秋の霊大祭でのお言葉
     

副教会長 三宅光雄     05年09月23日

只今は共々に、秋の霊様の大御祭のおかげを蒙らせていただきました。今日の御祭は、親先生が病床からお祈りくだされている大御祭。その親先生のお祈りを頂いて、今日、私が不十分ですが、祭主のおかげを仕えさせていただきました。

18日の晩に、個人遷霊の御用にお使いいただき、今年も数十柱の霊様をお遷(うつ)しさせていただきました。そして19日の晩から20日の朝に掛けて、改式遷霊のおかげを頂きました。終わらせていただいたのは早朝5時を過ぎておりました。その時から、秋の霊様の大御祭が、実は始まっているのですね。

そして昨日は、昭和2年から今年の改式・個人遷霊の霊様まで、何十万、何百万という霊様のお呼び出しをさせていただきました。このように、金光教でも霊大祭の前日に1日掛けてお呼び出しをさせていただく教会は、めずらしいのですよ。泉尾教会でご信心をされている皆さん方は、それが当たり前のように思っておられますが、実は多くのお教会がお呼び出しをされるとしても、今日の御祭に合わせてされるんですね。昨日お呼び出しをさせていただきまして、午前中から始まるんですが、終わらせてもらったのが、午後5時46分でしたね。

その時に、ふうーっと感じた事があります。これは今までは、私は頭では感じておったのですよ。そうだと自分で思っていたんですが、特にそれは、そのお呼び出しをさせていただいた霊様は、実は、皆さん方の横に、共に座っておられると言うことなんです。「えっ、若先生、それはおかしくありませんか」と思われる方がおられるかも分かりませんね。だってそれは、霊様のお祭を、私達が、霊様の方を向いて参拝させてもらう。たしかにその通りなんです。と同時に、その霊様が私達と一緒に祈ってくださっている…。『祈らせていただいている霊様が、同時に、祈ってくださっている』。このことは、今までは頭では分かっていたのですが、本当に実感として分からせてもらったのは、昨日からですね。

もう少し前から言いますと。6年前に先代恩師親先生がお亡くなりになって、私は子供の頃、前のお広前。このお広前ではないですよ。小学校のころのお広前で、先代恩師親先生がおっしゃったことを、本当に覚えています。ご神前の内殿の所に座がございましょう。あそこに先代恩師親先生が座られ、前のお広前ですよ。先代恩師親先生が、「私の横から玉水教会初代大先生が一緒になって拝んでくださっている」。「あんた分かるか…」。その時には、分かるはずないんですけれど、「ハイ」と言わせてもらった。それが、実感として、6年前から少しずつですが、分からせてもらい、つくづく昨日は分からせてもらいました。

霊様が一緒になって拝んでくださっている。私は、今日のお祭はそういうお祭。そして同時に、今日のお祭は霊様に対してのお祭ですが、同時にそれは、信心相続のお祭でもあります。霊様は親先祖だからこっちの方向。そして子供や孫はもっと下の方向と思っておられるかも分かりませんが、私は同じだと思っている。だから霊大祭は、「霊様のお祭」と「信心相続のお祭」と言って良いだろうと、思わせてもらっているのですね。

この2つが、私は今日の御祭の中の、特に自分で感じるところですね。実はこの1カ月位の間に、何度かお広前でお話をさせてもらっております。私共の命は繋がっている。親先祖から、そして私から子孫へ。その中に私共の命があると言うことを。それを実感させていただく御祭。私は今日、そう言う感じがしましたね。

そして今日、皆さん方が帰られるときに、一寸ぶ厚いこの冊子を、今日の御祭のお下がりとして貰っていただきたいのですね。私にはそういう思いは初めには無かったんです。実はここに、大きな物としては、看板としか言いようがないけれども、看板やない、願い。再来年の1月28日。御布教八十年記念大祭へ向けての願い。9月15日に五百日信行をスタートさせてもらった。この日に向かって今日はあと492日と言うことですね。だからその日から8日たっている。今日の御祭はそう言う意味では、五百日信行の一番最初の中身と言うてよい、大きな御祭なのです。そしてその前に、8月に大阪の各地区で、地区集会を開催させていただいた。来年は大阪を始め地方出社各地区。多くの地域で地区大会をさせていただくのですが、その地区集会で、私が話をさせていただいたテープ起こしを、文字にさせてもらった。そうしますと、役員の皆さんからそれを是非読ませていただきたいと言う人が続出しましたので、それなら皆さんに刷ってお渡ししましょうと、印刷をさせていただいたものなのですね。

今、間に合ったのは、まだ3地区分ですが、50頁に及ぶ、『いずみ』の1カ月分位の量ですね。これを刷らせてもらいましたので、今日は皆さんに持って帰っていただきたい。その中で今、読ませてもらう時間があるのかどうか分かりませんが、少し読ませてもらおうと思うのですね。いろんなお話をさせていただいたのですね。多くのご信者さんが、たしか20名程のご信者さんが質問されたことに対しての、私としての思いを述べさせてもらっているんですね。

その中で、たまたまお祭の直前に読ませてもらったところを、少し読ませてもらいますと。先代恩師親先生が戦後直ぐのころに、田舎から参拝されるご信者さんが毎日参拝される。その時に、まげわっぱにおにぎりを入れて、先代恩師親先生に食べていただこうと持参されるのですね。今では何の事はないように思われますが、当時は大変な事だったのですね。白飯、白米って。当時は無かったんですからね。おにぎりを六つ入れて参拝させて、台所へ回って有り難うございますと言われて、昨日の持参された器を持って帰られるんですよね。それでその入れ物は1日置いてある訳ですよね。それで次の日また参拝されたら、有り難うございますと言われる。当時は食糧難の時代ですからね。親先生も、有り難うとおっしゃって、実はご自身では1つも頂かれていなかった。全部ご近所のお年寄りのところに1個ずつ、朝、役員さんに、これ誰々さんの所へ持って行きなさいと渡された。

今だったらどうでしょう。おにぎりひとつぐらいでと、こうなるのですが、当時は無いんですものね。しかも白米って無いんですよ。その時、親先生は田舎から参拝されたご信者さんには「美味しかったよ、有り難う」とおっしゃって器を返しておられたんですね。それを田舎のご信者さんはずーっと知らなかったそうですが、後で役員さんから、あれは親先生から私が届けなさいと言われて、お年寄りの皆さんに配らせていただいて、皆さんに喜ばれていましたと言われたそうです。そしたら、ご近所の人も喜び、親先生も喜ばれ、その田舎の人も喜んでおられるという、そういう3人が3人ともお礼の申せるという、嬉しいというような世界が有るんですよ。というお話をさせてもらって…。おにぎりの話をね。

自分の物を人に貰ってもらってお礼の申せるというのが、「泉尾教会の信心」なんです。金光教の信心。特に泉尾教会の信心。全部そうなんですよ。なぜ金光教泉尾教会が、先代恩師親先生が世界平和活動の先駆者なのか。一教会が、教団でもできないような仕事をさせてもらってですね、今の会堂ではないのですよ。前の会堂。私の生まれたころですから、50年ほど前の御神願外遊。そのご外遊の前の、お広前ご造営のときには、お広前の裏側の瓦が2カ月ほど無かったんですね。赤い瓦だったんです。その裏側。なぜかと言うと、当時お金を借りて、借金をして会堂広前を建てておられたのです。

その時に、同志社大学の牧野虎次総長から紹介されて、ボストンのキリスト教の教会の責任者が来られて、たしかシーベリー女史。「自分の教会を建てているから」と先代恩師親先生に話をされたそうですね。すると先代恩師親先生は、「そうですか、では寄付をさせてください」と言われて、寄付をされたそうです。それが実は会堂広前建設のためのお金だったんですね。それをまたシーベリー女史がお礼状を、アメリカから同志社大学の牧野虎次先生に出されて、実はそれは、三宅先生の教会も建設中やと、しかも借金をされて…。そのお金をあなたの町の教会の建設費用に回してくださったんだということを手紙に書かれたのですね。それをまたその方が、教会のミサの時にお話しされた。その後に、先代恩師親先生がご外遊をされてボストンに立ち寄られたんですね。当時は大変だったそうですよね。闇ドル。持って行っては駄目なお金。今なら有り得ない事ですけれども、人権差別。列にずーっと並んでいるでしょう。すると後からアメリカ人が来ても、お前は敗戦国の人間だから後ろに回れと言って、また並び直しをさせられるくらいの差別があったと聞いていますね。そのころまで、まだGHQが日本に居ましたからね。

そんな時代にボストンに行かれた時に、空港に飛行機が着いた。飛行機の廻りに先代恩師親先生を迎えるボストンの市民たちが、当時は今より小さな町ですよね、その町中の教会のご信者さんたちが集まって、先代恩師親先生をお迎えされたという。だから、その元は何かというと、自分の教会を建てようと思って、人からお金を借りていたのに、そのお金を人にどうぞとあげて、有り難うと言える、その信心。これはごく一例ですけれども。その人たちが、そのことを知らなきゃ知らないままなんです。たまたま手紙を書いたから、これはこうだという事が分かって、たまたまそれが先代恩師親先生がボストンに行かれる事があって、そういう事になって、日本に三宅さんという人が居てるという事が、アメリカの宗教指導者達に知られ、それが結局、WCRP設立に繋がるんですね。日本に行くなら三宅さんに相談したい、ということで、WCRPという組織ができてくる。その最初は何かというと、自分の物を貰ってもらうというところから始まる。自分の物を貰ってもらわずには、何にもできないのです。

まぁ前後があるので、ここだけでは、分かりにくいでしょうが、たまたま先程読ませていただいていた。どうでしょう。私の物を貰ってもらって有難うと言えるでしょうか。それこそが、先代恩師親先生のご信心ですね。それを一番頂いているのが私なのです。一番頂いている。勿体ないですね。なのに、本当に頂いている私が有難うと申せないといかんのに、先代恩師親先生に有難うと言ってもらっている。勿体ない上に申し訳ない。私も少しでもそのお姿を拝ませていただいて、人様に喜んでいただいて、さらに有難うと私が申せる人に成りたい。この時もそう思って、このお話を…。今のところはまぁ2頁くらいですからね。全部で50頁あるんですね。皆さん今日はこの冊子を頂いて帰ってもらって、どうぞひとつしっかりと中身を頂いてもらって、この上にありますね。決して看板じゃない。形は看板ですよ。形は看板ですけれども、願いなんです。「燃える命で」。燃えなければいけない。命でなければいけない。一歩も譲らぬ。それは人を助けることなんです。私共が助けさせてください。人のお役に立たせてくださいと、願うことなのですね。それが私共の御用でもあり、霊様が一番喜んでくださるお姿ではないでしょうか。どうぞ、お一人お一人がしっかり頂いてください。

500日。もうすでに8日たっている。8日を積み上げさせてもらえたのか。本当だったら1日目、2日目、3日目といかないかんのですよ。それを分かり易いように、500日、499日、498日と減らしていますが、本当は毎日積み上げてゆく。積み上がったものが御布教記念大祭でなければ、ただその日が来ただけになってしまいますね。

お一人お一人が世のお役に立つ。どうしたら神様、霊様に喜んでいただけるのか、私は神様も霊様も親先祖も、みんな同じだと思っているのですよ。その神様・霊様が、実は、私の側に立って祈ってくださっている。そのお姿を拝ませてもらった時に、これで良いのか。と、思わせてもらう次第ですね。お一人お一人がしっかり神様・霊様に向かわれて、共々におかげを蒙っていただけますよう、お願い申しておきます。有り難うございました。