これは本当に、その「幸い」ということがどういう意味かということをしっかり頂くと、泉尾教会のご信心ということが分かるのですね。今も言いました「個々の助かりと世界平和」というものが…。私は本当にそのことを…。だから昨日の「十九年祭」の御祭詞で奏上させていただきましたように、大恩師親先生は、いち早くIARF国際自由宗教連盟に参加されましたね。この会堂のご遷座から今年で50年ですからね。またご遷座の直後には、直ぐにIARFに加盟もされて、そして1970年にはWCRP世界宗教者平和会議という組織を創られました。さらにその以前にも、「国際宗教同志会」も戦後直ぐに創られて、いち早く「日韓宗教者協議会」も創られました。このように、多くの「宗教理解と協力によって世界平和を祈り行動する」という活動に、中心的な働きをされたのですね。 いやいや宗教活動だけではなくて、例えばWAWF世界連邦建設同盟(今のWFM世界連邦運動)。世界連邦は宗教者だけではないですよ。そしてそのWAWFでは、当時は国際宗教者委員会の委員長まで務められているのですね。その世界連邦の中にできた地域的な活動をして、WFM / ACアジアセンターを創られ、会長に就かれた。そしてその後は二代親先生が会長を務められ、現在は私が会長を務めていますね。そして大恩師親先生の時代にその中に、WFM / AYCアジア青年センターというものを創られて、私が二代目の会長を今現在させていただいているのですね。勿論、日本国内でも重職に就かれ、特に「世界連邦近畿協議会」も創られました。そして大恩師親先生はWFM世界連邦では、ご晩年には名誉副会長も務められましたね。今私は第一副理事長というお役を頂いています。宗教界であろうとそうでなかろうと、「人の助かり」「世界平和」のためには…。他にも幾つもあるのですよ。今は代表的なことを話しましたが、全ては私共の一人ひとりが助かる為に、一人を祈ってくださると同時に世界全体を祈ってくださったのですね…。 だからこそ@国連というような国際的な場でのご活躍や、A各国の元首の方々ともお会いになられると同時に、B草の根の活動ですね。特に今は無いと言われていますが、本当に無くなったと言い切れるか難しい、例えばインドでの「カースト制度」、身分制度ですね。大恩師親先生がAYCの会長としてご活躍くださった頃には歴然とあったのですね。インドの方々がそう言っておりましたね。その中でも「アンタッチャブル」、そのカーストにも入らない人々。そのアンタッチャブルの人たちこそ助からないといけないということで、その人たちの村に子供たちの育成を願われて、何ヶ所もホームを建てられていますね。それはインドだけではないですよ。ネパールやバングラデシュやスリランカというような国々にもですね。また学校も建てられている。そこには井戸を掘られたり、病室を造られて週に何度か医師を招いて診察してもらったり、本を贈って図書室を造られたり…。その場その場に一番合った、そこのニーズに合ったお働きをされていますよね。 私は先日、ある教団の先生に「三宅先生、インドでの一番最初と最後にそういう施設を創られたのはどこですか」と聞かれました。だいたいどの方も「最初はどちらでいつごろですか」と聞かれますが、「一番最後はどこですか。何年前でしたか」と聞かれた先生があるのですね。その時に私がお答えしたのは、一番最初に大恩師親先生が創られたのはインドのムッチェラ村というアンタッチャブルの人々の住む村でした。ハイデラバードという大都市の近郊で、今は道路が良くなって2時間程で走れるのですが、当時は6時間程かけてガタガタ道を走って、ムッチェラ村というところへ行ったのです。勿論、冷房のある車も無く、暑い日中を避けて、朝3時半にハイデラバードを出て10時に着き、夜7時に出て翌1時に戻りましたね…。そのムッチェラ村が一番最初であったのですが、それはもう今から四十余年前になりますね。そして一番最後が、まだ20年程前ですが、その隣の村に、名前が「ミヤケタツオ小学校」という小学校を建てられたのですね。私はその小学校に3回行っているのですね。一番最初は土地を選ばれた時に、日本でいう「地鎮祭」に。二度目は校舎の基礎工事ができたからということで行かせてもらった。三度目は校舎ができて、そこで子供たちが学んでいる。しかしあらためて、あちらからの要望で私が行くということで、「開所式」という形をとらせてもらったのですね。それで三度、そこを訪れたのですね。そしてテープカットをして、いうところのその学校の鍵を、あちらの責任者にお渡しして、その小学校への援助はまだそこから何年か続けましたが、それが思いもかけず早くに、その小学校が自立できるおかげを頂いたのですね。 それは、私が二度目に行かせてもらった時でした。未だに忘れることができませんが、皆さん真っ赤な唐辛子はご存知ですよね。その辺りの土地は、唐辛子の栽培に向いているのですね。高さ4メートル程の、私の身長の倍以上ですね。収穫した唐辛子の山が、小学校の土地の中の、校舎の基礎を打っているその横に、空いているスペースに、二十数ヶ所も唐辛子の山。真っ赤ですよ。真っ赤な唐辛子の山が、それこそ4メートル程の山が、ザーッと並んで…。 「今年だけ置かせてもらっています」といって置いておられましたね。その唐辛子の山の一番端の辺りで、校舎の基礎との間の辺りに、私は自分でここだと思うところで、そのお土地に土下座して、ご祈念をさせてもらったのですね。そしてその後、1ヶ月程して向こうから連絡がきて、「小学校に井戸を掘りたい」…。ただしこの村では1ヶ所も水が出たことがないから難しいですが、でも水がもし出たら大変有り難いので、井戸を1本掘らせていただくお金も出していただきたい…。費用としてはプラスαですよ、詳しくその内容を読みますと、その村でも今までに何本も試みているそうですが、村のどこを掘っても水が出ない。でも何としても水が欲しい…。 私はその時に神様にお祈りさせていただき、いくらこのことは大恩師親先生と二代親先生が私にお任せいただいたといえども、(当初より予算オーバーにもなるため)親先生の許可も頂き、「そうさせていただく」という決断をさせていただいたのですね。そしてそれは、「2ヶ月前に私が土下座をして祈らせてもらったあの場所に掘りなさい」と伝えました…。覚えていますよ、校舎の角があって…。私もはっきりと覚えています。校舎の基礎は打ってありましたからね…。「そこを掘ってください」とこう申したのですね。そうしたら間もなく「水が出ました」という通知がきました。本当に有り難くて神様に御礼申しました…。 そのことを聞いた村の小学校の近隣の人たちも、自分の土地で何ヶ所も井戸を掘ったのですが、どこからも水は出ないのです。その村ではどういうことか、その後もその1本だけなのですね。それから校舎ができて、半年程して私は三度目の訪問をしますと、もう授業が始まっていました。そして子供たちと一緒に、手押しで汲み上げる井戸ですよ。それを使わせていただいたのですね。皆大喜びでした…。 それまでの私は、大恩師親先生が、そのようなホームだとか学校には必ずといってよいほど「井戸」を掘られていたのですね。その井戸の意味を、本当の意味を私は分かっていなかったのですね。それは私は、学費が無料で、その上、給食がでるので、貧しい家の子供たちは皆喜んで集まってくると思っていたのですね。 何年も前から、何度もその姿を見ながら私は分かっていなかったのですね…。例えばそのムッチェラ村に車で6時間もかけて行っていた時代に、特に女の子ですよ。大きな大きな瓶を頭の上に乗せて道を歩いていたのですよ。そして男の子は朝早くから野良作業ですね。女の子は水汲みです。これは子供の仕事なのです。今から三十数年程前の話ですよ。それを毎日、早朝から二度の水汲み。例えば仮に井戸まで2キロだったら、往復4キロですよ。頭の上に10キロぐらいの荷物(水瓶)を乗せて歩くのですよ。自分の体重の半分とかいうような重い水瓶を…。水瓶と水の重さを足せば10キロ近いものを頭の上に乗せて、毎日二度ですね。2回だったら8キロですよ…。それが子供の仕事で、学校に行く時間なんかないのですね。いくら学費がただで、食事を頂くことができても、勉強よりそれが一番優先だと…。だから子供たちはその「ミヤケタツオ小学校」に皆来るのですよ。それはなぜか。勉強をして、食事を頂いて、帰りには学校の中で水を汲んで帰ればよいのですから…。 そのことを聞かせてもらった時に、私は大恩師親先生が、なぜ必ず井戸を掘られたのか…。大恩師親先生はその頃、例えば世界連邦の大会で、インドの方と出会われて、「どうか三宅先生、私どもはアンタッチャブルの者で、周りの人たちから差別をされています。何もありません。助けてください」ということで、そこからムッチェラ村に「ミヤケホーム」というところから始められて、各日各所にミヤケホームというものができ、そしてそこに大きな、直径数メートルの井戸が、深さ10メートル以上はありますね。そのような大きな井戸が掘られて、そこには水がありますね…。それを何度も何度も見せていただいているのですね。私は一番多く、インドやスリランカ、ネパール、バングラデシュの「ミヤケホーム」に行かせてもらっているのですよ。大恩師親先生は、そのムッチェラ村の「ミヤケホーム」にご自身が足を運ばれたのは一度きりでありますが、その一度きりのお伴も私がさせていただいたのですね。そのお陰でその村の人たちは「助かりの道」を歩んでいくのですね。 しかし私はこれでよいのかなと、最後には思いました。それはもしかしたら逆差別ではないのかなというぐらい、いろいろな施設ができたのですね。例えばそこの村には歯科まであったのです。あったというのはおかしいですが、歯医者が週に二度来てくれて歯の診察までしてくれるのですね。他には眼科や内科の先生もでした…。だから病院というか、病室に設備があって、毎日違うお医者さんが来るのですね。だから近隣の村からもそこへ診察を受けに来るという。だから数年後には井戸もちゃんと大きな浄水器の付いたもので、蛇口をひねったら普通にきれいな水が出るのですね。そういうことをしていただいたおかげで、そのご縁でいくつも小学校ができた。一番最後がその村の小学校で、しかも村で1ヶ所だけその小学校の井戸から水が出た。その村で「ミヤケタツオ小学校」がたった1ヶ所だけなのですよ。それなので、それ以後の支援というものは、その水が出たおかげ様で、いうところの学校の運営費というのか、それがその水のおかげ様で賄われるようになったのです。有り難いことでしょう。勿体ないことでしょう。その村はその他でいくら井戸を掘っても出ないのです。何キロ四方かの中で水の出る井戸はそこだけなのですね。そこだけが出るのです。ですので2年後か3年後には、全てお任せするという形をとらせてもらったのですね。 私はいつも思う。大恩師親先生はそうなのです。「名前も早く変えなさい」。最初は向こうが「ミヤケホーム」とか「ミヤケトシオライブラリー」とか「ミヤケタツオ図書館」だとかの名前を付けたがるのですが、例えばこの辺りでしたら三軒家小学校とか大正小学校とか、どういうのか分かりませんが、その「土地の地名」だとか、その「子供たちを願う願い」だとかにそのホームや学校の名前をどんどん変えていったのですね。それは、「全部それぞれが自立できるようにしてあげなさい」という、大恩師親先生の、そのご指示ですね…。だから今は全て「ミヤケホーム」という名前の施設はありませんね。もちろんその施設は名前を変えて立派にお役に立っていますね。今ではよっぽど困ったプロジェクトがない限りは、経済的には自立してもらっています。そして毎年その報告は来ます。有り難い事だなと…。このこともですね…。 私はあまりこのような大恩師親先生の歴史的なお話は普段はしませんね。このように、95年前の「関東大震災」から、96歳でご帰幽になるまでの76年間、お守りを頂かれたのですね。今のお話は、その中の大きな働きの1つだと思わせていただきます。 「いや親先生、そんなことは私たちの助かりと直接?がっていません…」。南アジアの、インドの方々がと思われる方がおられるかも分かりませんね…。しかし、例えば「私の家族が癌で困っています」「経済で困っています」と思われる方がいるかも分からない。勿論それも本当に大事なことなのですが、しかしそれだけではないのですよ。そういうことをお道では、「徳を積む」というのです。そのお徳を積んでくだされた、今もなお神霊様としてお徳を積んでくだされているおかげ様を持って、メグリの深い不十分な私共がですよ。そこの分を足していただいて、まがりなりにも、信心をさせていただいて、助けていただいているのですね。 私はいつも「まがりなりにも」と思っています。一般的な言い方をしますと「不十分な」、教組様は「凡夫(ぼんぷ)」とおっしゃいますが、不十分な私が助けていただいているのですね。そこをお礼申さずしてどうなるかと、私は常に思います。 それを忘れたら「報恩感謝」という、どこまでお返ししても、それでよいということはないのだという、大恩師親先生のご信心から外れますね。それは私は人の道だと思わせてもらいます。そこを外さなければ、私は大恩師親先生のご信心であり、そこのところさえ外さなければ、何があっても助けていただけると思う。しかし今いろんなことで問題になっているでしょう。「ハラスメント」とか「暴力」だとか…。しかし私はいつも言うように、ここでという所で落ちそうになったら、「いかんで…」と言わないと、落ちたら命を無くしますからね。それまでは転ぶことも稽古かも分からない。でも崖の上から転んだ、では済みませんからね。落ちたらそこで…。その時は何があっても助けますよ、引っ張ってでも叩いてでも。投げ飛ばしてでも助けますよ。行ったら落ちるのですからね…。それを全部同じ見方で見るというのは果たしてどうなのかとは思いますが…。いざというとき以外では投げ飛ばしたらいかんに決まっていますよ。そこを大恩師親先生のご信心、そしてその中身というものと比べた時にということなのです。 そうしますと、この「報恩感謝」ということ、「居ませばこそ」という言葉でまでおっしゃった、大恩師親先生のご信心をしっかり頂かせてもらって、私共こそ、例えばネパールでバングラデシュで、例えばスリランカでインドで、タイやカンボジアで、それぞれの国で、そういうおかげ様をもって助かっている。そしてそのお徳を積んでくださったおかげ様をもって、私たちは助けられているのですね。 私共も一緒に何か自分のできることでそこにお応えする。「私はスリランカに全然縁がありませんから何もできません」ではなくて、しっかりと向かって行けば必ず「助けてください」という人が大勢おられる。 最近はベトナムの方を始め、東南アジアの人がよく泉尾教会に参拝されますよ。「なぜか分かりませんが、懐かしくて参拝しました…」とおっしゃるのですね。全く知らない人なのですよ。何かその働きがあるのではないか。またインドの人が参拝したりしますよ。泉尾教会のことは何も知らない。それこそ有り難いことではないですか。その人に「何か気持ちが嬉しいです」と言っていただける中身が…。その為には皆さんたちが、例えば毎日草抜きしているわけですよ。毎日お掃除しているわけですよ。毎日お便所を綺麗にしているわけですよ。だから皆さんたちは、世界平和に貢献しているといって間違いないのです。そしてそれを感謝でさせてもらうということが大事なのです。感謝でさせてもらわなければ、それがもし仕事だったら、そら綺麗で当たり前ですよ。そら便利で当たり前ですよ。 それはもう間違いなしに、その中で私たちこそが助けられているから、その助けられている中身を少しでも人様にも頂いていただこうということなのです。それが本当の報恩感謝です。神様に師匠に対してだけではなくて、それは当たり前なのですが、世に人に対してですよ。見も知らぬ人に対して、そのことを向かわせていただくということが大事です。それぞれしっかり向かわれまして、おかげを蒙っていただけますように。 |