早朝勢祈念教話 教会長 三宅光雄19年4月10日 おはようございます。4月25日は「春の大祭」ですね。私たちは、ご大祭に向けて一人ひとりが信心を進め、しっかりと前へ向かっていくということが一番大事です。では、ご大祭に向けて、何に向かっていくのかと言いますと、それはやはり、コツコツとした日々の信心の積み重ねですね。それは私がいつも話しますように、「信仰の基礎体力」というものは、やはり参拝。「足運び」ですね。そして「お道引き」ですね。そして参拝とお道引きが進んでいきますと、放っておいても神様に「お願い」せずにはおれなくなる。だからお結界へ進ませていただく。今日、参拝させてもらえているお礼と、人様のことをお願いしたら、自分の祈りの上に、神様にお働きいただくためには、お結界でお届けをするしかないということになる。逆に言いますと、毎日お結界に進まないということは、仮に参拝をしていても、お願い・お礼ができていないということです。 そしてそれは、私も同じですね。「肺癌手術」直後のあの日、ベッドで起き上がることもできなかった。それが今は普通に起こさせてもらえている。それはどれだけのことかということですね。胸を大きく切っているのですから、とても痛いのですから。両手で柵を握って起きようとするのですが、痛くて起き上がれない。 また「お道引き」をさせていただければ、あの人のこと、この人のこと、そしてこのことをどうしても。この人のおかげを頂かせていただきたい。だから「足運び」と、「人のことをお願いする」ということと、「お届けする」ということは、みな?がっている。それが「信仰の基礎体力」ですよ。このことをもっと充実していくということが、ご大祭へ向かうということです。 そして具体的にいうのなら「訪問」、そして「お道引き」でしょうね。人を祈らず、お道引きなしにご大祭を迎えようと思ってはいかんし、ましてやご縁の方の訪問をせずにご大祭を迎えようと思ってはいかんのですね。それはなぜか、答えは簡単なのです。それは何十年も前に、訳も分からず、あっちを向いていた自分を、この道にお道引きしてくださった方が、皆さんにはあるはずですね。それは信心の先輩なのか、親かも分からない、隣のおばさんかも分からない。勿論自ら進んでという方もおられますね。しかしそれでも、神様が何かに気付かせてくださったということですね。そのおかげ様をもって、今の自分があるのならば、自分もその道を歩ませてもらわなければいけない。当たり前のことですね。私はそう思います。 そしてさらにもう一つ言うならば、絶対「退いてはいけない」ということです。一人ひとり前に進むスピードは違っていても、決して退いてはいかんのです。人と触れ合っていない人はいませんね。たとえ体が言うことをきかない状態の時でも、介護に来られる方がありますよ。その人を祈ればよいのですよ。そして、その人を通して多くの人を祈ればよいのですね。祈りが問題よりも大きければ必ず通じるのですよ。 ではどう祈るのか。私たちは急には何段も進めませんよ。私たちは、目の前のことをコツコツと、一所懸命するということが一番大事なのです。いくらでもごまかせますよ。しかし神様はその姿を見ておられますよ。結果として1年後か5年後か次の代か分かりませんが、そこに現れてきますよ。いやそれどころか、今に現れてきますよ。自分で自分をごまかしたらいかん。 孫悟空の釈迦如来(お釈迦様)の話を先日もお話ししましたね。自分は何でもできる。自分が一番だと思っている。そして人を見下している。そのお話では、そうではないとお釈迦様に教えられるでしょう。私は世界で一番速く、一番遠くまで飛べる。力も私が一番強いと、?斗雲に乗って世界の果てまで飛んで行ったと思ったのですが。しかし全ては仏の働きの中にあったと。あれは仏教的な話ですね。それから観音様から命じられて師匠(三蔵法師)のお伴をしてインドまでお経を頂きに行くわけでしょう。それまでの孫悟空は、手のつけられない暴れ者なのですね。 それはお道では「気付き」ということですね。そこを私たちはあのような本を読んで知っているのですからね。しかし私たちは、事実は全て神様のお働きの中にあるということを忘れてしまっている。全て神様のお働きの中なのですね。だから心配もいらないということですね。勿論心配いらないなら、全ての人が百歳まで寿命を頂くかというと、そんなことはないですね。0歳を迎えられない人もいれば、百歳を超える人だっている。それはそれぞれですね。私たちはそれぞれの中で、しっかりと向かわせてもらうのですね。 分かりますか。絶対に開かない扉はないのです。開かないのは押し方が足りないのです。もっと言えば、「願い」が足りないのです。押すということは願うということです。問題よりも大きな願いで向かえば必ず開くのです。必ずです。その願いを続ければ、向かい続ければ、祈り続ければ、願い続ければ、開いていくということです。だから「大きな願い」を持たないといかんのですね。 それは私ができる、できないではない。しっかりと神様に願えばいいのです。そして自分は目の前のことを一所懸命にする。教組様は、「人が導き 神が助ける」とおっしゃっているではないですか。また事実そうでしょう。しかし神様が助けてくださる前に、人が導かないといけませんね。「人が導き 神が助ける」ですからね。 だからこんなことは「無理だ」ということはないのですね。それは、神様がしてくださるのですから。しかしその為には、私が目の前のことを一所懸命にするということがいるのですね。仕事でも、家庭でも、子育てでも同じです。勿論仕事だったら、例えば1年間の計画なのか、半期の計画なのか、この1ヶ月の売り上げなのか分かりませんよ。子育てといったら30年でワンジェネレーションと仮にしますと、もしかしたらその半分の15年スパンかも分からない。物事によって、その長さは違いますよ。例えば今日今日、今今ということかも分からない。しかし全て同じ方程式なのです。そこのところを分かっていただかないといかんと思います。 さて、今日はACRPアジア宗教者平和会議の、来年第9回世界大会を迎えるための執行理事会の歓迎会食会があるのですね。これは大恩師親先生を始めとするWCRP日本委員会の先人が創ったといってもよい、アジア版WCRPですね。1970年、私が14歳の時にWCRP世界宗教者平和会議が京都で開催されました。そしてその会議で大恩師親先生が「このような素晴しい会議を1回きりのものとしてはいかん」と発言されて、事後委員長になられました。その結果、この会議が、第1回の大会と後日にはなったのですね。そして第2回の世界大会は1974年ベルギーのルーベンであったのです。しかし当時アジアは日本だけが飛び抜けて経済発展をしておりました。勿論、今は違いますよ。第2回世界大会の時には、多くのアジア代表が経済的な理由もあって、参加することが難しかったので、大恩師親先生はアジアはこれからは、次の21世紀は世界をリードする地域である。事実、今はそうなっていますよね。経済的にも人口的にも。そのアジアの人たちが、今現在そういうことで難しいというのであるならば、そのアジアの人たちの意見を集約して、そしてそれを、日本を始め参加できるアジアの人たちが世界大会へ持っていかないといけない。また世界大会での内容をアジアの人たち皆に伝え、そしてまた意見を言ってもらわないといけない。その為にも、アジアの宗教者がアジアで集える会議を創りましょうと、発案されて。 1976年のACRP第1回シンガポール大会、私が20歳の時ですね。だから私が14歳の時にWCRPの京都会議で、18歳の時には第2回がベルギーのルーベンで開かれ、そして20歳の時に、アジアでの第1回目のACRP大会が開かれたのですね。これがACRPのそもそもの発足の歴史なのですね。 WCRPはアメリカの2人のユニテリアンの方(ディナ・マクリーン・グリーリー博士と、ホーマー・A・ジャック博士)が発案者で、そこに大恩師親先生と、そして大恩師親先生は立正佼成会の庭野先生も共にと言われて、そしてインドのフェルナンデス大司教が加わり、この5人で。実はその前年の1969年には泉尾教会は立正佼成会と一緒に、IARFに正式加盟をしているのですね。もうその時には、「庭野先生、三宅先生」という仲になっておられたのですね。その流れを今は皆、知らないのですが、それがそもそもの始まりで。49年前。私は中学生でした。そして1976年は20歳で大学生であったので、そこのところはよく知っていますね。だから私はどんなことがあっても、泉尾教会にとってWCRPは国是として不十分ですが御用をさせていただいていますね。 4日前にも、WCRP日本委員長で長年活躍されたムスリムの先生の葬儀の場でも、庭野先生の横に私が座らせていただきました。そして今日の会食でも、歓迎のご挨拶がWCRP日本委員会会長の庭野先生で、理事長の植松先生が閉会のご挨拶で、私は乾杯の発声ということですね。本当に有り難く、勿体ないことですね。 大恩師親先生は、その第1回ACRPの時に、「筋道」ということを大切にされましたね。それは、例えば金光教なら「手続き」ですね。だから、お結界取次が大事なのですね。そして、それぞれの教会が、それぞれの親教会へ、そして本部広前の金光様へ。と同時に、それだけならご信者さんは本部へ参拝しなくてもよいのか。違いますね。その上に本部参拝なのですね。そしてさらにはその上に神様なのですね。だから「御神願」なのですね。そしてその、結界取次、親教会、本部参拝も、御神願と同様大切なのですね。 それと同じように、この1976年11月の第1回ACRPシンガポール大会の時に、天理教の布教者としてすでにシンガポールで布教をされていた井上昭夫先生が後日おっしゃっていたことですが、「大恩師親先生との出会い」ということが出てくるのですね。私は天理教の「天理やまと文化会議」事務局長の、井上先生のお部屋で直接お聞きしましたね。そのお部屋に入るなり、子供の歳の私に先生は駆け寄って来られて、「三宅先生」と握手されました。そして「私は親先生にお会いして」と、大恩師親先生のことを三宅歳雄先生と言われずに、親先生と言われるのですね。当時、「親先生」という言葉は、多くの他教団の先生方の中では、三宅歳雄を指す言葉だったのですね。 「私は親先生がおられたからこそ、今日、私が宗教協力の世界に、今こうして居ます」と、そこまでおっしゃいましたよ。当時天理教では、どなたでもご存知というような先生がですよ。その先生が、「今自分があるのは」。それは何か。その時、先生がおっしゃったことを、私は未だに忘れないですね。「当時私は青年布教者としてシンガポールに居ました」。その時(1976年)に第1回ACRP大会がシンガポールで開かれたのですね。その時は井上先生はまだまだお若い頃ですね。その若い一布教者に対して、これは悪口と思って聞いてもらったら困るのですが、井上先生がおっしゃるので、少なくとも井上先生はそのように受け止められたのでしょうね。井上先生曰(いわ)くですよ。「日本から来られた多くの宗教者やスタッフの人たちは、まるで地元の私たちを」。よくテレビドラマでもあるでしょう。事件が起きて警視庁の捜査一課が出てきて、その管轄の警察官に対して「あなた達は聞き込みだけ行ってきなさい。捜査は私たちがする」。特別なエリートだけがするようなシーンがあるでしょう。だいたいテレビでは分かり易いようにそうなっていますよね。本庁の捜査一課が来て、所轄の人はその辺の下調べをしなさいと。そしてその時代の日本人も他のアジアの人たちに対しては、どこかにそのような思いがあったのでしょうかね。地元の宗教者の方々を集めて、「今回はこういうことがあるから、皆さん協力して欲しい」というような、どこか「上から目線」というようなものがあったのかな。いや少なくとも井上先生はそう感じたとおっしゃるのですね。その直後、会議室から親先生(大恩師親先生)が私たちのところに来られて、そこに居た地元の日本の若い宗教者に対して、その当時は、既にシンガポールで布教している教団はあったのですね。例えば天理教ですね。「どうぞよろしくお願いします。何も分からない私たちです。地元の人の協力無しに何もできません。教えてください」と、先ず最初にお断りを入れられた上で、「皆さんはどこに問題を感じられますか。させてもらうことは抜けていませんか。教えてください」とおっしゃったというのですね。若い地元の青年教師たちに対してですよ。当時七十代後半の大恩師親先生がそう言われて、深く頭を下げられたというのですね。そのことを井上先生は私に力強く話されました。その当時の私と井上先生との年齢差より、もっと年齢差があった大恩師親先生と井上先生ですね。 当時、地元のシンガポールに布教されている日本の宗教者は、日本代表団の中でも、庭野先生と大恩師親先生は誰が見ても別格ですからね。その大恩師親先生が頭を下げられて「教えてください」と頼まれた。その時に私は本当の宗教者の姿を見たと、井上先生はおっしゃいましたね。またそれから後になりますが、国際宗教同志会の例会でも講師としてお話しくださいましたね。「宗教者とはこうあるべきだ」と。上からではなくて、横からでもなくて、下から。それが大恩師親先生のおっしゃる「願い」「思い」「祈り」ということに通じるのですね。これは絶対に忘れてはいかんことです。そこが大切なのですね。 そしてその時に諫言されたのが、日本代表団は未だに忘れませんが、日程の中に日本人墓地の慰霊がありましたね。私も参拝しました。大恩師親先生と庭野先生が前方に立たれて。私はその時、写真係をしていました。最後の最後に他の人にカメラを渡して、1枚だけ一緒に撮ってもらいました。日本人墓地の慰霊は始めから決まっていたのですね。その時に井上先生がおっしゃったのは、「それも大事なことですが、日本軍が戦闘でシンガポールに居た多くの人々を殺した。その人々の慰霊碑が、シンガポールの真ん中のダウンタン・コアに建っているのですね。そこに慰霊の参拝をすべきです」と。シビリアン・ウォー・メモリアル記念碑ですね。 なぜ昨年、米国と北朝鮮との1回目の首脳会議がシンガポールであったかといいますと、当時のシンガポールは自由な共産主義国家といってもよい程の、統制の厳しい国だったのですね。今でも凄く厳しいと思いますよ。その当時は、子供たちは、成績によって進める学校も全て決められている。小学校から中学校へは決められた数の人しか行けない。また高校へ進むのもそうなのですね。全て決められていたのですね。そして後の人は、例えばあなたは料理人、あなたは大工とそれぞれ専門学校に行ったり、働いたりするのですね。勿論当時はですよ。今はどうか分かりません。そうして今は1人当たりの収入は、日本人をとっくに抜いていますね。 日本国民は世界から見れば、もう金持ちでも何でもないのですよ。ただ人口が多いから、1億人以上いるから、全体としては世界第3位の経済大国ですね。しかしその当時は、確かシンガポールは1人当たりでは20分の1と聞きましたね。ということは、シンガポールは40年間で30倍以上伸びているのですね。日本が止まっているとしたらですね。日本人は何をしているのかということですね。 その時にシンガポールのリー・クヮンユー首相が演説されたことは、「先の戦争では、私たちは日本に対して大変な恨みがある。しかしあの日本に見習え、そして追いつけ追い越せ」とおっしゃったそうですね。凄い演説だったということですね。その記念碑、シビリアン・ウォー・メモリアルは、高さ50メートル以上あったと思います。燦然と4本組の塔を建てたのですね。それはマレー系、インド系、中華系、そしてミックス。シンガポールはこの4つの人々で成り立っている国家ですね。だから4本の塔があって、そこには「日本軍に占領されて」と書いてあるのですね。 その記念碑で日本人として慰霊をすべきだと、井上先生は進言されたのですね。そのことを親先生(三宅歳雄先生)は直ぐに聞いてくださったと。始めは、日本人墓地だけにお参りをしてということであったそうです。その時の戦闘で亡くなった日本人のお墓ですね。それも大事なことですが、自分が被害者だとばかり思っているけれども、加害者なのだと。先ずその慰霊なしに、大会をしたらいけないのだと。 その当時、日本人がアジアの殆どの財を持っていたといっても過言ではないのですね。だから人々は文句は言わないでしょう。しかし恨みは残るでしょう。だから大会の前に是非これをされたらいかがですかと提案されたそうです。そのことを親先生は「その通りだ」と言ってくださり、直ぐにそのようにしてくださった。このことは、私は忘れることができないのだと、私に言われたのですね。そして後日の国際宗教同志会に来られたときも、役員の方々にその話をされましたね。これが大恩師親先生のご信心なのですね。 だから大事なのは「筋道」なのです。先ずお詫びがあるのですよ。それであのACRP第1回大会が、本当の意味で成功したのですね。それが今日に?がっていますが、皆そのことを知りませんし、忘れていますね。 如何に人々にアピールをして、如何に実りが多かったら良いかと考えていますが、実はその種を撒いてくれたのは誰なのだと。祈ってくれたのは誰なのだと。お育てくださったのは誰なのだと。そこを忘れて。 だから私はいつも言うのですよ。そこが分からないと、ということは、皆さんにとっては親様ですよ。そして神様ですよ。勿論大恩師親先生ですよ。だから大恩師親先生は「神様いませばこそわれあり 親先祖いませばこそわれあり 玉水初代大先生(師匠)いませばこそわれあり」とおっしゃいますね。それなしに自分が今あると思うのは間違いです。そこです。そこが私たちの元なのです。 どうぞ皆さん方にはそこのところを分かっていただいて、ご大祭へ向かって、今、何をすべきか。それは毎日のことをコツコツとさせていただく信心。そしてコツコツとは何か。それは「足運び」であり「お道引き」なのです。そして「足運び お道引き」をすれば「お届け」せずにはおれないのですよ。それが助かるための筋道だからです。そしてそれを私にしてくれたという人がいたということですよ。その上に今の自分があるということに気付くことです。それは親なのか、親の親なのか、お道引きの親なのか、それは分かりませんよ。一人ひとり違いますからね。 どうぞそこのところに気付かせていただきまして、お一人お一人が自分の目の前のことを一所懸命させてもらう。これが泉尾教会の人助けの道であり、助けていただく道でありますね。そして大祭こそ、それを現す、お礼と喜びを現す時だと、そう頂いていただき、それぞれがおかげを蒙られますように。 |