生穂会 春の大祭教話 教会長 三宅光雄19年4月16日 皆さん、ご大祭おめでとうございます。今日ほど「ご大祭日和(びより)」というような日はありませんね。先ずお天気がそうでしょう。そしてお天気だけではご大祭日和とは言えませんね。神様は晴れであれ雨であれお守りくださいますよ。しかしご大祭を頂く私たちは、晴れである方が良いとしていますね。と同時に、皆さん方の神様に向かう気持ちが前向き、これこそがご大祭日和ですね。だからお天気も良し、人も良し、どちらも良しと、非常に有り難いご大祭だと私は頂きながら、今も祭主のおかげを頂かせていただいたのですね。本当に有り難いことです。 先ず今日はお話をさせてもらう前に、今日は一つの区切りでありますから、全員で黙祷をさせていただきたいと思います。3年前の4月14日、夜の9時26分。それから16日、3年前の今日ですね。早朝3時55分。熊本地方を中心に大きな地震、震度7が二度ありました。大地震で267人の方がお亡くなりになりました。今日は3年という区切りですから、皆さんで黙祷をさせてもらいます。この淡路も24年前に「阪神淡路大震災」があったわけですから、先ずその区切りをさせてもらってからお話をさせてもらおうと思います。 では黙祷をお願いします。………… 黙祷 …………。有難うございました。 私は、3年前のことを思い出しますと…。実は、常盤台教会長、道人先生の奥さんが熊本教会長の妹さんなのですね。熊本といえば、私は先ずその関係があるのですね。確か常盤台教会の開教四十五年祭ですから、今から11年前ですか、初めて今の熊本教会長先生の父上(前熊本教会長・萬野眞信先生)ご夫妻とお会いしたのですね。そして1時間程直会宴でお話をする機会があったのですね。それで親しくさせていただきました。それが11年前。今は熊本教会の出社の水前寺教会で御用をされています。皆さんも歌手の水前寺清子さんって知っているでしょう。そして有名な水前寺公園がありますね。その水前寺公園の池の水位が低くなったのですね。きっと地震で水脈というのか、地層が変わったのでしょうね。ところが水前寺教会の井戸は守られましてね。ご信者さんだけではなくて、近隣の方にも水を差し上げることができたのですね。それは有り難かったですね。 直接、萬野眞信先生ご夫妻とお会いするまでは、心配で心配で…。直ぐに常盤台教会に電話しました。そうしますと、「教会も、家族も、信者さんも無事でおかげを頂いています」…。当時東京の先生(前常盤台教会長)は身体を悪くされていました。「今は私がお広前をお守りしていますので、直ぐには行くことができないので、日にちを置いてから熊本に行こうと思います」と…。「そんなこと言わないで、4月25日は泉尾教会の大祭だから、私がホテルも飛行機も取っておくので、あなたは体一つ、26日だけ空けてください」と言って、25日は大阪のホテルに泊まってもらい、26日の朝一番に、2人で飛行機で熊本に行き、熊本空港からはレンタカーで向かいました。 そしてそれとは別に次女の薫(薫先生)が25日のご大祭が終わって直ぐに、その日の夜に熊本に向かって出たのですね。これは「大阪災害救援隊」の御用です。車で大阪から熊本に向かいました。真夜中に着き、朝から、福岡の被害の少ない街で、ワゴン車一杯の食料等の買い出しをしてから被災地に入ったのですね。益城町(ましきまち)ですね。そこで益城町の被害の大きかった金光教木山教会に行き、教会長との話合いで、教会の前の駐車場に救援隊の本部を置くということになったのですね。そこで数日間救援活動をし、炊き出しもしたのですね。そしてその活動を始める前に地域の全体を知るということも大切なので、他の被災地の教会も廻ったのですね。そしてその夜には、そこに戻ってきたのですね。 そして私は私で、朝一番の飛行機で飛んで、空港からレンタカーで、最初に行かせてもらったのが空港から一番近くの水前寺教会。教会では萬野眞信先生ご夫妻の無事なお姿を見るなり泣けましてね…。そののち熊本教会へ行ったのですね。こちらでは萬野信一先生ご家族とお会いして、神様に共にお守りの御礼の御祈念をさせていただきました。そののち益城町の木山教会へ行ったのですね。「阪神淡路大震災」の時も、私は震源地の北淡町のご信者さんの所まで行きましたね。 教会の近くまで行きますと、車が入れないのですね。教会と思える建物は見えているのですが近くまで行けないのですね。本当は正面から廻ったら行けたのですが、私たちは知らずにナビを頼りに走っていたものですから、近くで止まって、瓦礫の中を歩いて行って、「すみませーん、すみませーん、金光教のお教会でしょうか…」。「ハイ木山教会です」。4軒ぐらい向こうからそのような返事ですね。「そちらにはどうして行ったら良いですか」。「あなたお1人は直接歩いて。危ないので注意して歩いて。そして運転の方は一度表の道に出られて、大きく廻ってもらって…」。私は教会まで瓦礫の中を歩いて行きました。そうしますと、「どちらかの教会の方ですか」。「大阪の泉尾教会の三宅です」…「あれ、三宅さん、先程もお1人三宅さんが来られましたよ、ちょっとノートを見ますね…。あっ泉尾教会の三宅さん。そうすると、この人はどなたですか…」。「私の娘です」…。そうしますと、この日、この木山教会に救援に行った数名の中に、なんと三宅が3人。 泉尾教会は有り難いですよ。泉尾教会というのは皆さん方お一人お一人ですよ。大恩師親先生は「困っている人がいたら放っておけない」。できるできないは別なのです。するか、しないかです。できる、できないは後で神様がしてくださるのです。私たちはするということが大事です。したら、してくださるのです。しないからできないのです…。 そうしますと木山教会の矢野正紀先生が、「やっぱり泉尾教会さんですね。実は私は、泉尾教会さんとは直接のご縁はないのですが、布教七十年のご祭典に参拝させていただきました…」。熊本の大震災の19年前ですね。その時に、「私の教会にもこのような建物が欲しいと思った」と言われるのですね。それは、会堂の後ろの第一教職舎のことですね。今では一番古い建物になっていますが、今から22年前には、そんなに古くなかった。その会館(第一教職舎)は鉄筋の建物で、その会館を見られて、私の教会にもこのような「鉄筋の建物」が欲しい…。そして祈りの塔にも行かれて、「納骨堂」も欲しいと思われて、そののち、境内に3階建ての鉄筋の建物を建てられ、納骨堂も建てられたのですね。どちらも鉄筋コンクリートですね。それは泉尾教会を見られてですよ。今度の大地震で他の建物は全壊半壊と全て潰れたのですが、残ったのはその鉄筋の2棟だけ。再度行かせていただいた時には、そこの2階を仮広前にされていましたね。 私は奥様の案内で、半壊のお広前にも入らせていただき、全壊している他の建物も見せていただきました。本当はお広前にも入ったら危ない。しかし「三宅先生、見てください」と…。しっかりと見せていただきました。「今、大揺れが来ても、三宅先生が来られているから絶対に揺れません…」。お広前に入ると、外から見るよりも、もっと大変でしたね。 だから私は、熊本教会と、大阪災害救援隊というご縁があって、4月26日に熊本へ行かせていただいたのですね。そして実は大地震直後にも動いているのですね。それは、これもご縁のある大阪大学大学院教授の稲場圭信先生。その先生が一度目の地震の、14日のフィールドワークで熊本で活動されていて、たまたま木山教会におられた時に、二度目の地震があったのですね。その時はアルファー米等を配っておられましたね。そして直ぐに泉尾教会に電話がかかってきた。「三宅先生、こういうことになっています」。16日ですよ。そして私は、「何でもするのでおっしゃってください」と善信先生から伝えてもらいました。だからある意味では自衛隊より早かったかも分からないですね。 あの時には揺れて家が崩れるのが怖くて、車の中で寝泊まりする人が多くおられましたね。なぜかといいますと、今までは本震の後に余震と言われていたのが、あの時は逆転したのですね。14日に大地震があったのですが、のちの16日の地震の方が大きかったのですね。だからその後も、もっと強い地震がくるかも分からないと、皆家に入らず、一応冷暖房が効いて、ラジオも聞ける車の中で…。しかしエコノミー症候群というような健康被害もあったのですね。そして避難所に入らずそのように車に乗っていた人たちには、公の食料配給もないので、どんどん配りました。 それはなぜかといいますと、私たちは「阪神淡路大震災」を経験していますからね…。こちらはその震源地の淡路島ですよね。あの時は飲み水が特に大事でしたよね。特に神戸はそうでしたね。もっと言えば、その後に、これは日本ではないですが、2004年12月の「スマトラ島沖大地震」。「ツナミ」という言葉が世界語になった、あの大地震ですね。22万人の方が亡くなった。何千人ではないのですよ。22万人が、ベンガル湾周辺国で、インド、バングラデシュ、ミャンマー、スリランカ、タイ、マレーシア、そしてインドネシア。あの辺りで大勢の方が亡くなっている。あの時に泉尾教会はペットボトルやビニール袋に入った飲み水を、2日後の12月28日から配りだしたのですね。当時は1本(1袋)が日本円で2円程でした。それを1支部当たり50万個。ベンガル湾に面しているAYC(世界連邦アジア青年センター)の、4つの支部にそれぞれ100万円を27日には送金して、とにかく200万個を配ったのですね。凄い量ですよ。200万個ですよ。とにかく、「他の支援はまた直ぐにするので、このお金は全て飲み水を買うように」と…。それを日本でティッシュペーパーを街で配っているように、とにかく出会う人すべてに幾つでも渡して欲しいと…。それは「阪神淡路大震災」で、飲み水がどれだけ必要だったかを経験しているからですね。特に当時の南アジアは衛生状態がそんなに良くない。清潔な飲み水がなかったらコレラや赤痢等の病気にもなる。 それはもっと前、1987年夏に、私が30歳の時にバングラデシュという国で、20世紀最大規模という大洪水があって。あの時に、大洪水で直接亡くなった人は確か1,000人程と聞いていますが、その後に赤痢、コレラですよ。それで本当に大勢の方が亡くなった…。 あの時は9月に1万人分の薬を持って…。大恩師親先生のお伴をして、ホサイン・ムハマド・エルシャド大統領に直接お会いし、手渡しましたね。大阪のある大きな病院の事務長さんを知っていまして、そこの先生にお願いして、事情が事情だけに、普通は出してもらえない薬を4つの大きなジュラルミンのスーツケースに入れて、そしてその他にもメガネを400個。信者さんから古いメガネや、使っていないメガネをくださいとお願いして…。日本人は目の検査でメガネを目に合わせますが、しかし非常事態ですからしょうがないのですが、メガネに目を合わせるということで、メガネをいっぱい置いておいて、合うのを持って帰ってくださいと…。 それがまたダッカの空港で止められましてね。「これは何だ。メガネの商売をするのか」と、1時間近く止められました。困ったので、直ぐに私が大統領秘書官さんに連絡して、電話を代わってもらったのですね。そうしたら一発オッケーでしたね。メガネはAYCバングラデシュ支部に渡して皆さんに使ってもらいますが、薬はこちらが配るのではなくて、エルシャド大統領にお渡しして、それを国民の皆さんのために…。そしてそもそも、1万人分の薬を持って行くことを最初に許可を出さなかったのは、日本のバングラデシュ大使館だったのですね。おかしな話でしょう、貰う方がですね。しかし逆に言いますと日本でもそうかも分かりませんね。それはそれで正しいですね。変な薬が入っていたらまずいですからね。しかしそれも大統領からの依頼の手紙を見せて…。そして大統領官邸に持って行きますと、エルシャド大統領は喜ばれて、その時は大恩師親先生と私と善信先生が行きましたね。大統領官邸にですね。その時に大統領と写真を撮っていますよ。 そういう経験があったから、とにかく直ぐに動きました。大阪大学大学院の稲場先生も動かれてましたね。その時のコネクションが益城町にあったから、後は早かったのですよ。次に行ったら、「あの時に支援してくださった方の関係の方ですね…」。今も、4月15日から19日と、「大阪災害救援隊」は熊本に行って活動していますよ。今回は泉尾教会からは行かせていただきませんでしたが、私は「大阪災害救援隊」の責任ある御用のおかげを頂いているのですね。 皆さんは自分には関係ない話。募金は大阪の信者さんが中心にと思っておられるかも分かりませんが、違うのですよ。泉尾教会はチャリティーバザーや、青年大会、婦人大会、男子壮年信徒大会等に募金をしているでしょう。皆さんも大会で募金箱に募金されるでしょう。それからご大祭の時は広前の外に動かしていますが、普段はお賽銭箱の横に小さな募金箱があるでしょう。そこに毎日祈られて募金される方がおられるのですね。自分が苦労した人が特に祈っておられる。自分が助けていただいたというお礼ですし、経験なのですね。そして大阪災害救援隊の活動資金の上にも、泉尾教会は大きく貢献しているのですね。 それはなぜか。それは「困っている人がいたら放っておけん」というのが大恩師親先生のご信心だからです。今まで何度も何度も、生穂会でも話していますね。 私が二十代の時に、インド、ネパール、バングラデシュ、スリランカに「ミヤケホーム」を、数年間毎年のように建てられていました。毎年、泉尾教会の年間予算の約5分の1をホーム建設等に使っておられました。私はそのことは、絶対に良いことをされていると分かっていましたが、しかし変な話ですが10パーセントぐらいならと思いましたが、20パーセントとなると…。しかしそんなことはお構いなく大恩師親先生は毎年のように「ミヤケホーム」を建て続けられましたよ。 それはなぜか。それは自らが、神様にそうしていただかれたからですね。助けていただかれたから、助けさせていただいて当たり前。助けられていることが分かっている人は人を助ける…。何事も自分の力でしているとか、何事も他人事(ひとごと)だと思っている人は、何もせずに見ているだけですね。それではいけないのですね。だから今の泉尾教会も、絶対に大恩師親先生がされたことはさせていただく。私は不十分ですし、力不足ですが、少しでもさせていただこうと思っています。そんなもの不十分に決まっています。私の力は大恩師親先生の1パーセントもないですよ。またできているとも思っていません。しかし同じことをさせてもらわなければ、大恩師親先生の神霊様に対してですよ、私は知っているけれども、目をつぶっているのだというわけにはいかない…。だから泉尾教会は今でもこれほどの大きな御比礼(ごひれい)を頂いているのですよ。 だから皆さんがこんなに有り難いご大祭を頂いておられるのに、皆さん方はこれは当たり前で、このような広前がどこにでもあると思っているでしょう。これだけの広前を頂いて、これだけのご参拝があるのは、教会レベルでもそんなに多くないのですよ。金光教には千数百の教会があるといっても、生穂会という会がもし教会としたら、広前の大きさや、設備、参拝される信者さんなど、大変なことなのですね。勿論一番素晴しいことは願いの強さですね。生穂会は本当に祈りと勢いのある会ですよ。皆さんはそれほどに、有り難く素晴しい広前を頂いておられるのですね。しかし皆さんは生穂会しか知らないから、ましてや泉尾教会を知っておられるから、確かに生穂会の広前は泉尾教会の広前に比べたら小さいと思っておられるかも分かりませんが、泉尾教会のお広前は、他には無い程の大きさなのですよ。 私たちはそれだけおかげを頂いているのですから、答えは簡単ですね。自分が頂いているのですから、「私は足が痛くて歩くのが大変です」「私は生活が大変です」と違うのです。私たちは大変な中を歩かせてもらえているのです。私たちは大変な中を生活させてもらえているのです。そうであるのならば、本当は自分の分を横に置いてでも、人様にさせていただかないといけないのですが、せめて自分も人も…。 だから大恩師親先生は、お道は「われ人共に助かる道」といいますが、泉尾教会は「人われ共に助かる道」。いやそれどころか、「人、人、助かる道」なのです。そうしたら自然に「われが助かる」になるのです。これは自動的になる。 当たり前ですね。(ハンカチを持たれて、大きく手を出されて)これ(ハンカチ)をここ(説教台の上の録音機)に当てるのは、どうしたら良いと思いますか。それは先ずハンカチを持ち上げて、録音機の上に持っていって、手を放したら、自動的にそこに落ちて当たるのです。そんなことは決まっているのですよ。ところが「当たらない」。それは、放していないから当たらないに決まっている。もしくは、違うところで放していて、どうして当たりますか。もっと言えばハンカチを持ち上げもしないで録音機に当たらない…。「上げて、そこへ持っていって、そこで放せば、必ず落ちて当たる」のですよ。決まっているのです。 ということは、そうでないということは、どこかしていないのです。お詫びがないのか、喜びがないのか、感謝がないのか。何か足りないのです。私から言えば答えは決まっていますね。勿論大恩師親先生と私は違いますよ。大恩師親先生は1トンの物を持っておられて、私は10キロしか持っていないかも分からない。もしかしたら5キロかも分からない。その大きさは違いますが、全然お徳の大きさが違いますが、それでもその方程式は変えられない。だから私は、信者さんからしたら、時々厳しいことを言うかも分からない。「エエーッこんなにしないといけませんか。そんなに参拝が大事ですか…」。それはなぜか。大恩師親先生がそれで助けていただかれ、そしてそれを私が頂いているからですね。 大恩師親先生は玉水教会初代大先生に「おまえはもう毎日参拝せずとも教会を守れ」と言われても「ハイ」とおっしゃりながら、毎日玉水親教会へ参拝されました。往復で約10キロ程ありますね。しかもご布教当初は2回参拝されていた。凄いですよ。昔、私が若い頃に聞いた話があります。それは、当時の青年会員が数人で、大恩師親先生が玉水教会へ参拝されておられるけれども、あまりにもお帰りが早いからと思って、隠れて後をついて行ったことがあるそうですね。大恩師親先生は下駄ですね。下駄の大恩師親先生に、靴を履いた青年会の人たちが追いつかなかったと…。そして玉水親教会で1時間程ご祈念をされて3時間程で帰ってこられる。そしてまた深夜に二度目の参拝をされて…。「あなた達、少しでも参拝しなさい」と言われる人はあっても、その反対を言われるような人はいますか。そのような信心をしないといかんのですよ。それは凄いですよ。私なんか絶対に及ばないです。私もどちらかというと皆さんと同じ方ですね。足らんと言われている方です。 そして戦争が始まりますと、「人を思うこと歳雄の右に出る者なし」と、玉水教会初代大先生からお言葉を頂かれた。「人を思う」とは、「人を祈る」ということですね。それから数年後に大先生は亡くなられたのです。昭和19年2月1日ですね。 その大恩師親先生に祈られて…。私はまだ泉尾教会で信心させていただいて15年ですという方は、その信心を頂かれた、一乃弟子であられる二代親先生に祈られて、私たちは今日あるのですよ。そうであるのならば、そこさえ分かれば、今日のご大祭は嬉しいですよ…。それが分からないから、あれが問題これが問題、大変になってくる。こちらのお広前には「難あり有り難しと勇めよ」と書いて貼ってありますね。私は「難がない」とは言っていない。常に「難はある」と言っていますね。 それはどうして分かるのか。向かえば向かうほどあるのです。難がないと思う人は、何事にも向かいきっていない証拠ですね。空気でも、私の手はいくら思いっ切り振っても音がしないでしょう。しかしこれがマッハ1というスピードで私がもし手を振れるとしたら、音速を超えたら、そこでボンという音が出るらしいですね。だから戦闘機などがマッハ1を超えた時には、音の壁を超えたときにはボンという音が出る。その時には衝撃波という衝撃が後ろに出るらしいですね。私もそんな速い飛行機に乗ったことがないから知らないですが、空気でさえ音がするのです。 私たちはないでしょう。だから難のない楽な生き方をしているということです。皆でバンと鳴らしてみましょう。それは人の難しさに共に飛び込むということですね。自分の難しさだけでは、音はしないでしょうね。 そしてもう1枚、「立教百六十年 実意丁寧」と書いてあるでしょう。私の話を聞かんでも、あの2枚を拝んで帰ったらよい。そんな感じですね。今年は立教百六十年の年。それは何か。「実意丁寧神信心」。同時にそれは今、前講の木村先生が話されたように、私は今年40年の褒賞を金光様より頂くのですね。そして私は装束を着けさせていただいて今年で57年なのです。そして教師としては40年。ということは、17年間は教師の資格ではなかったのですが、御用はさせてもらっていた。 そしてしかも、お結界にも大学1年生から座らせてもらって、普通は教師にならないと座れない。だからごまめ(※半人前のこと)中のごまめですね。当時はお広前に3つお結界があって、皆さんもうご存知ないかも分かりませんが、私は第三結界に座らせていただいていました。それはなぜかといいますと、大恩師親先生の「人を助ける御用」を拝ませてもらう。私が御取次をするのではなくて、されているお姿を一番近くで見せていただく、拝ませていただくという意味で座らせていただいていましたね。そもそも大恩師親先生と二代親先生はお結界に向かい合って座っておられました(※第一結界、第二結界)。その時代のお広前を知っている人はいますか?…。半分ぐらいですか。お2人が「祈り合い」されながら、お取次をされていました。その後ろに第三結界があって、私がそのお姿を拝ませてもらっていた。だから私のお結界には殆どの人は挨拶の為に進まれるぐらいですね。目の前に大恩師親先生がお座りになっておられるのですから。私なんかごまめもごまめだから…。それでもその時の経験が、どんなに今の私に…。その信者さんを祈られた時の大恩師親先生の姿勢、ご信心…。もうその格好まで覚えていますよ。後ろからですのでお顔は見えませんが、声とご信者さんの方に寄られるお姿は、しっかり覚えていますね。 大恩師親先生は自分のこと以上に人のことをされました。だから私もさせてもらっているのですよ。内容は10分の1、いや100分の1ですよ。しかしそれをしないと泉尾教会ではない。それは皆さんも同じです。忘れてしまわれたかも分かりませんが、思い出してくださいよ。いや自分の親だったかも分からない。親の親だったかも分からない。その方が祈ってくださったおかげ様をもって、今日の自分があるのです。足の痛い人に走れとは言わない。その代わり、しっかりご祈念をさせてもらえば良い。そうでしょう、自分のできることを一所懸命したら良い。私はそう思わせてもらいます。 どうぞひとつそこを頂いてもらって、直ぐに25日が来ますよ。今春も生穂会が泉尾教会の出社で最初のご大祭を頂いたのですね。そして明日が香川会のご大祭。さらに19日には南田原教会…。先ずは3ヵ所の出社のご大祭を頂いて、20日には玉水親教会のご大祭を頂き、4月25日の泉尾教会のご大祭を頂く。分かりますか。これをしっかり頂いてください。特に今年は「大恩師親先生二十年祭」という年ですよ。皆さんは、大阪まで勢を揃えて足を運ぶというおかげを頂かないといけませんね。またそういう元気を頂かないといけませんね。あと138日。お祭詞でもそれを申し上げましたね。そしてそこの中で、決してその日だけ泉尾に参拝したら良いのではないのですから。今度は昨年の11月5日から「300日信行」をさせていただいていますよね。祭詞をよく聞いておられた方は、「大恩師親先生二十年祭」のことを2回お願いさせていただきましたね。一度は300日信行の中身として、もう一度は今日から138日と…。その中身の今日の御祭です。それぞれがそう頂いていただいて、共々におかげを頂いてください。 |