カリフォルニア大学で災害シンポに出席

2013年11月2日~3日

 2012年の11月2日から3日にかけて、カリフォルニア大学サンタバーバラ校で開催された国際シンポジウム『自然災害と宗教文化』が開催され、日米欧から参加した5名の学者と共に『災害ユートピアと宗教』と題する研究発表を行い、引き続き、金光教サンフランシスコ教会に参拝した。


▼3日間で48時間飛行機に…

南アフリカで開催された『自由で公正な民主的選挙』に関する国際会議(へ跳べるように)の経緯 (いきさつ)については前作で詳しく紹介したが、その南アフリカから中東のドバイ経由の便で10月31日の夕方に一時帰国し、11月1日の新米収穫御礼祭および朔日感謝祭ならびに大恩師親先生祥月御命日祭を終えるや否や、装束から旅装へと15分間で着替えた私は、午後3時には教会を飛び出して午後5時半発のユナイテッド航空(UA)便に間に合うように関西空港へと向かった。関空到着予定時刻は午後4時15分頃なので、4時30分の搭乗手続きの締め切りギリギリの時間である。関空に到着する頃にはおそらく、私が「最後の客」として場内アナウンスでコールされているだろう。ところが、いざ関空のUA搭乗手続カウンターへ行ってみると、まだ十数人が列を作っていた。「やれやれ間に合った」と思い、ほっとして列の最後尾に並んだが、通常ならサッサと進む搭乗手続きがなかなか進まない。ふと、前方の掲示板に目をやると、なんと「アメリカからの到着機材の延着で、6時間の出発遅れ」と表示されているではないか!

そういえば、2日ほど前に「アメリカ東海岸をハリケーン・サンディが襲い、ニューヨークをはじめ各地に甚大な被害をもたらせた」と南ア滞在中にニュースで聞いたが、そのハリケーンの影響で、全米の航空ダイヤが大いに乱れていたのである。もちろん、なんら被害の無かった西海岸でも、本来なら東部から来るはずの飛行機が到着しないなどの理由によって、ダイヤが大いに混乱を来していたのである。それでも、サンフランシスコが最終目的地の乗客なら、ただ単に「UA便の到着が6時間遅れるだけ」なのでまだ良いとして、私のようにサンフランシスコ空港からさらに乗り継ぐ人にとっては、変更されたその乗り継ぎ便の座席も手配しなければならず、その手続きを全員分済ませなければ航空会社としての責任も果たせないからである。

つまり、サンフランシスコ空港到着が6時間以上遅れることが確定的になった以上、同空港で乗り継ぎ便に乗る人のほとんどが「本来乗る予定になっていた便」を逃すことになるからである。やっと、私が搭乗手続きをする番になったが、私のサンフランシスコから最終目的地であるサンタバーバラまでのボーディングカード(座席指定券)はとうとう貰えず仕舞いであった。その上、結果的には関西空港で8時間も待つことになったので、鞄からノートパソコンを取り出し、溜まりに溜まっている各種の原稿をかなり執筆することができた。しかし、よく考えてみれば、8時間といえばサンフランシスコまでの飛行時間と同じであり、それでなくとも忙しいのに、8時間を関空で過ごさなければならないのは、今回の日本滞在時間が24時間しかなかったことに鑑みれば、どうしても納得のいかないことである。

こうして、ようやくサンフランシスコ空港に到着したが、もちろんここでも、1時間程しか飛行しない乗り継ぎ便を5時間待つはめになり、しかも、その乗り継ぎ便が出発するほんの3分前まで、私がその便に乗れるかどうかすら判らない(ボーディングカードが発行して貰えない)というハラハラした状況であった。当初私が乗る予定であった便はとっくの昔に出発してしまっており、ハリケーンの影響で全米の航空ダイヤが乱れている上に、別の便に私の席を割り込まさなければならないのであるが、サンフランシスコ→サンタバーバラ便は飛行距離も近いので機材も座席数が30席ほどしかない小型機になり、なかなか空席が出ないのである。

サンタバーバラの小さな市立空港に到着したのは、現地時間の夜も更けた10時(日本時間の2日の午後3時)頃で、小さな地方空港のビルは人影もまばらで、客待ちのタクシーも2台しか停まってなく、空港から宿泊先のホテルまでどうして行こうかと心配したほどである。そんな訳で、10月30日から31日にかけて、24時間かけて南アフリカから中東ドバイ経由の便で大阪まで戻ったというのに、またあっという間に大阪を発ち、またまた24時間近くかけてサンタバーバラまで移動してきたことになり、おそらく地球を3分の2周ぐらい回った計算になる。その間、ずっと狭い座席に座りっぱなしで、いいかげん腰とお尻が痛くなった。


▼アメリカの公立小学校で学んだこと

UCSBを訪れ「伝統民族音楽」講座のクラスで神楽を見せる
UCSBを訪れ「伝統民族音楽」講座のクラスで神楽を見せる

11月2日は、朝からカリフォルニア大学サンタバーバラ校(UCSB)を訪れ「伝統民族音楽」の講座のクラスで、日本から派遣された国指定重要無形文化財「秩父神楽」の皆さんの実演を見せて、100名ほどの学生たちとディスカッションするプログラムに参加した。その後、地元の公立小学校を訪れて約300名の全校児童に神楽の実演を見せた。どちらも、演目は、天岩戸(洞窟)に天照大神 (アマテラスオオミカミ)が隠れられたことによって、この世が闇になって困ったので、神々が相談して一計を案じ、岩戸の前に大きな鏡を飾り付けて神々が酒宴を催し、天宇受売命 (アメノウヅメノミコト)(「天鈿女命」とも記す)が官能的なダンスを踊って皆で大いに盛り上がり、「私が居なくなって皆が困っているはずなのに不思議だな…?」と思った天照大神が岩戸の扉を少し開けて外の様子を覗いてみると、真っ暗闇のはずの外界は眩 (まばゆ)いばかりに輝いており(実は、鏡に映った自分自身の姿)、気になってもう少し身を乗り出した瞬間に、力自慢の神である天手力男 (アメノタヂカラヲ)の神が天照大神の腕をぐいっと取って岩戸から引き出し、二度と戻れないように、大きな岩でその入口を塞いでしまったという神話を演じたものであったが、大学でのレクチャーと比べて、「政教分離」の原則により、「宗教的な話」をしてはいけない公立小学校における説明のほうがより難しいと思われたが、笛や太鼓の音に合わせてコミカルに踊る日本の伝統芸能に対して、子供たちは真剣な眼差しでこれを鑑賞し、「それぞれの動きにどういう意味がありますか?」などという質問を通して、日本神話の一説を説明できたのは有意義であった。

公立小学校を訪れ子供たちに神楽を見せる
公立小学校を訪れ子供たちに神楽を見せる

ちょうど昼食時であったので、われわれはこの小学校で「給食」をご馳走になったが、驚くなかれ、厨房のカウンター前で小学生の列に並んで自分の順番が来ると、なんとこの日の給食は「宅配のピザ」であった。子供の時からこのような食生活をしているからアメリカ人は肥満体質と味覚の悪さが助長されてしまうのだなと思った。2種類のピザとポテトチップスのスナック類を紙の皿に入れて貰い、中庭のベンチに腰掛けて食べていると、低学年の子供たちが胸に手作りのワッペンを付けているのに気が付いた。最初は自分の名前かと思ったが、同じ名前のワッペンが多く、よく見ると、「○○ちゃんに投票しよう!」と書かれており、学級委員長選挙への投票の呼びかけであった。子供たちに訊いてみると、「もし、自分が学級委員長になったら○○をします」という式のいわば「マニフェスト」を立てて選挙に臨むそうである。そして、「支持者」の子供たちも「○○ちゃんに一票を!」といった式で選挙運動を行うのである。

公立小学校の子供たちと昼食を共にする
公立小学校の子供たちと昼食を共にする

日本の小学校でも学期毎に学級委員長の選挙があるが、通常は「候補者」の演説もなければ、支持者の選挙運動もない。いきなりクラスメイトの誰かの名前を書いて投票し、最多得票数を得た子供が自動的に学級委員長に選出されるという、いわば「人気投票」のようなものである。この辺りがアメリカと日本の民主主義の成熟度の違いであるが、特に、大接戦の大統領選挙の投票日を4日後に控えているアメリカ社会だけに、子供たちにも「選挙」ということの意味を教える絶好の機会となっており、数日前までヨハネスブルグで参加していた「アフリカにおける自由で公正な民主的選挙」に関する国際会議と合わせて、選挙というものの意味をあらためて考えさせられる良い機会であった。


▼カリフォルニア大学でシンポジウムに出演

翌3日が、今回の訪米のメインであるUCSB(カリフォルニア大学サンタバーバラ校)での国際シンポジウム『自然災害と宗教文化』である。私は、日米欧から選ばれた5名の学者と共に研究発表を行うことになっていた。開会に当たり、この国際シンポジウムのスポンサーとなったインターナショナル・シントウ・ファウンデーション(ISF)のキャサリン・マーシャル理事長(元世界銀行総裁顧問)やUCSB関係者らが祝辞を述べた。

カリフォルニア大学で講演をする三宅善信師
カリフォルニア大学で講演をする三宅善信師

引き続き、実質的なシンポの中身として、『カオスとコスモス:震災復興の宗教文化』と題して薗田稔京都大学名誉教授が、『3.11津波被害と神社についての信仰解釈』と題して茂木栄國學院大学教授が、『災害ユートピアと宗教』と題して私が、『地震の神学:前近代日本における自然災害と宗教文化』と題してファビオ・ランベッリUCSB東アジア言語文化学科長が、『終焉の大洪水:中国宗教史における終末と原初』と題してドミニク・ステアーヴUCSB准教授が、『キリスト教と終末』と題してステファニア・トゥティーノUCSB歴史学科教授が、それぞれの研究発表と質疑応答を行った。最後に、大崎直忠神道国際学会理事長がモデレータとなって、先の6名でパネルディスカッションが行われ、フロアも交えて大いに議論に花が咲いた。

カリフォルニア大学でのパネル討議に参加する三宅善信師
カリフォルニア大学でのパネル討議に参加する三宅善信師

私はこの発表の中で、「全世界で発生する地震の1割が、狭い日本列島で起こり、また、毎年々々、台風が直撃するという極めて自然災害の多い環境下で、縄文時代以来の日本人の自然観や死生観が培われてきた。そのことは、3.11東日本大震災のごとき未曾有の大災害に遭ったとしても、整然と秩序だって行動する日本人の態度に表れていると言われるが、実は、このような非常時には、日本に限らず、高度に機能分化してしまった他の社会においても、「人々は日頃の社会的属性の違いを離れて助け合う」といった行動は人類にとって普遍的なものであり、あたかも、いったん機能分化してしまった細胞がiPS細胞のように初期化され、生き残るためのあらゆる形態へと再適応しうるのと同じような現象が社会においても見られる。これがいわゆる“災害ユートピア”であり、それは、宗教における教祖とその弟子たちの間に束の間に出現する“信仰共同体 (コイノニア)”とよく似た構造である。しかし、自然災害の場合でも、危機的状況が回避されるや否や、元の社会的属性へと分化し、しばしば対立構造へと発展するのと同様、宗教においても、いったん制度的な“教団”が形成されるや否や、「教団の維持」自体が自己目的化され、人々の原初的な信仰心とは乖離したものになってしまう」と述べた。

UCSBのステージで秩父神楽の公演が行われ、好評を博した
UCSBのステージで秩父神楽の公演が行われ、好評を博した

この日の夜には、同大学のオーディトリウムにおいて、「秩父神楽」の内『岩戸開き』が上演され、地元テレビ局も取材に訪れ、有料プログラムにもかかわらず満員の盛況であった。先述したように、天照大神が天岩戸に隠れられたことによって、この世が闇になったのは、いわば、神話時代における「大自然災害」であって、どのようにしてこの状態を回復したかをコミカルに演じる構成は外国人にも解りやすく、好評であった。なお、この日のステージの四隅を飾った「真竹」(註:「神事」である神楽の上演には、舞台の四隅の真竹を注連(しめ)縄で結んで「聖域」を結界する)および舞人が持つ「榊」は、サンフランシスコで造園業を営まれる信者さんの吉村信行氏(三国会)がわざわざサンタバーバラまで陸路500キロを車で運んでくださった。この日は、プログラム終演後も、夜遅くまでレセプションが行われた。

秩父神楽上演後のレセプションの様子
秩父神楽上演後のレセプションの様子

▼金光教サンフランシスコ教会を訪問

秩父神楽の一行と別れた私は、4日の内にサンフランシスコへ移動し、5日には金光教サンフランシスコ教会に参拝させていただいた。大恩師親先生の随行をさせていただいていた時代は、サンフランシスコに来るたびに同教会にお参りさせていただいた。というのも、同教会の初代教会長である福田美亮先生と大恩師親先生とはご年齢も近く、大恩師親先生が泉尾へ布教された3年後に福田先生がサンフランシスコへと布教をされ、また、せっかく教線が伸びてきた頃に、太平洋戦争によって強制収容所に収監されるなどの苦労をよく理解し合われた仲として、福田先生の没後も大恩師親先生は、国際会議でサンフランシスコへ来られるたびにこの教会に参拝されたからである。私は長らくサンフランシスコへ来る機会が無かったが、今回、どうしてもUA便がサンフランシスコで乗り継がねばならなかったので、久しぶりにこの教会に参拝させていただいた。

街の様子はすっかり変わっていたが、教会堂の外観は依然と変わらず立派な佇 (たたず)まいであった。お広前に参拝してみると、私と面識のない先生がお結界に座られていた。私がよく知っていたのは四代教会長の川初正人先生であるが、その後、リチャード・グレンジ先生、そして、現在のジョアン・トロサ先生が第六代教会長を勤められている。参拝される日系人信徒も三世・四世・五世と世代が進むにつれて日本語が話せない人がほとんどになるであろうから、教会長が「非日系人」になることはむしろ望ましいことである。トロサ先生は私のためにわざわざ食事会を催してくださり、現在、教会に隣接する日系人向け老健施設「こころ」の運営責任者となっているグレンジ前教会長の都合は付かなかったものの、南サンフランシスコ布教所で開教活動をされている川初先生も合流されて、夜の更けるまで布教現場の様々な問題について意見交換をする機会を得た。こうして、合衆国大統領選挙の投票日となった11月6日の朝、サンフランシスコ空港を発ち、翌7日の夕方に関西空港へと戻ったが、着陸するなり機長から「オバマ氏が大統領に再選された」という機内放送があった。



戻る