大阪国際宗教同志会 平成17年度第1回例会 記念講演
『宗教と文化の混交について――近代ヒューマニズム批判―』
               

花園大学 学長
                          西村惠信

3月16日、神徳館において、大阪国際宗教同志会(大森慈祥会長)の平成17年度第1回例会が神仏基新宗教各派の宗教者40名が参加して開催された。臨済宗妙心寺派の禅僧でありながら、青年期に米国でキリスト教を学び、広く国際的に活躍されてきた花園大学の西村惠信先生をお招きして『宗教と文化の混交について――近代ヒューマニズム批判――』という講題でお話しいただいた。本サイトでは、数回に分けて掲載する。




西村惠信学長
▼田舎の禅寺からアメリカへ

ただ今ご紹介にあずかりました西村惠信でございます。本日司会をされている三宅善信さんという人は、スッポンみたいな人で、いったん喰い付いたら離れません(会場笑い)。ですから、昨年末に京都で今回の講演を頼まれた時も逃げられませんでした。

全く自信もございませんし、どんなお話ができますやら判りません。おそらく皆様と意見が異なる点も、話の中でいくつか出てくると思いますが、私もそろそろ引退の齢(註=この講演の二週間後に学長職を退任された)ですから、心残りをしてはいけませんから、言いたいことは言わせていただこうと思います(会場笑い)。しかし、本日の講演時間は1時間半だと思ってまいりましたが、先ほど50分間だと伺いました(註=講演と質疑応答を合わせて1時間半)。これは少々「弱ったな」と思っております。

皆様のお手元にお配りした私の略歴を見ていただいたらお解りいただけますように、私は百姓の家の10人兄弟姉妹の末子として生まれましたが、2歳の時に、仏縁浅からずしてお寺に貰われていきました。親にしてみれば「1人ぐらいは」ということだったんでしょうか……。という訳で、実の母親と出会ったことのない可哀想な奴でありますけれども、71歳になった今でも、懐に母親の写真を入れていつも持ち歩いております。しかし、この悲しい記憶が「人間が恋しい」とか「悲しみが解る」心を私に授けてくれたと思うと、宗教者としては「良かった」と思う次第であります。


今から30年ぐらい前になりますが、若い時分に英語教師をしていたことがあります。その時にT・E・ヒュームという人の『Humanism and Religious Attitude(ヒューマニズムと宗教的態度)』という見かけの薄さとは裏腹にかなり難しいテキストを使ったことがあるのですが、「ヒューマニズム(人道主義)と宗教というものは、やや対立関係にある」といった主旨のことが書かれていたのを覚えております。この話は、また後ほど触れるといたしまして……。

私自身は、伝統仏教の古い因習に囲まれた世界で育った訳ですが、ご縁がございまして、まだバチカンが宗教対話を宣言(註=1962年に、時の教皇ヨハネス23世によって召集された「第二バチカン公会議」によって、千数百年続いたカトリック教会の諸宗教に対する独善的姿勢が大きく転換した)する前の1960年に、クエーカー教団の長老であるダグラス・スピアー先生が来日された折に、「禅の修行をした人で、なおかつキリスト教に関心がある方がおられたら、当方で1年間授業料と宿泊面倒は見る心づもりがありますが、どなたかおられますか?」とおっしゃいました。皆様ご存じかどうか知りませんが、昔、臨済宗相国寺派に、当時としては珍しい英語を話す緒方宗博というお坊さんがおられましたが、この方が私の宗教学の先生でした。

この先生が、「君は英会話を勉強しているそうだが、どうだ、行ってみないか?」と私に声をかけてこられたのですが、自己負担分として片道17万6000円のお金が要りました。当時、私はまだ駆け出しで月給7000円の頃でしたから、17万もの旅費を貯めるのは容易ではありませんが、「いつからですか?」と尋ねると「来年の9月から新学期が始まる」との返答でした。実は私、ちょうどその年の3月に結婚式を挙げることになっていたので、そのこともお話しすると「嫁さんなんか待たせておけばいい」(会場笑い)と……。しかし、そんな訳にもまいりませんから、式を挙げてすぐに、船に乗って14日間の後に西海岸に着き、そのままノンストップ4泊5日でアメリカ大陸を横断して、目的地のペシルバニアに着きました。


▼キリスト教一般というものは存在しない

ちょうど26歳の頃です。「若さで突っ走った」という感じでした。何しろ、最初は横浜港での乗船時のやり取りですら(英語が)サッパリ解りませんでしたから、絶望的でしたね。話せばいろいろあります。しかし、この経験が私の人生上のひとつのターニングポイントになりました。クエーカー教徒の勉強と実践のための研修センターでありましたが、1960年代といいますと、ファッションや車の形も今とは全く違います。私が滞在した頃の写真をアメリカ人の学生に見せますと、懐かしそうに「まさに60年代ですね」と言いますが、そんな頃に私は、滋賀県の田舎の寺からアメリカへ行ってキリスト教の勉強をしてきたんです。

しかし、日本に帰ってきてから「外の目」で、あらためて日本の伝統仏教のあり方を見ますと、気になることが多々ありまして、非常に批判的になり、宗門からは「あいつは困った奴だ」ということになりましたけれど、その一方で、新しい宗教??今のNew Rising Religion(新興宗教)と比べましたら、もう古くなりかかっていると思いますが??の方々と別の形で折り合うことができるようになりました。

こちらの金光教泉尾教会の先代恩師親先生であられます三宅歳雄先生とも、よく並んで座らせていただき、シンポジウムや研究会をさせていただきましたから、よく存じております。現在、教会長をされている三宅龍雄先生がご病気だそうですけれども、龍雄先生にも大変お世話になっておりますし、また、ご子息の方々とも、交流が続いております。

このように、私にしてみましたら、新しい宗教の人々と交流することには何の抵抗もないんですが、周囲の者(臨済宗関係者)からすると、こちらに足を踏み入れると「新興宗教のところに、奴は何をしに行っているんだ?」と、あまり評判がよろしくないんです(会場笑い)。けれども、私としてはいろんなことを知りたいですからね。

例えば、『禅とキリスト教の懇談会』という会をもう35年ほどやっております。毎年3泊4日寝食を共にして、互いにいろいろなことを話し合ってきましたが、この話し合いを通じて、私は「キリスト教一般というものは存在しない」と思いましたね。


西村学長の話に熱心に耳を傾ける国宗会員諸師

私は「キリスト教を解りたい」という思いで、無理して逆撫でされる思いで「神」や「聖霊」などのことを努めて学びましたが、一人ひとりが篤い信仰を持ったクリスチャンであるということを確認すると同時に、皆さん、それぞれ別の理解をされていることが判り「キリスト教一般というものは存在しない」という考えに至りました。しかし、振り返ってみましても、わが仏教にも仏教一般などというものはなく、別けても禅一般などというものはどこにもありません。書店に行きますと、「禅」という言葉が入った本がたくさん並んでおりますけれど、何のことだかさっぱり解りません。


▼自分自身を知ること

禅とは「己事究明(こじきゅうめい)」と申しまして、一生をかけて自己と関わり、死ぬ土壇場になって初めて結論を出すというのが、禅の本質であります。「禅」と申しますと、人はすぐに「座禅」とか「悟り」とか申しますけれど、では、「座禅を組めない脚の悪い人に禅は関係ないのか?」というと、そうでもないと思いますし、「悟りが到達点か?」というと、勉強を重ねると「悟り」が究極なのではないと気付きます。だいいち、「悟った人は1000人に1人か半人」と言われていますから、そうなると、99・9パーセントの人は落第ということになってしまいます。

これを私の立場で考えますと、せっかく2歳の時からお坊さんをさせていただいているのに、このままではどちらの意味でも「落第生」になってしまいます。実は、学位論文も先ほど触れた『己事究明の思想』でありましたが、私は自分自身で「こうだ」というものを構築していこうと思っております。そんなこんなで、私は自信を持ち、もはや誰にも譲らない確信を持って人生の末期を迎えております。こう見えましても71歳。孫が10人いる、立派なおじいさんですからね。

5年ほど前に、40年ほど住職を務めました田舎の禅寺を息子に譲ったのですが、譲って初めて客観的に見えるものがあります。住職を務めていた頃は、一生懸命やっていましたから、お経を間違えることなどなかったのですが、譲ってからというもの、毎朝本堂でお経を上げるのですが、それをよく間違えるんですね。

特に陀羅尼(ダラニ)(註=密教化した大乗仏教では、神秘的な呪句として陀羅尼や真言(マントラ)が唱えられるようになった)などは、古代のインドの言葉の音写(註=中国に仏教が伝来した際、仏典のほとんどは意訳して漢訳されたが、呪句的な部分については、そのままの発音を漢字で当て字した)ですから、(漢字の意味しか知らない日本の仏教徒は、その経文の)意味が解らないままに唱えてきました。例えば『般若心経』の終わりのほうにある「羯諦羯諦(ぎゃーてーぎゃーてー)。波羅羯諦(はーらーぎゃーてー)。波羅僧羯諦(はーらそーぎゃーてー)。」何のことだかさっぱり解らない。

それを、現役の住職から一歩引き下がって考えてみると、今度は間違えたり、忘れたりする……、そういう恐さを感じるんです。檀家が70軒ほどの一寺の住職として、私なりに一生懸命やってきましたが、辞めてみると、とても恥ずかしい限りです。以前、法蔵館の『私の宗教体験』という特集号にかけて尋ねられたのですが、私は宗教体験なんてしたことありません。ただ、恥を知ることができたのは、坊さんになったおかげだと思っています。そして、「恥を知る」ということは、人間としてとても大切なことだと思います。


▼禅と出会うまでの回り道

私は、キリスト教を勉強したということも大きな分岐点でしたが、育ててくれた養母にしましても、浄土真宗の寺の孫でした。私の「惠信」という名前は、歴史的にも有名な、天台宗の「恵心僧都源信(えしんそうずげんしん)」の漢字を間違えただけなのですが……(会場笑い)。小さい頃は、よく周りから「恵信僧都」とからかわれました。本人は、そんな名前を付けて欲しかったわけではないですから、これがもう嫌で、嫌で……。お寺へ貰われる前の名前は、百姓であった親から「6番目の男の子」というところから「信六」という名前を付けて貰いましたが、これも嫌でしたね。

ところが、大阪大学の相原信作という哲学の先生のお宅をお訪ねした折に、表札に「長男 相原信六」と書かれていたのを見つけた時に、「こんな偉い先生が付けられる名前なら、私も堂々と言わせてもらおうか」と思ってからというものは、この話は「言わなければ損」とばかりに言っております。

その相原先生に「この名前はどういう意味ですか?」とお尋ねすると、先生は「いえ、大した意味はありませんけれど、六字の御名号(南無阿弥陀仏)を信じるぐらいですか……」とお答えになりまして。「一百姓であった親が、このような名前を私に付けてくれたことに――他の兄弟はまったく違う名前でしたから――深い宗教性を感じました。その「信」を取って「恵心僧都」とひっつけたものですから、気が付いたら親鸞聖人のお嫁さん(恵信尼)と同じ名前だったんです(会場笑い)。

そういう訳で、他力信仰が私の周りをぎゅっと囲んでおりましてね。おまけにキリスト教の勉強をしましたから、どうも(自力の)禅宗には似合わないといったところです。ところが、禅宗を専門とし、禅をよく勉強してみますと、実は(禅僧にありがちな)いわゆる「天下取った!(「私は悟りを得た」と思いこんでる)」ところの禅宗とは違った訳です。だんだんと「謙虚になる」ということが禅の本質だと分かってまいりましたので、今度は逆に「今までの回り道は、ひとえに禅の本質に気付くためだったのだな」と思うようになりました。

先ほど申し上げた「恥ずかしい」という気持ちがどこから来たのか? という話に戻りますが、これは、「私は今まで詠んだお経を、本当に真剣に読んでいたのか?」という話です。「お経の意味」という点で申し上げるなら、私は研究者でもありますから、法華経に何が書かれているのか(文言の意味)ということはすぐに解りますが、一般的な坊さんに至っては、何が書かれているのかすら知りませんね。

何が書かれているか知らないお経を棒読みで詠む訳ですから、時々目覚ましにガーンと木魚を叩くんです(会場笑い)。 そのような陶酔するようなものですね、お経は……。うまいこと作ったものです。あの木魚というのは字の表す通り、魚の形をしております。魚は夜でも眠らないでしょう? 目を瞑(つむ)ることなく。ですから、木魚とは「魚のように眠らずに頑張れ」という意味を表しているんです。他にも理由はありますが……。


▼寺院の後継者づくりの実態

そうやって、葬儀の時なんかでも、坊さんは中身を理解しないままお経を詠み、あるいは、故人のために創った難しい漢字(戒名のこと)にアドリブを付けまして、引導を渡し、最後に「喝!」と言ってごまかすんです(会場笑い)。これで皆(遺族)に「(死者の魂は)間違いなく極楽へ行った」と思わせるところが妙技ですね(会場笑い)。私はそれを幾度やったか……。その上、私はその人たちの行き先を確かめてないんですよ(会場笑い)。これって、無責任でしょう? それでお布施を貰って、私は食べて来たんです。この行為は基本的に虚偽ですね。私の僧侶としての人生は虚偽の上に立っていたということ……。このことが私に深い反省を促すんです。

仏教学科の学生たちにもよく言うんですが、「君たちは、プロ野球で、ルールを知らずにマウンドへ立てると思うか?」と尋ねると、すぐに「そんなことはあり得ないですよ」という答えが返ってきます。そこで私は「しかし、君たちは仏教のことを知らなくても、卒業したらお寺の住職になって、(法事の時は)床の間を背に座って酒を飲むんだろう?」(会場笑い)と言うんです。「仮に檀家の人に(仏教の教理について)何か尋ねられても、『それは解らない』と逃げ回っていたら、己にとってみじめではないか?」と……。

しかし、そういうことを許してきた住職の坊ちゃんに、住職の跡継ぎになってもらいたい。(全く面識のない)立派な僧侶を背景もあるんです。例えば、仮に住職の跡継ぎ息子が少々いかれていたとしても「他所から迎えるよりも、気心の知れたこの人に跡を取ってもらいたい」と檀家中が餅撒きして喜ぶ(註:新住職の晋山式(しんざんしき)での祝賀行事の一形態)ものだから、本人もおだてに乗って、いかにも自分が偉い人であるかのように勘違いをするんです。日本の仏教界には伝統的に、そういう地盤がきっちりとできております。その上に乗っかる寺の子供たちは、ある意味、犠牲者とも言えるのですが……。

そういうのばかりを集めて、私は40数年間教えてきました。可哀想に、寺の息子はいくら頑張ったところで、就職先は既に決まってるんですからね。ですから、花園大学に入学した後は、髪も染めて長く伸ばし、音楽でもやって「遊ばんと損」ですな(会場笑い)。「坊主になってから後悔が残る」訳ですから……。ただし、大学を卒業したら90パーセントの者は、ちゃんと頭を剃って僧堂(本山の道場)へ行きます。ですから、うちの大学で就職率が一番高いのは仏教学科です。そりゃそうです。始めから行き先が決まっているんですから……。現在僧侶になるものは、そういう状況が取り巻いていますが、私はずっと「恥ずかしさ」を持ち続けていました。


▼キェルケゴールとの出会い

もうひとつ、大学4回生、昭和30年の頃ですが、卒業論文を書くにあたって、久松真一教授が私の指導教授でした。私は「座禅をし、悟りの境地に至らないことには、禅は解らないだろう」と思っていましたので、「禅についての卒業論文など書ける訳がない」と非常に悩みました。そんなことを考えながらあちこち本屋を覗いておりましたら、秋頃、にわかに「キェルケゴール」という人の本が店頭に並び出しました。初めて聞く名前でしたので、「キェルケゴールとは誰だろう?」と思い、手に取りますと「主体性は真理である。真理は主体性である」と書かれているんですね。

これには、まず、ソクラテスの話によく出てきた「汝自身を知れ」というのを踏まえねばなりません。「まず、自己に対する主体性を確立しておかなければ宗教は成り立たない」というのがソクラテス的な(意味での「宗教性」の理解であり、これをキェルケゴールは、自らの宗教性理解と区別するため「宗教性A」と名付けた)「宗教性A」ですが、これが「宗教性B」になると、反転してキリスト教的なるものになります。Bの段階になりますと、「この主体性を持った者は、単独者として、神の前に立つ」(註:人間は,神の前では理性という普遍的なあり方を剥奪された「単独者」である。人間は、最終的には個別的な死、自己の死という終わりを迎えなければならない単独者、無への不安の中にいる単独者なのである。人間は単独者として神の前に立つことによって、自己のうちに自己の根拠をもつわけではない「絶望」というあり方をしていることが解るという哲学的態度)訳ですが、神様の真理に対して、この主体性は極めて罪深い非真理性になるという構造です。

この内容そのものも面白かったのですが、同時に私は、絶対主体性という禅の講義も聞いていましたから、「これはいける」と思いました。そこで、キェルケゴールを隠し種にして、「禅の主体性」について論じた訳です。しかし、この論文では書かなかったことがあります。キェルケゴールは年老いた父親に育てられたのですが、女中さんに手を出した結果の不義の子です。ですから、キェルケゴール自身も「自分は罪の子だ」と思いつつ、薄暗いユトランド(スカンジナビア半島に向かってヨーロッパ大陸から突き出したデンマークの本土)という地で育ちます。デンマーク人である父親ミヒャエル・キェルケゴールは、子供に「牧師になれ」と言いますが、これは、彼が神を呪ったことを後々になって反省し、「どうしたら神に許されるだろう?」と逡巡した後、自らのスケープゴート(犠牲の子羊)として、息子を牧師にさせようとしたんです。

キェルケゴールは、「如何にして真のキリスト者となるか?」ということを課題にした訳です。それまで考えたことも無かったのですが、私はその本を読んだ時、「宗教にも偽物と本物があるのか」と思いました。「真のキリスト者」がいるのならば、「偽のキリスト者もいるのか」と……。それならば、私は「真の禅坊主になってやろう!」と思った次第です。まだ大学4回生なのに、立派ですね(会場笑い)。しかし、この本は私に非常に強い影響を与えましたね。如何にして、真の宗教者になるか……。キェルケゴールは、「教会へさえ通えば、真のキリスト者になれる訳ではない」と、著書の中で痛烈に単独者として批判しています。このように、本質的な信仰を求めることが、宗教的実存哲学です。若い時分はそういった勉強をしておりました。


▼臨済宗はすべて白隠禅師の流れ

それから、臨済宗が今日あるのは、今から250年ほど前の徳川中期に、駿河の国に白隠慧鶴(はくいんえかく)という名僧がおりましたが、この人が有名な白隠禅師です。この白隠禅師という人がいなければ、今日、日本に禅というものはまったくありませんでした。「二十四流、四十六伝」という風に、中国から46人の僧によって伝えられた禅は全部滅び(註:中国から日本へ四十六人の僧が禅を伝えたが、その内、法を受け継ぐ弟子ができて流派を形成したものが二十四流。曹洞宗の三派を除けば、残りはすべて臨済宗)まして、この白隠禅師が立てました「応燈関(おうとうかん)の一流」(註:大燈国師の流れを汲む一派だけが臨済禅として残った)という、大徳寺と妙心寺だけが残りまして、旧来の五山を支えた様々な流派を集めた訳です。その大燈国師(註:宗峰妙超、大徳寺の開山)が「己事究明」という言葉を言い残して死んでおりました。大徳寺と妙心寺の僧は、真剣に参禅して己事究明しました。

一方、五山の学僧は室町幕府からお金を貰っている高級官僚ですから、詩を詠んだり、絵を描いたりと、遊びながらの修行でしたので、たしかに五山文学はできましたけれども、しっかり座禅を組んでいないから、禅宗としては潰れてしまったんです。ところが、この五山の隣で冷や飯を喰っていた大徳寺と、その弟子である妙心寺の開山である関山国師という人がおりましたが、この系列の中から白隠慧鶴という人が出てきました。

ですから、今日の臨済禅の法燈は、全て白隠禅です。禅家には伝法の法系の他に、伽藍法系とありますが、南禅寺では管長になりますと「南禅寺第○世」などと名乗っていますが、この伽藍法と人法のような人から人へ伝える法燈とは別なんですね。そういったことを見てきますと、やはり、法理として伝わってきていることと、内的に伝わってきている公案禅(註:禅僧が悟りを開くために、師から与えられる問題のこと)とは違うんですよ。お寺の屋根替えをしているのと、座って「こりゃぁ!」と棒で叩いているのとでは法系が違うんです。お寺を維持しようと思って観光客を呼び込んでいるところとは、もはや違うんです。


▼本質が抜け落ちている禅文化

そろそろテーマである「宗教と文化」が見えてきましたね。京都では、金閣寺にせよ、銀閣寺にせよ、京都五山観光バスが連なってますよね。あれが京都の禅文化でしょうね。しかし、寺内にある墨絵や石庭などは、修行にとって具合の良いように、つまり、修行者集団のためのものであって、観光客が見るために創ったのではないんです。また、修行者が、自らの悟りの表現として、詩を詠んだり、絵を描いたりしている訳ですから、それを見たところで(修行を積んでいない)普通の者が解るわけはないんですけれども……。確かに少し普通のものとは違ったところがあるんですね。「禅スノビスム」と言われていますが……。そういうものに対するエキゾチックな面がもてはやされているだけであって、本質はすっぽりと抜け落ちているんですよ。

こういった内容を、私は以前に、京都のある雑誌に寄稿したことがあります。私たちが見ている「禅宗の大きなお寺の建物やきれいな墨絵や庭」などというものと同時に、背後にある「心」というものを誰が見ているのだろう? と思います。分けても、「京都七本山」と呼ばれる禅宗の各大本山には、必ず専門の道場がございますが、大学を卒業した後、短くて3年、長い人ですと10年間、ですから平均して5年間ぐらいは、それまでラグビーなどやっていた屈強な若者が、ごつい脚を組んで朝3時半に起きてから夜9時まで、黙々と座禅をしております。そして、その事実を観光客は知らない。それ故に??金閣寺や銀閣寺のような、きらびやかなものは駄目ですが??禅家の風というものが存在する訳です。「文化」の部分にしびれているだけでは駄目ですね。背景を知らないと……。

百貨店などに行きますと、あちこちにきらびやかな金襴緞子が掛けられていますが、観光客の皆様は「やはり、京都は良いねぇ。御所車などが描かれた帯を掛けてもいいね」などと言っておられますが、彼らは西陣の薄暗い織り屋さんを知りませんよ。最近は型紙を作る人も随分減ってしまったそうですが、私、以前に仲の良い方を訪ねて、鮫小紋を作っている工房を見に行ったことがありますが、汚いですよ。出来上がった鮫小紋はそりゃあ綺麗ですがね……。そういう部分があるということ。祇園の一力さんで舞妓さんをあげて酒を飲むのも結構ですが、そういう方々は、舞妓さんが尻を捲くって雑巾がけしているところは知らない。そういう「見えないもの」があって、初めて「見える世界」へ出てくるんですね。


▼「三顧摩(さんこま)」の教え

この白隠禅師は、15歳ですぐ近くのおじさんのお寺へ出家するんですが、出家する時に隣から和尚が来て、「坊さん、たしなまんせ」と言っています。これは、『白隠年譜』15歳の章にちゃんと仮名も振って書かれています。これは、「坊さんになったら、十分にたしなんで真面目にやりなさい」と言ってるんです。その他にも「北に頭を向けて寝よ」とか「立って小便をするな」などといろいろやかましいことを言われていますが、白隠和尚は、一生涯それを実行しました。「何故、立って小便したら駄目か?」と申しますと、虫が死ぬからであり、また、昔の人は皆屈んでしております。そういうことも含めて、言いつけられます。

それから、「三顧の摩」と申しまして、「1日に3回頭を撫で(摩)よ」と言ういわれがあります。「1度目は『僕は、なんのために頭を剃ったんだろう?』と思いなさい。2度目は『頭を剃った以上、何をすべきか考えなさい』と、日常的実践のことを考える。3度目は『何ができたら自分は出家して、頭を剃ったことの成果となるのか?』です。動機についてしっかり反省する。その次に、日常実践、行のことを考える。3つ目に結果をしっかりと出して人生を見る。この「三顧摩」というのは昔からありまして、近江の永源寺を開かれた寂室元光という方が既に書いておられましたので、白隠のオリジナルではございませんが……。

私は知らぬうち(2歳の時)に坊さんにさせられた訳ですが、とにかく和尚として一生懸命やってきました。しかし、先ほども申しましたように、恥ずかしさだけが残っておりますね。そうして今は、「どうして死ぬか?」ということを考えております。まだ、結論は据え置いたままで、死ぬ時まで判りません。


▼宗教ではなく、文化的行事をしているだけ

折しも遠藤周作さんが書かれた『老いて、思うこと』という短い文章を読みました。それは、日本エッセイスト倶楽部から出版されている、日本名随筆シリーズの中に書いてあったと思います。私は和尚を辞めて「恥ずかしいなあ」と思っていたところへ、一撃を加えられました。遠藤さんはこのように書かれています。「最近、英国のタブロイド紙を見ると、グレアム・グリーン(Graham Greene)が、いよいよ死の床に横たわった時、仲の良い坊さん、つまり、カトリックの神父さんがローマからやって来た。そこで、グレアム・グリーンは彼にこう打ち明けた。『私はこうやって、だんだん死が近づいて来るに従って、信仰心が薄くなっていくんだよ』と……」そこで、遠藤周作さんは「宗教というものは、いよいよ土壇場になると、本当の顔を現す。それは、骨身の奥深くまで染み込んでいるものであるから、宗教意識下のことである」と書かれてるんですね。つまり、意識上に上って、自覚的に行われる動作、すなわち「教会へ行かなければならない。このお祈りを唱えなければならない」といったような行動は、あてにならないということです。

また、遠藤周作さんはその続きに「兵隊は、死ぬ時には『天皇陛下、万歳!』と言って死にましょうと、厳しく教育を受けておきながら、いよいよ弾が当たると、『お母さん!』と叫んだのは紛れもない事実です。普段思っていることと、最期の時に思うことは違う」と言っています。

その後、私なりにだんだん考えを推し進めてみますと、「なるほど、これまで私のしてきたことは、文化的レベルのことに過ぎなかったのか。宗教と違うじゃないか……」と思い至りました。つまり、「宗教」というものは、本当は体験的なことであって、他人への伝達を許さない自己内のことです。これがもし、他の人とシェア(共有)できるとなると、これは私個人を抜け出て一般化されたもの、つまり「言葉」というものです。「言葉」は文化の根源であり、普遍性であり、「私でなくてもよい」ということの原因です。

例えば、おばあちゃんが家人に「今日、私はお腹が痛いから、あそこの金光教の教会へ行って、お参りしてきて……」と頼んだ場合、「解った。私が代わりに行ってあげるから、おばあちゃんは家で寝ておいて」と言えば、一見済むことです。お賽銭は、言いつければ代わりに入れてきてもらえる訳です。しかし、そういう事柄をよく反省してみると、われわれのやっている宗教的行為は、やはり、文化的レベルに過ぎないと思います。もちろん、われわれ人間のやっていることとして、また、お寺や教会があることにも、意味はあります。

しかし、京都のお寺へ観光がてらにお参りして写経をしても、その後は街の雑踏に消えてゆくような一過性のものとして終わってしまうのではなく、電車に乗っていようが、パチンコをしていようが、何をしていようが私の内面??そこは誰にも見えませんが??「何処へも行かない」ということが、深く宗教と結びついていると思うんです。


▼見えるものは信ずる必要がない

それから、最近になりまして「信ずる」ということの意味を考えるようになりました。今日(こんにち)は、有吉佐和子さんじゃないですけれども、「不信の時代」です。私はどういうことかと考えた末、「信ずる」とは、「見えないものと篤く深い関係を持つこと」だと定義することにしました。見えるものは信ずる必要はありません。目の前にあるんですから……。そうなりますと、私を取り巻いている宗教的なものは、見えるものばかりです。ですから、この頃は、お墓を造ったり、仏壇を作ったり、立派なお位牌を立てたりすることで、皆満足してしまっていますが、それは、物質的な目に見えるものに対して満足しているだけです。本当は、その背後にある目に見えざるものに対して合掌し、篤い心を寄せなければならないのに……。

ですから、「こんな立派な仏壇や位牌を何百万で買い、毎日お水やお茶も供えているのだから、さぞや亡きお父さんも喜んでおられるだろう」というのでは、やっていることの半分は得手勝手、自己満足ですね。けれども、実際は「お金はたくさんあるけれども、旅行も行き尽くして行くところがないから仏壇でも買おうか」という方が多いんですよ。そして、「お隣よりも、わが家の仏壇のほうが立派だ」とか「うちの墓は石が良い」などといった話ばかりです。最近は、若い子でも数珠を身につけていますが、あれは信仰から来たものではなく、一種のアクセサリーですね。宗教というものが、何処かへ行ってしまった気がして仕方がないです。

特に、戦後日本人は、目に見えるものを追求してきました。貧乏でしたから……。私は国民学校(小学校)2年生の時に大東亜戦争が始まり、5年生の時に終戦を迎えた「銃後の良い子」でしたし、軍国主義者でした。兄は、フィリピンのレイテ島で旭日特攻隊で自爆攻撃していますから、私も「ようし、俺もやってやろう!」と奮い立ち、「鬼畜米英が舞い降りてきたら、突き刺してやろう!」と、どれほど思い、勇ましい気持ちでいたでしょうか。

話は逸れますが、天皇陛下のお召し列車が私の村を通り過ぎる時は、前日から雑草を引き、朝鮮人街道(註:江戸時代、李王朝からの公式の使節団である朝鮮通信使が江戸へ向かうために通った近江地方の街道名)に並び土下座をして待ちます。まず、先に試験用機関車がきらきらと光りながら走り抜ける時は見ていますが、いざ、天皇陛下の乗っておられる列車が通る段になると、そんなもの、見たら目が潰れますからね。「最敬礼!」と号令がかかって皆、土下座です。その時、ちょっと上目遣いで見たのですが、お二人(両陛下)が向かい合って座っておられたのを記憶しています。


▼軍国少年のその後

私は、そういった軍国教育を受けて育ちましたし、あろうことか、仏教各宗派も軍国主義の祈りの場として、国威宣揚を強調し、戦争に荷担しました。妙心寺派などは、檀家から寄付を集めて「妙心寺号」という飛行機を軍に献納していますが、かねてから「夫が(インドネシアの)捕虜収容所で酷い目に遭った時から、(戦争に荷担した)日本仏教は未だに何かおかしい」と糾弾しておられるオランダの婦人から、そのことを批判されましてね。先日、お詫びを兼ねてその方をお招きして大いに歓迎し、シンポジウムにも出席していただいて、誤解を解いていただき、機嫌良く帰っていただいたところです。

私は、戦争中、(まだ子供でしたので)銃こそ持ちませんでしたが、精神的には、すごく帝国主義でした。これは仕方がないですね。その少年が禅寺に入り、大学の教員になりました。戦前のナショナリズムは、戦後インターナショナル(社会主義)に取って代わられ、それまで掲げていた日の丸は片付けて焼いてしまい、明くる日から今度は赤旗で『インターナショナル』(註:プロレタリア国際主義に基づく労働者・労働運動・社会主義運動の国際組織の通称)の声が響く中、人生を送ってきました。

昨今も平和問題や靖国問題などいろいろ言っていますが、その一方で「私の兄は特攻で死んでいる」という事実がある訳です。今、新潟に住んでいるもう1人の兄がおりますが、当時、彼も特攻隊の一員でした。しかし、「あともう一日で朝鮮から発つ」という時に助かりましてね。彼は非常に愛国心があり、今でも「アメリカにやられてどうするんだ」と書いてますよ。仮に、彼の書いたものをうちの大学で見せようものなら、袋叩きに遭いますよ。私はこの2つの間に居るんです。

学校に居る間は「靖国(神社の国家護特)反対」の署名をして、その直後に「今日はうちの寺で遺族の慰霊祭があるから失礼します」(会場笑い)なんて、何をやっているんだか訳が分かりませんよ、本当に……。例えば、人権問題でもそうです。私は矢面に立って誤解の糾弾を受けましたが、「悪かった」と言うと、「坊主懺悔(=すぐに兜を脱ぐ)じゃないか」とくるんです。しかし、そう言われて「そうかな。そんなに悪いとは思わないが……」と思ってしまう時は、懺悔にも嘘があるんでしょうね。われわれの性根は、徹底的に皮を剥かなければ変わりません。しかし、大学に居ながらにしての自己否定は辛いですよ。何しろ、私は軍国主義教育が身に染みてますからね。

もっと言えば、差別的な意識もしっかり根付いているんですから……。そういった部分を表に出さず、自分を押さえつけ、現代流に言い換えて発言したり、実践したりするというのは、とても難しい。これも嘘になりやすいですね。私は現在『部落解放基本法』制定要求国民運動京都市実行委員会の会長です。そこまで出世しましたよ。けれども、その一方で、未だ腹の中に深い差別意識があるんです。しかし「それは言ってはならない。思ってもならない」と自分に一生懸命言い聞かせ努めました。

小学校六年生の教科書に掲載されている司馬遼太郎さんが書かれた『二十一世紀を生きる君たちへ』において、「やはり、これからの世紀は『思いやり』や『優しさ』というものが必要になってくる。これは対人間ばかりでなく、動物や自然に対してもそうだ。しかし、それらはいずれも本能から出てくるものではない。本能からは思いやりや優しさは出てこない」というような意味のことを書かれています。

それはそうです。生きるための「助け合い」が必要ですからね。そして、「こういう事柄には訓練を必要とする」と……。この「訓練」が大変なんです。本能のまま放っておくと、人間は誰しも自分中心で生きますけれど、これを「他の人への思いやり」や「共生き運動」などを本当にできるようになるためには、訓練を必要とします。

▼社会との関わり合いの中で

多くの宗教者の方と語り合うと、やはり「仏教は社会に対する関心が薄い。別けても、禅宗は社会で何が起ころうとも塀の中で座禅しているじゃないか」と、いつも言われます。ですから、そういった(諸宗教対話の)会に行くのが嫌なんですよ。今日も多分やられると思いますが……。やりますか(会場笑い)? 私は逃げて帰りますからね(会場笑い)。私は、この手の会にはよくやられに行っていますが、私も私なりに言うことがあるんですよ。確かに「困っている人がいたら助ける」という行為は宗教的な心から出てきますが、しかし一方で、「これは倫理・道徳のレベルではなかろうか?」と思うんです。この辺が、皆さんと意見が異なる点ではないかと思います。

私は学生時代に山田無文という先生に師事しまして、様々な影響を受けました。ある時、無文老師は18歳の若者たちに向かって「おまえさんら、四条河原町(註:京都一の繁華街)へ行くときれいな電気が灯っているだろう。『ネオン』と言うそうだ。あのおかげで、街は夜でも昼間のように明るくなった。しかし、その真下を歩いている人々が上を見上げてそのネオンを見るか? 皆、『(ここが明るいのは)当然だ』という顔をして歩いている。おまえさんらは、すべからく愛宕山の一本の電灯にならねばいかん」とおっしゃいました。そう言われたものの、何しろ18の子供ですからね。「解ったような解らないような」という心境でしたが、その言葉を忘れず心に留め、今になって意味を持ってくるんですから、偉いものです。

老師は(嵯峨の)天竜寺僧堂で20年間修行された方ですから、京都の西の隅にある京都一高い愛宕山には親しみを覚えておられましてね。「愛宕山の山道を登ってくる人など、おそらく1年に1人か2人だろう。その代わり、登ってくる人は命懸けで光を頼りにやって来るのだから、ご苦労だが、皆はその時までじっとここで待っておけ」とおっしゃいました。私はそういう教育を受けて育ちました。確かに、「塀の中にじっと座って座禅していること」の意味がなければいけませんが、お釈迦さん以来、2500年間「黙ってじっと座る」ということが伝えられてきたのですから……。別けても、今日の西洋における座禅人口の大きな増加にも、私は「意味がある」と思っています。

ティク・ナット・ハン(Thich Nhat Hanh)さんは、ベトナム出身の禅宗のお坊さんですけれども、この方々のスタンスは「Engaged Buddhism(社会参加型仏教)」というもので、社会を大いに駆け回っておられますが、これはこれで大いに意味があると思います。しかし、そうかといって、「全部合わせて100人ぐらいの若い雲水が、草鞋を履いて托鉢し、座禅をして修行していること」にも失ってはならない意味があると思います。(「社会性がない」という)批判を受けますから、とてもしんどいことでもありますが、誰かがすべきことです。また、「本当の愛の行為」というものは、深い深い慈悲から来るものでなければならないと思います。愛情救済の手が、福祉の手が、何処から出ているかが問題だと思います。


▼倒れた人の起こし方

もうそろそろ終わりの時間でしょうか? 惜しいですね、これからが良いところなのに(会場笑い)。では、最後にもうひとつだけ。

唐の時代に、?居士(ほうこじ)という人がおられました。この人は、馬祖道一という方について座禅をしておられた在家の方です。この人は偉い人でね、人生半ばにして自分の財産を全て船に載せて海へ赴き、全て捨ててしまって人生をやり直した人です。居士は霊昭女というお嬢さんと二人で座禅をし、籠や笊(ざる)を売りながら生計を立てておりましたが、ある日、老いの故か、居士は橋のたもとで道の上にひっくり返りました。

そうすると、娘の霊昭女が駆け寄って、ゴロンと父親の横で同じくひっくり返ったんです。それを見た父?居士が「オイ、何をするのだ?」と尋ねたところ、「お父さんを助けてあげたのよ」と答えたんだそうです。すると、父は着物の泥を払いながら「幸いに人の見ることなかりき」と答えたと『居士語録』に残っています。

本屋などに行きますと、この語録を収録した本に『倒れた人の起こし方』などという見出しが付いております。私は、この話を高校時代に柴山全慶という老師から聞きましたが、「起こし方には二通りある」そうです。ひとつは「危ないですよ」と手を差し伸べる方法と、今お話ししたような「倒れた人の横にひっくり返る」という方法です。
この話を聞いた当時は「面白い話だなあ」と思いましたが、今思いますと、確かに倒れた人の横に一緒に倒れていたのでは話にならないかもしれません。しかし、一方で、手を差し伸べて人を起こした場合、その人を惨めにしませんか? 電車の中で、お年寄りに席を譲ることは、しなければならない「良い行い」です。しかし、席を替わる時に「私は若いから、年老いたあなたに席を替わってあげましょう」という気持ちが働いていたとしたら、歳をとっているほうは惨めな思いをするのではないでしょうか? 

病院へ誰かの見舞いに行ったとします。スポーティな服を着て、化粧もし、花束を持って「どうしたの? しっかりしなきゃ駄目よ」と声をかけたとします。しかしね、病人からすれば、「しっかりできるなら病院で寝ていない」訳ですよ。仮に、そこへ見舞いに来た者が「私、これから運動会があるから、そろそろ失礼するわ」などと言おうものならば、「いったい何をしに行ったのか?」ということになります。

もし、私が行くならば、まず汚い服を着ていきます。そして、入院中の彼が便所にでも行った隙に、(彼が寝ている)布団に潜り込んでやろうかと思います。「なんと、この天井は水が漏れているし、カーテンも汚い。こんなところで寝てるの、嫌だね」と言ってあげたら、相手はどんなに喜ぶでしょう……。私は、常々そう社会福祉学科の学生たちに言っています。その気持ちを「パーティシペーション(参加)ではなく、アイデンティフィケーション(同化)が大事だ」とパウル・ティリッヒも言いましたけれど、やはり、そこから改めて他者のお世話をしてあげなければならないんです。一緒に転んでいるだけでは駄目なんですよ。

それには、慈悲の基本にある「智恵」が必要です。この「智恵」は、よほど訓練しないと出てこない「智恵」ですよ。走って行って背中を押すようなことは、誰でもできます。誰でもできるのに仏教徒はしていない。これは反省点です。


▼本当の慈悲の手

夢窓国師(註:夢窓疎石。鎌倉末・室町初期の臨済宗の僧。足利尊氏・直義兄弟の禅の師。後醍醐天皇をはじめ七人の天皇から「国師」号を賜った名僧)という天竜寺・相国寺の開山国師が『夢中問答』という著作の中で??私もNHKからそういった本を出しております??足利尊氏の弟である足利直義が「大乗仏教は菩薩の慈悲を先とするのに、禅宗は、何故、慈悲のことを言わないで智恵のことばかり言って座禅を組ませるのですか?」と尋ねています。そうすると夢窓国師は「慈悲に三種あり。大乗仏教の慈悲は有縁の慈悲」と説明する訳です。

それは、小乗仏教の羅漢さんのように自分のことだけをやっているのとは違い、「縁があれば」すなわち、目の前に貧困や病気、災難があれば走っていって助けるんです。それは、見方を変えれば、「縁」が見えなければ、「何処を向いて走っていっていいのか判らない」とも言えます。しかし、これは甚だ優れたりと言えども、条件付きです。つまり「困っている人がいたら助ける。いなければ助けない」といったコンディショナル(条件付きの)なコンパッション(慈悲)です。

では、禅宗はどうか、と申しますと「本当の禅門の教える慈悲は、無縁の大悲」というのです。「縁がない=(縁と関係がない)」わけで、これは「月の影(=自らの姿)を衆水(=あらゆる形の水)に宿すが如し」なんですね。月も影を水面に映されるとは思っていないし、また、水も月影を映そうとは思っていない。つまり「われわれは、そういった無心の中でも、互いにしっかりと繋がれている」ということがその意にあるようです。道歌に「映すとは水は思わず 映るとも月は思わぬ 広沢の池」という歌があります。慈悲とは、こういうレベルで初めて発揮されるのだと……。

この教えは、エンゲージド・ブディズム(社会派の仏教徒)から言えば、現代流ではなく、「何を屁理屈ばかり言っているんだ」となります。しかし、「いずれ、誰もが年老いてゆき、病気もし、最後には死ぬ。何人たりとも『生老病死』からは逃れられないのだ」ということを本当に知るためには、座禅をしなければ駄目です。座禅をしますと、初めて「この身しかないのだな」と、わが手を眺める暇ができます。そして、座禅をすることによって、わが身の小ささ、愚かさ、悲しさ、孤独さなどの全てが解り、そういった諸々の限界を抱えた自分を愛おしく感じられるようになります。

この「自己の悲しさ」や、「存在の孤独さ」などを十分に知った人が、隣の人の悲しさや存在の孤独さに共感することができるようになる訳です。ですから、強がりで自分中心の自己把握のみで「助けてやらねばなるまい」と思っているような人に、本当の慈悲の手が出るだろうか? と私は思うのです。人間中心的な奢(おご)りに基づいてでき上がっている自然支配・社会支配……。これらは、いずれも近代ヒューマニズムの鬼子だと思います。

では、最後に『仏教徒であることの条件??近代ヒューマニズム批判』を、是非買ってお読みいただければ(会場笑い)、とコマーシャルしたところで、この50分を終わらせていただきます。どうもご清聴有り難うございました。

(連載おわり 文責編集部)