三代親先生ご教話

御布教八十年記念大祭250日前 早朝教話
 

教会長 三宅光雄  06年5月23日
             
おはようございます。5月23日、今日は御布教八十年記念大祭まで後250日という吉祥の日を頂きました。今日のこの日。まずこの500日前からの250日前の今日までに、どれほど感謝をさせてもらうか。どれほど不十分のお詫びをさせてもらえるのか。この事からこの250日を頂かないといけませんね。

251日前と250日前がこれだけ違うのかと、私自身が今、感じています。勿論251日も250日も大切な1日であり、他の日も同様に、しっかりと神様に向かわせてもらいましたが、吉祥という意味での250日前。それぞれ今日ご参拝になっている皆さんも、この間だけの、250日間を区切っても、大変なおかげの中に居られる。それを大変と頂けているのか、そうでないのか、まったく分からないのかは、その人のご信心次第と言えますが、私から言いますと、今日それぞれの方のお顔を見させてもらって、大変な250日間の中で、一生と同じだけのおかげを頂いておられる。いや、「私はこの250日間は、私の中で一番苦しい250日でした。こんな事になるなら、今までの10年間の努力は何のためにしたのでしょう・・・・・・」。違うのですよ。「10年間努力をして250日間の中でこんなにおかげを頂き有難うございました」。それも本当から言うと違う。実はそれだけのお礼ではないのですね・・・・・・。

大変な250日間を頂いているのですが、その喜びはどうでしょうか。そして不十分のお詫びも不十分。ここですよ。ここ(胸に手を置かれて)。どのようにして神様に向かい・・・・・・。ですからね、今日からは「辛道(しんどう)」に続いて「光輪(こうりん)」という字を書かせていただきました。

光輪・・・・・・。皆さんには御布教八十年記念大祭のポスターを、それぞれの家でも目に付くところに貼ってくださるようにお願いをしていますね。金光教のご紋は八波(やつなみ)に丸に金ですね。今風に言いますとロゴマークですか。これは金光様の家紋でもあられると同時に、金光教の象徴でもありますね。ご無礼な言い方ですが、今風にもし言うならばロゴマークであり、登録商標ですかね。江戸時代末期に、金光教の教えが世界中に拡がるようにと、教祖様は「万国を・・・・・・」とおっしゃっておられますね。

江戸時代に、日本の一部の地域しか知られなかった教祖様がですよ、世界を照らすとおっしゃった。勿論、海外に多くの国が在ることは分かっておられたでしょうね。丁度ペリーが黒船で来たときですからね。アメリカもロシアもヨーロッパ諸国も中国も知っておられたと思いますが、果たしてアフリカの国々や南米の国々やオーストラリアとかは、一般的には知られていなかった時に、万国までも照らすとおっしゃった。ですから、そのことを私は100年経って現してくださったのが大恩師様だと話したのですね。
大恩師親先生は、その神様の願い、「御神願」そのものが信心の中心と、助かりと頂かれて、しかもそれを世界中に向かって表された。だからあの御布教八十年記念大祭のポスターにもありますように、最初は金光教のご紋ですよね、いわゆるロゴマーク。そこがブワーっと拡がっているイメージ。それを8つの輪で、最初は八波のイメージが、だんだん丸になって拡がって行っていますね。これが世界に拡がるという意味なんです。真円(しんえん)になっている。それを私は、ご布教八十年に私共が表す信心だと思う。
だから自分の助かりだけではいけないのです。自分の助かりだけでは駄目なのです。ですから光輪(こうりん)の脇に「よろこび感謝 ひびきあい」と書かせてもらった。この「よろこび感謝 ひびきあい」こそ大事なんです。拡がる、それは最初の光輪という字で表していますが、その次に響くという言葉。「ひびきあい」と書いている。ひびきあいですから、お互いにという事なんです。だから私たち一人一人が大恩師様の、二代親先生のご信心を現す出社(でやしろ)とならなければいけないのです。そういう資格が私にあるのか、という事ですよ。私共の日々の全ての、24時間ですよ、24時間の有り様が、大恩師様のご信心とピタッと一致していかなければならない。教会へ参拝している時だけ一致するとか、自分の調子の良い時は一致しているとか、でもそれ以外は・・・・・・。それでは駄目なのです。しっかりと神様と向かわなければいけないのですね。
もう一つ、特に最近申して来た事は、「中だるみ」。端と端を500日前という点と当日という点をピンと張って、どんなに引っ張っても一番弛んでいる場所は真ん中が弛んでいるのです。だからこそ、その真ん中に一番注意をしなければならない。もしもう1本柱を立てるのであれば真ん中ですね。そして1本でも多く柱を立てれば、弛みが少しでもなくなっていくでしょう。20メートルのロープを張っていくら張っても弛んでいる。次に弛まない様にするには真ん中の10メートルの所に柱を立てるのです。その次はまた5メートルの所に立って行く訳でしょう。だから放っておくと一番弛みやすいのは真ん中なんです。という事は今日。しかし本当はそうであってはいけないのですね。一番充実して来なければならない。それが今日。だから251日と250日は、こんなに重みが違うのか・・・・・・。今日になって私自身が感じております。そのことを私の身心に教えてくださったのですね。

神様に向かう事が信心です。頑張ってはいるけれども、何処かあっちを向いてしまって、神様の側は通っているのですけれども・・・・・・それではいけない。もしくは神様の横を・・・・・・それでもいけない。神様の反対・・・・・・それも勿論いけない。もう正面からピタッと神様に合わせてもらう。その為には自分の生き方に、ごまかしや、言い訳をしたり、逃げてはいけないのです。ごまかしや言い訳や逃げをしたら、いくらでもそれこそごまかせるのです。いくらでもごまかせる。言い訳できる。しかしその事を他人(ひと)も皆分かっているのですよ。そしてこの人はそれだけの人か、あぁごまかしているな、あぁ逃げましたね、あぁ言い訳してるね。他人様(ひとさま)でさえ分かるのに、神様は分かっておられて当たり前です。決して逃げてはいけないのです。決してごまかしてはいけないのです。決して言い訳してはいけないのです。

お詫びをしなければならない、そして私はいつも申すのは、お詫びとは何かと言うと、それはすみませんだけでは足りないのですね。次には同じ事はしません。次にはそこを越えさせてもらいますという誓いがなければお詫びではないのです。すみませんでした。また同じ事を繰り返して、またすみませんでした・・・・・・。もうあなた5年前から同じ事を言うてますよ、同じ事を同じ様に言うてますよ。忘れました、聞いてません、そうでしたか、とぼける。そんな事でどうなるのでしょう。次からきちんとしなさいで終わってしまう。そうでは無いのですね。「すみません」とは「すましません」でなければならないのですね。いくら嘘を言っても神様は見ておられますよ。もしそれがごまかせたとしても、もし逃げれたとしても、もしそれが言い訳が通ったとしても、最低限、神様は見ておられるし、実は教えの師匠(ししょう)は分かっておられるでしょうね。上の立場に立って見てくださっている人は、親は分かっているでしょうね。霊様はご存知でしょうね。そこのところがどうなのか・・・・・・。

先日、富山県の高岡(たかおか)教会へ参拝させていただきました。帰りに滋賀県の高島(たかしま)へ、大奥様のお里の北村さんのお宅に行かせてもらいまして、祖父母を始め親先祖の霊様のお墓参りをさせてもらいました。その途中にですね、最近は車窓から必ず風景を見るのですよ。特に田圃(たんぼ)ですよね。ちょうど今津(いまづ)というところへ向かっている手前くらいに石垣を組んだ田圃があるのですね。棚田(たなだ)まではいきませんが、ある程度斜面を利用してますから、普通はそんなに丁寧に石垣まで組んだ田なんてなくて、ただの土手になっているところが多いですね。石垣の技術が有る村なのか、きっと何かあるのでしょうね。ずーっと数分間続きましたね。私はじっと電車の中から見ていたのですね。段がある田は全てその斜面が石垣になっているのですね。その中の1つの田だけが休耕田になってしまっている。あれ嫌なものですね。田圃(たんぼ)があって何枚かに1枚かが荒れているのは寂しいですね・・・・・・。

休耕田になってしまっているせいでもあるのでしょうね、そこの石垣が崩れているのです。あーっと思いました。石垣が崩れたから休耕田にしたのか、休耕田にして、誰も手を入れなくなったから石垣が崩れたのか分かりませんがね、やはり基礎が大事だなと思いましたね。基礎がしっかりしていると強いですし綺麗ですね。石垣もそんな飾りの石垣では無いのですよ、田圃(たんぼ)ですからね。けれども丁寧に積み上げられている。それはお城だとかお寺の様な立派な石垣ではないのですよ。石も小さな石ですね。でもきっと、見えませんでしたが。基礎はしっかりしているのでしょうね。その基礎とは、信心の基礎とは何なのか。喜び感謝なのですね。

神様に喜び感謝で向かうのですね。そしてしてはいけないのは、逃げであり、言い訳であり、ごまかしですね。まず今日一日、言い訳をしない。ごまかしをしない。逃げませんと、まず神様にお願いをしなければならない。でも、したくなるのですよ。だってこんなにしているのだもの・・・・・・。私ばっかりしているのだから・・・・・・。他人(ひと)はこんなにはしていない…。こうなる。違う。私は他人(ひと)の何倍ものおかげを頂いているのですよ。そこの大きさが分からないのですね。責任が分からないのですね。それだけおかげを頂いていて、それだけ守られている。

今までの250日間を振り返っただけでも大変な事ですよ。私自身がですよ。だから私自身が言い訳をしている。私自身が逃げているのです。それを今日はしない。それを250日積み上げましたら、その石垣は、その願い立ては、それは大変なものが積み上がりますよ。その上にそれぞれが立っているのですよ。そこを厳しくきつくしなければならないのですね。それなのに、上の分だけ綺麗に見せて、下はがたがた。一番極端な例が、今の問題になっている、コンクリートの中は見せませんから、鉄筋を入れていませんでしたという偽装ですね。しかし同じ事を私たちがしているのではないでしょうか。

その事を、もう50年ももっと前に、大恩師様はこうおっしゃったのですね。それが本に載っている。戦後初めての宗教学の権威であられた東大の岸本英夫先生のご本に、金光教泉尾教会教会長の三宅歳雄師は「私こそおかげの横領者(おうりょうしゃ)だ」とおっしゃったと書かれていますね…。横領って分かりますか。取っているだけということですね。普通、物を買うとお金を払えば、これは売買ですね。横領というのは取るだけ。神様からおかげを貰いっぱなしで、お返しをしていません。大恩師様は、私こそおかげの横領者だとおっしゃった。それを分かるまでには、全てを神様に向かわせていただかないと分かりませんね。そうでないと、私こそ頑張っていると思っているのですから。生活の中心が神様に無いのですから。軸足が神様に置けてないのですから。軸足を神様に置いて自分の命を頂いているのなら、それは少しずつ分かってくるのですけれども、すべて言い訳になりますね。

私はそういう250日前という重みはね、252日でも251日でもないですね。大変な重みですね。同時に、大変な重みイコールおかげですね。私はそう思わせてもらいます。今日お話しされた方の感話は素晴らしかった。私自身がその通りだと教えてもらいました。同時に喜び感謝が持てるのか。どれだけ向かい合えるのか。そして響き合えるのか。そして言い訳をしないのか。私はその事を思わせてもらいますね。どうぞ皆さん、それぞれにおかげを蒙られますように。有難うございました。