教皇主催「アッシジの祈り」に参列

2011年10月26日〜30日
金光教泉尾教会 総長
三宅善信

 10月26日から30日までの日程でイタリアを訪問し、ローマ教皇ベネディクト16世主催のアッシジの祈り『真実と平和への巡礼』に参列した。この祈りの集会は、1986年、時の教皇ヨハネ・パウロ2世の提唱で、世界の宗教指導者を招いて開催された「アッシジの祈り」の25周年として開催されたもので、世界各国から二百数十名が集った。

▼6週間ぶりのローマ

秋の大祭の翌26日の朝、関空を発つルフトハンザ便でフランクフルト経由、ローマへと向かった。震災の影響に加えて出口の見えない経済不況が続く日本にもかかわらず、円高の影響か、ここ2、3年は、海外へ行く飛行機はどの便も旅行客で満席であることがどうにも理解できないが、今回もそうであった。加えて、フランクフルトからローマへの便も、石川県民の研修視察旅行とかで、欧州内の国際線にもかかわらず、乗客の4分の3は日本人という有り様…。おそらく「ローマは初めて」というより、「海外旅行は初めて」という出で立ちの方々のワクワク感と、この団体を引率している某大手旅行代理店のスタッフの明らかな手抜き具合を気にしつつ、この日の夕刻、私自身は6週間ぶりのローマ・フィウミチーノ空港へと降り立った。

今回の訪羅は、バチカン当局からの招待によるものなので、空港には「Assisi 2011」と書かれたプレートを持った係員が待っており、同じ時間帯の便でフィウミチーノ空港に到着したオランダやパレスチナからの代表者と共に宿泊先であるブラックホテルへと案内された。わずか6週間前の9月中旬に親先生とご一緒した時は、サンピエトロ大聖堂のすぐそばにある大変便利なホテルを取ったが、今回、バチカン当局がわれわれに用意してくれたホテルは、どれもみな都心から数キロ離れた高速道路のインターチェンジ脇の、周囲にはレストランや商店すら全くない、車がなければ自力ではどうすることもできない場所にあるホテルであったが、主催者側からすれば、それぞれが勝手に出歩けないので、参加者の管理がし易い施設であるとも言える。事実、2日間に及ぶ行事は、行きも帰りも皆、これらのホテルから観光バスに乗って、イタリア国家警察のパトカーあるいは白バイの先導で目的地まで直行するのである。さもなくば、交通渋滞の激しいローマ市内を車で移動していたのでは、どれだけ時間がかかるか判らない。主催者はよく考えたものである。

ホテルのロビーには、本プログラムのロジスティクス担当者がデスクを用意して、登録業務や当行事の資料配付や参加者からの質問に答えていた。私がホテルにチェックインしたのは午後8時を過ぎていたが、他にどのような人が招待されているかを確認するため、荷物を部屋に放り込んだらすぐにレストランに顔を出した。さすがに、バチカンだけあって実に多方面から私の知らない顔がたくさん来ていたが、そんな中で、すぐにベクタシ教団(註:イスラム教シーア派の一派で、オスマントルコ帝国時代に発展したが、トルコ共和国時代には政権から弾圧され、バルカン半島の諸共産主義国家からも弾圧された)の最高位であるババ・ブラヒマイ・エドモンド師が声をかけてこられた。師とは、昨年5月にマケドニアのオフリドで開催された同国政府主催の国際会議の際に面識を得、マケドニアでは少数派であるアルバニア系住民の宗教指導者と認識しており、9月にインドで開催された宗教的少数派の人権擁護を旨とするIARF(国際自由宗教連盟)の第33回世界大会に招待した経緯がある。師は、そのことへの礼を言われると共に、このたび、世界各地に点在するベクタシ教徒を統べる最高位に就任したという報告も受けた。

▼アッシジへの長い道程

翌27日は、早朝7時にバスが迎えに来た。ローマの北方120キロほど離れたイタリア中部の都市アッシジで開催される祈りの集会に参加するため、イタリア国鉄(註:厳密には、持ち株会社となった旧イタリア国鉄の車両と人員をすべて引き継いだトレニタリア社だが、「実態」はほとんど変わっていないため、一般イタリア人同様、イタリア国鉄と呼ぶ)が用意した特別“お召し”列車に乗るためである。厳重なセキュリティ検査を簡略化するためにも、たとえバチカンの近くに個人でホテルを取っていたとしても、皆、指定のバスに乗ってバチカン入りすることになっている。

私は6時半には装束を着けて、ホテルのロビーで待機していた。この日の晩の9時頃にホテルに戻るまで、約15時間も装束を着用したままになるのは、もちろん、私自身経験したことのない長さである。トイレのことも心配になる。しかも、日本を出発する前日は秋のご大祭で終日慌ただしく、25日の晩は徹夜で原稿を書いて関空の郵便局から投函。また、機内でもローマのホテルへ着いてからも、ほぼぶっ通しで原稿の校正作業をしていたので、まる3日間ほとんど寝ていない……。私の宿泊したブラックホテルには、どういう訳か日本人宿泊客は、私と鳩山由紀夫元首相の夫人の鳩山幸女史だけであった。

バチカン市国は、わずか約700メートル四方(13万坪)とはいえ、世界最小の「国家」である。イタリア各地に中世的な封建領土を有していたバチカン(教皇庁)は、19世紀中頃のイタリア王国成立(統一)によってこれらを失い、以後、バチカンとイタリア政府との関係は非常に悪かったが、教皇ピオ11世の時代にムッソリーニがこれを回復し、1929年(昭和4年)に、イタリア政府が大幅に譲歩する形で、『ラテラノ条約』が締結され、最後に残った教皇領は「バチカン市国」として国家承認されると同時に、財政や安全保障上の多くのサービスをイタリア政府から無償で受けることになった。それらの一環として、バチカン市国内に線路と駅も建設(註:イタリア国鉄のローマ・ヴィテルボ線をサンピエトロ駅から高架橋でバチカン市国を取り巻く城壁の門まで約200メートル延長)されることになった。これが総延長わずか300メートルの世界最短のバチカン国鉄─鉄道と言っても、駅の引き込み線のようなもの。もちろん、車両もイタリア国鉄が提供─である。

今回の「アッシジの祈り」も、25年前と同じように、この特別列車に乗って、ローマから120キロ北上してアッシジまで向かうのである。色とりどりの装束・祭服に身を包んだわれわれが、朝まだ暗い7時半にバチカン駅に到着した時には、列車は既に停車していたが、その先頭から何両目かまでの部分は、バチカン駅というよりバチカン市国からローマ市側へはみ出していて、私たちはタラップの付いた中程の車両から乗り込んで、車内を先頭車両のほうへ向かって歩いた。まるで、春秋の団参時の御神米お下がり感覚である。おかげで、車内でいろんな顔に出会った。

ただひとつ、事前に「(教皇と同じ)お召し列車」と聞いていたので、どれだけ大時代のデコラティブな列車に乗せてもらえるのかと期待していたが、イタリア国鉄によって用意された車両は、最新のユーロスター(イタリア版新幹線)であった。二百数十人におよぶ色とりどりの装束・祭服をまとった聖職者の乗る特別列車が、ローマをはじめとするイタリアの街々を通過するのであるが、特別ダイヤの時間調整のためか、途中に数カ所ある停車駅では、どの駅にも、教皇のお姿を一目拝そうと、多くの老若男女が待ちかまえ、われわれを乗せた特別列車が近づくと、歓呼の声を挙げた。まるで、天皇陛下のお召し列車のようである…。アッシジ駅に到着してからまた専用バスに乗り換えて、最初の会場のあるサンタ・マリア・デグリ・アンゲリ聖堂まで移動する道中も、大勢のアッシジ市民が教皇を出迎えに沿道に出ていた。ただし、アッシジ(他に有名な街ではペルージャがある)のあるウンブリア地方は、イタリア半島の背骨に当たるため標高があり、ローマを離れた後は、車窓から見える風景は丘陵に一貫して霧がかかっていたが、われわれが到着する頃にはすっきりと晴れ渡った。

▼アッシジの聖フランチェスコ

アッシジ市内にあるサンタ・マリア・デグリ・アンゲリ聖堂では、到着する世界各国からの宗教指導者を教皇ベネディクト16世が出迎え、いよいよアッシジの祈り『真実と平和への巡礼』25周年の行事が始まった。ユーロスターの車内では、イタリア国鉄をよく利用して各地を巡教された教皇ヨハネス23世の懐かしい映像(もちろん、デコラティブな客車をSLに牽かせている)や、25年前の教皇ヨハネ・パウロ2世がアッシジの祈りを行った時の映像もある。そのとき参加したダライ・ラマ14世法王や山田恵諦天台座主などの懐かしい姿も映っている。また、教皇と言葉を交わす若き日のヨーゼフ・ラッツィンガー枢機卿(現教皇ベネディクト16世)の映像も紹介されている。ということは、今回の映像が、25年後の2026年に開催されるであろう第3回のアッシジの祈り『真実と平和への巡礼』50周年の際に紹介されると考えると、いつどんな映像が撮られているか判らないので、ひとときも気を抜くことはできないと思った。

聖堂内で教皇と共に祈る世界の宗教指導者たち
聖堂内で教皇と共に祈る世界の宗教指導者たち

聖堂内に各国からの参加者が着席した後、教皇をはじめ各宗教の首席代表者がステージ上の席に着いた。正面から見て中央の教皇の左側に、東方正教会の世界総主教バルトロマイ一世や英国国教会首座のカンタベリー大主教ローワン・ウイリアムズ師をはじめとするキリスト教各教派の首長が並び、右側には、ユダヤ教のデビッド・ローゼン首席ラビやアフリカの民族宗教ヨルバのアグバエ師をはじめ、イスラム教・ヒンズー教・仏教・神道・道教・シーク教・ゾロアスター教等の諸宗教の代表が列席した。本聖堂での式典では、上記の4名に加えて、アルメニア教会のザカリアン首座主教、WCCのトゥベイト総幹事、ヒンズー教代表のゴスワミ師、曹渓宗のヤ・セン宗法師、国際イスラム会議のムザディ事務総長らがそれぞれの立場からスピーチを行い、最後に、教皇ベネディクト16世がスピーチを行った。

サンタ・マリア・デグリ・アンゲリ聖堂での集会を終えて昼食休憩となったが、聖堂に付随する女子修道院の大食堂へと徒歩で移動し─といっても、次にどこで何があるか判らないわれわれは、人の後についてウロウロするばかりであるが─、指示された食堂の壁際の席に着いた。事前に配布されたプログラムには「簡単な昼食」としか書いてなかった上に、着用している装束を汚してはいけないので、パンを囓るくらいしかできないと思っていたが、食堂では、なんと天台宗探題の森川宏映先生(註:天台座主の次席者)と神社本庁総長の田中恆清石清水八幡宮宮司の間という「高い席」でランチを頂くことになった。しかも、スープとサラダとリゾットとパスタと魚料理からデザートまで出る本格的なイタリア料理で、もちろん、ワインも饗せられ、早朝からの空腹が満たされた。ただし、給仕はすべてフランシスコ会の修道士たちである。広い食堂を見渡してみると、教皇もわれわれの席からはかなり離れていたが、同じ昼食を召し上がっていた。

森川宏映天台宗探題や田中恆清神社本庁総長と昼食を共に
森川宏映天台宗探題や田中恆清神社本庁総長と昼食を共に

昼食休憩後は、いよいよ小高い丘の上に建つ聖フランチェスコ聖堂前広場へ移動である。もちろん、丘の上までは3キロほどあるので、専用バスを連ねてゆくが、世界遺産でもあるこの大伽藍の中までは車で行けないので、最後の数百メートルは徒歩である。沿道の両側から、アッシジの市民や世界各国から来ている巡礼者や観光客たちがわれわれを歓迎してくれた。アッシジの聖フランチェスコについては、いまさら説明するまでもないであろう。元々裕福な商人の子であったが、人生経験を経て、信仰の道に入り「フランシスコ修道会」を創設した12、3世紀(日本の鎌倉時代)に活躍した人物である。キリスト教徒には珍しく、人間を特別扱いせず、神に祝福されたものとして動植物のいのちも礼賛した。米国西海岸のサン・フランシスコ市は彼の名前に由来する。その聖フランチェスコの遺骸が祀られているのがこの聖堂である。

聖堂前広場で世界の宗教指導者たちと共に祈られる教皇ベネディクト16世
聖堂前広場で世界の宗教指導者たちと共に祈られる教皇ベネディクト16世

その聖堂前の特設ステージで、青年たちによる平和を祈るパフォーマンスに続いて、各国の宗教指導者がそれぞれ短い祈りを行った。日本人では、神社本庁の田中恆清総長が代表してお祈りを行い、天台宗の森川宏映探題、臨済宗妙心寺派の松井宗益宗務総長、宮本けいし妙智會理事長、渡邊恭位立正佼成会理事長らが登壇した。こうして、記念すべきアッシジでの行事はすべて終わり、一行がバスに戻り、アッシジ駅で特別列車に乗り込む頃には、すっかり日が暮れていた。こうして、往路のまったく逆で、ユーロスターに乗り込んだが、睡眠不足も重なり、さすがの私も疲れたのか、バチカン駅に到着する直前まで、記憶がほとんど飛んでいる。そしてまた、専用バスで宿舎のホテルに到着したのが、午後9時頃であって、自室でやっと装束を脱ぐことができた。もちろん、外国人たちは、これから深夜にかけて「重たい夕食」を平らげるのである。大変なスタミナと体力だといつも感心させられる。

▼教皇と再び謁見して

28日の朝は、少しゆっくりしていた。朝9時にホテルをバスで出発。もちろん、パトカーと白バイの先導付きである。さもないと、ローマの狭い道では、少し車間を空けるとあっという間に、車やスクーターが割り込んでくる。われわれを乗せたバスは、バチカン市国の奥深く、四方を4階建てのビルで囲まれた瀟洒な中庭に案内された。サンピエトロ大聖堂の外側からは何度もバチカンを見ているが、なかなか「内側」に入ることはないので、ここがいったいどこなのか判らないことが多いが、中庭には、すでに多くの宗教者たちが集まって来ていた。そうこうするうちに、バチカン諸宗教対話評議会のアンドリュー・ビサンヌ次長が私の顔を見つけて、昨日の「登壇者」リストに入っていなかった私を最前列まで引っ張っていって、エレベータに乗せられた。他に、浄土真宗本願寺派の大谷光淳新門と円応教の深田充啓教主と天理教大ローマ布教所の山口英雄所長…。そして、案内されるままに、教皇宮殿内の豪華な大理石で装飾されたサラ・クレメンチアの間へ案内された。

教皇からバチカンに招かれた世界の宗教指導者たち
教皇からバチカンに招かれた世界の宗教指導者たち

この部屋の壁際には、ぐるりと椅子が並べられ、正面を12時の方角とすると、向正面に当たる6時の方角には、学校の教室よろしく200人分ほどの椅子が並べられていた。私が案内されたのは、2時の方角にある椅子である。つまり、最前列なので、必ず、教皇と直接挨拶できる席である。隣には、まだお若い西本願寺の大谷光淳新門(門主継承者)が座られた。尋ねてみると、「このような経験は初めて」とおっしゃるので、特別謁見の手順やどのようなことをお話しすればよいかを説明させていただいた。この日、最前列に着席した日本人は、私と一緒にビサンヌ次長に誘導された4人以外には、天台宗の森川宏映探題と臨済宗妙心寺派の松井宗益宗務総長の6名。そうこうしているうちに、部屋の照明が一段と明るくなり、大谷新門のすぐ脇を通って、教皇ベネディクト16世が入室してきた。

教皇は、昨日のアッシジでの祈りの集会へ遠路はるばる足を運んでくれたことに謝意を伝えるスピーチを行った後、自らの着席した正面12時の位置から反時計回りに一人一人と挨拶を行っていった。席次はバチカンでは約束事になっているようで、向かって左側が主としてキリスト教各派、そして、右側が諸宗教…。しかも、キリスト教諸教派の第一席は正教会世界総主教、その次はカンタベリー大主教…。各宗教指導者たちは、教皇と言葉を交わすと同時に、教皇への贈答品を手渡していた。そして、いよいよ私の番になったが、その直前に教皇と挨拶した大谷新門はさすがで、お若いのに堂々として貫禄があった。

教皇ベネディクト16世と言葉を交わす三宅善信師
教皇ベネディクト16世と言葉を交わす三宅善信師

私は、教皇に「6週間ぶりにお目にかかります!」と申し上げたら、驚いた様子だったので、イスラエルからの帰途、9月14日に親先生たちと一緒に謁見させていただいたことを申し上げたら、さすがに装束姿は印象に残っていたのか、「たびたび足を運んでくれて感謝します」という言葉を賜った。カトリック教会が今後も、諸宗教対話による平和構築のイニシアティブを取ってくださるようお願いし、また、泉尾教会もいかなる協力も惜しまないという旨を申し上げた。

こうして、教皇との特別謁見を終えて、宮殿の長い階段を下っているとき、「この階段は、たしかシスティーナの礼拝堂?」と気が付いた。バチカン市国のまったく反対側(北側)の城壁から入って、バチカン美術館の中をウロウロと徘徊し、長い廊下を経てやっとたどり着くのが常に何千人もの観光客でごった返すシスティーナの礼拝堂であるが、どうやらわれわれは、同じ建物の全く違うフロアを移動していたようである。そして、サンピエトロ大聖堂の裏(西側)を回って、南側にある、9月に親先生と一緒に滞在した「謁見ホール」まで来た。この日の昼食は、この謁見ホールのロビーに特設された会場で行われた。WCRP(世界宗教者平和会議)のW・ベンドレイ事務総長をはじめ、多くの顔見知りと和気藹々(あいあい)、昼食を共にしつつ、バチカンでの公式行事をすべて終えた。

専用バスでいったんホテルまで戻った私は、部屋で装束を脱ぐなりスーツに着替え、再びタクシーを呼んでバチカンまで戻った。夕方までに、バチカン新聞社の写真部に、今回の行事で私が写っている写真がないかどうか探すためである。さもないと、今回の外遊はカメラマンの随行もなく、バチカンで私が何をしてきたかは皆さんに判りやすく説明できないからである。バチカンでは、教皇の関わった行事は常に、複数の専属カメラマンによって毎日数千枚単位で撮影され、それが膨大なデータとなって残されている。バチカンは、2,000年の歴史を保存していると同時に、未来に向けて新しい歴史も日々積み重ねているのである。本誌グラビアページにも紹介されているように、私が写った写真も、写真部のデータベースに何枚かあったので、それを求めてからホテルへとんぼ返りして、帰国の支度をはじめた。この2日間、ずっと装束姿であったので、装束や袴は汗と皺でへなへなになったが、十分にその価値はあった。

翌朝早くホテルをチェックアウトして、フィウミチーノ空港を発ち、往路とはまったく逆の経路で、フランクフルト経由で10月30日の朝関空へ降り立ったが、この日は、約3万人が大阪市内を駆けめぐるという第1回大阪マラソンの日で、関空から南海電車で大阪市内まで戻りながらも、装束一式の入った大きなスーツケースを抱えて、泉尾教会まで帰り着くのが大変であった。





戻る