月曜教話 52
     

副教会長 三宅光雄     05年10月20日

おはようございます。本日は本当にお天気のおかげを蒙りまして、大阪だけでなく近畿圏は昨日の夜の天気予報を見ておりますと全て晴れ、有り難い事ですね。なぜ若先生、お天気の話をされるのかなあと思っておられるか分かりませんが、今日は玉水親教会のご大祭ですね。玉水親教会のご大祭の日にお天気のおかげを頂かれる。これ以上有り難いことはない。先代恩師親先生は私の子供のころから、先代恩師親先生のご晩年のころまで、私は、小学4年生から早朝四時のお出ましのお供のおかげを頂いておりましたから、その度ごとに4月の20日、10月の20日は、お天気のおかげを頂いて有り難いと、朝のお出ましの時におっしゃいましたね。「今日はお天気を頂けて良かった」。それはもう並々ならぬ先代恩師親先生の御祈念。それを感じさしてもらいましたね。「私には何もさせてもらう事ができん」とおっしゃっておられた。決してそんな事はないのですよ。先代恩師親先生は、本当に玉水親教会の御用を一番に思ってお仕えされていました。でも、私にはそうおっしゃった。「何もさせてもらうことができんので、お天気のお願いをさせてもらうことしかないんだ」と、ご晩年はよくおっしゃってました。そうですね、特に今から15年から20年程前には、よくそうおっしゃいましたね。「お天気のお願いを申し上げて、仮に泉尾のご大祭が雨になっても、玉水親教会はお天気。このお願いだけはしっかりさせてもらわないかんのやで」と、そうおっしゃっておられました。15年程前にはよく聞かせてもらいました。今、先代恩師親先生亡くなって6年。ご存命でしたら102才ですから20年から15年前というと80歳代ですね。ご晩年と言えばご晩年ですね。その頃よくそういうように聞かせてもらいましたね。ですから今日のお天気に、本当に神様にお礼申さないかん。そう思わせていただく次第であります。と同時に、そのお徳を頂いて、25日の泉尾のご大祭にもお天気のお願いをさせてもらわないかんということですね。

御布教八十年記念大祭に向けての五百日信行が、9月15日から始まり、毎朝の勢参拝で、ご信者の代表の方が決意の感話をされる。今日は、465日前という事ですから、今日で35名の方が前に出られて、神様にお礼申され、ご自身の決意を表明された。私はそのうち何人かの方は直接聞かせてもらえませんでしたが、その方の原稿を読ませていただいて、だから全員の方の決意表明を聞かせていただいた。今回、80人の方が御布教八十年記念大祭に向かって、決意表明をされるということですから、その方々の決意がおかげになりますようにとお願いするのが私の御用です。一人一人の方を祈らせてもらう。

今日の方は、「人を助けよ 燃える命で」と、9月15日から五百日信行の、私共の信心の指針としてさせていただいているこの願い。そして、今日からあと何日という日めくりのところに、「師願継承 難しさこそおかげの芽なり」と書かせていただいた。この事に触れてお話をされておりましたが、人を助けよということをお道引きとおっしゃった。私共は本当に人様のことを祈って、人様のことを自分のこととしてお願いできているのか。もう一度あらためて頂き直して、5日後のご大祭を頂かないといかん。私は何事に於いても全ての方が、全ての方ですよ、自分はその場にありませんとか、言い訳を言うのではなく、全ての方が、男でも女でも、若うても年輩でも、遠くても近くても、関係ない。それを言い訳にしたらいかん。全ての方が責任を持つということが大事だと思っている。責任を持つ。その責任の大きさは、一人一人違いますよ。責任とは、自分の器の大きさですから。少しでも器を大きく、責任を多く持たせてもらう。持たせてもらえるようになるのが、信心が進むということなんです。けれどもそれぞれの人によって、その器の大きさは、百人おれば百違う訳ですから、その器を少しでも大きくさせてもらおうというのが信心。信心成長ということですから、その為には責任を持つというこなんです。このことに関しては、自分が責任を持つということなんです。責任を持つというのは自分に言い訳せんということです。言い訳をすればいくらでも逃れることはできる。責任を持たなければ決して成長しない。それは、どんなことでもいいんですよ。本当にどんなことでもいいんです。このことをさせてもらいましょう。自分自身でまずそれを決める。このことをさせてもらう。それがずうっと積み上がってきますと、あの人がおらないとできませんと言うてもらえるような、自分の中身にならないかん。私はそう思わせてもらうんですね。どうでしょう、自分で責任を持っておるでしょうか。
だからお道引きとは、私は30人の方を願わせてもらってますという責任を持たないかん。責任を持つというのは、その人に成り代わって、その人と同じく喜び、お礼、お詫びが、共にできるということですよ、どうですか。そういう向かい方をしないといけませんね。そういう向かい方をさせてもらわないかん。一人一人ありますよ。例えば主婦、家事。この家の事に関しては私が責任を持たせてもらう。そういうような向かい方をしないといかん。

今日は神様が、「責任を持つ」と「お任せ」というお言葉をくださった。これはどちらにも言えることですが、100パーセントでなければいけないんです。お任せ、これも実はそうなんですよ。責任を持つということはお任せできるということなんです。お任せをしなければいけない。お任せするということは努力をするということなんです。お任せしているのだから、任せてるのだから、もう自分はほうっていてもいい。全く違うんです。正反対。お任せということは努力をするということなんです。責任を持つ。何でもそうですよ。例えば責任を持っていることがここに有るとしますね。実は自分がお任せができなければ、これがストレスになりますよ。負担になる。どうしよう、ああしよう、どうしよう、ああしよう。それはお任せができないからです。責任を持ってお任せするということです。そしていつも申しますように、もし責任を持つということが、自分にとって大変やと思って向かっておられるなら、さらにもう2つ、もう3つ、4つと、だんだんだんだんと自分は重たいと思っておられるかも分かりませんが、それは勘違いです。思い違いです。その責任を持たせてもらったことが実は、私を引き上げてくださってるんですよ。このことだけはしっかり頂いて欲しい。自分が大変や難しい。もう極端なこというたら逃げ出してしまいたいと思っておる。しかし実はそのことが、自分を引き上げてくださっている。だからそこから感謝が生まれてくる。人を祈って人のお役に立てば、信心でなければ、世間ではお礼を申していただく。でも信心は違うんです。信心はそこからそのことに感謝する。なぜ感謝か。それは今申しましたとおり、実はそのことが私を成長させてくださっている。もっと言えば、私を私たらしめてくださっている。このことは、決してただのお話と思って聞いてもらってはいかんのですよ。参拝されてるお一人お一人が、自分の、昨日のこと、この1カ月のこと、半年のこととして、もう一度自分に戻してみてください。ああこの事を若先生はおっしゃっている。お一人お一人にある。今日こうして、皆さんのお顔を見せてもらっていると、お一人お一人にありますよ、その事が。この事をおっしゃってる。それが実は私を引き上げてくださってる。そこから逃げたらいかんのです。責任が重い。違うんですよ。自分が言い訳してるだけです。どうぞ神様、向かわせてくださいと願い切ってください。ただし自分の思いどおりになると思ってもらっては困りますよ。自分の思いどおりに成らん。始めから申しておきます。神様の思し召しどおりには成ります。またそうあるべきです。その神様の思し召しが私の思いと成らせてもらう。それが信心なんです。

玉水親教会の初代大先生がおっしゃった。「今は、願いどおり、思いどおりのおかげが頂けます」。信心したら願ったとおり、また思ったとおりのおかげが頂けるのか。それは違うんですよ。ここで抜けてる言葉がある。今では、「神様の」思われるとおり、「神様の」願われてるとおりのおかげが頂けております。有難うございます。常に神様ということが主にあるんですよ。そのことを頂かれ実践されたのが先代恩師親先生。その先代恩師親先生が、「御神願」とおっしゃった。神様の願い、その願いに添わせてもらえる自分に成らせてもらう。

先日、4日前ですが16日、四国の香川会の50年の吉祥のご大祭へ参拝させてもらった。私はそこでお話をさせてもらったのですが、それは50年の吉祥のお話として何を話させてもらおうかと思った時、一番信心の基本の基本のお話。私にとってですよ、これこそ信心、そう思わせてもらって、「御神願」というお話をさせてもらった。そのお話を今日する時間は有りませんが、それは、玉水教会の初代教会長がおっしゃった「神様の」ということです。それは「御神願」であり、神様の願い。その願いが私の願いに成らせてもらえるように、助かってくれよと神様がおっしゃっている願いが私の願いに成り、私が実践できるようになる為には、物事全ての事に対して責任を持つということです。逃げてはいかん、責任を持つということです。

自分のできる責任というのは必ず有るんです。自分の前に必ず有る。そしてその為には全てにお任せをするということです。ああもう私は定年になりました。もう楽隠居です。とんでもない。それは勝手に自分が決めてるだけ。命に定年は無いんですよ。さらに自分の命が終わったからそれで終わりかと言うたら、違うんです。自分の命が子供に孫に、そのまた子供に受け継がれていかないといかん。命は繋がっています。そうです。だけどその中身こそが繋がっていかないといかん。私は若い頃に先代恩師親先生に、若年寄に成ってはいかんと言われました。

また逆に、先代恩師親先生は80歳代の時でも90歳になられてもおっしゃったですね。「青年教会長」と。それは道を求めるのか、道に慣れてしまうのか。求め続ける者が青年ですよ。これに定年退職も何もないんです。楽隠居も何もない。自分で勝手に、もう私60歳やから、もう私は80歳やから、もう私は遠いから、もう私は男やから女やから、もう私は足が痛いから、全部自分で勝手に言い訳を作ってしまう。命に言い訳はないんですよ。しかもその命が繋がっていかないといかん。繋がる為には願い込めないといかん。そのお礼とお詫び。さらにそこからまた喜ばせてもらう、それがご大祭なんです。私はそう思わせてもらいますね。

「人を助けよ 燃える命で」と、五百日間の私共の信心の指針、願いを定めさせてもらった。その為には、責任を持って、しかもお任せしきった生き方をさせてもらわないといかん。さらに最初の五十日間の私共の願い、五百日の中の五十日間の願いが「師願継承 難しさこそおかげの芽なり」と頂かせてもらった。難しさから逃げたらいかんのですよ。ここにこそ私共の助かりがあるのです。

人を祈っておるとこう申しますが、実は祈らせてもらうことで私が助かっていっているんです。人も助かり、私も助かる。その信心をさせてもらうことが私共の信心でなければいけない。もう一度申します。若先生がお話をされた、そんな思いで私の話を聞いていただいたらいかん。私にだけ頂いたお話と、皆さんお一人お一人が頂いて欲しい。そして全て自分のところに、手元に引き戻して、自分の信心の中身と頂いていただきたい。私はそう思わせていただきますね。

もう5日でご大祭。今日は玉水親教会のご大祭。お天気のお繰り合わせを頂いたことが、本当に神様にお礼申し、先代恩師親先生の神霊様にお礼申し、また病院から祈ってくださっている親先生にお礼申して、5日後のご大祭にも、私共がお天気も、気持ちも晴れ晴れとおかげを頂かないといかん。その為には今から5日間、先程から私が申し上げておるように、責任を持って、お任せの信心をさせてもらって、しっかりとおかげを蒙らせてただきたいと、こう思わせてもらいます。どうぞ全てにお繰り合わせを頂かれまして、お守りを頂かれまして、それぞれにおかげを蒙られますように、お願い申しておきます。有難うございました。