大阪国際宗教同志会平成12年度総会第2回例会記念講演


弁護士 植田勝博


6月22日、神徳館国際会議場において、大阪国際宗教同志会(会長津江孝夫今宮戎神社名誉宮司)の平成12年度第2回例会が、霊視商法被害大阪弁護団長務める植田勝博弁護士を講師に招いて開催され、神仏基新宗教各派から約60名の宗教者が参加した。


★1枚のチラシ

お待たせいたしました。手品の用意ではないのですが、結構な量を精選してまいったわけですが、宗教の事件を扱う際にはこのようにならざるを得ないのです。

今日は、このような機会を与えていただいて、心から感謝いたします。許された時間は1時間ということですが、実は私は非常におしゃべりなものですから、意を尽くしてお話できるかどうか不安ではありますが、われわれが扱っている事案というものがどういうものか、というところから始めさせていただきたいと思います。

ある方が悩んでおられました。腎臓透析です。この方は昭和11年生まれで、お子さんが2人おられます。ところが、上の息子さんが結婚して子供が生まれても仕事をしないのです。生活もなかなかできない。このご主人は、実は何かの縁で、ある宗教の寺院を管理される立場にあったわけです。ですから、そういう意味で言えば、その寺院の、仏教用語でいうと「お庫裏さん(住職夫人)」のような立場の方が、被害者となってくるわけです。

息子が体ていたらく、お嫁さんも働いても生活もできない。結局、親が支援するがこちらも体が苦しい。息子に「仕事に行け」と言っても、なかなか行かない。そんなところに1枚のチラシが入ってきたんです。「霊障というものを除けば、あなたの人生は全て開ける」というチラシです。載っているのは、お大師さんのような顔をしたお地蔵さんの写真です。このチラシを見まして、大阪市福島区にありました――今はもうありませんが――大運寺という1棟のビルに行きました。


★詐欺の手口

ここで、3000円払って見て(霊視して)もらいますと、「あなたの先祖に侍がいて、人を傷つけたりしている」と言われたそうです。これはよく言われる手口でして、オウム真理教などでも「武家殺傷運」などと呼ばれるのですが、ここでも同じことを言われるのです。その因縁を受けている……。その方は寺に暮しているのですが、「寺には不浄な霊が憑きやすく、これも不幸にする原因となっている」と言われ、「荒神祭祀」ということで65万円。3000円で見てもらいに行って、65万円取られるわけですから、驚くわけですね。

しかも、そこではいろいろなことが言われます。「このままでいったら、あなたの家は大変なことになる。あなたは早晩、腎臓病でいのちもだめになるかもしれない。息子さんのところの家族もめちゃくちゃになる」ということを延々と言われるわけです。「もし、『荒神祭祀』をすれば、腎臓も治る。息子さんも立ち直り、全てうまくいく」ということをずっと聞かされます。試しに行ってみて突然、このような言葉を聞かされたわけです。

そして、最後に言われましたのが、「今、お金があるのであれば、少しでも置いていきなさい」ということです。たまたま、この方は、年金に納める予定の5万円を持っていました。どうしようかと半分疑い、悩みつつ、その5万円を置いてゆきます。経済的には楽ではないわけですから、心の中では相当の抵抗があったのですが、置いていった。

その後、「3日間の修法に参加せよ」ということで参加していくわけです。ここで、「流水灌頂」ということで、コップに水を入れまして、紙にサインペンで名前を書いてそれに水を染み込ませます。それを見て、「先祖がむちゃくちゃをしている。水子もいる」と言われます。「3代から4代、判るだけ書け」と言われて書いた家系図が前に掲げられているのですが、当然、その中には、ご承知のように戦前戦後の貧しい時期に、幼くして亡くなった子供も大勢いるわけです。「老衰死で亡くなった人ばかり」なんてないわけです。

この家系図等を含めて水子がたくさんいる。(この教団では未成年で亡くなった人はみな「水子」と呼んで、いわゆる堕胎・流産だけではなくて、幼児の死亡も「水子」と呼ぶわけです。)「悪い霊の因縁で今の不幸が出ている。荒神さん

――かまどの神様ですね。京都にも荒神橋があったりします――に、悪霊を追い払ってもらうために65万円を出しなさい」と言うわけです。

その後、またいろいろ言われます。「変死している水子の供養をしなければならない。これは、両家でしなければならない」両家というのはお嫁さんの実家もということです。一家で100万円、両家で200万円ということになります。もちろん、その段階では、そんなお金がある訳がないのです。すると「『週1参り』というのがありますから、それに来なさい。そうでなければ、供養ができません」と言われます。週に1回ずつ参るのですが、入信教師から導師がいまして、その後に僧の位があるわけですが、そういう方々が順番にいろいろな悩みを聞き、「供養しなさい」と言う。それがずーっと流れて行くのです。



植田弁護士の講演に耳を傾ける国宗会員の各師
更に、この教団では「尽誠縋行(じんせいすがりぎょう)」と言って、高野山に2泊3日の修行に行くのです。睡眠時間も乏しくて非常に厳しい修行ですが、そこで1人ずつ呼ばれていろいろ言われるわけです。このご主人が何と言われたか……。「先祖などの因縁であなたの家は絶家する。その不幸が今、長男に来ている。すぐに、因縁を断ち切らねばならない。消縁仏を作って供養しなければ大変なことになる1体で200百万円、2体で400万円出してください。あなたがた夫婦と長男夫婦で、弘法大師像と降3世明王の像を1体ずつ造りなさい。不幸をなくすためには、ぜひ、祀らなければならない。これをしないと、もっと大きな不幸が来て大変なことになる」ということでした。

長く週1参りを続けて、お金の無い中で1枚2円のチラシを5万枚買わされて、毎週土曜日にマイクロバスで「修行のため」と称して、配りに回らされていくのです。そのチラシには「霊能師によってあなたの不幸を救済する」ということと、お寺の連絡先が書かれています。こういうことで、非常に熱心な信者になってしまいまして、結局、合計630万あまりのお金を出していきました。しかし、そのお金はどうやって調達したかといいますと、サラ金から借りて来たんです。手元にお金はないけれど、「出さなければだめだ」と言われるわけですから、そのような形になっていくわけです。

この問題は、教祖である西川義俊の、いわゆる「霊視商法事件」と呼んでおります、「霊能師によって祟たたりを見てあなたの不幸を救済する」というものになって行きます。東京の方がメインだったわけですが、全国で多くの訴訟が起こされました。大阪にはふたつのお寺ができました。組織では大運寺と大戦艦と呼びまして、福島のところと大阪のど真ん中の2カ所ありまして、特に大戦艦というお寺は「月に1億円の売り上げを上げなければならない」というのです。


★裁判の行方

この事件につきましては、後に、名古屋の「満願寺事件」という詐欺事件として逮捕事件に発展していった。刑事事件としては、その時の大勢の「僧侶」と名の付く人たち――もともとは様々な悩みを持ってここへ行き、人を救済するという美しいシステムの中でなんとか、自分の世界を開眼しようと思っていた人たち――が逮捕されていきました。この刑事事件では、西川氏は6年の実刑の懲役ということでした。

民事事件に関しては、ご承知かと思いますが、本家本元は茨城県の本覚寺という所なので、週刊誌などでも「本覚寺商法」と話題になりました。真言宗醍醐派を名乗っておりまして、一応、この人物は京都の醍醐寺で修行したことはあったわけですが、明覚寺という立派なお寺を高野山(註:地名としての高野山)に建てたものですから、それを高野山真言宗の総本山である金剛峯寺の奥の院だと思って行かれる方がいたりして、高野山(註:教団としての高野山)も弱ってしまったんです。

この教団(明覚寺)の幹部が逮捕されまして、被害弁護団側は破産申し立てをしました。東京の上野が本部になっていましたので、東京地裁への破産申し立てをしました。約2、300百億円の被害の回復のため、財産をあちこち探したが見つからなかったので、それならば、財産が散逸する前に破産させてしまって、破産管財人の管理下に置かせなければならない」ということで破産申し立てをして、その上で、全国での民事賠償請求ということになって行きました。片方で、名古屋では刑事裁判が進んでいったということです。

先ほどの、高野山の件では、金剛峯寺が「うちと間違われて、あの明覚寺のほうにどんどん参拝者が行かれてもたまらない」ということで、寺債といいますお寺の社債のようなものを発行されて、被害弁償額に相当する金額で、明覚寺(の土地建物)を買い取るということになったんです。それが、被害弁償に回っていったんです。

この事件における、民事訴訟は全国にたくさん起こっているにも関わらず、その判決は大阪地裁・高裁にしかないのです。それは全国各地の弁護団の性格にもよりました。大阪では私が弁護団長で、十数人の弁護士と共に闘っていったわけです。大阪地裁しか判決が出なかった理由はこういうことです。「向こうとしてはお金が出せる。和解でなければ、なんとかして時効を待つだろう」という話が、ずるずるあって、訴訟が続いていた。

大阪では、古くから、宗教(詐欺被害)に関係する裁判がたくさんあったのです。祈祷していながら死んでしまったとか、傷害事件、刑事上のものがあったり、民事上もパラパラ判例集に出てくるようなものがあることはあった。ですから、この大事件を民事上ひとつの判決も無しに、ことを収める(和解する)としたら法律家として恥ではないか……。われわれの役割は、ひとつの行為があった時に、それが法律上どう評価されるか、法律的にきっちり責任を負ってもらうことではないか。それを明確にするということは、お金を取りに行く(示談で済ませる)以前に、弁護士に課せられた使命ではないか。これが、私の基本的スタンスです。

全国弁護団としては和解したくてしょうがない。大阪としては判決を取る。内部の路線対立がありました。最終的には、大阪は判決も取って、示談金も取ると……。判決を取った時に、「もう、大阪だけはずそうか」という声もなきにしもあらずでした。相手方にとってみれば、大阪弁護団は許せない。お金(賠償金)も取って、なおかつ判決も取ってくる。

しかし、大阪側としては「結構だ。お金は要らない――本当はお金、欲しいんですよ(笑い)。お金は要らないけれど、やはり判決を取って、これを宗教詐欺判決のひとつの歴史として残さなければいけない。もちろん、判決は勝つか負けるかわからない。けれど、闘った成果は判決として残す」と決めていました。最終的には大阪のOKが出なければ、高野山(真言宗)が円滑にそのお寺を手に入れられないという状況に追い込んでいったんです。「大阪の意見聞かずして、この和解は絶対に成り立たせない」という手をいろいろと組んでいきましたので、判決も取って、賠償も受けられました。

この過程で明らかになったのは何か?1カ月で1億円のノルマ……。九州、大阪、名古屋、札幌が大戦艦である。そのノルマを達成するためには、当然ながら、マニュアルが作られているんです。豊田商事事件でもそうでした。「言っていることが同じだから、どこかにあるはずだ」と言っていたら、それがマニュアルとして出てきたんです。


★明覚寺の敗訴

 マニュアルにはいろいろなことが書いてあるんですが、「これはすごいな」と思います。「相談者は教師の頭のてっぺんから足のつま先まで見ている。抜かるな。甘く見られるな。慈悲の上の厳しさということを認識させよ」とか、「このまま放っておけば、地獄に堕ちる」とか、「先祖のマイナスの血があなたの中に入っている」等々、まぁ、実にいろいろなマニュアルが出てきました。ロールプレイングといって、先輩が入信してくる役、後輩がそれを説得する教師の役で特訓をするんです。何を言われても大丈夫なように……。数週間から数カ月の特訓の後、「現場」に送り込んでいたのです。

 判決は、組織についてなど、ずっと長いのですが、この点につきましては、「このような証拠からすれば、被告・明覚寺の僧侶らは、因縁や霊障を見極める特殊な能力は無く、ただ、供養料獲得のマニュアルやシステムに則って、執拗に因縁や霊障の恐ろしさを説いて、原告等を不安に陥れ、供養料を支払いさえすれば、不幸や悩みから逃れられると誤信した原告等から、供養料名目で金銭を支払わせていたと認めるのが相当であり、これは宗教行為として違法というべきである」という形で、全額の賠償義務を認めたというものです。

 この判例は、大阪高裁にも行きまして、それをそのまま認めるということになりました。明覚寺側からは「信教の自由の侵害である。他の教団でも、同じようにやっているではないか。なぜ、うちだけがこのようになるのか」と反論があったわけですが、「宗教行為として通常の社会で許される範囲を超えている」という形で民事上、刑事上、両方の刑罰、義務を認めたわけです。


★「法の華」事件

 これも膨大な資料の中の1部を抜いてきましたが、先日、この事件の判決が福岡で初めて下りました。今、逮捕されております「法の華」の福永法源であります。初めは、静岡の天声村を中心にして、静岡の弁護士1人が一手に全国の被害を請け負っていましたが、受け切れなくなって、大阪でも霊視商法の弁護団、十数人に事件を受けていただきました。

 結果として、大阪にも法の華3法行の被害弁護団ができましたが、私は、ふたつの弁護団長はとても辛い。たまたま、暇そうな弁護士がいましたので(笑)、その人に弁護団長になってもらいました。大阪は、後発組だったものですから、原告は2、30人と非常に人数が少ないです。全国では、数千人に及ぶわけです。

 今、法の華3法行が取得した金額は700億円前後と言われております。ですから数千人と言っても、損害賠償が出されているものはほんの1部でしかないわけです。大阪地裁では、組織が小さかったぶんだけ、手続きが非常に早くて、次回が最終結審で、その後、判決ということで進んでおります。それよりも一歩早く、福岡の方で判決が出たわけです。

 この被害者の方は、娘さんがまず入信したんです。本を読みまして、アンケートを出しました。アンケートを出すとすぐに、大阪支局――今の関西支局――からアプローチがありました。ここで何があったか?「ゼロの力学」です。「人間というのはいろんな形で不幸がある。いろんなもので心を動かされ、不安になったり人を傷つけたりする。マイナスを刻む。それを刻まないようにしなければいけない。そうすることによって、要するに、人生は豊かになる。それは何か。それは、『頭を取る』ことである。『頭を取る』ことによって、マイナスを刻まなくなる。マイナスを刻まなくなると、『ゼロ』という状況になる。この『ゼロ』というのは、『頭をとる』のと、マイナスを刻まない『ゼロ』。これは科学である。これは宗教ではない」ということを前提に、何によってこれが示されているのかというと、かの有名な福永法源の『天声』であります。

 「『天行力』という天の力が全てのものに与えられている。皆さんにも頭から『天行力』が降り注いでいて、足元から地下に下りていく」という形を基本としているわけです。そこで、何をしていくのかというと、『足裏診断』です。「『天行力』が1番最後に下りていったその足の裏を見れば、不幸が判る。『頭を取れ』ば、『天行力』がサーっときれいに流れて行って、マイナスがなくなって、全てがうまく行く」と言うのです。

 この被害者の方は、ご主人が40代で亡くなられて、お2人のお子さんを育てられた。その娘さんが先に入信されたわけです。娘さんは、結婚しないで、若干、年が経っていたので、「赤い糸が無い」ということを言われて、この娘さんはとうとう「天仕」――この教団では全て「天」が付くんです。ここはいろんな修行をさせます――で「7観行」をします。7つの言葉です。「今日も明るく仲良く感謝して生きましょう」などの言葉があるんです。

 経典は何かというと『般若天経』です。大乗仏教の『般若心経』の「心」を「天」に換えただけです。ここで何が言われるか。「お母さんが頭を取らなければなんの意味もない。親子は血が繋がっているんだ。お母さんがしないから、娘の足を引張っている。頭を取らなければ癌になる――このお母さんは血圧が高かったんですが――このままでは動脈硬化になる。お父さんが早死にしたのもそのためだ」と周りからお母さんにもいろいろ言われるんです。娘も「私、お金がほしい。東京に行く」と言う。最終的に、約200万くらいのお金が取られていったわけです。

 更に、息子さんは結婚されているんですが、お子さんがいなくて、銀行に勤めておられるんですが、この銀行は倒産とか合併を繰り返しているんです。「子供がいなくて、不安定な職場になっているのも、全て、今の状況を見ると、もっと最悪になって行く。奥さんは子宮癌になって、このままでは離婚する。赤い糸が非常に薄い」と言うんです。「赤い糸」だなんて、昔、バーかクラブで「僕と君は赤い糸で繋がっているね」とかなんとか……(笑)。その程度の言葉が、堂々と金になっているんです。

 娘さんは「私は『天人』になる」と……。お母さんはお金を出して、もうお金が無くなっています。そんな中で、娘さんが何を言ってきたかというと「私は『人間社長』になりたい」と……。そのために500万いる。しかし、お母さんはもうお金が無いですね。弟が「もう、お母さんからお金を取るな」と言います。それでも姉は「お金が要る」と言う。そこで、弟が「今、20万ある。もうこれが最後だ」と言います。縁切り状態で「もう会いたくもない」と言うんですが、娘さんはまたすぐに親元に来ては、お金をせびっていくんです。

 そのやり口がすごい。ほとんど面識も無い、お母さんのパート先の社長さんの所に行ったり、親戚の玄関先で土下座をしたりするんです。そこまで異常なことをしてしまうんです。弟が「もう会わないのなら」と約束させて20万を渡しても、数日後にはお母さんの所に行っているんです。そして、何と言ったか。「お母さんには保険があったはずよね。この保険を私のために解約してほしい」と言うんです。お母さんは、「この保険は、もう何も無くなって、最後のものなのよ」と言いますが、娘さんは「お願いお願いお願い……。」そこで、お母さんは「あなたが私と『縁を切る』と言うのなら、解約してあげる。でも、それはお母さんに『死ね』と言うことよ。お母さんに『死ね』と言ってもやるのかどうか、一晩考えなさい」と言います。

 翌日、お母さんは、娘さんがさすがに考えてくれただろうと期待しています。娘さんは、「お母さん、夕べ一晩考えたけれど、やっぱり、この保険金、解約して」と言って、保険の通帳などを持って帰っていった。


★同じパターンのマニュアル

 結局、ここにも多くのマニュアルがあったわけです。これだけの金額を集めていかなければならないのですから、中途半端なことでは、お金など集まるわけが無いのです。足裏診断マニュアル。「足の裏を見て、『このままではいけない。とにかく、今すぐなんとかしなければいけない』という気持ちにさせる」とか、「地獄行き、生き様から。足裏を見る準備‥足裏を見て、まず、第一声を吐いて相手をびっくりさせる。あなた、このままでは癌になるよ。汚い足裏ですね。相当、血液を汚してきたね」等々、延々と書いてあるんです。これが有名な「足裏診断マニュアル」の実態です。

 こうして組織に入れられた人は、更に、例えば支部長研修費30万円、解脱費用がこれだけ要る……。払えなくなったら、ある場所に呼び集められて、事実上監禁状態に置かれまして、「半分、身内からお金を集めてきたら出してあげる」ということになるんです。


★被害者が加害者になってしまう 

 マニュアル通りに奪い取って、組織に入った人には、更に、例えば、支部長研修30万円、解脱するための費用がこれだけいる……。払えなくなったら、組織の中で活動していた人は、東京渋谷に天気エネルギー館という所があるんですが、ここに呼び集められて、事実上監禁状態に置かれまして、「命じた額の半額を身内関係から集めてきたら出してあげる」ということになるんです。

 兵庫県のある支部長は――今では関係者ではありませんが――被告となりましたが、養老施設に入っている親戚から6、7000万取ったんです。本人は早朝から深夜まで無償奉仕です。東京に信者さんを連れて行ったりするのも、全部自己負担です。結局、お金が無くなって、サラ金から借金せざるを得なくなって、それでも頑張ってやっている。その挙句が、監禁状態になって「金を持ってこなければ、ここから出さない」という形になって行ったわけです。別に武器を持った人がいるわけではないのですが、入り口には監視の人がいて、1日3回弁当が配られて、あとはお祈りと掃除なんかをそこでしているわけです。結局、この方は息子さんと連絡を取りまして、そこを出た後、自己破産をいたしました。それなのに、大阪の「法の華3法行」裁判では、その人は被告の立場に立たされています。

 全て天声で天納金――統一教会では献金と呼ばれます――が決められていて、人のために3分の2、教団に3分の1と決められているのですが、実態は、過去10年間にわたって毎年2カ月間くらい、福永法源と家族はホテルオークラのスイートルームに滞在しています。その額は1泊50万円です。そういう形でお金が使われている。それも、全て福永法源に言わせると天声です。

 法の華の問題は、これから結論(判決)が出て来るでしょう。統一教会にも損害賠償等、いろいろな判決があります。国際合同結婚式がありますね。献金を持って韓国へ行って、見も知らない人と結婚させられるというものです。万物復帰……。文鮮明(ムンサンミョン)が現人神というのか、教会の天の使い人のようなものです。神様以上と信者さんからは思われている人です。彼にそういう形で結婚させられて、結局は離婚裁判になる。

 最初は、街中でアンケートやビデオ研修などのところに連れて行って、人生問題から始まるカリキュラムの中で、統一教会というものが出てくるわけです。その組織の中で活動を始めますと、「経済活動というのは、身も心も天に上げることである」と教えられます。「天に上げる」というのは、献金して神様に戻すということなんです。財産を持つということは、そもそも人間が原罪を持っていて、その原罪を洗い流すためには、自分の身も財産も全部渡さなければならないというんです。それが統一教会の献金ということである。

 ですから、それこそ過酷です。アパートも非常に悪い所に居て、いろんなものを処分して金に換え、ビデオセンターに入れたり、全て自己犠牲的な精神でやって行く。そして、合同結婚式のためにお金を作る。挙句の果てに、自分の人生がめちゃくちゃになる。そうすると、「結婚は虚偽の結婚である」として、婚姻無効の裁判が全国で起こっている。韓国で遭あっただけの人ですから……。「私の人生はどうなったの?」と……。通称「青春を返せ裁判」と呼んでいます。裁判所では、「自らが組織の中に入って、積極的にやって、被害者とは何事か。加害者ではないか」という形ではねつけられているのですが、「対社会的にはともかく、組織内では被害者ではないのか」というのが、片方にあります。

 本人からいえば被害者ということになりますが、先ほどの法の華の支部長も陥っている過酷な状況……。しかも組織の外から見たら、この人は完全な加害者ですよね。全部財産持ち出して、最後はサラ金から借金して、自己破産までした。朝6時くらいから夜12時過ぎまで働いた。結果としては「あなたは犯罪者だ」ということで、6000万から7000万の賠償請求を受けているのです。

 オウムでは、もう明白ですね。生命(いのち)まで奪ってゆきました。坂本弁護士の奥さまの都子さんは、私が親しい東京の弁護士事務所の事務員をされていた。坂本弁護士とは、私の同期が横浜法律事務所で共に働いていた。こういう殺人事件が「ポア」という言葉をもって、「その人のため」ということでなされていった。この状況の中で、われわれはどう、これを考えて行くべきかということです。


★日弁連の宗教活動ガイドライン

 今日、資料としてお付けしておりますのは、日弁連の『意見書』の結論部分です。実のことを言いますと、これがトップに来るはずだったんです。そして、題名は『宗教活動に関するガイドライン』ということで出したかったんです。ところが、日弁連の執行部は「宗教の自由という観点から、いかがなものか」と腰が引けて、結局、意見書になってしまったんです。「これがガイドライン(この一線を超えると違法行為になります)ですよ」というのを冒頭に掲げて、その解説を付ける予定だったのが、結局曖昧な形で文章の間に入らざるをえなかったという、非常に残念な結果になったわけです。

 今ここで、弁護士としては、宗教に対して「あるべき宗教として何を求めたか?」ということです。いろんなことが書いてあります。大きく分けると3点です。第1点は「意志の自由を確保する」ということです。内心の自由を積極的に割くような形で、殺人ということまで強制し、生活の細部まで決めるようなことは絶対にあってはならない。信教という名を借りて、「金を持ってこなければここから出さないよ」なんて、とんでもないことではないか、ということになった。

 それから「行動の自由」。昔から宗教活動というものはコミュニティを作らざるをえない。今日、ここに私が参って、こういう話をするというのと、皆様が社会活動として宗教活動をなさっている、その部分にも、ある意味で非常に重複してくるでしょう。それは、片方の面から見た場合に、宗教の持つ社会的部分を、宗教家は突きつけられねばならない。宗教には、似非(えせ)宗教とそうでない宗教があるであろうか? 私の考え方としては、それは「ない」と言わざるをえない。宗教は、ベースに狂気を含まないとならない。含まなかったら、宗教にならないと考えるわけです。

 最後は「人権の確保」ということによって成り立っている。人間は自由でなければならない。精神が、行動が自由でなければならない。そして、権利は守られなければならない。権利とは具体的には何かというと、法律的に言うと、生命・身体・財産のことです。宗教の名の下に殺されてはならない。宗教の名の下に傷つけられることも許されないことである。宗教の名の下に財産を奪われることも許されることではない。

 もうひとつ言えば、生命・身体・財産だけではなく、生活も守られなければならない。最もひどい被害を受けるのは誰かということなんです。実のことを言うと、家庭が崩壊していくんですが、その中で、特にお母さんが信者になると、子供を連れて行ってしまいます。子供の環境は劣悪ですね。お母さんは朝から晩までどこか行ってしまっているんですから……。子供は放ったらかしにされているんです。カップラーメンか何か与えられているだけなんです。社会活動に参加し、知識教養のあるまともな社会人に育てられないんです。人間が人間であるためには、人間として教育されなければならないんです。それがなされなければ、人間ではなくなってしまうんです。その原点をつぶしてしまうようなことが、実は宗教の中に見られるわけです。ですから、この「生活の確保」ということが必要です。

 それによって、今までの具体的な現象面について、ガイドラインの骨子がこの第3の部分だったわけです。意志の自由・行動の自由というのは主体性の確保なんです。その権利を侵害してはならない。次に、「主体性の確立。自分の足で歩く強さ」これは、宗教と人間との関わり合いをどう見るか? 従来、宗教の中に倫理や道徳があるとされてきたんです。それが、一挙にこの10年くらいの間に覆(くつがえ)されてしまったわけです。


★人間性を逸脱した先にあるもの

 人間はいろいろなものに帰依し、よすがにして生きていくわけです。「人間としてどうあるべきか? 幸せになるためにはどうあるべきか?」ということは、宗教の中でも、土着的宗教ですね。それに対して、国境を越えていく宗教、即ち、倫理的・哲学的普遍性を持っている、人類としての考え方を持った宗教は世界をぐるーっと回ってくるんです。

 その普遍性を持った宗教というのは、仏教、キリスト教、イスラム教などです。それらの他に、土着宗教があります。土着宗教では、人間は大いなるものに対して平伏する。人間の能力を超えたものに対して帰依すること。それは汎神論に繋がります。川には川の神様が、太陽には太陽の神様が……。これは、各文化共通ですね。ヨーロッパにおいては、太陽の神はアポロンであり、酒の神はディオニソスであったり、バッカスと呼ばれてみたり。1番神格の高い神はゼウスであり、日本では、これを太陽の神と結び付けて、天照大神と呼ぶわけです。このように、いろいろな形での汎神論というものが一方にはあるわけです。

 そういったものの帰依……。そういう形で大いなるものに人間が服従していくこと自体、不自然なことではありません。しかし、今、出て来ている現象は何か? 「頭をとる」修行――「こだわりを取ることが幸せである」――。この、抽象的な所から判断力を無くさせていくんです。法の華3法行の4泊5日修行では、睡眠時間は合わせても5、6時間です。これで、最初は120万が参加費用で、最終的には225万ということになっていったんです。もちろん、その後も解脱費用うんぬんがあるんです。

 教団の中に入る。オウムなんでもそうですが、サティアンの中に入ると、何か素晴らしいものがある。そこにはインドの哲学――大乗仏教的なものをベースにどんどんやっていって、挙句の果てには、そこにはパラダイスがある。世の中の世俗の汚いものから逃れられて、まさに、修道院のような生活ができることで、人を傷つけることなく、安住な心を持てる。まじめな心を持てば持つほど、この俗世間から逃れたくなる。逃れる先は、いったい何だったんだろうか? 逃れる先は、人を連れて来て、お金を取って、場合によっては焼き殺してしまうことだったのか?

 人間は、生きていくには所詮、人間でしかないではないか? 雀でも鳩でもなんでもそうです。生きるために自分の足で餌を採りに行かなかったら、死なねばならない。人間も同じ定めです。食べなければ生きていけない。歩かなければ、汗を流さなければ、生きて行けるはずがない。それでは、サティアンの中に何があったのか?人を犠牲にしなければ、食べられない構造であったのではないか……。そこに、空中楼閣の組織があったのではないか。そこに、オウムという他人を傷付けなければ存在できない組織があったのではないか……。

 人間が人間として生きていくために何をしなければならないかということを、自分の頭で考えることを全て誰かに預けてしまった。その先に何があったのか? 人を殺すということが幸せであるという、常識では考えられないところへ行ってしまったということです。

 問題提供ということで、私の話をいったん終わらせていただいて、また、皆さんのお話を聞かせていただきたいと思います。ありがとうございました。(講演おわり)




大阪国際宗教同志会平成12年度総会第2回例会質疑応答
宗教と詐欺・脅迫

司会 植田先生のご講演を受けて、質疑応答の時間に入りたいと思います。

葛葉 臨済宗妙心寺派の住職をしております葛葉睦山と申します。よろしくお願いいたします。今日は、ためになるお話をありがとうございました。『宗教と詐欺・脅迫』という演題を拝見いたしまして、「これは是非とも拝聴しなければならない」と思って参ったわけです。「宗教」と「詐欺・脅迫」というものが対に表現されているところに、私自身、なんともやりきれなさを感じると共に、大きな鋭い刃を突きつけられた気持ちで拝聴しておったわけです。いろいろ感じるところはあるのですが、脅迫や詐欺に応じざるを得ないところまで追い込まれるという人間の弱さがよく解り、思いを強くしました。

 その中で、「(各自の)主体性の確立が大切なんだ」とレジメにもありますが、全くその通りだと思います。何が正しい信仰で何が誤った信心なのかということを、人々に培つちかっていただくことが、私たち宗教者の大きな役割であると思っております。しかし、実際には、こういう問題がいくらでも起きてきている。そういう状況が私たちの周辺にあるわけです。

 例えば、私は高槻という町で住職をしておりますが、「墓標に露のかかるのは良くない」といって悩んでおられる方がいらっしゃる。そんなことひとつひとつが小さな芽となりまして、結局は詐欺・脅迫に応じざるを得なくなっていくのではないか……。さて、そこで弁護士という大事なお仕事を続けてらっしゃる先生からご覧になりまして、今のわれわれ宗教者に対して「あなたたちはこうあるべきですよ」ということを端的にご指摘をいただけないでしょうか。

植田 ありがとうございます。先程「宗教には狂気が付きまとう」と申し上げました。宗教は人間にとって必要なことなのかどうか?そこで言われますのは「天国であれ地獄であれ、それを見た人はいるのだろうか?」ということです。見たこともないものを設定して、そして不安を増幅して脅す。すなわち、脅しをベースにしながら、「実は幸せはすぐそこにあるよ」と言うのは、もしかすると、宗教の原点にあったのかもしれない。また、それがないと正義が成立しない。どこかで閻えん魔ま様が最後の審判をなさらなかったら、耐えられないものがある。人間はイメージを働かせながら、まだ見ぬ国であっても会話の中でそれを膨らませ、われわれの社会をある意味では豊かにしてきたんです。

 しかし、そこで話されるものは見えないものである。ですから、いかようにでも絵が描けてしまう。不安な人に対して、主体性を持たない人に対して、いかようなことでもできてしまう。人まで殺させることができてしまう。そういう意味で、極めて怖いことである。「宗教は阿片である」これは共産党政権も消えた今となっては死語みたいなものですが、中世の歴史が人間の視野をものすごく狭くしたことによって、「あなたがたは、なぜ幸せにならないのか?宗教の因習によってきたのではないのか?」とマルクスが考えたとしたら、それは極めて正しい指摘だったのかもしれないと思うわけです。

 そうすると、宗教はある意味では人を豊かにし、またある意味ではとてつもなく怖いものである。じゃあ、宗教は何ができるのか?「過去の遺物である宗教など、もうなくしたほうが良い」という考えがありうるのか?ひとつの立場としてはありうるかもしれない。こういったことは、やはり突きつけられた問題だと思います。

 「宗教がこうあってほしい」ということを赤裸々に述べますと、私の取り扱っています事件で、目の前にいるのは苦しんでいる方々です。そのほとんどは人間関係の係争です。それがどこで発生しているかというと、親子・兄弟・夫婦の間でです。これが原点です。無関係な人が、通り過ぎる時に「お前、ガンつけたな」ということでは、裁判は起こってきません。そこにおける人間の対立は、最初は「こんな素晴らしい人はいないわ」、「こんな美人はいない」と結婚した。それが、結果としては年間20万件を超える膨大な離婚訴訟になっていく。間に赤ちゃんを挟んで争うという状況をわれわれ弁護士はどう解決したら良いのか?一方では法の権利、もう一方ではその人の心の中で、何をすれば悩みが解決し、その人の人生においてその裁判がどういう意味を持つものであろうか?ということになるんです。

 われわれ(弁護士)は所しょ詮せん、第3者です。しかし、第3者の目で見て「この人の悩みの原因となっているものを取り除くことができるか?」ということを考えるのです。実は、不幸な人たちというのは、医者からも見離されていたり、まさに神仏に助けを求める以外にないのです。「透析であんたの癌は治るよ」なんて言ったって、たくさんの献金をして、供養金を納めて、きっちりと死んでいくんです。死んで「だまされた!」ということになるんですが、今の医学では救われない人たち、不安を持った人たちに「いや、実際には神も仏も存在しないよ」ということで見捨てるということは極めてクールな立場です。

 ただ、人間がどう生きるかということですが、人間は考える生き物でありますから、そしてイメージする生き物でありますし、生があって死があるわけですから、今、ここに生きている人が突然死んでしまったとしても、その人格が消えてなくなってしまったとはどうしても思えないんです。やっぱりそこには、その人の影や心といったものがエネルギーとしてどこかにあるのではないかと考えるのです。

 そういう意味では、人間から宗教性を取るということは不可能である。そして、宗教が多くの救済に繋がっていく要素を持っているのでしょう。皆さん方の中で、そういった苦しみを持った人がやって来た場合、宗教という今まで培われてきた知恵であり、皆さん方ご自身の知恵であり経験が、もしかすると多くの人々を救うものであるかもしれない。ちょっと見方を変えるだけで、今まで全く価値のない存在だと思ってきたものが、実は自分を支えてくれる大きな存在だったという見方もできるかもしれない。

 宗教者としての立場というのは何かというと、悩んでいる人と一緒に、その立場になってものを考えられるかどうか……。それを詐欺・脅迫というのは正に裏表の関係なんです。天国と地獄があるのと同じなんです。その中で宗教の持つ価値というのは何に力点を置くのかに出てくるのです。詐欺・脅迫になってしまったのは、同じことを言いながら、実は組織維持のためであり、金のためでありというところに力点が来てしまったのです。

 不幸を持った人たちが来たわけです。その人たちの立場に立って、救済できたであろうに……。最近、弁護士も信用されなくなりました。被害者からお金を預かって使い込んでしまった者もいました。弁護士は正義の味方なのか? それとも世の中で1番怖い職業なのか? 嘘八百をついて、法の武器を持って言いたい放題やりたい放題……。そして、人の金まで横領してしまう……。光の部分で人を救済するのに、闇の部分で専門的知識と信頼を裏切ってしまう……。裏と表の構造を弁護士自身が持っているのです。

 同じ問題が宗教者にもあるでしょう。私にとっては、「私が弁護士として、その人に何ができるのか」考えるのです。そうすれば過ちは多分ないでしょう。それが「私の利益のために目の前の人を利用しよう」と思った時点から、事件を見る眼が曇ってくるのでしょう。宗教のマイナスの面を被害者の目から紹介したわけです。しかし、宗教者は長い歴史の中で多くの人を救ってきたのでしょう。その宗教の役割は何だったのか。それは、自分のためではなくて、目の前で苦しんでいる人のために宗教者として何を考えたのか、ということです。「本当に心から恥じない宗教者としての活動ができたのだ」と思えるのならば、私はそこに宗教の価値が大いにあるのではないかと思います。

司会 ありがとうございました。考えてみますと、宗教家・弁護士・お医者さん、皆、人の不幸が仕事の前提になっているようなところがあると思います。これらの職業は両刃の危うさを、出発点から孕はらんでいるということを植田先生から教えられまして共感いたしました。次の質問の方はいらっしゃいますか?



大阪国際宗教同志会平成12年度総会第2回例会質疑応答

宗教と詐欺・脅迫
弁護士 植田勝博

(片岡) 住吉大社権宮司の片岡友次と申します。おっしゃる通り、宗教と人間の狂気というのは両刃の剣のようなもので、よく解ります。植田先生は弁護士として、宗教の世界にどの程度、入り込めるのか?今のお話の中でも、オウムですとか統一教会とか、法律的な面での被害というものはある程度、(損害賠償請求など)法律によって救われる面もあると思います。しかし、法律そのものが、果たして宗教の世界にまで入り込めるのかどうか?その点について先生のご見解を伺いたいと思います。

(植田) 弁護士という資格を取るために机に向かって、あるいは仕事を通して社会で学んできたのは「信教の自由」ということです。ところが、ここで言う「信教の自由」というのは、宗教が権力によって迫害されてきた歴史的コンテキスト中での「信教の自由」のことを指しているのです。そこはアンタッチャブル(不可侵)な世界。ところが、現在は、「信教の自由」が(法制度的に)完全に保障されているにもかかわらず、宗教は宗教の世界で、「法が関与しない」ということがかなり手厚い形で制度としてありました。
 私の個人的見解を申し上げると、素晴らしい法律家というのは素晴らしい宗教家でもあってほしいと思うわけです。悩み苦しみなどは生きている間の悩みであり、苦しみなんです。そこにおいて法的な救済がどこまで行くか……。例えば、夫婦の離婚の事案で、相手を徹底的にやり込めるのが勝ちという形で、相手を無職にしてしまって退職金も全部奪い取ってしまうということもあるでしょう。しかし、子どもがいる場合、子どもにとってはどちらも大事な親なんです。ですから、相手を徹底的にやっつけるということは、場合によっては自分の基盤も傷付けることになるんです。事件の関係者を含む多くの人々に対して適切な位置づけと道筋を与えられたら、一番素晴らしいことです。
 今の答えは多分、ご質問に対する答えになっていないんだろうと思います。法律はどこまで宗教に入り込めるのか?ここが限界ではないのか?これについて述べようと思うと、もっともっと時間を頂きたいのです。法律は権利・義務、いわゆる法の強制力、国家の物理力です。慰謝料でも相手が払わなかったら執行官が行って、妨害したら警察が逮捕して、財産を取って来てあげるというのが法の世界です。
 宗教の世界は、法律の世界では成り立ち得ないことです。軋あつ轢れきがいろいろな形である。それは、法の執行官や警察を連れて来て相手を刑務所に入れることができないような、その世界。そこには法のひとつの限界がある。しかし、法によって解決できる事件のその根っこにあるものを解決しないと、良い解決にはならない。裁判所で判決によって勝つか負けるかだけでは、物事の本質は解決しないのです。法のひとつの限界は、法の現象面で現れたものをより自主的に根っこから解決しようとすると、実は宗教的世界まで行かねばならないというふうに思えるのです。

(司会) ありがとうございます。仏法もダルマ(=法)、リーガルマター(法務事項)も日本語にしてしまうと「法」ということで、同じ言葉になってしまうんですけれども、その辺りに共通する精神があるように思います。
 伝統仏教、神社神道の先生からご質問を頂きましたので、次は新宗教かキリスト教の先生からご質問を頂きたいと思いますが、どなたかいらっしゃいますか?

(村山) 日本基督教団の村山盛敦です。日頃、私が考えていますことを申し上げます。宗教というものは、人間がいるからあるのだと思います。人間がいなければ、宗教はないと思います。
そういう立場で、全く私の個人的なことですが、人間関係=人間の問題が1番大きく取り上げられて宗教に入って来ていると思います。ちょっと極端なことを言いますと、私には「たとえ、(国家の)法律に反してでも守るべきもの(信仰)」が自分自身の中にあります。宗教の中には、世俗の法律を破ってでもやらなくてはならないことが実際にあります。質問になっていないのですが、僕はそういうものが厳としてあると思います。
 人間というものをよく見ていく場合に、プラスの面と同時にマイナスの面があります。マイナスの面について、私共はそれを一生懸命取り扱っていますが、同時に、人間のプラスの面を私は信じています。それを本当に自覚するといいますか、その面が人間を超える所から光が射すのを求めていると思います。私自身はそのように考えていますので、私が信じている立場(註=プロテスタント)から言いますと、最後は「法律を破ってでも厳然として立つ」という面もありますが、先生、その点はどうお考えになりますか?

(司会) 村山先生ありがとうございます。イエス様も法然上人、日蓮聖人も皆さん当時の(国家の)法律を犯して捕まったり殺されたりしたわけですから、その点で言えば、宗教家というのは厳然とした主体性を持って、場合によっては為政者や法律と反するということもあるわけで、非常に本質をついたご質問を頂いたと思います。植田先生お願いします。

(植田) まさに、宗教改革や今残っている宗教文化にしても、お釈迦様もキリストも、あるいは鎌倉仏教やプロテスタント等々、全て従来の制度を打ち破って新しい宗教を創り上げてこられた。これは宗教と政治や法律をどう見るかという問題ですが、実は、これらは現在のように厳然と分離されてはいなかったんです。宗教イコール法律であった。だから、宗教裁判所があり、イスラムでは生活の隅々まで宗教の戒律によって決められています。これに反するものは、宗教裁判所で時には殺されてしまうかもしれないし、手首を切られたり鞭打ちの刑にされるかもしれません。
 伝統的社会では、法と宗教が一体になっているわけですから、新しい宗教を打ち立てることは即ち、既存の法体系に反することになるのです。その宗教がもたらしてきたものはなんぞやということだったんですが、宗教批判からいきますと、宗教のくびきがあったことによって、天動説地動説、進化論などどれだけ宗教は人間・科学の進歩を妨げてきたんだろうか。その結果「宗教と法律を分断して、宗教に支配されない法体系を作ろう」という形が、今のひとつの理想とされているわけです。
 「法律に反してでも信仰を」ということですが、接点がどこにあるか。一点は犯罪なんです。「法律に反しても正しいと思うから、私は殺しに行ったんだ」というのは許せないというのが法の立場になるんです。ただし、法律も文化を含んでいるんです。今の日本の場合では、今の日本の文化を含んでいる。その中には宗教的要素も結構含まれているのです。
 プラスの方向においての宗教とか、プラスかどうかは判りませんが、ある宗教家が彼の宗教的信念に基づいて「絶対に死刑制度はいけない」と死刑囚を連れ出して逃亡させるということが仮に起こった場合、一体どうなるのか。昔、ベ平連運動があったりしましたが、いろんな形の宗教者を中心とした政治活動が時には法を犯して行われることもあり得るということです。そこにおいて、囚人を脱獄させるとなると、犯罪になって犯人隠蔽であったり、問題が出て来て、私はそこのところでは裁判というものを通じてその人の人権を確保しようと思うものですから、法の限界があると思います。
 「不殺生戒を守るためには死刑制度は反対だ」と死刑囚をかっさらってでもいのちを救ってやろうということであれば、やはり法と宗教の乖かい離りが出てくるであろうと思います。そこまでいきますと、その人の生き方ということになって、法としては沈黙するしかなくなってしまうのです。法はシステムとして、裁判システムの中で行くしかないということなんです。

(司会)植田先生ありがとうございます。日本は実は、先進国の中では最も「世俗化された国」です。私たちが考える以上に、宗教と法律・政治・国家体制が分離された国です。日本人はそう意識しておりませんが、極めて合理的な制度になっております。ただ、これは制度上のことであって、人々のメンタルな面はまったくアニミズム的なものになっています。それと、日本人は、いわばキリスト教・イスラム教・ユダヤ教のような律法(宗教上の法律)を根本にできた国ではありません。「法律」をひっくり返しますと「律法」ですから、法制度と宗教の制度がひとつの同じ根っこからきた文化の国とは自ずから齟そ齬ごができて当然でございます。
 今、「法の華の事件」が世間を騒がせていますが、この問題は非常にシンボリックで、これが法の「華」になるのか「徒あだ花」になるのか判りませんが、そういうネーミングということも含めまして、本当はもっとお聞きしたいのですが、今日はもう時間もありませんので、またぜひ、このような機会を作りましてリターンマッチといきたいと思います。

(釈) 韓国曹渓宗の釈泰然です。この世の中、生きているものは、虫から人間まで、皆、因果関係の中で生きているのだと思います。それには、信じ合ってお互いに生きていくしかないと思うんです。それを超える問題はどこにあるかというと、どのようににしたら因果関係を超えて仲良く暮らすことができるか、本題は何かということをお聞きしたいです。

(植田) 因果関係というのは見事な論旨なんです。この因果関係をベースに、お釈迦様の四正道とかそういったものが組み立てられていくわけです。そして12因縁そういったものを作り上げて、それが大乗仏教にどんどん論理として発展して行きます。
 しかし、それらの論理が宗教のもたらした犯罪に見事に利用されているんです。「5代前の霊魂を供養するために百万円払いなさい」とか、「水子の因縁が長男のところに行っている」など……。今の(思わしくない)結果というものにはどこかに原因がなければならない。すなわち、手をかざせば影ができる。海の水は引けば満ちて戻ってくる。これらは自然の現象。それから、人間関係の、可愛がれば返ってくる。それから、敵意をもって向ければ反発される。どんどん「相乗作用」論でやっていきますと、実は、因があって果がある。縁というものを結び付けてやっていきますと、今の不幸を取り除くための手法として、因果関係は見事に説得力を持ちながら狂気の世界に引きずり込んでいってしまうということもあるのです。
 抽象的な形で因果関係というものを述べることは、法の目から見ると非常に危険なことに思えてしまいます。相手の立場を本当に思って言っているかどうかで、一方では狂気になり一方では薬になるのです。このことを十分に心していただきたいというのが法律の立場から見た視点であります。

(司会) ありがとうございました。本当に時間がなくなってしまいましたので、これ以上の質問は個別にお願いしたいと思います。植田先生、本日はありがとうございました。

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