大阪国際宗教同志会 平成16年度総会 記念講演
『日本人には何ができるのか?』

AMDA理事長
菅波 茂

2月28日、立正佼成会大阪普門館において、大阪国際宗教同志会(大森慈祥会長)の平成16年度総会が神仏基新宗教各派の宗教者70数名が参加して開催された。アフガニスタンやイラクの戦地で医療活動を行い、また、世界各地で発生する自然災害にも、早急に救援チームを派遣するなど、わが国を代表する医療NGOとして国際的にも高い評価を受けているAMDAの理事長菅波茂博士を招き、「9・11」米国中枢同時テロ事件を題材に取り上げて、世界の諸国民に対して、日本の意図をどうすれば伝えることができるかについて、解りやすい講演を伺った。本サイトでは、本講演の内容を順次紹介していく。


▼同志とは苦労を共にする関係


AMDA理事長
菅波茂博士

実は私、この普門館には本日で2回目の来訪になります。1994年にも一度お邪魔させていただいたことがあります。それは今、司会の三宅善信先生から紹介がありました、世界各地でいろいろな災害が起きました時に、私たち日本に拠点を置く救援活動を行う国際NGOが協力するための枠組であるJEN(日本緊急NGO)という協議体に、私共のAMDA(アジア医師連絡協議会)が加盟していた頃のことです。

先日のイラン大地震の時も、日本とインドネシアとネパールのAMDAチームが出動しようとしたんですが、イラン入国に必要なビザを取るために、いったんインドのニューデリーまで行かなくちゃならないということで、「それでは救命活動に間に合わない」ということで断念したという経緯がありました。それだけ調整協議が大切ということです。その『AMDA多国籍医師団の提唱と実現』というテーマで、たしか1994年だったと思うのですが、普門館をお借りしまして、最初の会議をやらせていただいた記憶があります。

あれからまさに10年が経ちまして、再び、この大阪普門館で、かつて議論させてもらった「世界各国の方が一緒に困難に立ち向かっていこう」というAMDAの活動が実現しつつありますことは感慨無量であります。また、2年前の正月に金光教の三宅先生のところで開催させていただいた人類共栄会設立五十周年記念シンポでの講演の際には、目に見えない部分(霊性)の問題についても、考えるきっかけを与えていただき、感謝いたしております。また、この普門館を10年前に貸していただいた立正佼成会様にも感謝しております。

最初に、私は、この国際宗教同志会という団体の名前にもなっています「同志」という言葉が大好きなのです。もし、人間関係に「同志」というものがなかったら、他にいくつ人間関係があるのだろうかと思います。これは私の独断なんですが、「人間関係には3種類しかない」と思っています。それ以外の人間関係は「赤の他人」であるしかないと……。では、3種類とはどういう人間関係かというと、まず、フレンドシップ、友人関係ですね。それから、スポンサーシップ、すなわち応援する・されるという関係、そして、パートナーシップという同志関係ですね。私たちAMDAはいったい何を目指しているかといいますと、この「パートナーシップという関係を世界中に作っていこう」ということです。すなわち、皆さん方が名付けられています「同志という関係を作っていこう」ということがAMDAの狙いなのです。

「同志」というのはどういう人間関係なのかと申しますと、「苦労を共にする人間関係」というふうに定義しておきます。では、なぜ「苦労を共にする人間関係」をわざわざ作るのか? といいますと、人間は苦労を共にした時、初めて、自分にはない素晴らしいものを相手に発見することができる。その時に、尊敬という関係ができますし、苦労がどんなに大きくとも相手が逃げないと判った時に、信頼という感情を持つことができます。すなわち、苦労を共にして初めて、その問題解決の過程において、お互い尊敬と信頼という人間感情を持つことができる。この尊敬と信頼との上に立って初めて、ものの見方や考え方が違う人々が一緒にやっていけるんだということです。

最近、しばしば「多様性の共存」という言葉を耳にしますが、人間ひとりひとりものの見方や考え方がみんな違います。個人的なバックグラウンドはもちろんのこと、民族や宗教も違い、言語や文化も異なる。ましてや男と女という違いもある。そういう違いがいっぱいある人間がどうやって一緒にやっていけるかというと、苦労を共にすることによって、尊敬と信頼という人間関係を作るということ以外、他には考えられないというのが私たちの考え方で、みなさんの「同志」という考え方が、私たちの「パートナーシップ」という考え方に当たります。基本的には、そういう考え方で活動を行っています。


▼NGOと宗教の本質的な違いについて

もうひとつは、私たちは世界各国で活動を行っていますけれども、それぞれの現場で、宗教団体の方たちと私たちは本当によく出会います。そこで、宗教者の方がやられることと、私たちNGOがすることとは、一見似ているんですけれど、実は、根本的に異なる点があります。いったいどこが違うのかというと、私たちNGOは、「いのちあってのものだね」といういのちの普遍性について考えています。ところが、宗教者の方たちは、たぶん魂の永遠性というところで現実を捉えているのだと思います。見た目には、同じように「他人に優しく、他者の役に立つこと」をしていますが、基本的なところは「いのちの普遍性」という「現世利益」を私たちNGOは追求していますけれども、宗教者の方はそれに留まらず、「死んでからいったいどうなるのか?」という「魂の永遠性」に視点を置いてやっておられる。

それでどう違うか? 私たちNGOがやっていますのは、「生きている幸せ」というところに価値を置いて人助けをしますが、宗教者の方は「死んでも安心」という境地を問題にします。という訳で、幸せと安心の決定的な違いがあります。一般には、「人を助ける」というクロスポイントのところが似ているような気がしますけれども、実際のところは大きく違うのではないかと思います。逆に、「生きている人間の幸せ」というところを一生懸命やっているNGOは、少しでも魂の永遠性の問題、すなわち「死んでからどうなるのか?」ということに触れた途端に、私たちは侵してはいけない宗教の領域に入ってしまうのですね。そこは、私たち自身を厳しく律していかないといけない、とそういうふうに思います。


菅波茂博士の講演に真剣に
耳を傾ける国宗会員各師

そういった意味で、2001年9月11日に、あの米国中枢同時テロ事件というものが起こりまして、非常に難しい世の中になってきました。問題は「テロ」という言葉の定義がないままに、テロという言葉が使われているうちに、「テロ」と「大量殺人」とどこが違うのかということがはっきりしないんですね。世間では、「大量殺人というのは、頭のおかしい奴がやるんだ」ということになっています。そのうちに、「人間が変質していくのには、宗教的な要因が大いにあるんだ。テロというのは宗教的におかしい人がやるんだ」ということになって、宗教というのがテロと結びつけられていっているところに、また「テロ」の明確な定義がないところに、日本では、この言葉が1人歩きしていることに、今の危うさを感じます。

新聞・テレビをはじめ、いろんなメディアで「テロ」という言葉が使われているのですけれども、私は1回もきちんとした「テロの定義」について見たことも、聞いたこともない。ところが、「テロ」という言葉だけが一人歩きして、いつの間にか「テロとは、頭がおかしい人によって行われる大量殺人」ということになってしまっています。では、「どんな人が頭がおかしいのか?」ということになると、「それは、イスラム原理主義の人だ」と……。必ずこういうふうに公式ができていってしまうのですね。

これほどものの見方や考え方が違う人たちが「一緒にやっていこう」ということになった時代に、そのことに対して大きく前に立ちはだかるものは何か? というと、それが判らなければ話になりませんから――何をしなければないらないかというと、まっ先にやらなきゃならないのは、「テロとは何か」という定義をはっきりさせることなんです。ひとつひとつの事件に対して、「これはテロなのか? テロではないのか?」ということを見極めていかないといけないのです。


▼テロとは殺人によるメッセージ

私の「テロの定義」は非常に簡単なんです。私自身、定義を言うときは3つの要因を考えます。一つ目は、小学生にも解る定義をしなければならない。2つ目は、できたら簡潔にひとつの文章で終わる。3番目は、その定義によって物事の解決が可能になる。という3つの要因で「テロの定義」というものを最初に出しているのです。私たちAMDAのテロの定義は、ズバリ「殺人によるメッセージ」ということです。メッセージを伝えるために殺人を行ってしまうのですね。

例えば、日本では、昔、「2・26事件」とか「5・15事件」とかがありました。5・15事件では犬養毅首相が暗殺されましたけれども、あの人はどう言ったかというと、教科書に書いてありますね。「話せば解る!」しかし、「問答無用!」と言われて撃ち殺されたのですね。この人は、岡山出身の人で、私のすぐご近所に生家がありますけれども、「話せば解る!」と言って殺されているのですね。つまり、青年将校たちは、最初から犬養首相を殺すつもりで来ていますから、「話せば解る!」と言っても、そこには「対話」というものは成り立たないのですね。では、彼を殺すことによって事件の首謀者たちは何をメッセージとして世の中に送りたかったのか? そこのところが問題ですね。


テロの本質について解りやすく
説明する菅波茂博士

それから、1987年に朝日新聞社の阪神支局の小尻という記者が「赤報隊」と名乗るグループに殺されるという事件がありました。彼も、犯人に銃口を向けられた時、絶対に相手に対して「(私を殺そうとする)理由は何なのか? 話せば解るじゃないか!」と問うたはずです。でも、これはテロですから、テロとは「殺人によるメッセージ」ですね。問うても答えない訳です。では、あの時のメッセージは何だったのか? このメッセージをどう解読するかということが、本質的にはテロを理解することなのです。

  ところが、問題は、テロリストの側がどんなメッセージを出そうが、これはれっきとした殺人なんですね。ですから、司法の領域なのですね。2001年の9月11日に、ニューヨークの世界貿易センタービルを含めて米国中枢同時多発テロ事件が勃発しました時に、ある新聞社から「日本はどう対処したらいいですか?」と意見を尋ねられたので、私は「自衛隊を出せ!」と言いました。「まず、自衛隊を出せ!」と……。なぜかと言うと、テロリストは、殺人によるメッセージを出す団体ですから、「彼らの所持する武器は強大なものがあるので、犯人を捕まえて裁判にかけるためにも、警察では無理だ。武装逮捕しかない。そのためには軍隊だ。軍隊とは日本では自衛隊のことだから、自衛隊を使え」と、こう言った訳ですね。

その新聞社は、6人の有識者の意見を載せました。私以外の5人までが「まず(相手と)話し合いをしよう」と主張しました。「武装逮捕せよ!」と言ったのは私だけなんですね。なぜ私がそう言ったのかというと、再々申し上げるように「テロとは殺人によるメッセージ」で、「まず、殺人ありき」だから、最初から話し合いが成り立たないわけですね。これは、先ほども述べましたように、日本の「2・26事件」もそうでしたし、「5・15事件」もそうでした。この2001年の9月11日の米国中枢同時多発テロは「2・26事件の国際版だ」と、こういうふうに私は解釈しているわけですね。


▼テロは教養人の仕業

  では、このメッセージを解読するためにどんな知識がいるのかというと、私は3つの知識がいると思います。ひとつは「宗教的な教養」がないと絶対にメッセージは解けない。それから、「歴史的な要素」が多様にあります。さらに、人間というのは必ず「共同体に属し」ます。ですから、この3つの要素なくして、テロのメッセージは読み解けないということですね。昨年、衆議院の憲法調査会が、『国際協力と安全保障』というテーマで開催されまして、「NGOの観点から意見を求める」と言われましたので、私は、こういうふうに証言したのですね。そこで、「2001年9月11日の米国同時多発テロのメッセージは何か?」と聞かれたのですね。私はこのメッセージを「米軍のサウジアラビアからの撤退」と答えました。

  そこで、ひとつめの「宗教的な要因」という点から、サウジアラビアという国はいったいどういう国なのか、と言いますと、現在、国連に加盟している国が190カ国くらいありますけれども、世界でただひとつファミリーネームが国の名前になっている国なのですね。すなわち「サウド家のアラビア」なのです。そのサウド家というのはどういうファミリーなのかと言えば、イスラム教の聖地を守るファミリーなのですね。そのサウド家の領地に、キリスト教の異教徒の軍隊(米軍)が駐留していること自体が問題なわけです。

  それから、イスラムの人々は、11世紀から13世紀までの「十字軍」の歴史を勉強しています。この十字軍は、私たちが学校で習ったことと全然違う観点からイスラムの人々は勉強されています。すなわち、「十字軍は急に現れて、聖地奪回ということで一般市民を殺しまくったんだ」と……。彼らにとってみれば、一瞬にして、11世紀から13世紀の十字軍の歴史が関わってくるのですね。ということは、米軍がサウジアラビアに駐留しているということ自体が、イスラムの人々にとってはとんでもないことなんだと……。そういうメッセージが隠されているのです。その証拠に、犯人の19人のうち17人がサウジアラビア人だと……。

  その時に、憲法調査会の国会議員の人からこういう質問が出ました。「テロの原因は貧困ではないか?」と……。私は、即座に「それは違います」と答えました。もし、「貧しい」ということがテロの原因だったら、古今東西、世の中の富の8割は2割の人によって占有されてきましたから、「貧困」という状況は昔からありました。でも、その頃は「テロ」ということはなかった。貧しさに耐えかねた人は、強盗・殺人に走って他人の富を奪います。でも、テロというのは最近出てきた現象です。オサマ・ビン・ラディンという人が国際テロの張本人と呼ばれていますが、あの人は大金持ちであるにもかかわらず、一度も「世界中の貧しい人々に対して富を分け与えよう」というような貧困に対する発言はないのですね。

  すなわち、テロのメッセージを出そうという人は、宗教的・歴史的・共同体的な教養のある人なんですね。インテリだということですね。教養人がテロというものをするんですね。ここのところが、私はポイントだと思います。

  あの「9.11」同時多発テロの時、「日本の空港もいつテロにやられるか判らない」ということで、日本語で「あなたの近くで何か不審なことがあったら通報してください」と空港のあちこちに表示してありましたが、私は「必要ない」と思いました。なぜなら、あの2001年9月11日のテロのメッセージは「米軍のサウジアラビアからの撤退」なのです。したがって、日本は全然関係ありません。だから、あのテロの余波が日本にくることはない。

  ということで、一番大切なことは「宗教というものをどう理解するか」ということですが、ここのところが、現代では非常に大きな要素になってきます。ところが、日本の一般の人は「宗教に対する理解」がありません。その理由は、戦後「宗教教育」はタブーになっていましたから、自分が信仰している宗教に関しては非常に厚い知識を持っていますけれども、公的な教育では、宗教に対する教育がされませんから、他人の宗教に関して全く無知なんです。

  そういう中で、自爆テロという「自分のいのちと引き替えにしてもメッセージを伝えたい」という、内なる領空の中に、宗教的な、すなわち「永遠の魂の救済」というそういった「あの世への補助線で安心」という世界です。こういった内的なモチベーションは、「宗教」というものを理解せずに、理解することは不可能です。21世紀の世界でも、これは大切な要素です。


▼「顔の見える日本」になりたいから

  では、一般の人々が公的な教育で宗教に対する教養がないとしたら、誰がこれをやるのかと言ったら、ひとつは宗教人の方々がこれに対してどういう見解を出しているのか? あるいは、どういう行動を取っていくのかということが、これから大きなポイントとなってくると私は思います。

  では、2001年の9月11日の時、日本はどうすれば良かったか? 一番いけないのは、「何もしないのは最悪の選択肢だ」ということです。それが国際社会というものです。何かをしなければならない。そこで、日本は……、その時のメディアもそうでしたが、日本中が「私たちは何ができるんだろう? 何をすべきか?」と一生懸命議論して、2カ月か3カ月遅れて『アクションプラン』というものを出したんです。しかし、それは相手にされなかったのです。

  なぜでしょうか? 日本の歴史で振り返ってみますと、日本は、国際社会から孤立して誰ともコミュニケーションが取れなくなった時、とんでもない目に遭っているということを、ひとつは考えなきゃいけないと思います。日本が欧米の人たちと本当に付き合い出したのは、幕末の一八五〇年前後ですね。黒船が来て、そこから欧米との付き合いが本格的に始まったのですね。

  1991年に湾岸戦争が起こりましたけれども、この時日本は、1兆4千億円という1年分の海外の発展途上国の人たちに対するお金を使ったのですね。そこで、そのお金を拠出するために、特別立法までして、10年間国民から集めるくらいの額(2兆円)を米軍を中心とする多国籍軍に出したにもかかわらず、クウェートがその後アメリカの新聞に出した広告『感謝すべき国』が30カ国あったんですけれども、この30カ国の中に日本の名前が載ってなかったというので、「顔が見えない日本。どうしたらいいんだろう?」というトラウマが日本中を覆ったのはわずか13年前の話ですね。

  その時に、外務省も慌てまして、初めて自衛隊をPKO派遣するということもありまして、NGOという私たちのような団体の意見も聞くことになりました。そして、郵政省も「NGOを支援しようじゃないか」ということで、広く『国際ボランティア貯金』というものを国民に呼びかけてくださったような次第です。

  先ほど、憲法の話がでましたが、実は、日本国憲法の第89条には、「公の支配していない団体が、教育とか博愛事業をすることに税金を使ってはいけない」ということが書かれています。すなわち、NGOというものは国が支配していない団体ですね。私たちのAMDAのような任意のNGOに、税金を使うのは、厳密に言えば「憲法第89条違反」なのですね。にもかかわらず、「出さざるを得ない」という状況まで日本政府は追い込まれたのです。「なんとか顔の見える日本を実現してほしい」と……。

  そこで、「顔が見える日本」すなわち、新しい言葉として「国際貢献」という言葉が登場してきたわけですね。既にもう「国際協力」という言葉はあったのです。それまでのものは、政府主導で海外の人たちに私たちの税金を使って、すごい金額の支援(ODA=政府開発援助)をやっていたのですけれども、その「国際協力」という言葉だけでは、もう表現できない新しい状況に置かれたんです。だから、「顔の見える日本」を演出させるには、「国際貢献」という言葉なんだということになったんです。この「国際貢献」という言葉が登場したのですが、実際に貢献するためには、金だけではダメだ。人を送らなければならないということになりました。


▼啓典の民には預言者のごとく振る舞え

  ということで、今回のイラク戦争の復興支援に「自衛隊を送ろう!」ということになったのですけれども、果たしてこの解釈は当たっているかどうかですね。「金だけではダメだったので、人(自衛隊)を送ろう。そうすれば顔の見える日本が実現するのではないか!」と……。この時に、なぜ宗教者の方がもの申さなかったのかですね。「金だけでダメだったら、人も送れば良いじゃないか」というのは、これは、宗教にあまりにも教養のない人の発想だと私は思っています。あの時(湾岸戦争)に「顔が見えない」と言ったのは、アメリカであり、クウェートですね。じゃ、「アメリカ人とクウェート人の共通項は何か?」ということを総括しないと解決できなかったのですね。

  アメリカ人は60パーセントがプロテスタントで、15パーセントがカトリック、すなわち、国民の大半がクリスチャンなんですね。クウェートはいうまでもなくイスラム教徒の国です。すなわち、彼らはの共通項は『啓典(けいてん)の民』(註=預言者アブラハムを始祖とする『旧約聖書』に現われる神を信奉している宗教。すなわち、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教徒のこと。唯一の神を信じ、神は預言者を通して一方的に人々に啓示を与える)ということです。「啓典の民」は、「お金だけの貢献」を評価しなかったのですね。じゃ、「人を出せば彼らは評価するか?」というと、そういうことはないと私は思うのですね。

  「啓典の民」というのは、ユダヤ教徒とキリスト教徒とイスラム教徒――これはもう先生方皆様の領域なんで、あんまり私がしゃべると、「解りもせんのにでたらめを吹聴して、とんでもない誤解を世の中にバラまいている」ということがありましたら、また後で教えていただきたいのですが――は一神教の人ですよね。それから、私たち日本人は一般に多神教ですよね。「一神教の人々と、多神教の人々がどうすれば理解し合えるのか?」と、これこそが1991年の「顔が見えない日本」の一番解決しなくちゃならなかった問題で、その問題の前には「金でダメだったんだから、今度は自衛隊を出せばカタが付くんじゃないか」という発想では意味がないということがお解りになると思います。

  ここには、キリスト教の方もいらっしゃいますので、私が勝手に説明してしまって、もし間違えていたら教えてもらいたいのですけれども、「啓典の民」と「非啓典の神」の決定的な違いは、「魂の永遠性をどう考えるか」というところで違うと思うのですけれども……。「啓典の民」というのは、「神」というものがこの世を創り、その神と民が「契約する」ことによって、その契約を守った時に魂の救済が得られるという公式になっています。でも、民というのは愚かですから、とかく「神との契約」と違った方向に行きがちです。

  ところが、啓典の神というのは非常に残酷な神で、人間を平気でジェノサイド(大量虐殺)します。そうなっては大変ですから、そこに「預言者」を登場させるという構造になっております。この預言者の声を民が聞いて、自分たちの生き方を軌道修正させることによって、「神との契約」をもう一度守っていくことによって救済されるという構造です。すなわち「預言者の宗教」なんだと……。そこでは、預言者のメッセージ、すなわち「言葉」が一番大切なんだということになります。

  非啓典の民は――私の場合は仏教徒なんですけれども――世の中には既に真理というものが存在していて、その真理に対して、自分をどのくらい近づけて行けるかという「行為」を行う。これが一番重要なことになっております。すなわち「啓典の民」にとって言葉というものが一番大切。それから、私たち「非啓典の民」は行いが一番大切。ここのところにもの凄い開きがあるということが、実は1991年に私たちは知らなきゃいけなかった。

  そして、私たち「非啓典の民」が「啓典の民」とコミュニケーションをする一番良いやり方は、預言者のごとく振る舞う。これが、一番相手が解ってくれる方法だと思います。そうしますと、2001年の9月11日に、日本はどうするべきだったのか? 実際には、「日本は何をすべきなのか?」と数カ月にわたって延々と論議して「七つのことをやれば理解していただけるのではないか」とアメリカ相手に発表しましたが、歯牙にもかけられなかった。

  私は、あの時、もし日本がアメリカに対して何かやるべきことがあるのだとしたら、それは、小泉首相が1週間以内に世界貿易センターの焼け跡に立って、世界に向かって「反テロ・人道支援」を叫ぶべきだったと思います。これが一番「啓典の民」には解り易かったのではないかと……。なぜならば、「啓典の民」にとって預言者とは、本当に困った状態の時に突然現れるのが預言者だからですね。あの時のショックというのはアメリカ中を襲いましたですね。その時に思いもかけない日本から小泉首相が飛んで来て、世界貿易センタービルの焼け跡に立ってですね、「反テロ・人道支援」を叫ぶことによって、アメリカ人だけでなく、イスラム教徒の人々も小泉首相に預言者の姿をダブらせたような気がします。

もし、小泉首相がそこ(グランドゼロ)で殺されたらどうなるんだろうか? ということになりますが、それこそ、もし殺されたら、彼は世界的な聖者になれます(会場笑い)。そうしますと、これまで長年、アメリカ人は「リメンバー・パールハーバー(真珠湾を忘れるな)」と言っていたのですが、その瞬間から「リメンバー・コイズミ」となる。これによって、日本という国がものすごく救われる訳です。それでこそ真のトップの姿ですね。そういうふうに、私たちが「啓典の民」に呼びかける時には、常に彼らの理解できるような行動様式を取る必要があるのです。

今回、日本はイラクに自衛隊を派遣しました。「自衛隊を派遣する」ということは、アメリカに対する日本のメッセージですけれども、実は、自衛隊を派遣する前に、日本が絶対やらなければいけなかったことがあります。それは、イスラム教徒の人たちに対してメッセージを送らなければならなかったということです。日本として2つのメッセージが必要でした。ひとつは、「私たちはイスラムを敵としていないんだ」というメッセージを送る。それから、もうひとつは「私たちはイラクの人たちのために働くんだ」ということですね。この2つのメッセージを出さなければいけなかったですね。しかし、いずれも事前にやってないのですね。


▼真のテロ対策はメディア対策である

それから、もう一度「テロとは殺人によるメッセージだ」という話に戻りますが、そうだとしましたら、テロ対策とは、ズバリ報道対策だということになります。メッセージを送るためは常にメディアが必要になります。したがって、真のテロ対策とは、武器を携えてテロリストに自分たちが襲われないようにするというようなことではなくて、テロリストに対して「こちらからメッセージを送る」ということなんですね。

そうしますと、まず、アメリカはどういう報道対策をしたか? ということになりますが、それによって、アメリカは「テロ対策とは報道対策だ」ということを知っていたということですね。アル・ジャジーラというカタールにあるアラビア語による衛星放送のテレビ局があります。アル・ジャジーラでは、今度のイラク戦争の間中、常にイラク側の民間人負傷者の姿を世界に向かって放映していました。これによって、アメリカの主張する一方的な「対テロ正義の戦い」という大義が、実はそうではない。こんなに無辜(むこ)の市民をたくさん傷つけているではないか! という国際世論が出てきた訳です。

そこで、アメリカはアル・ジャジーラの活動を抑えこむために――アル・ジャジーラというのは株式会社なのですね――ニューヨークの証券取引所におけるアル・ジャジーラ社の株の取引を禁止したという訳です。これにはアル・ジャジーラも困りました。すなわち、アメリカは、民主主義国家の一番重要な『報道表現の自由』という原点を封じ込んだのですね。そこまでしてやったのは、「テロ対策はメディア対策だ」ということをみんな知っているからです。

ですから、今回、自衛隊を送るにしても、日本は何をしなければならなかったのか? すなわち、イスラム教徒という「啓典の民」に、預言者に当たる人が「日本はイスラムを敵としてない」というメッセージを伝えなきゃいけなかったのですね。

では、今の日本で啓典の民の預言者に当たるのは誰か? 預言者は民から選ばれた人ですから、これに当たるのは、民から選ばれた国会議員ということになります。したがって、日本の国会議員たちがメディアを通してイスラムの人に「私たち日本はイスラムを敵としていないんだ。イラク人のために働くんだ」ということを繰り返し、繰り返し発信しなきゃいけないんですよね。実際、アル・ジャジーラに小泉首相自らが出演しました。

ということは、アメリカが封印したアル・ジャジーラに小泉首相が出演したということ自体が「日本はアメリカの言いなりじゃないんだ。日本の独自のスタンスを持って動いているんだ」ということを証明することになるんですね。このアル・ジャジーラからイスラム世界の人々に向かってしゃべること自体、これは凄いメッセージ性があるんですけれど、日本のメディアは、「その真意が向こう(イスラム教徒)に伝わってないんだ」とか、そういう揚げ足取りばかりしていますね。あのアメリカが封印したアル・ジャジーラに、日本の首相が出演したこと自体が、もう凄いイスラムに対するメッセージだということが解ってないんですね。ここのところが一番大事なんですね。

それから、もうひとつ。今まで日本は、安全保障というものをお金で買ってきました。今後も最後まで「安全を金で買う」ということをやればいいのですね。今さら「機関銃を何挺持って行こうか?」なんて、ほとんど意味のない議論です。今回、自衛隊は「比較的安全」と言われている南部のサマーワという町に、先行しているオランダ軍の協力を得て、駐留することになりましたが、これも方法としては、間違っています。

私なら、自衛隊をイスラム教の国の兵隊と共に多国籍部隊として送る。では、どこの国が一番良いのかということになりますが、そのために、私たちは日頃から膨大な税金をODA(政府開発援助)として、イスラムの国々に今まで供与してきたわけですね。インドネシアの軍隊と一緒に行っても良いですね。シリアの軍隊と一緒に入っても良いですね。バングラデッシュ、パキスタン、エジプトの軍隊とでもかまいません。これらのどこの国の人たちにも、私たち日本人はもの凄い金額のODAを供与してきました。ですから、もしその国が「日本と一緒に行くのは嫌だ」と言えば、来年からODAの額を減らせば良いんですね。そういったイスラムの国の軍隊と自衛隊が一緒にイラクに入る姿は、イスラムの人々から見たら、「日本はイスラムを敵と思っていない」という、もう凄いメッセージになるのですね。

それから、もうひとつは、イラクにも日本は多大な援助をしていて、いっぱい病院を建てています。この際に、今回のアメリカのイラク攻撃とは関係なく「日本はイラクの人々のために人道援助をやってきたんだ」ということを強調して見せることが重要です。今まで日本はその病院を運営してきたし、今回もその業務を維持させていくということは、今まで長年、血税を使ってきた証(あかし)なんだという日本政府の周りの国に対する責任ということを一生懸命メッセージとして伝えることによって、「日本はイラクの人たちのために働いてきた」というメッセージを伝えることができる訳ですね。

しかも、それを外務官僚が言ってもダメで、向こうにとって預言者に当たるのは、国会議員。そして、さらに良いのは、閣僚クラスが現地へ行ってそのことを向こうでしゃべる。そして向こうのメディアに出演して向こうの人とディスカッションする。こういうふうにして初めて「日本はイスラムの人たちを敵としない。イラクの人たちのために働く」というイスラム教の人たちに対する有効性のあるメッセージになると思います。


▼「親日」という言葉を守れ

さらに、日本のメディアがお粗末だったなあと思うのは、私たちが民主主義的選挙で選んだ「総理大臣」という一国のトップの人が「(日本は)人道支援のために(イラクに)自衛隊を送るんだ」と言っているのに、(自衛隊の派遣決定を知らせる)CNNに流れている自衛隊の資料映像はみな、軍隊として行進している姿ばかりで、この映像がアメリカに流されているのですね。

これでは、世界中の誰が見ても「治安維持のために日本の自衛隊はイラクに行くのだ」というメッセージが誤って伝わってしまいます。もちろん、アメリカは、わざとこの映像を流しているのです。そうすることによって、「これまで海外に兵隊を出したことのない日本まで、今回はアメリカの大義に同調してイラクに派兵している。それくらい、アメリカの戦争は正しかったんだ」というメッセージを米国内外に発信したのです。

ところが、日本では、NHKを含めてどの民放メディアも、アメリカで流されたのと同じように、軍隊としての自衛隊が行進している姿をオンエアしているわけですね。時の首相が、「日本は自衛隊を人道支援のためにイラクに送るんだ」と言ったのであれば、どうして、メディアは阪神大震災の救援復興活動、あるいは、東チモールでの人道支援活動に当たっている自衛隊の姿を資料映像として流さなかったのか? これはもう大変な日本のメディアの問題であろうと思います。

なぜなら、イラクの人々は、この映像に載って「自衛隊は治安の維持(つまり米軍の協力者として)のために来るんだ」というメッセージを受け取ってしまいます。NHKの放送というのは、今では世界中で視ることができるわけですね。常にそれを意識して電波を流さなければなりません。実際、東チモールまで行って橋を架けたり、いろんな復興支援・人道支援の活動をしている自衛隊の資料映像もたくさんあるんですね。

なぜそれを放映しなかったのか? それは、とりもなおさず「テロとはメッセージなんだ」ということに対する基本的な理解がないからですね。そのために、日本政府が派遣した自衛隊の、それから多くのNGOの「いのちに対するメッセージ」が届かない。
したがって、これからも21世紀にはいろんな紛争が起こると思いますけど、「啓典の民」の人たちは、何よりも「メッセージ性」を一番大切にしている人々だということを忘れてはいけません。それも「預言者によるメッセージを一番大事にしている人たちなんだ」ということを判っていれば、私たち「非啓典の民」が何をしてあげられるのか? というものではなくて、彼らとコミュニケートするためには、「メッセージをどうするか?」ということのタイミングと内容を考えることが大事なんです。

実は1991年の湾岸戦争時の「顔の見えない日本」ということから、私たちは考慮しなければならなかったと思います。それから13年経っているにもかかわらず、今も、私たちは「啓典の民」とのコミュニケーションの仕方を誤っているのではないか……。そのために、私たちはもの凄いものを失ってしまったのではないか……。今回、私たち日本人が絶対に失っちゃいけないもの。私たちは何を守らなければならないかというと、私は「親日」という言葉だと思うのです。日本に親しみを持ってくれているということであります。

イスラム社会の人たちはどこに行っても、日本に対して親しみを持ってくれている。その理由は3つあります。ひとつは、その歴史にあります。特に、百年前、日露戦争に日本が勝って――こんな話をしますが、私は右翼でもなんでもないですが(会場笑い)。AMDAは国際NGOとして、世界30カ国に支部がありますが、彼らにいろいろな説明をする時に一番重要なのは歴史なんですね――イスラムの人々は特に、日露戦争すなわち、長年、白色人種によって抑えつけられた有色人種が、日露戦争で初めて黄色人種の日本がやっつけたということを、よく知っております。そのことが彼ら(民族自決運動)をどれほど勇気づけたか、ということですね。彼らは必ずこのことを言います。

それから、オスマントルコ時代(1890年)に日本を訪問した軍艦エルトゥールル号が、嵐で紀伊半島の大島(串本)で難破して、数百人の将兵がいのちを落としたのですが、その時、地元の大島の住民が命懸けで見ず知らずのトルコ人を助けて、彼らをもてなし、そして本国に帰したという美談がありました。そういうこともトルコではみんな知っているんですね。学校の教科書にも紹介されている話です。知らないのは日本人だけなんですね。あまり歴史を勉強しないですから(会場笑い)。

さらに、これまで日本は、イスラムの国々に膨大な額の援助を私たちの税金を使ってしてきているわけですね。この3つのことによって、イスラム諸国の人々がに日本の国に親しみを感じてくれているわけですね。それを今回の自衛隊派遣によって失ってはいけないというのが、今回、明確なメッセージとして押し出していくことが必要だと私は思うのですね。


▼援助交際は危うい関係

それから、私たち日本人はいろんなところに援助してきていますけれども、このことについて、もう少し考えてみたいと思います。先ほど、私は、人間関係には、3つパターンがあると言いました。すなわち、フレンドシップ、スポンサーシップ、パートナーシップですが、この中で一番危うい人間関係というのは、スポンサーシップなんですね。

すなわち、常に片方が「ありがとう」と言わされ続けている人間関係が一番危ないんですね。例えば、夫婦関係でも一番危ないのは、男性のほうが奥さんに「お前を食わせてやっているんだ」というスポンサーシップ夫婦関係で、奥さんが反乱を起こして、夫が退職した途端に濡れ落ち葉置き場にもさせてもらえない(会場笑い)ということが起こります。これは、一言で言えば、「援助を受ける側にもプライドがある」ということでして、これがスポンサーシップという人間関係の最も危ないところなのです。

その点、パートナーシップというのは「一緒に苦労していく」という関係ですから、こちらは双方向性の公平性が保てます。さらに、フレンドシップということについて言えば、「友達を失いたくなければ、お金は貸してはいけない」これが、友人関係を続かせる一番の秘訣になる訳です。ですから、一方的に「貸し」を作っていくスポンサーシップというのが一番危うい関係になるわけなんです。

日本は今まで、一生懸命相手に援助してきた。今こそ、イスラムの国々に「借りを返してくれ」と頼むことは、決して卑しいことでもなんでもないんですね。これまでイスラムの国々は親日だったのですが、日本という国にいっぱい借りを作っている訳ですね。ここで「返してくれ」と言うこと自体、援助を受けっ放しになっているプライドの高いイスラムの人たちにとって、非常に嬉しいことなんですね。ですから、どんどんとイスラムの国々に「日本を助けてほしい」とお願いしたらいいと思うのですね。


▼サンフランシスコ講和条約

ところで、今(2004年2月現在)スリランカでは、19年ぶりに多数派のシンハラ人(仏教徒)と、少数派のタミル人(ヒンズー教徒)が和平に入っています。昨年の一月に、和平調停をされている明石康先生(元国連事務次長)から私のほうに電話が入りましてね。「日本政府はこれから本格的にスリランカの復興に協力しようとしている。3月に箱根のプリンスホテルで予備会談に入るそれまでに、AMDAがシンハラとタミルと、それにもっと少数のイスラム勢力があるけれども、3つのグループの間に日の丸の旗を立ててくれませんか?」という電話をもらいました。

すなわち、日本という国が、現政府(シンハラ人)側だけでなく、どのグループにも公平に接しているというそういったシーンを演出してくれないか、ということを1月に電話を受けて、私はすぐ2月に現地に入って、段取りをしたのですが、3月半ばの箱根のプリンスホテルの予備会談までに、シンハラのほうとタミルのほうと二つはやることができたのです。


                        (次号へつづく 文責編集部)