大阪国際宗教同志会 平成16年度第2回例会 記念講演
『鑑真和上はなぜ海を渡ったのか:中国から見た日本』

浙江大学日本文化研究所 所長
王 勇

2004年6月7日、神徳館国際会議場において、大阪国際宗教同志会(大森慈祥会長)の平成16年度の第二回例会が、神仏基新宗教各派の宗教者約50名が参加して開催された。今回は、中国における聖徳太子研究や遣唐使研究の第一人者である王勇浙江大学日本文化研究所長を講師に迎えて、『鑑真和上はなぜ海を渡ったのか:中国から見た日本』と題する記念講演を伺った。



王 勇先生

◆感動がなかった日本の国宝との最初の出会い

 皆さん、こんにちは。ただ今ご紹介に預かりました中国浙江大学日本文化研究所の所長をしております王勇(ワン・ヨン)と申します。かような立派な宗教家の先生方の会にお招きいただきまして、お話しさせていただくことは非常に緊張感を伴います。

 私は、聖徳太子、鑑真、最澄などを研究しておりますので、本日は、歴史の専門家の観点からお話をさせていただこうと思います。という訳で、宗教そのものについての理解はまだまだ浅いと思いますので、その点はご了承下さい。今日のテーマに掲げていますのは『鑑真和上はなぜ海を渡ったのか』そして、サブタイトルは『中国人の見た日本』この二つのテーマの組み合わせを繋ぎ合わせるのはなかなか大変かな、と思います。しかし、このテーマには、私の欲張りな部分が出ているかもしれません。

 それでは、鑑真和上像との出会いから話を始めたいと思います。実は、「本日の話のネタ探しに行った」と申しましたら大げさかもしれませんが、昨日、奈良西ノ京の唐招提寺で鑑真和上像を拝観してきました。この像は、現在国宝になっていますが、年に1度、3日間しか公開されません。その時にだけ厨子の扉を開いてそのお顔を拝ませていただける訳ですが、昨日6月6日はちょうど「開山忌」すなわち和上のご命日でしたので、大勢の方が参拝されておりました。

 昨日は私にとっては3回目の和上像との出会いになりました。1回目は1983年。今でもよく覚えておりますが、もちろん、当時から国宝であったこの「天平美術の頂点」とも言われているこの像は、美術品としても大変見事なものだったのですが、正直申し上げて、私にはなかなかその「気」が伝わってきませんでした。2回目は2001年。唐招提寺金堂大修理の折に、東京の上野博物館で特別展がありまして、ガラス越しにですが、至近距離で像を見ることができました。という訳で、昨日で3回目です。昨日は閉館時間ギリギリに駆け込みで入ったので、われわれの後ろから入ってこられる方がいらっしゃいませんでした。おかげ様で、同行の学生二人と一緒に、じっくり15分ぐらい拝見することができました。それにしても、私には毎回毎回違った鑑真像が見えてきます。このことについては後でお話しします。

 まず最初に、本日の講演のサブタイトルの部分を簡単にご説明した後に、本題に入っていきたいと思います。私は大学(日本の国立総合研究大学院大学)で、実は日本人の先生に教わったのですが、その先生とは、美術史では有名な、当時、東大の教授をされていた辻惟雄先生。また、仏像の鑑定家である上原昭一先生からも教わりました。この先生方から「(日本の)国宝第一号は何だと思いますか?」と尋ねられたことがありますが、これは皆様よくご存知だと思いますが、京都太秦(うずまさ)にある広隆寺の弥勒菩薩の半跏思惟像(はんかしいぞう)ですね。私は中国で日本文化を学んだ時から、この像が見たくて見たくてたまらなかったのですが、実際にこの目で見たときは非常にショックを受けましたね――今、私が住んでいる羽曳野(はびきの)の野中寺にも同様の半跏思惟像がありますけど――非常に小さかった。

 国宝第一号という大変名誉なものですから、私はてっきり東大寺の大仏のような立派なものを想像していたのですが、実際の仏像は、小さくて、蹲(うずくま)って、動きがない。今、インターネットで調べましたら、他にも(半跏思惟像のある)お寺には、歯の痛い方がよく参られるそうですね。「手で歯のところを押さえているように見える(会場笑い)という、まあこじつけのようなものですが……。本当に小さくて動きも少ないから、私には何も感動として伝わってきませんでした。


◆座の文化の発見

 また、十数年前、私が初めて日本に来たときに、「枯山水」の石庭で有名な京都の龍安寺に案内されましたが、その時も「何が美しいのか?」解らなかったですね。ただ砂を敷き詰めた庭に石が無造作に散乱しているように見えて、「何が美しいのか?」さっぱり解らない。それで私は、「日本文化には美がないのか?」それとも、私は「日本文化の美に無縁なのか?」と非常に悩みましたね。日本研究を生涯の仕事として続けていくためには、やはり感動が必要ですし、親しみを持ちたい。そういうものがなければ、研究意欲は失われてしまうんですね。

 その後、京都にある国際日本文化研究センターの所長である山折哲雄先生に出会いました。彼は私の恩師であり、また博士論文の推薦教授でもあるんですが、山折先生の美学というか、日本的な美観というようなものを、彼の『座の文化論』を通して学びました。そこから判ったことは、例えば、日本的な仏像を鑑賞するためには、日本的な美を創り出す人々の原点に戻らなければならないということです。

 それでは、日本の文化はどうやって創られてきたか? これは「座って」創られてきたんですね。「座って創られた文化は、立っては鑑賞できない」そう言われた時には、私は本当に感電したようにショックを受けましたね。

 そうすると、この半跏思惟像――50cmぐらいですから、幼稚園児よりもっと小さいですね――を作り出した人と同じ視線で見ると、やはり違うものが見えてきますね。半跏思惟像は居眠りをしていないんです。よく見ると、目は瞑(つむ)っていないんです。微(かす)かに開いている。とすると、顔の筋肉は休憩状態ではなく、少し緊張しているように見えます。それで、よくよく考えてみますと、この像は休息の姿勢ではないんですよ。内面世界の激しい示唆運動を伴う動作です。こうやって、作者と同じ姿勢で作品と対話すると、従来見えていないものが見えてくるものです。


王勇講師の講演を聴くために
大勢の会員各師が集まった

 その後、龍安寺には何度も何度も足を運びました。私が初めてここを訪れた時は、廊下を歩きながら石庭を眺めたんですね。それは、私の高飛車な、高い姿勢そのものでした。これでは何も本質が見えません。ただ石ころが転がっているだけの空間ですね。しかし、廊下に座って、心を鎮めて、低い姿勢でこのお庭を拝見しますと、丁寧に手入れをされた砂の波がこちらに打ち寄せてくるように感じられます。石ころもただの石ころではなく、波に打たれている岩壁、あるいは「島」に見えてくる。これこそ日本的な美だと思いました。

 今から15年ほど前に、私はドナルド・キーン先生(註=米国の著名な日本学研究家)をうちの大学(浙江大学)に、3週間ほど集中講義にお招きしたことがあるんですよ。去年ようやく、その講義録を出版することができましたが、私は感動を込めてその「あとがき」を書きました。彼が著した『日本美の発見』は、「西洋人による日本発見の話」ですね。欧米の日本学者は、日本の学者には嫌われる傾向がありますけれども……。これについては、彼が日本で行ったいくつかの対談で反論されました。「もともとあるものを発見する必要はないじゃないか」と……。そう言われるとそれまでですけれど。

 それぞれの国に存在しているものが、人類全てに初めから属している訳ではないんですね。自分のものにするためには、苦労して発見する必要がありますね。私にしてみれば、日本的な美は、本当に苦労してひとつひとつ発見する対象のものでしたし、その感動を基にして、さらなる研究を続けて来ていると言えると思います。


◆忘れ去られていた鑑真

 先ほども申し上げましたように、鑑真像との対面は、1回目は感動はありませんでした。鑑真はまるで眠っているように見えました。その時に思い出したのが、唐招提寺を訪れた芭蕉の俳句です。6月6日といえば、季節は朱夏。季語も夏のものですね。「若葉して おん目の雫(しずく) 拭(ぬぐ)わばや」という句です。そういえば芭蕉の気持ちが分からないでもない。外は既に春花爛漫を過ぎて、若葉の萌え出づる季節だというのに、鑑真和上はあの薄暗い厨子の中で灰色に包まれています。今回はこの写真をお土産に買ってきましたが(写真を見せながら)、鑑真和上像とはこんな感じですね。1回目はもっと色がないように見えましたが、その後修復されたのか、この薄暗い光の中で見てもきれいですね。今は東山魁夷の襖画に囲まれて、明るさが増したように思いますが。

 ところが、江戸時代は鑑真の存在はほとんど忘れ去られているんですよ。『東征伝』という著書があるだけで、鑑真の伝記が禁書になっているんです。東大寺が鑑真の最初の伝記である『唐大和上東征伝』を発禁処分にしました。この「東征」とはどういう意味か。これを「東(日本)を征服する」の意だと、日本側に誤解されたんだと思いますね。「征」の中国語の意味は、ただ「行く」ということです。「東(日本)へ行く」だけで、当時は発禁処分になったんですね。そのため何も伝わってこない。

 二回目は2001年。これは既に完成した私の著書『おん目の雫 ぬぐはばや:鑑真新伝』で触れていますが、何度も校正を重ねましたので、和上像と再会したときの感動が違いますね。おそらく今、唐招提寺へ参拝しても、一番近くまで詰め寄っても5mぐらい間がありますが、そのときはガラス越しとはいえ、間近で視れたことで、いろんな発見がありました。髭や髭の穴まで見えてきます。像は乾漆で作られていますが、そこまで真に迫ったものです。このとき私はよく見ました。外面の世界は、彼にとっては「見えない」んですが、その代わりに、「もうひとつの目」で――目が見えるものは、逆に、本質があまりよく見えないのかもしれませんが――内面の世界を見極めようとしている。だから鑑真像の背後に、広大で、豊かで、波乱に富んだ人生が見えてきたような気がします。

 私は20年ほど前から鑑真に対して関心を持っていた訳ですが……、鑑真については、疑問がいっぱい湧いてくるんです。まず、彼の名前の読み方。これまでに何人かの日本人に尋ねてみましたが、納得のゆく回答が得られませんでした。「かんしん」あるいは「かんじん」ではなく、どうして「がんじん」なのか? また、なぜ「和尚」ではなく「和上」なのか? 禅宗や律宗では読み方が異なりますけれども、彼の名前は日本の中学や高校の歴史で必ず取り上げられる名前のひとつですね。

 似たような例として、「玄奘三蔵法師」が挙げられますね。お名前は申し上げませんが、日本では玄奘研究の第一人者とも言われている方は、「げんぞうと読む」と言われる。彼はこのことを生涯の仕事のひとつとし、死ぬまで十数年、衝突していらっしゃいましたが……。それでも慣用読みでは「げんじょう」ですね。

 このように、鑑真和上の名前は、われわれは皆「常識として」知っていますが、この「常識」というのが、「非常識」の罠ですね。このように問い詰められると、なかなか「常識」が役に立たない。

 先ほど「たくさん疑問が湧いてくる」と申し上げましたが――私の専門は、隋・唐時代つまり、日本でいえば奈良・平安時代なんですが――そもそも鑑真が「海を渡ろう」とすること自体が異常なんですね。まずどうして渡ろうとしたのか、理由が解らないんです。今からそのことについて話してまいりましょう。


◆鑑真渡海の謎

 この「なぜ、鑑真は(いのちの危険を冒してまで)海を渡ったのか?」という疑問は、私個人だけではなく、多くの人が共有している疑問なんです。日本でも、鑑真の渡海(渡日)の動機を探る先行研究があります。この先行研究も、変な方向に行きますと、「実は鑑真はスパイだった!」なんてのもある(会場笑い)。これは結構、日本では有力な説です。その他にも亡命説などいろいろありますけど、まともな説では、有名な仏教研究者である小野勝年先生の研究による説があります。その説によりますと、まず、鑑真は中国にいる時に既にかなり高い地位を築いているんです。そのままいけば、戒律宗では中国最高位を占めることが可能なくらい、エリートコースを歩むことが可能な立場でした。では、この約束されたに等しい地位を捨てて、何故、当時「未開の国」と思われていた日本へ渡ることを選んだのか?

 小野先生はこの視点から問題提起したのですが、誰も答えてくれないので、自ら著書の中で答えています。答えは四種類あります。これを要約しますと、ひとつ目は、聖徳太子との関係。「鑑真は聖徳太子を慕っているから、彼を慕って日本へ渡った」と……。この説も、日本でかなりの人が支持されていますね。特に福井康順先生をはじめとする、一流の仏教史学研究者がこの説に賛成しています。

 二つ目は、「遣唐使が(来日を)招請したから」という説です。具体的に言えば、十二回目の遣唐大使であった藤原清河が挙げられます。

 三つ目は、留学生。これはもともと「るがくしょう」と読むのですね。現在では「りゅうがくせい」と読まれていますが、この言葉は、「日本人が最初に作り出した和製漢語である」というのが私の説なんですが……。というのも、中国では、この「外国に留学する」という発想がないんです。少し話が逸れますが、中国には「漢字」という発想もないです。自分たちの国の文字をわざわざ「漢字」とは呼ばない。これも日本人が作ったと思われますね。「日本字」とは言わないでしょう? 

 ですからこの「留学」という言葉は、文明の遅れている地域から――これは中国へ行くだけではなく、百済とか新羅へ行く人も――より進んでいる国へ学びに行くために作られた言葉ですね。そして、この言葉と対になっているのが、「還学生(げんがくしょう)」すなわち「還ってくる学生」です。最澄や空海はこれですね。これに対して留まる学生、つまり「帰ってこない学生」が留学生で、栄叡(ようえい)・普照(ふしょう)などです。彼らの情熱の籠もった招請に鑑真が屈した。あるいは感動した。というのが三つ目の説です。

四つ目は、日本には仏教が伝わっているとはいえ、「戒律」が広まっていないので、「戒律を伝えるために行った」という説ですね。


◆鑑真は遣唐使に裏切られた

  この四つが一流の仏教史学研究者が唱える説なんですが、私はどれにも納得できませんね。私は最初の論文から、この「小野説」を批判しています。これらの説はいずれも、外部から、すなわち日本側から「鑑真渡海の動機」を説明しようとしていると思います。しかし、彼は中国人ですから、まず中国から出て行く理由から詰めていかなければならない。「日本が招くから行く」というよりも「出る理由」があるはずなんですね。

  例えば、この「小野説」を分析しますと、「遣唐使が招請した」――これは日本の多くの学者が支持する説ですが――鑑真はおそらく、遣唐使に対して恨みを持っていたはずです。遣唐大使藤原清河によって、「船も用意しましたから、是非、日本へお越しください」と誘われたのですが、鑑真が中国を出るときは、形としては密出国なんです。これは法律違反になりますからね。事実、鑑真は何度も捕まります。官憲が「蘇州に(遣唐使)船が停泊しているから、日本へ行きたがっている鑑真が乗船するはずだ」と目を光らせていますから、おそらくは、夜中に密かに裏門から出て、弟子たちの待つ船に乗り込んだんでしょうね。

  しかし、その遣唐使の船に無事乗船できても、すぐに出発できるわけではないんです。大型の遣唐使の船が出る時には季節風が必要ですので、風を待っている数日間、官憲にバレるのではないか? と大使は心配になるわけです。それで、四艘の責任者を集めて出た結論は「鑑真を船から降ろす」という大使の判断でした。しかし、その時、鑑真はすでに、弟子を裏切って、宗教界を裏切って、国家を裏切って船に乗りこんだんです。それなのに、荷物から何から何まですべて降ろされてね。私は『東征伝』のこのくだりを読むと、本当に心が痛みます。

  この時、副使の大伴古麻呂が「このままでは駄目だ。日本人の恥だ」とある夜、密かに鑑真を自らの船へ誘い、乗せます。そして船を出航させるのですが、「鑑真を乗せている」という事実は、船が沖縄に上陸してから、初めて公表されました。このことから考えてみても、「船から追い出された」鑑真の渡海の理由が「遣唐使が招請しているから」というのは考えにくいですね。

  では、三番目の説である「留学生の熱心な招請に応じて」ですが。確かに日本人の栄叡(ようえい)はずっと鑑真に付き添っていますね。ただ、彼は途中で亡くなってしまったんですが……。鑑真は渡海中に最愛の弟子二人を失っています。一人はこの栄叡、もう一人は中国人の祥彦(しょうげん)という一番弟子です。彼(鑑真)が盲目になったのは、従来の説では、長い間潮風に当たったため、と言われていますが、私は弟子の喪失による心痛、過労のほうが失明とより高い関連性があると思いますね。そしてもう一人の弟子、法進(ほっしん)は十二年間の旅に同行し、日本へ辿(たど)り着きますが……。実はこれらの話は彼の渡海にまつわる話の半分に過ぎません。

  はじめて鑑真が弟子と日本に渡ろうとした時は、日本人は四人いました。最初の失敗で、半分つまり二人が逃げました。そうすると「留学生の熱心な招請」は、一回目の段階で半分に減ったことになりますね。そして五回目の時に、今度は先に触れたように、もう一人の弟子、栄叡を失います。これで日本人の留学生は残るは一人、となったわけですが、この一人、普照(ふしょう)という人は、日本に行くことを諦めたのです。鑑真が海南島に流されて、楊州に帰ろうという時に、彼は「もう危険を冒して日本に帰るのは嫌だ」と韶州で一行から脱退して、独り明州(今の寧波)へ向かったのです。その後、鑑真がようやく日本へ渡ることに成功した時、彼のまわりには日本人は一人もいませんでした。だから「留学生の招請説」も該当しないと思います。


◆聖徳太子説も不十分

  では、日本で一番流行っている「聖徳太子を慕って海を渡った」という説について考えてみましょう。何故にこの説が支持されているかと申しますと、鑑真と彼を招請した留学生との間で交わされた会話が根拠となっています。

  日本には聖徳太子という高名な王子がおられました。彼が亡くなった頃は、日本ではまだそんなに仏教は広まっていないのですが、聖徳太子は生前に「二百年後に仏教が公に広まるだろう」と予言を残したんです。聖徳太子が亡くなったのが622年ですから、ほぼ二百年が経過したその当時、留学生たちが「日本に仏教は存在するけれども、僧侶を取り締まる戒律というものがない。だから、是非、日本へ来て、戒律を伝え広めて欲しい」と請うた、という訳です。

  それに対し鑑真は、「むかし、聞いた話だが、南岳の慧思(えし)(註=中国の高僧)が亡くなってから、倭国の王子に生まれ変わり、仏法を大いに隆盛させ、衆生を救済している」と答えました。(『唐大和上東征伝』の問答より)いわゆる転生説ですね。これによれば、鑑真は明らかに「慧思後身説」を信仰しています。これは非常におもしろい。私の博士論文の内容の半分もこれを追求したものです。

  もうひとつは、長屋王(註=天武天皇の皇孫。正二位左大臣として一時、国政を掌握するも、藤原氏の陰謀により謀反の罪をきせられ自害)にまつわる説です。彼は中国のお坊さんに袈裟千枚を寄進したのですが、この袈裟の縁にはある詩句が刺繍されていました。これは有名な句で、「山川域を異にすれど、風月天を同じくす。これを仏子に寄せて、共に来縁を結ばん」というものですが。私はこれに対し、仮説を立てています。あまり自信はないのですが……。

  これは有名な話ですが、鑑真は、長屋王の「風月同天 山川異域」の句から考えますと、「日本は仏教伝播の有縁の地。行きましょう」と答えます。ですから、聖徳太子は関係ないんですね。先ほどの説にしても、彼は「聖徳太子」ではなく、「倭国の王子」と言っています。長屋王も倭国の王子に違いないですからね。鑑真が日本へ渡る前に、中国の文献で聖徳太子が(中国で)知られた痕跡がないんです。慧思が倭国の天皇や王子に生まれ変わったという説はたくさんありますが、「慧思が生まれ変わった王子というのは、聖徳太子のことだろう」と唱えられ出したのは、奈良時代に鑑真が既に日本に渡った後の話です。この点からも、聖徳太子の説は違うと思われます。

  最後に残った説は「戒律を伝えるため」というものですが、この説にも疑問を挟む余地があります。というのも、鑑真が日本に来た時に携えてきた物は、戒律とは関係のないものがたくさんあるからなんです。例えば、天台宗の経典がたくさんあります。ですから、日本仏教の立場から考えた時に、鑑真は戒律への貢献よりも天台宗への貢献のほうがより大きいと私は思いますね。これは鑑真自身予期しなかったことなのか、それとも計算されたことだったのか判りませんが……。

  また、「日本文化への貢献」という側面から考えますと、まず「味噌」が挙げられます。聖武天皇が「おいしい」とおっしゃって、「金山寺味噌」と名前がついたものです。「豆腐」も鑑真。「漢方薬」ももちろん鑑真がもたらしたものですね。江戸時代に街中で漢方薬を買い求めると、包み紙に必ず鑑真和上の絵が印刷されていたんですよ。それから香道。「鑑真流香道」というのがあるぐらいです。またこれはどうかはっきりと判りませんが、医学の知識、またあるいは唐招提寺の建築・彫刻なども考えられますね。その点から考えても、「鑑真の伝えたものは戒律」という考え方は狭義過ぎると思えますね。


◆スパイ説から亡命説まで百花斉放

  では結局、何故、鑑真は海を渡って日本へ来たのか? という最初の質問に戻りますが、結局は分からないんです。分からないから奇妙な説が生まれてくる。

  先ほども少し触れましたが、天理大学の教授であり、美術史を専門としておられる鈴木治先生が書かれたものを例に挙げてみましょう。この『白村江――古代日本の敗戦と薬師寺の謎』という本は、大変人気があり、版を重ねていますが、この著書の中で、彼は鑑真のことを、「鑑真は中国から日本を転覆する目的で派遣されたスパイ」だという説を主張しています。そう考えますと、天平時代の歴史が「黒い」ものになってしまうのですが……。

  私は初めてこの本を読んだ時には、結構不満が残りました。最初は「鑑真がスパイだったら、吉備真備、阿倍仲麻呂、玄法だってスパイだぞ?」と反発したくなる。しかし、実際読むと、その必要は無いことが判ります。というのも、先ほど名前を挙げた遣唐使の人々は全員、スパイリストに入っているからです(会場笑い)。この話に興味のある方は、ぜひ、一読してみて下さい。こういう本もあるんですねえ。

  それ以外にあるものが、「鑑真亡命説」です。これは小野先生が書かれていますね。これに対して、私の尊敬する、またご本人も心から鑑真を敬愛しておられる東山魁夷画伯――昨日、唐招提寺に参拝した時に、画伯の絵を前にして「明日はちょっと悪口を言わせてもらいますよ」と言ってきたのですが――はですね、『唐招提寺への道』という、非常に情感溢れる著書を残されています。彼の文体は、詩と散文の中間というか、リズムや波があり、声に出して読むと大変心地良いです。

  彼はこの著書の中で、こう書いています。「鑑真和上の性格からみれば、唐の世は魅力あるものでなくなっていたはずである。いや、絶望を感じていたのではないだろうか。そこへ新しく興った仏教国家としての日本から和上へ渡航の要請があった。それは和上にとって、それはおおきな新生の啓発として響いていたに違いない……」しかし「東山先生、その頃の中国は盛唐の時代ですよ」と私は言いたい。

  唐の時代は、大きく初唐・盛唐・中唐・晩唐に区分されますが、この唐の時代は、中国史上でも最も華やかで強健な時代です。その中でも鑑真が中国にいた時期は、国際色豊かで、自信に満ち溢れた絶頂期(盛唐)の頃です。例えるなら――まあ、これは私の邪推の域を出ませんが――現在のアメリカ人が「もうアメリカ経済には絶望した」と言っているようなものでしょうか。ですから、この「亡命した」という推論は考えにくいと思います。私はこの説については『鑑真新伝』の中で詳しく触れています。興味のある方は、読んでみて下さい。


◆海外に出たくない中国人

  こういった説を考える前に、まず、鑑真が中国を出る理由から考える必要があります。これまでの理由は、日本を中心に考えられてきましたが、今日は中国側から考えてみましょう。

  まず、可能性として挙げられるものは、日中間の交流のあった「遣唐使の時代」であること。一般に「中国と日本は、この時期交流が頻繁だった」という考えが常識とされていますが、私はそれが「理由」ではないと思いますね。というのも、当時、中国が外交関係を結んでいた国は54あります。おそらく日本ぐらい交流の少なかった国はあまりないと思います。遣唐使は20年に1回しか来ませんからね。これでは文化の伝承ができない。「留学生を送った」といっても帰って来れない。「帰ろう」と思っても、仮に一度船を逃したら、帰国するのはさらに20年先の40年後。青年が大志を抱いて海を渡り、勉学を終えていざ帰ってくる段になると、もう60歳。当時60といえば、もう何もできないですね。今は60歳といえば、まだまだ元気ですけれどね。

  ですから、日本人は中国へ渡っていましたが、中国人が日本へ渡った例はほとんどないです。後世には、一攫千金を狙って、商売のために渡っていますがね。もちろん、国の正式の使節として派遣される例はあるのですが、皆(任命されることを嫌がって)逃げ回るんです。いくつか例を挙げましょう。一回目の遣唐使が帰国する時に、中国側は「唐使」をつけていましたが、その中の一人に高表仁(こうひょうじん)という官吏(新州刺史)がいました。文献にも残っていますが、帰国報告書の中で彼は、散々日本の悪口を書いています。

  彼は日本のことを「地獄門」と表現しています。「道は地獄の門を経て、その上に煙と火の形があるのを見た。金槌で叩かれた餓鬼のようなわめき声が聞こえて、使者は危惧しない者がない」(『唐会要』)と、そこまで書いています。誰が「地獄」へ行きたがるでしょう? ですから、当時は、唐の人は日本へまず行かない。鑑真は、よほど稀有――もしくはあえて「異様」と申し上げますが――な例だったということが読み取れます。

  二つ目の可能性として、「唐代は開放的な社会だったから、日本へ渡ることも奨励していたのではないか?」と推測される方もいらっしゃるでしょう。しかし、今でこそ中国政府は友好の旗印のひとつとして、鑑真を利用していますが、唐代の政府は、彼を支援するどころか、苛(いじ)めているんですよ。鑑真は、合計六回渡海を試みていますが、一回は完全に失敗。二回は遭難。二回は政府に密出国の容疑で逮捕されています。

  唐の法律には「海外に出てはいけない」と明記されています。例えば、日本人が中国に来た場合、婚姻は自由です。帰国も自由です。ただし、結婚した中国人の妻を伴って帰ることは禁止されています。中国の「海外禁止令」ですが、江戸時代の鎖国と通ずるものがあるように思います。玄奘三蔵(げんしょうさんぞう)と鑑真はその点、非常に似ていますね。玄奘三蔵も法律違反を犯して、一人で砂漠を渡りました。鑑真の場合は14人弟子を連れて海を渡っていますが……。二人とも国禁を破った。国の制度から考えた場合の「犯罪者」という点で同じですね。

◆日本は仏教有縁の地?

  次に3つ目の可能性として、「仏教世界は違う。仏教的な世界観、すなわち『仏の下では国境はない』だから、日本へ渡った」とも考えられます。これが一番有力かもしれませんが……。遣唐大使藤原清河が鑑真を招聘した時に、鑑真は「共に行こう」と、儒学者であり、唐代一流の文人でもあった蕭穎士(しょうえいし)を誘いましたが、彼(蕭穎士)は病気を口実にきっぱりと渡海を断っています。遣唐使から正式の招聘があった際に、中国政府は鑑真が行くことは認めていたのですが、「道士も連れて行くように」という条件を出します。これに対し、遣唐使は「天皇は道教を信奉していませんので、道士をお連れすることはできません。代わりに、春桃原ら4人を残して道教を学ばせましょう。また、鑑真和上を招聘する申請も取り下げます」と、その条件を拒否しました。それ故に、鑑真は公式な招聘を受けられず、個人で密かに渡海することになった。という顛末が考えられますが、そこに到るまでに、実はこのような話も残っています。

  先ほど鑑真が「日本は仏教興隆に有縁の地、行きましょう」と答える場面が出てきましたが、その時彼は、まず弟子たちに「誰か日本へ行く者はいるか?」と尋ねています。最初は自分自身が行くつもりではなかったんですね。日本の留学生たちにしても、当初から鑑真本人が来てくれるとは思っていません。「弟子たちのうちの誰かが来てくれれば」と思っていました。それで鑑真も行く者を募るわけですが、誰も名乗りを上げないので鑑真は怒ります。大弟子の祥彦(しょうげん)――彼は渡海の途中で亡くなりますが――ですら、鑑真に対し「かの国は、はなはだ遠くして、生命存しがたい。滄海渺漫(そうかいびょうまん)として、100人に1人も至ることはない。『人身得がたく、中国に生まれがたい』進修いまだ備わらず、道果いまだ剋せず。これがゆえに、衆僧は緘黙して応えることないのみ」これは簡単に申し上げると、「日本は大変遠く、海を渡れたとしても100人に1人も生還できません。それに今、中国として生を享けた、ということはどれほどめでたいことでしょう。ですから、行かないほうがいいです」という内容になります。

こうして祥彦は弟子らを代表して、『大般涅槃経』の経文まで用いて、日本へ行くことの危険性を力説するのですが、それを聞いた鑑真は、「それならば私が一人で行こう」と答え、しばらくの間、黙っていました。すると今度は祥彦が折れ、「先生が行かれるのなら、私もついて行きます」と答えたのですが、その途端――何しろ大弟子が「行く」と言っているのですから――「私も行きます」、「私も行きます」と、他の弟子たちが後に続きました。そうして21名の弟子が同行することにはなったのですが、この弟子たちのほとんどは、嫌々、義理で行ったわけです。

「仏教的な世界観」が理由ならば、何故、他の僧侶は海を渡ろうとしなかったのか? 実はこの時点で、渡海に成功し、日本に来たのは、僧侶・一般の人を合わせても24人です。では、逆に亡くなった人はどれぐらいいたのか? これは、成功した人数の1.5倍に当たる36人にのぼります。死亡率は、実際に船に乗った人の6割になります。それ以外に、話を持ちかけられただけで逃亡した人や途中で止めた人は、実に280人。ほとんどの人は1回で止めました。最初から最後まで鑑真に付き添った中国人は、思託という僧、ただ1人です。これはやはり、仏教界の常識とは違いますね。鑑真には何か特別な「理由」があると思うのです。


◆唐土における仏教迫害と慧思転生説

私はその「理由」のひとつとして、当時の「道教と仏教の関係」という背景をもとに、仮説を立てています。鑑真は、則天武后(そくてんぶこう)という女帝の時代(註:655年、高宗の皇后となった武則天が、傀儡(かいらい)として擁立した皇帝の中宗、睿宗(えいそう)を廃した後、自ら中国史上初の女帝に立ち、690年唐室を乗っ取り、国号を「周」と改め、仏教を擁護して政治改革を行ったが、かえって国内政治に混乱をもたらした。705年、中宗が復位して、唐室が回復し、仏教が軽視されるようになった)に生まれたのですが、この人は例外的に仏教を奨励した人です。およそ300年にわたる唐の時代に皇帝として中国を支配したのは李一族でした。しかし、この一族が信仰していたのは仏教ではなく、道教なんですね。ですから、仏教は当時抑圧され、苛(いじ)められています。鑑真が生まれてから成人する頃までは、仏教は擁護されていたんですが、鑑真が遣唐大使藤原清河から来日の招請を受けた742年当時の中国は、仏教を軽視し、道教を重視する玄宗皇帝の全盛期でした。

ですから、藤原清河が皇帝に鑑真の来日を請うた時にも、玄宗皇帝は「道士を連れて行くように」と言っているんですね。しかし、日本にはすでに神道が存在しましたから、道教の要素を取り入れることはあるかもしれませんが、道士を連れて行ったところで、「組織としての道教」を国家機構のどこへ組み入れたらいいのか困りますよね。ですから、日本側は先ほど申し上げたように、道士の同行を断りました。この仏教と道教の立場が逆転した時代。そのことが、鑑真が幾度も渡海を試み、日本へ仏教を伝えようとした決断の背後にある理由のひとつではないかと思います。最後に渡海を試みたときは、もう彼の周囲には、案内する日本人は1人もいませんでした。それでも、日本へ行った理由は、「このままでは仏教界の死活問題だから、中国社会を出よう」とした理由として、この「中国宗教界の事情」があると思います。

2つ目は、鑑真が招聘される時に口にするほどの理由。ひとつは長屋王の逸話。つまり日本人は仏教を崇めている。伝教するには非常に良いところだという考え方。もうひとつは、彼に最後まで付き添った思託(したく)というお坊さんの説いた「慧思(えし)が、日本の王子に生まれ変わった」という説。これは非常に大きい理由です。これを少し説明させていただきますと、この慧思という人は、天台宗を開いた智(ちぎ)大師の先生です。それまで中国の南朝時代では、小乗仏教が流行っていましたが、この人は大乗仏教なんです。その中でも法華経を専門的に広める人でした。

だから、小乗仏教から苛められ、何度も毒殺される危機に遭い、生死の境目を彷徨(さまよ)いますが、その度に息を吹き返しています。それ故、この人には「転生の伝説」が一杯あるんですね。私の故郷の広州市にも「三生石」があって、彼が3回生まれ変わったという、3つの石があるんですよ。これは江南でかなり流行った伝説です。一説では、彼が生まれ変わったのが中国天台宗の開祖、智だと言われていますが、実際は、おそらく転生ではなく、彼の弟子だと思われます。智は慧思から法華経の影響を受け、天台山に帰って、天台宗を開きました。ですから、江南という地は、鑑真の住んでいた土地であり、天台宗が大変広まった地域、また智の信仰の広まった地域……。そこから「日本に生まれ変わった」と……。現代人は信仰心が薄れているから、転生説そのものを支持しない方もいらっしゃるでしょうが……。今でも、中国やチベットでは、ダライ・ラマなどの宗教的指導者を探す時は、転生説をもとに探しています。皆さんもよくご存知だと思いますが、指導者が亡くなった日に生まれた子供の中から、転生者を2年、3年と歳月をかけて探すんです。つまり、転生を信じる者にとっては、はるか以前の宗教指導者が、今、現在も「生きている」ということですね。

鑑真は、教養として、また、精神世界として、心の中に、律宗よりむしろ、もっと広い天台宗的な、智が教えた大乗仏教的な考えを持っていました。この鑑真の考え方は、基本的に当時中国で流行っていたものとは違うんですね。この点は、日本で深く研究されていますが、その智への信仰があって、それを追い求めていたのではないかと思います。


◆鑑真がもたらした舎利信仰

また、鑑真は日本へ3000粒の仏舎利を持って来ました。この「舎利信仰」に対する研究はまだまだですけれども、実は極めていくと非常に面白いものがあると思います。話が逸れますが、昨日、唐招提寺に参拝しましたら、(現在修理中の金堂の)修理中の仏像が展示されていました。金堂の本尊、盧舎那仏の白毫(びゃくごう)(註=仏像の額にある突起)に、穴を開けて木製の玉が入れてあるんですが、その玉の中にさらに穴があって、その中に舎利が入っていました。この舎利こそ、鑑真が中国から持ってきた3000粒の仏舎利の中のひとつです。

中国で仏教は、最初北方に伝わりましたが、すぐには広まりませんでした。皆、仏教というものを信じないのです。それは南方でも同じ。なかなか広まりません。そこで、僧侶たちは、「舎利をもって験(げん)をさす」という有名な言葉がありますが、これでもってして、仏や仏教の力や霊力を証明しました。それによってたちまち仏教は広まりました。そこで、9世紀頃、平安時代に鑑真の孫弟子にあたる豊安(ぶあん)が書いた『戒律伝来記』の中に、鑑真の舎利伝来についての記述が残っています。鑑真は、もしも、日本で仏教の教えが受け入れられていない、もしくはそれほど広まっていなかった場合のために、(中国で有効であった)舎利を持ってきたんですね。

これに関連した話になりますが、日本の戒壇(註=僧侶になる資格を授ける国立の施設。勝手に僧にはなれなかった)も興味深いです。大和国(奈良県)の東大寺と、下野(しもつけ)国(栃木県)の薬師寺。そして、九州は筑紫国(福岡県)の観世音寺の3箇所に戒壇があって、その戒壇には必ず一番上に塔があって、塔の中に舎利があります。そういうところから推測しても面白いですね……。

もうひとつは、従来あまり研究されていませんが、「鑑真の内面世界」から来る理由。盲目の鑑真の内面世界は、おそらく大変豊かなものだと思われますが、われわれが研究によって知っていることはまだほんの僅かです。氷山の一角に過ぎない。これから極めていくべきだと思います。彼の内的宗教世界には慧思への信仰があり、また舎利信仰への強い思いがある。

鑑真は火葬されたのですが、これは彼にとって、不本意な形なんです。というのも、本来、生きたまま坐亡(「肉舎利」といい、即身成仏すること)することが最高の形とされますから。彼は亡くなった後、3日間、火葬されていません。これは、なんとか「肉体を保存しよう」としているんですね。中国の『高僧伝』という本の中に「鑑真伝」がありますが、その中では鑑真は火葬されなかったことになっています。本来、坐亡した場合は、体に漆や油を毎日繰り返し塗ることによって、肉体を保存しますが、鑑真の場合「油だけを用いて、今でも日本の高貴な人が参拝する毎に、油を塗っている」と伝えています。

これは舎利信仰と繋がっている考えです。すなわち、「肉体は滅びても、精神は生きて」おり、さらに「死んだ後の肉体も、仏教の伝播に役立つ」のです。また、肉体が無くなっても今度は舎利が肉体に代わる証(あかし)となる。この来世を信仰する彼の思いは、慧思を信仰する思想と繋がっています。この関連性については、従来の鑑真研究ではまだ本格的に取り組まれておりません。もちろん、私の考えもまだ仮説に過ぎず、熟した考えには到っておりませんが……。少々時間を過ぎてしまいました。話はこれで以上となります。ご清聴有難うございました。

王  勇:  実は私は以前に2年間、奈良県の『シルクロード委員会』の委員を務めたことがございます。しかし、委員ではあるのですが「シルクロードは……」という考えに反論する存在としておりました。その時の座長は、今は亡き大庭脩先生で、その他にも東大の池田温先生、奈良の東野治之先生が名を連ねておられました。

私は、中国と日本の交流というのは、シルクなどの「物品」よりも、より精神的な交流が盛んだったと思います。何故「精神的」かと申しますと、会話による意思の疎通は難しくても、「漢字が読める」日本人は当然、中国の書物を読めますからね。その「逆もまた真なり」で、実は今、私が浙江大学で教えている中国人の学生は『日本書紀』や『続日本紀』を簡単に読めるんですね。皆さんにとっては既に解りづらい文体だと思いますが……。『日本書紀』にいたっては、(1300年も昔の)720年に編纂されたものだということから考えてみても、この現象は興味深いものだと思います。日本から中国へ、また中国から日本へと「漢字は書物を媒体にして、時空を超え、現代に伝わっている」すなわちシルクロードならぬ「ブックロード(本の道)」の考え方ですね。

先ほど三宅善信先生が触れられました、『三経義疏(さんきょうぎしょ)』の話にしましても、「聖徳太子がずば抜けて賢かったので、彼が独自のオリジナリティを発揮して3つの仏教経典を再編纂した」というよりは、彼自身、様々な文献(先行研究)を参考にしているんですよ。現在のルールでは、他人の文章を引用した場合は、出典を明らかにしないと駄目(盗作)ですが、昔は逆に「引用されることは好ましい」という考えだったんですね。つまり、今で言う「海賊版」という意識がない。仏教における基本的な精神は、法華経の序章に当たる部分(序品第一)に、「広宣流布」という話として出てきます。「仏教を学ぶ人は、それを広める義務がある。だから引用されることは喜ばしい」という内容です。そのとおり聖徳太子は、中国や朝鮮半島の様々な文献から文を引用しました。そうして作られたのが、有名な『三経義疏』だったのです。

先ほども、三宅先生のお話にあったように、遣唐使の手によってこの書物は中国へ渡るわけですが、おもしろいことに、その本の旅が片道限りで終わらず、新しいコメントを加えられた後、再び日本へその書物が伝えられている点ですね。それも一度ではなく、複数回にわたります。その中で『法華経義疏』『勝鬘経義疏』が中国へ実際に渡ったという記録が残っています。残念ながら『維摩経義疏』にはそういった記録が残っていないのですが……。

8世紀頃に中国の明空という僧が聖徳太子の『勝鬘経義疏(しょうまんぎょうぎしょ)』を入手しています。これは聖徳太子が著してから約100年後にあたる、750年前後のことで、この頃、鑑真はすでに渡海しています。彼(明空)はこの本を読んで、その水準の高さに驚き、ショックを受けます。彼はこの本のために、更に注釈を付けました。この注釈をつけた本を、(若い頃、遣唐使として留学していた)日本天台宗の円仁(後の第三代天台座主慈覚大師)が中国の五台山で見つけ、筆写して帰ります。これもおもしろいですね。この本が書かれたのは中国の揚州の天台山ですから……。この本は円仁の後、円珍が見つけ出して「日本の面目の書」という後書きを書きます。その後ずっと天台宗の間で筆写されています。

しかし、残念ながらこの本は、本家の中国では今は失くなりました。私の博士論文の後半はこの本の研究なんです。私は、この本をずっと長い間、日本国内で探しまわりまして、(とうとう大津市にある)天台真盛宗の総本山である西教寺というところに一番古い写本があることが判りました。当時、教学部長であった中島真瑞さんにお尋ねした時は、最初「ここ(西教寺)にはそんな本はないですよ」とおっしゃっていましたが、「必ずあるはずです」とお願いしましてね。ようやくこの写本に巡り会うことができました。この写本を研究したのは私が初めてでした。私は「必ずありますから」と再三お願いして、ようやくこの本に出遭うことができたのです。これは素晴らしい本ですよ。本当に感動が伝わってきます。

まず、中国のお坊さんから『勝鬘経(しょうまんぎょう)』を解釈したものが韓国(百済)へ伝わり、それがさらに日本に伝わり、聖徳太子がその資料を参考にして『三経義疏』を書かれる。その本を遣唐使が中国へ持ってきて、中国のお坊さんが、さらにそれに注釈をつける。これを再び日本のお坊さんが日本へ持ち帰り、その後中国では失くなってしまう。それを千年後の私が様々なところを探して、再び日本で出遭ったわけです。

この交流を追って行くと、西洋人同士のそれとも違う、また西洋と東洋間のものとも違うスタイル――すなわち、文書による濃密な相互交流の形――があることを見てとることができます。それは友人関係にも言えることですね。西洋人の友人とは、普段はお互い手紙のやり取りをするのは面倒なんです。けれど、仮に2年間ぐらい音信がなかったとしても、お互い用事ができればさっさと手紙を書きます。ところが日本人の友人とは、何も特別な用事がなくても、電話を一本かけてきて何気ない近況を知らせ合う。言うなれば、これも「違う目で見て、違う中身を創り出す」ということであり、ブックロードの真意がここにも表れていると思いますね。

三宅善信:  王勇先生、「ブックロード」に関する興味深い話、有難うございます。国宗会員の先生方のそれぞれのお寺でも、「もしかしたら、お宝かも?」という代物(しろもの)がありましたら、是非一度、王勇先生に見ていただいたらいいんじゃないでしょうか。ひょっとしたら、「遣唐使の何某」とか「○○大師の何とか」なんて貴重な文化財かもしれませんよ。


< 質疑応答 >

三宅善信:  先ほどの王勇先生のご講演を受けて、質疑応答に入りたいと思います。いつものように、お名前とご所属をまずおっしゃってからご質問をお願いいたします。

真弓常忠:  住吉大社宮司の真弓常忠でございます。則天武后の時代は、唐代では唯一、仏教が保護された時代ですが、武后が政治の表舞台から退くとすぐに、元の道教中心の世の中になったのですから、鑑真たち仏教僧は「騙された」という思いでしょうか。その辺のところをお伺いできますか?

王  勇:  そうですね。唐王朝を建てたのは、李淵に始まる一族ですが、この一族は純粋の漢民族ではなく、鮮卑系(北魏)の混血なんです。ですから、目が緑色ですとか、髪に癖があるとか……。しかし、自分たちは少数民族の出身だというと中国支配の正統性を欠くので、「実はわれわれは老子の子孫である」と作り話を持ち出しました。ですので、初唐の頃から唐王朝ではずっと、道教を国教としてきました。

一方、仏教はどんどん弾圧されてゆきます。則天武后の時代になる直前の時代、科挙の試験においては、道教の『老子経』『道徳経』が必須科目だったわけですが、則天武后の時代になると、本来、道教に与えていた官位を仏教に転用しています。ちなみに、日本のお坊さんが天皇から「紫の袈裟を賜る」ということは「紫賜(しし)」と言いまして、最高の名誉とされていますが、実はこの紫色を高貴な色と位置付ける考えは道教から来ています。則天武后は仏教を優遇する反面、道教を弾圧しました。殺された者も大勢いますね。仏教と道教の優劣論を行ったのですが、勝った道士は殺されるんです。しかし、こういったことは、次の時代(武后以後)になると、仏教徒の身に返ってくることになります。ですから、唐代では、則天武后の時代だけ仏教が擁護されていたということになります。

真弓常忠:  日本は道教を律令国家の正式の機構としては、組織的に取り入れることは拒否しましたが、実際には、よく注意してみると、神道の様式などの中にその片鱗を見つけることができるだけでなく、ある意味、かなり深く浸透している事実を見出すことができますが、そのあたりの事情もお願いします。

王  勇:  それは真弓先生のご専門ではないですか? 真弓先生には、一度、私の大学(杭州の浙江大学)に来ていただいて講演をしていただいたことがありますが、その講演をきっかけに、学生の一人が学位論文のテーマとして、先生が以前宮司をされていた京都祇園の八坂神社の牛頭(ごず)天王信仰を取り上げたことがあるんです。ですから、真弓先生の前で日本の道教について話すのはかなり勇気がいると思いますが……。

何故、日本文化の中に道教の要素を見出すことができるかといいますと、道教は中国文化を構成する一大要素だからです。この二つ(道教と中国文化)を切り離して考えることはできないんですね。そのため、必然的に日本の文化にも道教のそれが浸透していったわけです。例えば、「年中行事」というものにしても、これは道教的な考えからきていますね。これからの季節、お中元を渡す習慣がありますが、もともとこれは、中国における道教の地獄の神様、地官大帝に由来する習慣から始まり、中国では「鬼の祭」と呼ばれています。

一口に「道教」と言いましても、文化としての道教、宗教としての道教、政治的な意味においての道教とでは、性格が異なります。「政治」としての道教となると、やはり組織が必要です。その組織の中には序列があり、僧官に匹敵するような僧都などを任命しなければなりません。こういった道教における組織的な構造は日本には入らなかったわけです。

実はこの三月に、『道教と日本文化』という学会が埼玉県の秩父神社会館で開かれました。こちらの泉尾教会の三宅善信先生もご一緒に参加されましたが、その席で私は「鐘馗(しょうき)」についてお話をさせていただきました。日本では、端午の節句で有名な「鐘馗」様ですが、奈良や京都へ行きますと、「瓦鐘馗」というものを屋根の上に見つけることができます。これは中国には無い風習です。「鐘馗による魔除け」そのものは道教の考えなんですね。こういったものは民間信仰ですとか、生活上における「教養としての道教」なわけです。

三宅善信:  有難うございます。日本と中国あるいは朝鮮半島もそうですけれども、仏教が一番異なる点というのは、日本の場合、仏教はその初期の頃から国家権力つまり国家の統治機構と密接に結びついたことですね。その点、中国や朝鮮半島では、仏教本来の「出家する」という行為によって、仏教は俗世と切り離されて考えられています。ですから、道教や儒教といった別の宗教が政治と密着したという点が日本とは異なるところだと思います。

次に、どなたかご質問ございますでしょうか? 今、神道の先生からご質問をいただきましたから、今日はキリスト教の先生はお見えではないですし、どなたか仏教の先生方の中からいらっしゃいませんか?

王  勇:  日本の仏教史を調べた後で、もう一度中国の仏教史を読み返しますと、本当にさまざまな違いがあることに気が付きますね。中国にはないわけではないんですが、仏教による「鎮護国家」という思想は日本で非常に発達しました。

また、日本には「台密」という、天台的な密教がありますが、これは天台宗に密教が取り入れられている訳です。普通、「密教」といえば「真言宗」ですよね。中国では「顕教」である天台宗は天台宗で、「密教」はまったく別の存在になります。比叡山を開いた最澄の後、日本天台宗では、円仁や円珍の頃には、密教の要素が強化されていきました。これは同じことの裏面ですが、密教に対する国家的な加護の力が強いといった傾向も中国には見られない。

さらに、これは中国側の仏教観から見ると驚くべきことなのですが、中世に入ると、日本では僧侶が外交官として活躍します。中国がこの習慣に慣れるまでには 100年、200年かかりましたね。最初に中国側が僧侶を派遣した時、「日本から来る使節はすべて僧侶なり。われわれが今度日本に使節を派遣するときは僧侶を起用しよう」という記録がはっきり残っています。これは明らかに日本の影響ですね。こういったエピソードは非常におもしろい。これこそまさに「所変われば品変わる」ですね。場所と時間が異なる地域においては、仏教そのものの性質も中身も変わってくるということです。

三宅善信:  今、王先生がおっしゃったように、日本人は、優秀な人材を遣唐使として当時の先進国であった唐へ派遣した。すなわち、日本側が学ぶばかりであったと一般的には思われていますが、実は、それだけではありませんでした。行ったら行った先で、向こう側も、来た人間を「見ている」わけです。もちろん、基本的には、学びに行った側がより多くのことをお尋ねする訳ですけれども、そのやりとりの中で、向こうの人も「では、日本の国はどうなっていますか?」と、尋ねるんですね。その際に、日本では重要視されているものが相手にとって同じように値打ちがあるとは限らず、むしろ、日本人にとったら軽視していたものに意外な興味を持たれた、ということもあると思います。

まだ、お手が上がらないようですので、私から続いて質問させていただきますが、王先生には以前、「ブックロード(本の道)」についてお話ししていただいたことがございますね。この「ブックロード」というのは、聖徳太子の作といわれる「三経の義疏(ぎしょ)」と呼ばれる『法華経義疏(ほけきょうぎしょ)』・『維摩経義疏(ゆいまきょうぎしょ)』・『勝鬘経義疏(しょうまんぎょうぎしょ)』が、まず遣唐使の手によって運ばれ(逆輸出)、中国の方が読まれるんですが、おもしろいのは、彼らが読み終えた後、元のコメンタリー(聖徳太子の解釈)にさらに(自分自身の)コメントを加えた形で書物にして、それが後世、再び日本へ戻ってきているのです。そもそも、「義疏」という言葉の「義」という言葉は「原典の解釈」、そして「疏」は「そのまた解釈」という意味ですからね。そのあたりのお話を少し聞かせていただけますか?

王  勇:  今お話に出てきました「ブックロード」という言葉は、恐らく皆さんにとって耳慣れない言葉だと思いますが、それも当然です。私がこの言葉の名付け親ですから……。今は有難いことに、少しずつですが学術用語として市民権を得つつあるところですね。これはもともとドイツ人のリヒトホーフェンが創り出した、皆さんもよくご存知の「シルクロード」つまり西洋的に、当時の欧州と中国の交流を捉えた言葉なのですが、これが元ですね。「シルクロード」は主に貿易交流を意味するのですが、お互いの言語も解らなければ、習慣も違うし、また文化の土壌・価値観・美意識も違う。ですから「物(シルク等)」を介することによって、双方の利益を上げていったわけです。
そういった点から考えてみましても、日本は「シルクロード」という言葉を安易に使っていますね。奈良県は「奈良はシルクロードの終着駅である」という言葉を謳(うた)い文句にして、博覧会なども催されたことがございますが……。

そのようなお宝があれば、是非、見せていただきたいですね(笑)。お寺のものは、研究者といえども、なかなか見せていただけないことが多いですから……。

三宅善信:  そうですね。王勇先生のご講演を伺って、もうひとつ私が気になりましたのは、先ほど「舎利信仰」の話が出ましたが、日本人はもともと――これは神道にまつわる部分だと思いますが――あのお米の小さく、白く、キラキラした様子に何か宗教性を感じているところがあったと思うのですが、そこへ「仏舎利」という、日本人が即物的にも大変解りやすい形のものを鑑真が唐土からもたらした。もちろん、渡海前に鑑真自身が考えていたこと(舎利の効能)が、思っていた以上に「当たった」のかもしれませんが、その意味で「日本の舎利信仰は鑑真がルーツである」と申し上げて良いのでしょうか?

王  勇:  そうですね。鑑真が日本へやってくる以前にも、たしかに日本に「仏舎利」はあったんですが、しかし、「舎利信仰そのものを創り出す」あるいは「その物(舎利)を彩るような文化的な雰囲気」これは明らかに、鑑真と共に伝わったと思います。鑑真が携えてきた3000粒の仏舎利から生まれた話は、それだけで1冊の本が書けるほどです。この仏舎利は、もともとは楊州で、鑑真が天竺から来たあるお坊さんから賜わった9000粒のうちの3000粒ということになっています。残りの6000粒は、それを用いて揚州で「西霊塔を造った」と言われています。これは少し話が変わりますが、この塔は「唐土が廃仏の折、(塔そのものが)海を渡り、日本に漂着した」という伝説があります……。

先ほどの話に戻りますと、鑑真は3000粒を携えて渡海を試みましたが、遭難しましたねよね。その折、彼に附き従っていた思託が書いた『延暦僧録』の中でも、鑑真は他のものを捨ててでも舎利を懸命に守ろうとしています。彼自身「私は舎利を守った功績がある」と言っていますね。日本の伝承によりますと、龍が船を飲み込もうとした時は、本来ならば一番尊いものを龍神に与えて鎮めることになっています。例えば、道照が日本に帰国した時は、「玄奘三蔵からもらった鍋を捨てた」となっています。ですから、通常なら、まず舎利。舎利の後は、人間が海へ投身するということになっています。

ところが、鑑真はこの舎利を守るために「無事に日本に辿(たど)り着けたら、龍を祀ります」と祈願するんです。すると「大きな亀が浮かんできて船を浮き上げた」そうです。今、唐招提寺に行きますと、舎利の入った壷があります。それは特殊な台座に置かれているんですが、これが亀なんですよ。この「物語によって物(台座)が作られた」のか「物によって物語が生まれた」のか定かではありませんが、こういったものが現代に残っています。

三宅善信:  本当に興味の尽きないお話をいろいろとお聞かせくださって有難うございます。日本は「座の文化」、一方、中国は「立つ文化」という根本的な視座の違いの話などもしていただいて、私としましても思うところがたくさんございます。たしか唐招提寺では、ご本尊の盧遮那仏(るしゃなぶつ)だけが坐像でございまして、その他の諸仏諸天は薬師如来、観世音菩薩、もちろん四天王も含めて皆、お立ちになられています。座っていらっしゃるのは盧遮那仏と鑑真のお二人だけ……。これは何か関連でもあるのだろうか? などと、思いを巡らせながらお話を伺わせていただきました。

会員の先生方からあまりご質問が出なかったので、私が先生方のお気持ちを忖度(そんたく)して次々と質問してしまいましたけれども、もし、こういう場でのご質問が難しいようでしたら、王先生は現在、四天王寺国際仏教大学の客員教授として一年間(来年三月まで)は大阪に滞在されていらっしゃいます。直接いろいろとお尋ねいただける滅多にない良い機会かと思います。それでは、皆様の拍手をもちまして、王勇先生に感謝の意を表したいと思います。どうも先生、有難うございました。

王  勇:  こちらこそ、有難うございました。

                           (連載おわり 文責編集部)