南アフリカで第4回IFAPAサミットに参加

2012年10月26日〜31日

 2012年10月26日から31日の日程で、南アフリカ共和国のヨハネスブルグで開催された第4回IFAPA(アフリカの平和のための諸宗教行動)サミットに参加した。今回のテーマは『アフリカにおける自由で公正な民主的選挙』であるが、その豊饒な内容ばかりではなく、諸宗教対話のあり方についてもよくよく考えさせられた会議であった


▼10カ月ぶりの南アフリカ

秋のご大祭を終えた翌26日の深夜に関西空港を発つエミレーツ便で南アフリカ共和国最大の都市ヨハネスブルグへと旅立った。南アを訪れるのは、昨年12月に同国で2番目の都市ダーバンで開催された、日本では「地球温暖化防止会議(COP16)」として知られる国連の第16回「気候変動会議(UNCCC)」以来、10カ月ぶりのことである。その前にアフリカを訪れたのが、10年前の2002年にケニアのナイロビで開催された「HIV・エイズの子供のためのアフリカ宗教指導者会議」のことであるから、まさか1年の内に二度アフリカに来ることになろうとは予想だにしていなかった。しかも、2回連続で同じ国(南アフリカ共和国)である。ただし、前回の訪問地はインド洋沿岸の大都市ダーバンであったが、今回は内陸部にあるヨハネスブルグである。

私が関西空港を利用する際は、いつも南海電鉄の難波駅から特急ラピート号で関空へ向かうのであるが、「不採算路線として廃止になってしまわないか」と心配になるぐらいいつもガラガラのラピート号は、乗客は私1人だけという「貸し切り状態」で関空へと向かうことになった。出発時間のギリギリに行ったので、チェックインカウンターに他の乗客は誰もおらず、あっという間に搭乗手続きを済ませた。出発ロビーもガラガラである。1兆円以上の大金をかけて泉州沖5キロの海中に造成した空港がやっていけるのかと心配になる。「日本最初の24時間空港」と銘打ちながら、公共交通のアクセス手段が終電以後にはなくなるので、レストランや土産物店など空港島のいろんな施設に働いている従業員たちが午後9時を過ぎると、ドンドンと店の片づけ準備を始め、10時にはもう「シャッター商店街」状態である。もちろん、航空貨物便は深夜にも離発着しているのであろうが、こちらは、空港ターミナルビルの賑わいとは無関係であるから、もの寂しいこと満点である。

私を乗せたエミレーツ便は10時間のフライトの後、乗り継ぎ地のドバイ国際空港(アラブ首長国連邦)へと到着した。現地時間の早朝5時というのに、この空港のロビーには夕方5時の大阪駅ぐらい人が溢れている。これこそ24時間空港と呼ぶに相応しい空港である。国際空港たるもの、その国が最終目的地である人々が使うだけでなく、世界中の国々からやって来て、世界中の国々へやって行く「乗り継ぎ」の客もたくさんいるのだから、その国の「時間帯」だけで運営してはいけないという基本的なことが、政治家も含めて関空関係者は解っていない。日本国内では、どんな田舎に行っても24時間煌々(こうこう)と明かりを点けて営業しているコンビニが何万店もあるというのに、肝心の国際空港がこんなことではどうなるのかといつも思わされる。こんなことなら、関空のテナントはすべてコンビニ会社に運営を任せたらよいと思えるほどである。それくらいの「彼我の格差」を感じながら、9時間に及ぶドバイ空港の乗り継ぎを楽しんだ後、ヨハネスブルグへの便に乗り換えた。

IFAPA会長のイシュマエル・ノコ博士と
IFAPA会長のイシュマエル・ノコ博士と

ドバイから8時間のフライトで南ア最大の都市ヨハネスブルグ空港に到着した。南アフリカ共和国は親日的な国なので、入国に際してビザどころか入国書類の記入すら必要なく、日本のパスポートを見るなり「コンニチハ」と係官が笑って通してくれたので、飛行機を降りてから10分以内に通関も済ませ、空港を出た。幸い、空港からホテルまでは車で数分の距離なので、主催者が指定したホテルにチェックインしたが、昨年末にWCRP開発環境委員会のメンバーとして国連の地球温暖化防止会議で訪れたホテルが1泊900円の「潰れかけの木賃宿」だったのと対照的に、今回、私を招待してくれた主催者の心意気が表れる最新式のホテルであった。というよりも、「ここがアフリカか?」と思えるような設備の快適なホテルであった。当然、ネット環境も整っており、この原稿も会議場での写真と共に、日本に帰る前にアフリカからメイルで送信したほどである。それにしても、関空を発ってからドバイでの乗り継ぎ時間も含めると29時間もかかったので、体力的にはかなり疲れた。

 

▼内容は世界的レベルの会議

翌28日は、主催者が手配したミニバンに数名の会議参加者と乗ったが、「ホテルと会議場とは数分の距離」という事前説明の割には、高速道路を15分ぐらい走っても目的地に着かないどころか、まったく別の会議場に到着したりして迷った挙げ句、あちこちのホテルを探し回り、小一時間かけて、会議場を併設したホテルに到着した。他のホテルに泊まっていた参加者の皆さんも迷ったみたいで、予定より半時間ほど遅れて第4回IFAPA(アフリカの平和のための諸宗教行動会議)サミットは始まった。

最初に、IFAPAを構成するアフリカ伝統宗教ブドゥン(ブードー)の法王ベニン共和国のダグボ・ウノン二世陛下をはじめ、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教・ヒンズー教・仏教・バハイ教の7つの宗教の代表の「祈り」で始まった。続いて、地元の宗教界を代表してNICSA(南アフリカ諸宗教評議会)の代表が歓迎の挨拶を行い、約150人の全参加者が地域別に紹介された。その後、IFAPA会長のイシュマエル・ノコ博士が開会挨拶を行い、主賓のハンダ・ファウンデーションの半田晴久会長が祝辞を述べた。

アフリカ各国から百名以上が参加したIFAPAサミット
アフリカ各国から百名以上が参加したIFAPAサミット

一昨年末に突如として勃(おこ)った北アフリカのチュニジアの「ジャスミン革命」と名付けられた民主化運動は、あっという間に「アラブの春」として、エジプトやリビアにも飛び火し、何十年間も続いた独裁政権が次々と崩壊したことは記憶に新しいが、その独裁政権を民衆の力で倒した一時の熱狂は冷め、その後の民主的政権をいかに確立するかは別の問題である。そこには、いかに「自由で、公正で、民主的な選挙を実施するか」という問題が横たわっている。このことは、何も北アフリカのアラブ地域だけの問題ではない。むしろ、「サハラ以南」のアフリカ諸国のほうが、貧困・部族抗争・食糧危機・エイズ等々、多くの問題を抱えており、これらの問題を解決するためにも、いかに民主的な政権を樹立するかが重要な問題になっている。そのためにも、「自由で、公正で、民主的な選挙の実施」は最低条件である。そのために、アフリカの諸宗教の指導者が一堂に会したのである。

3日間の会議は、地元南アフリカ共和国の国会議員がアパルトヘイト終了後のネルソン・マンデラ政権と、21世紀に入ってからのジェイコブ・ズマ政権下の取り組みについて説明した。南アは、イスラム国家のような「政教一致」を否定した「世俗国家」ではあるが、そのことは何も「反宗教」という意味ではないということで、マンデラ政権時代に、すでに「諸宗教委員会」という組織が政府機関内に立ち上げられた例を紹介した。続いて、ジュネーブの「国際機関」担当副大臣のヒシャム・バドル大使が、自国エジプトの例を挙げて、このテーマに関する基調講演を行った。バドル大使は、東京のエジプト大使館の参事官そして駐日特命全権大使として、合計10年間、日本暮らしを経験されたこともあり、日本語にも堪能である。バドル副大臣は、この1年間にエジプトで起こった大きな社会変革を実例に挙げて、極めてクリアに論点を掲げて基調講演を行った。

この基調講演を受けて、ディスカッションが始まった。私がこれまでに参加したどの国際宗教会議よりも中身のある、各発表者が自分自身の問題として意見を表明し、その意見に対して、民族的・文化的・宗教的背景の異なる人々が真剣に質疑応答をする姿は、事務局が用意したシナリオに従って、壇上の決められた発言者だけが粛々と原稿を読み上げてゆく国際会議よりも遙かにエキサイトしたものである。会場の設(しつら)えも、雛壇上に「偉いさん」が並んで、彼らの前にだけマイクがあり、フロアの参加者は中国共産党大会のように雛壇の方向を見て、「指導部の話を拝聴する」という形式でなく、モデレータも含めて完全にフラットな部屋に全員が向かい合う形で着席し、意見をぶつけ合う英国の下院議会形式であるのが良い。

今回の会議には、アフリカ以外からも、本年五月に米国のワシントンDCで開催されたG8宗教指導者サミットのホストを務めたジョージタウン大学のキャサリン・マーシャル教授(元世界銀行総裁顧問)や、元ロンドン大学東洋・アフリカ研究大学院学長のティム・ランケスター卿や、前万国宗教会議会長のウイリアム・レーシャー博士他数名の専門家が招かれており、この人たちのコメントのレベルが高いのも良い。実際の民主化のあり方に関しても、カンボジア大学の総長を務める半田氏が、長年かけてミャンマーの民主化をもたらせたASEAN(東南アジア諸国連合)のアプローチ方法を紹介するなど、どれも地に足を着けた論議が大いに盛り上がり、遠路わざわざ南アフリカまで来た甲斐があった。

昼食休憩後も、アフリカ各地で、実際に民主的選挙の実施に取り組む人々が次々に発表を行い、アフリカ各国のそれぞれ異なった状況に即した内容はいうまでもなく、各発表者の発題も、また、それを受けたディスカッションも非常に知的レベルが高く、かつウイットに富んだ内容に、私が長年関わってきた組織内のマネージメントばかりでちょっとも中身(コンテンツ)のディスカッションにならないNGOや、「偉いさんを雛壇に並べて写真さえ撮れれば、会議の中身には関心のない」NGOや、財政的な貢献をする意欲も能力もない人々にもかかわらず、当のご本人たちは「自分たちには金には換え難い中身がある」と勘違いしている諸宗教対話のNGO等関わっているだけに、「私は今まで何をしてきたのだ…」とさえ、思わされるような刺激を受けた。

事務局が用意するのは、会場やホテルのセッティングや食事の支度だけで十分である。それを、何を勘違いしているのか、話し合う中身は言うに及ばず、大会での発言者の指定や、あまつさえ「役員を誰にするか」という内容にまで事務局が踏み込んで、「原案」という名の「結論」まで用意して役員会に形式的な決定をさせるなんて、僭越も甚だしい。そんなことをしているから、何十年経っても、何億円も使って来たにもかかわらず、日本の宗教対話が世界から尊敬されないのである。とっとと事務局員の僭越なお節介はやめてもらいたいものだが、その事務局員が、役員である私に公的な場面で絶対に発言する機会を与えようとしないのだから、日本の宗教界の将来は暗い。私に基調講演やパネルディスカッションのモデレータをさせるNGOがあれば、それこそ、国際的に通用する「本物」のNGOであり、いつまでも、日本の財力が続かないことが明らかな以上、一日でも早くこのことに気づいたNGOが生き残れること、間違いない。

こうして、夜の帳(とばり)がすっかり降りるまで、第1日目の会議は熱を帯びて進行した。もちろん、ランチタイムもディナータイムもしかりである。日本人には、「アフリカ」を十把一絡げに見ているきらいがあるが、サハラ以北の地中海沿岸諸国は、基本的にアラブ人(黒人ではない)が支配するイスラム教国である。そして、このイスラム地域には必ずといって良いほど、少数派である黒人のキリスト教徒との間で紛争がある。サハラ以南の黒人が多く住むアフリカ大陸も、ジャングルの多い西半分(大西洋側)はフランス語地域の国々があり、高地やサバンナ地帯が続く東半分(インド洋側)は英語地域の国々がある。その間に挟まれた内陸部の中央アフリカは、ウガンダやコンゴといった紛争地域が多い。そして、南アフリカ共和国は世界的な資源国でG20のメンバーとして、国際的にも発言力のある先進国である。これらの言語や文化や経済的発展状態の全く異なる国々にそれぞれ適応される「自由で、公正で、民主的な選挙」を円滑に実施するために、宗教者は如何に行動すべきかを考えるのであるのだから、大変だがやりがいのある会議である。でも、アフリカ人に共通する気質なのか、深刻なテーマを取り扱うときも、常にユーモアを忘れず、笑いに満ちた会合であることには大いに教えられた。

 

▼アフリカで親神の御名を唱えて

サミット第2日目は、私が朝の祈りの一翼を担う日である。宿泊しているホテルから会場まではそれほど離れていないのであるが、送迎の車が時間通りに来ないのには閉口させられる。この日は午前6時半にホテルの食堂が開くなり朝食を済ませ、装束に着替えて、送迎の車が来るのを30分前からホテルの玄関で待っていたのであるが、私たちを乗せるはずの車がなかなか来ない。ホテルのフロントに尋ねると、「週明けだから交通渋滞が…」と言っているが、広い道路の割には車の数が少ない南アフリカで「交通渋滞」は考えられない。予定の時刻を30分ほど遅れて、われわれを送迎するミニバンがやってきた。会場に到着すると、既に「朝の祈り」の1人目が始まっていた! 私の顔を見るなり、主催者のノコ博士が7人並んでいる各宗教の代表の真ん中に私を連れて行った。

アフリカ各国の宗教指導者と共に平和を祈る
アフリカ各国の宗教指導者と共に平和を祈る

床に平伏して祈るアフリカの民族宗教の女性の後、ユダヤ教・仏教の祈りに続いて、私が装束を着けて、人類の故郷アフリカの人々と共に祈れることを神様に感謝し、今回のIFAPAサミットに参加した人々が抱える課題が解決の方向へ向かうことを英語で祈った。私に続いて、ヒンズー教・キリスト教・イスラム教・バハイ教の代表がそれぞれの伝統にしたがって祈りを共にした。それにしても、アフリカというところは、カメラマンがドンドンと目の前に迫ってくる文化である。まるで、日本の披露宴の「ケーキ入刀」の儀式のようである。カメラを持っている人はほとんど、前へ出てくるので、公式のテレビカメラの撮影の邪魔になるほどである。それほど、「好奇心」が強い文化的風土なのである。それから、皆さんこの上なく陽気である。次々とジョークが飛び出し、その都度、皆さん屈託無く笑う…。アフリカの未来は、アジアの新興国などよりははるかにあるように思われた。いくら経済的に成功を収めていても、自由で公正な選挙どころか、思想的な自由などかけらもないアジアの独裁国家は、近い将来、社会的矛盾が耐えきれないところまで行って、必ず崩壊することが見えているのに、目先の経済的利益にこだわって、そのような独裁国家のご機嫌取りをしている日本が世界から尊敬される国になれないことに、いったいいつになったら気が付くのであろうか…。

この日の午前中のプログラムは、基調講演者の到着が遅れて順番が入れ替わり、各地の状況に即した報告から行われた。何よりも形式的な予定どおりの議事進行を金科玉条とする日本─そのくせ「中身」にはあまり関心がない─では考えられないことであるが、アフリカの人々は文句ひとつ言わずに、議事進行の変更を受け入れた。おそらく、このような「人の良さ」が、かつて狡猾な白人たちによる騙し討ちにあって、奴隷化・植民地化される要因となったのであろう。

という訳で、この日の午前中は、西アフリカのナイジェリアとシエラレオネの実例が取り上げられて、討議された。他のアフリカ諸国と同じく、1960年に独立したアフリカ大陸「最大の国」であるナイジェリアは、100以上の部族がある中で、なかなか「国家」としての統一政策が取りにくかった事情もある中、1979年と1999年が政治的には節目であったが、現在では、自由で公正な選挙が実施されている。しかし、たとえ民主的な選挙が実施されたとしても、大統領と議会の対立など「政治的問題」がなくなるわけではないことが紹介された。また、17年間におよぶ内戦で国土がすっかり荒廃してしまったシエラレオネで、内戦終結のために果たされた宗教者の役割が紹介され、現在では、国会議員をはじめ公職には女性を30%以上就けなければならない制度などが紹介されたりした。

午後からは、未だに国内で武力衝突が繰り返されているウガンダとスーダンの実例が紹介され、ウガンダの仏教僧やイスラム大学の教授などから、また、スーダンの英国国教会主教やイスラムの女性社会活動家から報告が行われ、イスラム教徒とキリスト教徒が鋭く対立する地域だけに、単なる「民主的選挙」が実施されるだけでは、問題は解決されるどころか、かえって「問題」を深刻化させることが指摘された。例えば、イスラム教徒が人口の90%を占める地域で「民主的な選挙」が実施された結果、有権者の意思として「信教の自由を認めない厳格なシャリア(イスラム法)の世俗法化」が採用させると、事実上、非イスラム教徒が暮らしてゆくことが著しく難しくなるからである。この辺りから、議論はますます白熱してきて、アフリカのローカルな状況について不案内な私が見ても、実に興味深い討議である。

しかも、お互いへの敬意を忘れず、ユーモアに満ちた討議が延々と展開される。私が日本の宗教対話に求めているのは、このような「中身のある」ディスカッションである。民族も言語も宗教も歴史も異なる50以上の国々からなるアフリカでこのような会議ができて、ほぼ「単一民族単一言語」と言われる日本で何故、このような議論ができないのか解らない。日本の宗教間対話を歪めてきた人々には、即刻退場してもらいたいものだとさえ思える。

会議の宣言文も、5月にワシントンDCで開催されたG8宗教指導者サミット同様、一言一句に至るまで、全員で2時間もかけて訂正して採択するのもまた好ましいものである。日本の諸宗教会議のように、事務局が予め用意した「原案」を形式的に諮って、全員から「賛同」を得るなんて、それぞれ忙しい中、時間と経費をかけて会議に参加してくださった宗教指導者に対する冒涜とさえ言える。しかも、日本のようにすぐに採択するのではなく、「暖める」ために、もう1日原稿を寝かせるというのだからたいしたものである。

 

▼ブドゥン教の法王との縁

この日は、皆さんいったんそれぞれの宿泊するホテルへ帰って、女性陣は華やかなドレスに着替えてからまた戻り、「IFAPA創立10周年記念パーティ」が開催された。皆さん、次々とマイクを持ってスピーチされるだけでなく、プロ並みの歌声や踊りを披露する人もいて、食事に入る前、1時間半ほど「お預け」を食らったが、たまたま同じテーブルに、アフリカからカリブ海諸国に広がった民族宗教のひとつで、アフリカ西海岸のベナン共和国の「国教」でもあるブドゥン教の法王ダグボ・ウノン2世夫妻と隣席になった。ウノン2世は、会議参加者から「陛下」という敬称をつけて呼ばれている名門の出であるだけあって、流暢なフランスを話す教養人であることは、食事中、「陛下」が私にしてきたいろんな質問のレベルからだけでも十分察することはできた。

ブドゥン教の法王ダグボ・ウノン2世夫妻と共に
ブドゥン教の法王ダグボ・ウノン2世夫妻と共に

私は「陛下」が初日に行ったお祈りの冒頭に、会議場の床にコップの水を少しこぼした意味を尋ねると、「陛下」は「あれは大地を浄めたのだ」と言われたが、神葬祭の折の「塩水行事」とも共通するものがあり、17世紀に大量にアフリカ西海岸から新大陸へ「奴隷」として連行され、西インド諸島(カリブ海諸国)の先住民の宗教やスペイン人が持ち込んだカトリック教会と習合した「ブードー教」が、後の時代になって「偶像」を極端に否定するプロテスタント国のアメリカ人たちよって「再発見」され、ハリウッド映画などで誇張されて映像化された「ブードー教」のイメージが先行するが、実際にブドゥンの法王と会ってみると、これらがすべて曲解されたものであることは明らかである。これだけでも、遠路アフリカまで来た甲斐があった。

最終日は、朝から南アフリカ共和国のジェイコブ・G・ズマ大統領が来られることになっていたので、前日より1時間早くホテルを出発することになっていたが、欧米人たちの集合が約束の時間に30分遅れた上に、現地の運転手が道を間違えて30分以上遠回りし、結果的に私ともう1人の日本人カメラマンが覚えていた看板を説明して、1時間遅れで会場入りした。この日も、私は「諸宗教の祈り」のお役を急遽依頼された。そして、昨日来懸案になっていた『宣言文』の最終校正をして、これを採択した。ここでいよいよ大統領(夫人が6人もいることでも有名)の登場かと思ったのであるが、「のっぴきならぬ急用ができた」という理由で、協調統治・伝統業務担当リチャード・M・アロイ大臣が代理で来られ、南アフリカ政府を代表して挨拶を行われ、時間の許す限り、サミット参加者たちと意見交換を行った。私も、大臣が帰られる際に、短い時間ではあったが、言葉を交わすことができた。

ズマ大統領の名代リチャード・M・アロイ大臣と
ズマ大統領の名代リチャード・M・アロイ大臣と

こうして、2日半の現地滞在を終えて、会議場からダッシュして空港の目の前のホテルに戻り、和服からカジュアルな旅装に着替えてホテルをチェックアウトし、飛行機にギリギリ飛び乗り、往路とは正反対の経路で、ドバイ経由の便で10月31日の夕方に、関西空港へと無事、帰国した。空港へ到着した客の中で、一番乗りで入管・通関を済ませて、ラピート号に飛び乗って、午後6時頃に教会へ戻った。そして、翌11月1日の新米収穫御礼祭および感謝祭ならびに大恩師親先生ご命日祭を終えるなり、次の出張先のカリフォルニアへ飛ばなければならないので、おそらくこの日は眠る時間すらないであろう。あらためて、健康な体に恵まれていることに感謝し、また、次々と御用に使っていただけることに感謝しないといけないと思わされた。



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