★★ 教会長三宅歳雄 教話集 ★★



大恩師親先生教話選集『神が世に出た』より

『平和遊びではいかぬ』

三宅歳雄

平和を祈り、平和を求めて、私は神様の召人(めしうど)として、いつでも、どこへでも、神様のお仰せのままに、この身を使うていただき、御用に立たせていただいている。

皆、それぞれ口先では「平和、平和」と唱えている。運動もしている。しかし、本気で平和を求めているのだろうか? 求めていないのではないか。平和のために、苦労を喜び、勇み、根気強く、自ら犠牲を払いつつ、嶮しい坂道を歩み続ける人は少ない。

いろいろな国際会議に出ても、ただ、出席しているだけの人が多い。

ひとり勝手なことを言い、無責任な発言をする人が多い。こんな人が何人いようが、どんなに会議で良いことを言っても、それだけではどうにもならない。そして、会議の最後に『宣言』や『決議』の作文で終わってしまう。

話をしたい人の発言や賢ぶった人の発言には、飽き飽きさせられる。学者の創る名文にもうんざりとさせられる。

本当に実践に繋がる爽やかな発言者は少ない。(決定事項を)すぐに行動に移す会議も少ない。他者に求め、他者に責任を転嫁させる。宗教者の会議でも、そんな会議の多いことに驚く。

そんなことでは、せっかくの平和会議も平和遊びになると言いたい。

そんな人々は平和をダシにしている。平和を食いものにしてしまっている。そんなことに終始している平和運動家が多い。

そんなことでは、平和は来るはずがない。平和は逆に遠のいていく…。

平和への実践者が欲しい。平和を真(しん)に求め、そのために泥んこになれる人、捨て身の人が欲しい。肝心の宗教者ですら、宗教の一番の役割、使命である「人間の救い、人類への救済」を忘れてしまっている。自分の教団の誇示しか知らないところが多い。

世界は、人類は、この先、どのような道を行こうとするのか? 宗教者こそは、人間の助かりに責任がある。人類の幸せに奉仕せねばならぬ。そのために、どうしても、人と人との争い、戦争への危機の防止をせねばならぬ。

東西の核の対立の危機…。

スポーツの世界、オリンピックにまでイデオロギーが入り込む。

「若人の祭典」といわれ、「平和のシンボル」とされる、この世紀のオリンピックを、それらがボイコット(註:1980年のモスクワ五輪のとき、ソ連軍のアフガニスタン侵攻に抗議してアメリカをはじめとする西側諸国がボイコットしたことへの報復として、この年に開催されたロサンゼルス五輪にソ連をはじめ東欧諸国が参加しなかったこと)させる。淋しい限りである。

世界の各地で局地戦争は絶えない。

そんな戦禍からの難民の数がいよいよ増加してくる。20世紀は「祖国を失った難民の世紀」とさえ言われていることをどうするのか? その他にも、戦争はなくとも飢餓に苦しむ途上国の悲しい現実。

このまま放置はできない。外ばかりではない、国の内をみても問題は山積している。

宗教者として、人間の助かり、人類の救いへの行願をなさねばならぬ。平和達成のため、どんな犠牲でも喜んで払わねばならぬ。それには、人類の歴史的課題への挑戦が要る。祈りが要る。祈り合いが要る。人間業(わざ)では、どうにもならないかもしれぬが、そこに、神様のお働きが現れる。

偉大なる御神願のお働きにお使いいただく宗教者の働きもまた偉大である。何百年も昔の宗祖、教祖のお言葉だけを覚え、それを語るだけでは、真(しん)に世助け人助けの働きにはならぬ。昔とは、問題の構造的複雑さも状況も全然違うからである。

教祖様のご信心を、めいめいの生きる現場の芯に頂き、信心の努力を続ける…。人を思い、人を祈り、行願を積み重ねる…。そこに神様のお働き、教祖様のご神徳を拝ませていただける…。すべてがおかげになる。すべてにお恵みが頂ける。教祖様も喜んでくださる…。

平和への道は、御神願を頂き、一心に祈りつつ、限りなき犠牲を喜び、忍耐と根気をもって歩み続けることが要る。

利己心を捨て、我欲を離し、愛をもって他を祈り、他を生かす―人よ幸いであれ―の祈りの実践者の道を歩む。その道一途の中に、世界平和への光明が輝くものと信じている。その結果として、世助け人助けの道がだんだんと拓(ひら)けて来る。

泉尾教会は57年間、その生き方をし続けてきている。

現代は地球的規模での未曾有の環境の危機…。人類滅亡の警告の鐘が鳴っている。その神様の祈り叫ばれてあるところを聞き、一新再生、ここから、真(まこと)、真実に、一心の信心をいたしましょう。

そして、ちょっとでも世界の平和のためにお役に立ちましょう。そのための祈りと働きをいたしましょう。


(昭和五十九年八月 ある日の教話)

戻る