大阪国際宗教同志会 平成17年度総会 記念講演
国際シンポジウム『水・森・いのち』
               

金峯山修験本宗 宗務総長
                           田中利典

5月23日、「愛・地球博」長久手会場の「地球市民村」において、大阪国際宗教同志会(三宅龍雄理事長)の平成十七年度の総会が神仏基新宗教各派の宗教者が出席して開催され、また、国際シンポジウムとして一般の万博来場者にも公開されたので、60名以上が来場する盛況であった。山で自然と一体化して修行することによって、宗教体験を得ることを目的とする修験道の先達として活躍されている金峯山修験本宗宗務総長の田中利典先生から『水・森・いのち』という講題でお話しいただいた。本サイトでは、その内容を順次掲載する。




田中利典 先生

▼明治維新前、山伏は17万人もいた

ただ今ご紹介に与かりました「世間の人にはよく解らない」山伏(会場笑い)の田中利典でございます。今回、IARF(国際自由宗教連盟)とWCRP(世界宗教者平和会議)という国際的な宗教NGOが、万博という国家的イベントに宗教的なメッセージでもってして関わったというのは、日本の宗教界にとりましても、記念すべき大きな出来事です。

後ほど申し上げますが、「日本」という国は、皆様もご存じのように、明治以降「(政治やマスコミによって)宗教狩り」が行われた国でございます。そのような環境下で、国に働きかけ(註:万博は経済産業省の所管)、このような会を持たれたということは、特筆すべきことですね。そのような大切なシンポジウムに、私のような者がお時間を頂戴するのですから、本日は「大変重い責任だな」と思いながらこちらへやってまいりました。今回の『こころの再生・いのり』館出展に際しましては、三輪隆裕先生(日吉神社宮司)と三宅善信先生が先般、吉野にお出でになり、私ども金峯山寺とご縁ができたことがきっかけです。その縁をきっかけに、本日発題者としてこの場に出させていただくことになりました。

その折、三輪先生から、ご自身が十数年前に上梓された『国家神道の成立とその背景』という論文を頂戴いたしましたが、私はその文中に驚異の数字を発見しました。それは何かと申しますと、明治期に『神仏分令(註:1868(明治元)年3月、成立したばかりの維新政府の神祇官により出された通達。長年続いてきた神仏習合の慣習を廃し、神道と仏教の境をはっきりさせた)』というものができ、あろうことか、明治5年には修験道は禁止となりましたが、その『修験道廃止令』により職を失った修験者(山伏)の数が、なんと17万人だったそうです。これは、実はすごい数字なんです。もちろん、これまでにも「われわれ修験者は、明治政府の修験道弾圧政策により大きなダメージを受けた」という意識はありましたが、その数が17万人であったという事実は驚異的でした。

現在の日本において、「伝統仏教諸教団および新興の仏教系の教団を含めて、僧籍を持った者(僧侶)の数は22万人」と言われています。「なんだ、(当時の修験者の総数である)17万人よりも、現在の僧侶の数のほうが多いじゃないか」と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、現在の日本の人口が1億2600万人なのに対し、明治初期の総人口はたった3300万人。つまり、現在の約4分の1の人口の時代に、17万人もの伏がいたかと思うと、その数が並々ならぬ数であったことが容易に想像していただけると思います。現在の人口に換算すると、60数万人も山伏がいることになりますからね。


田中利典師の熱の籠もった
講演に耳を傾ける 参加者

今日のシンポジウムは、『水・森・いのち』という主題ですが、私の拙い修験道の話を語ることで、環境万博、ひいては環境問題に対する一宗教者としての提言ができればと思います。また、「今回のテーマの発題になれば」という思いを込めて、この時間を頂戴したいと思います。


▼近代国家形成のための生贄(いけにえ)に

2004年7月1日に、『紀伊山地の霊場と参詣道』という名前で、吉野・大峯が世界遺産に登録されました。今回の世界遺産は、吉野・大峯と熊野三山そして高野山という3つの霊場と、これらの霊場に関わる3つの参詣道、すなわち、吉野・大峯は「大峯奥駈道(おくがけみち)」、熊野三山は「熊野古道」と呼ばれる熊野参詣道、それから高野山は「町石道(ちょういしみち)」が登録された訳ですが、このうちの吉野・大峯において、一番最初に世界遺産登録に手を挙げたのが、実は私でございます。その経緯から、今回の世界遺産登録については責任もありますので、ことある毎に今回の世界遺産の意義を様々なところで語らせていただき、推進活動を行ってまいりましたが、その活動を通して、私は大きな気付きを得ることになります。

そもそも、「世界遺産に登録しよう」という試みの根底には、まず「修験道という山岳信仰の行いを、世界遺産登録を通じて高揚させよう」という思いがあったのですが、その活動を通じて、「明治期の修験道の禁止とは、いったい何であったのか? 明治期に何が起こったのか?」という疑問についての気付きを得た訳です。

ご存じのように、明治という時代は、明治維新から始まり、「欧米列強諸国からの侵略に対抗しうる近代国民国家としての日本を創ろう」という大きな力が動いた時でありました。そういう訳ですから、「文明開化」というのは、すなわち「欧米化を図る」ということであり、その欧米が世界の他の地域に先駆けての近代化を進めることができたのは、その背景にキリスト教的価値観、いわゆる「一神教の価値観」があったからだと分析したのです。

そこで明治政府は、「日本を列強諸国のように欧米化(=近代化)するには、一神教のような価値観で強固な国づくりをしなければならない」と考えました。そのために、神仏分離を行い、修験道を旧陋(きゅうろう)(註:古くて役に立たない悪習)として葬るために、明治5年には『修験道廃止令』という法令まで出した訳です。そうまでして、日本が欧米化、あるいは近代化への転換を図るために職を奪われた17万人もの修験者は、近代化のある種の生贄だったのではないか? という気がいたします。

一神教化を図るとはいえ、今さら、日本はキリスト教国にはなれないため、キリスト教に取って代わる一神教を据え置きましたが、これが「国家神道」という、ある意味、虚妄(こもう)の神道でした。そのようなことを考えておりましたら、神職である三輪隆裕先生も論文の中でそのことに触れておられました。最近は、われわれのみならず、大勢の方々がその事実に気づいておられます。近代日本の柱として、「国家神道」が人為的に創り出され、神と仏はむりやり引き裂かれ、神と仏を基にした修験道は生贄とされたのではないか……。では、その修験道とは、いったいどんなものであったのでしょうか?

この間も、あるシンポジウムに出席したのですが、その時、私は山伏の格好をして参加いたしました。昔、NHKの朝ドラで『おていちゃん』という友里千賀子さんがヒロインのテレビ小説がありましたが、そのシンポジウム会場で、私は彼女に「私、生山伏を見たのは初めてです!」と抱きつかれました(会場笑い)。もはや山伏も、天然記念物のオオサンショウウオ状態です(会場笑い)。そうなりますと、従来、山伏が持っている宇宙観・世界観は何か伝えようとしましても、山伏すら見たことがない現代社会においては非常に難しくなっているのかもしれません。


▼神仏に見(まみ)える道

「日本は、国土の7割が山林であるという自然に囲まれた国だ」と言われますが、その国土の7割を占める豊かな自然の中で修行する宗教が修験道でございます。今から1450年前に仏教が日本に伝わってまいりました。仏教伝来当初は、物部氏と蘇我氏の争いのように、神(註:日本古来の自然宗教を尊重する人々)と仏(註:新たに伝来した世界宗教を奉ずる人々)が喧嘩した時代もありましたが、神と仏はすぐに仲良くなりました。

実は、仏教は日本に入って来た時点から神道化しておりました。一番最初に刻まれた仏像は樟(くすのき)から造られましたが、この樟は霊木信仰から来ていますから、仏教は最初から神道の影響を受けていると言えます。他方、神道も仏教の教えが伝わるまでは「神道」という概念すらなかったと思われますが、仏教伝来に伴い、仏教教義に倣い合わせた神道的教義ができあがってきたのではないか、と思われます。教義だけではなく、本来、神道というのはご神像などの偶像崇拝をしない宗教でしたが、これも仏教に合わせて徐々に作られるようになりました。

その後、神仏習合や、本地垂迹(ほんちすいじゃく)説(註:「本地」とは本体・本源という意味で、「垂迹」とは、「本地」が人々を救うために、様々な神の姿で現れるとする考え方)によって、やや神道が下に置かれているような気もしますが、そうではなく、神と仏が1450年間仲良くやって来た訳です。その中で育まれたのが、修験道という「山の宗教」すなわち山伏の宗教です。これは神道的な価値観のほうが優先するんでしょうが、「自然」とは、やはり「聖なるものの住処」なんですね。おそらく、仏教が伝えられる以前の山に入って行う修行は、道教の影響によるものだと思いますが、それほど積極的には行われませんでした。

しかし、仏教が伝えられ修験道が成立すると、山岳修行が行われるようになりました。古来、人々は山を畏(おそ)れ、同時に尊んできましたが、今度はその山に分け入り、「聖なるものと一体になり、修行しよう」という訳です。この点は、西洋の「登山」という概念とは大きく異なります。山伏にとって、山は「神・仏に出会い、神・仏に見(まみ)え、神・仏に祈りを捧げる」修行の場なんです。そして、修験道とは、「神道的な基盤の上に、仏教的な教義を加え、確立されてきたものを基に修行を重ねる宗教」と言えます。

「懺悔懺悔六根清浄(さんげさんげろっこんしょうじょう)」と、掛け念仏と言いまして、山に入り自らの五体を清浄にして、神であり仏である聖なるものに近づいて行く。あるいは、その力を頂こうとすることであります。「修験」とは「修行と験」を表しますが、これは「自然の中で行じて験力(=聖なる力)を得る(=目に見える形で表す)」の意で、自然との深い関わりの中で行われる修行です。また、その他に、仏教教義にある「十界修行」に合わせた行体系も出てまいります。仏教には「地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天上」という6つの迷いの世界と、「声聞・縁覚・菩薩・如来」という4つの悟りの世界を合わせた、全部で10の世界が在る訳ですが、われわれは「山岳修行を通じて、この10の世界を体験する」と言われています。

何故、山伏のわれわれがその世界を体験できるのか? と申しますと、それは先ほど申し上げたように、山には聖なるものがおられて、「曼荼羅世界(まんだらせかい)」と呼ばれる仏の世界があるからです。修験道の中心的霊地である吉野・大峯には、熊野から吉野へ向かう「奥駈修行」という行がありますが、その行程のちょうど真ん中あたりに「両部分け」という場所があります。この両部分けよりも北(吉野側)を「金剛界」、南(熊野側)を「胎蔵界」と呼び、2つの世界の仏様に見(まみ)えることにより、自らを高め、十界を経験する修行をいたします。また、自然の中で一度死んで生まれ変わる「擬死再生」の過程を辿る峰入り修行もあります。

最近、都会の人は疲れていますね。もちろん、田舎の人も疲れていますが……。奥駈修行に来られる方のにもそういう方がおられます。修行に来たらもっと疲れるんですよ。何しろ、1日13時間ぐらい歩きますから、当然クタクタになります。しかし、それを何日か繰り返すうちに、逆に、この疲れによって「都会で様々なものを背負っている自分」あるいは「己を見失っていた自分」がいったん死んでしまうんです。そして、山を去る時には新たな力を得て、もう一度都会の生活に戻っていくことができる訳です。まさに、「一度死んで生まれ変わる」のを自分自身の体を通じた修行の中で経験する訳です。しかし、ただ単に体を苛(いじ)めるだけでは、そういう意味は生まれてこないと思います。体を酷使する中で、常に神仏の存在を前提として修行するところに、山伏の修行の素晴らしさがあるのではないかと思います。


▼自然とのつきあい方が下手な一神教

明治から現代に至る一神教的な価値観が日本に定着する中、修験道的な価値観は抹殺される運命にあった訳ですが、では、一神教的な価値観とは何でしょう。私は、一神教的な価値観は自然とのつきあい方が下手だと思います。キリスト教以前のギリシャ神話の世界などは、山の聖なる神々がたくさん出てきますが、キリスト教以降、「山には悪魔が棲んでいる」と言われています。トーマス・マンの『魔の山』しかり、映画化で話題になった『ロード・オブ・ザ・リング』、最近の小説『ハリー・ポッター』にしましても、森や山には悪魔しか棲んでいません。しかし、18世紀から19世紀にかけて、近代自然科学の発達に伴い、今度は、森や山とは「悪魔の住処」ではなくて、「岩と氷の固まり」であることが判ってまいりました。西洋登山が始まるのはそれ以降です。それまで西洋人は、山には登りませんでした。

一方、日本人は昔から、比叡山や富士山の絵を描いたりしながら、山に聖なるものを見出してきたんです。「山には祖霊がおられる」とか「山には磐座(いわくら)があり、そこは神々が降臨する」と……。一神教と多神教、両者の自然観には大きな違いがあります。結局、キリスト教が自然に対して感じていることは、「(創造主である)神と契約を交わした人間にとって、(神によって)与えられた自然は、人間がどのように切り取っても良い」という、自然=モノ(対象物)として見るところから始まっています。それに対し、近代以前の日本的な価値観においては、自然をモノとして見るのではなく、「聖なるものの住処」として仰ぎ見た場所だったんです。それが、明治の神仏分離、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)によって、その価値観を無くして行きます。

1450年間、仲の良い夫婦のようだった神と仏は、明治政府によって、その仲を引き裂かれるように別れさせられました。その過程で、神道は「国家神道」に純化することで生き残り、仏教もまた、「教義仏教」に純化することで生き残ることができました。

しかし、修験道は、そもそも神仏習合の上に成り立っていましたから、純化することができず、「修験道廃止」となった訳です。あのオウム真理教ですら、「破防法」が適応されなかったのに、何故、修験道が法律で禁止されたかというと、当初申し上げた理由、すなわち「当時、修験者だけで17万人もいたから」なんですね。ですから、仮に、オウム真理教が数十万単位の信者を抱えていたら、おそらく破防法が適応されたと思います。


▼日本では、神は二度殺された

このことは、私だけが申し上げますと、どうも客観性・実証性に欠けるきらいがありますので、最近、他の碩学の先生方が出された意見を紹介しようと思います。梅原猛さんが、昨年(2004年)朝日新聞に連載されていた『反時代的密語』というコラムの5月18日付の記事の中に以下のようなことを書かれています。

「最近日本でも、動機が金銭の強奪や嫉妬、怨恨ではなく、殺人のための殺人というべきものが起こっている。私は若き日、ニーチェやドストエフスキーのこの思想に深く影響されたが、日本における神殺しについては何らの認識ももっていなかった。しかし日本のことを研究すること50年にして、最近やっと日本における神殺しの実態を理解することができるようになった。

近代日本において神殺しは二度にわたって行われた。近代日本が最初にとった宗教政策、廃仏毀釈が、一度目の神殺しであった。(中略)そこで殺されたのは仏ばかりではない。神もまた殺されたのである。外来の仏と土着の神を共存させたのは主として修験道であるが、この修験道が廃仏毀釈によって禁止され、何万といた修験者が職を失った。この従来の日本を支配していた神仏を完全に否定することは、近代日本をつくるために必要欠くべからざることと思われたからである。(後略)」

このように、梅原氏はおっしゃっています。この記事には『神は二度死んだ』という表題がついていますが、欧米列強に追いつくために、近代日本はせっかく神仏習合を壊して、国家神道によるある種の一神教をこしらえたにもかかわらず、近代日本は戦争に負けたことで、もう一度、天皇という「現人神(あらひとかみ)」の神殺しをすることになります。明治政府が新たに生み出した道徳観念を基に、日本は欧米列強に追いつき、その挙げ句、アメリカやイギリスといった世界の列強国に対して敢えて戦争を仕掛け、手痛い経験をしました。この敗戦によって、新しい神道は否定され、現人神その人が、「実は、私は神ではなく、人間である」と宣言することによって、その神も死んでしまいました。

1450年間、私たちの信仰心や精神文化は「神仏習合」という基盤の上にありましたが、近代日本を創る時に一度壊され、その後、日本人の精神の拠り所となった「国家神道」も、敗戦後解体され、二度目の神殺しが行われました。そう考えると、ある意味、日本は西洋よりも徹底的に神仏の殺害を行ったことになります。この神仏の殺害の報いは、今現在徐々に現れていますが、以後100年、200年と経つにつれて決定的なものとして現れるでしょう。

「最近、そのような道徳の崩壊を憂えて、日本の伝統である、『教育勅語に帰れ』という声が高まっている。しかし、教育勅語はあの第一の神の殺害の後に作られたもので、伝統精神の上ではなくむしろ伝統の破壊の精神の上に立っている。私は、小泉八雲が口をきわめて礼賛した日本人の精神の美しさを取り戻すには、第一の神の殺害以前の日本人の道徳を取り戻さねばならないと思う(後略)」


▼日本人は何を心の拠りどころにしているのか

梅原猛先生はこのように書かれていますが、この内容は大変示唆に富んだものだと思いますし、先生以外にも、大勢の方々が「明治期に何が起こったのか」そして「私たちはこれから何処へ向かわなければいけないのか」ということをおっしゃっています。梅原先生は「明治以前の日本に戻らなければならない」とおっしゃってますが、それが何なのか? 何を拠りどころとするのか? ということについては書かれていません。明治以前の神仏習合により裾野を広げ、後にいったん殺されたものの、修験道は今まで続いてきました。その、少なくとも現代に至るまで、真面目に神仏習合の伝統を受け継いできた修験者の一人として、私は何かもう少し言えることがあるのではないか? と思うのです。

先ほど、「世界遺産登録に最初に手を挙げた」という話をしましたが、今回の世界遺産に選ばれた場所は、実は、明治以前から残されていたものが、あの紀伊山地という深い自然の中で育まれてきたという気がいたします。紀伊山地の参詣道は、吉野・大峯と熊野三山、そして高野山と申しましたが、たぶん、高野山の方は「高野山が素晴らしいから(世界遺産に)登録された」と思っておられるでしょうし、熊野の方々もしかりです。しかし、私は少し違うような気がします。例えば、イギリス人やフランス人には、高野山も熊野三山も吉野・大峯もあまり違いが解らないのではないでしょうか? むしろ、彼らにしてみれば、深い自然との関わりの中で、精神文化・宗教文化が営まれてきたという根源に大きな意味があるのではないか? と思っております。

昨年の7月の『祈りの道展』に関わるシンポジウムの際、河合隼雄文化庁長官が、「今回の世界遺産の意味を、外国人に説明するのは大変難しい」とおっしゃっていました。何故、難しいのでしょうか? 例えば、日本人は、那智の滝を見た時に、ごく自然に、その滝そのものを拝まれる方が多いのですが、その様子を見た外国人の方々に、「何を拝んでいるのか」を説明するのが非常に難しいのです。「あの滝の流れ落ちる水を拝んでいるのか? 水というのは流れていくとやがて川になって、最後は海に至るけれども、あなたたちはどこまで拝むのか?」と問われたことがあります。

しかし、日本人は水を拝んでいる訳ではないんですね。滝が漠々として流れてくる様、あの勢いの中に聖なるものを見ているのではないかと思います。そこに、人間を超えた聖なるものを感じるから、それに対して掌を合わせる訳です。 河合文化庁長官は、それを「日本人の心だ」と形容されましたが、私は、「心」だけでは少し解りにくいと思います。日本人の感性には、根底に霊性(スピリチュアル)なものがあります。

もちろん、外国にも共通する感性があると思いますが、紀伊山地の霊場や参詣道には、1450年前の(仏教伝来よりもずっと以前の)縄文時代以来、神と仏が同居する深い自然との関わりの中で培われてきた日本人の霊性が、今も守られ続けていると思うんです。


▼近代合理主義の弊害

今日の表題は『水・森・いのち』ですが、修験道の教義で最も大事なことは、「自然は既に悟っている」ことだと思います。難しい教義で申しますと、「本覚(ほんがく)」と「始覚(しがく)」と言うのですが、もともと(自然が)悟っているから、修行することによって始覚山伏が本覚になれる訳です。すなわち、「大自然は既に悟っているから、そこへ分け入って修行することで、人間も悟ることができる」のです。ですから、本覚になるための修行の場が、先ほど申し上げたような大自然の中です。これこそが、修験道の教義の根本ではないかと思っております。

先ほども申し上げましたが、一神教というのは、イスラム教でも、ユダヤ教でも、キリスト教でも、人の上に超越(絶縁)した存在としての「神」がいます。それに対し、われわれ日本人の感性においては、「自然の中に神も仏もいる」、あるいは「自然そのものが宇宙神である大日如来(天照大神)」であったりする訳です。そして、人の営みもまた、自然の一部なんです。環境問題を考える時、自然をもの(対象物)として突き放して見ている限りは、本当の意味における環境問題の解決策は生まれてこないと思います。これからは「人の営みも、神も仏も自然の一部であって、自然そのものが既に大きないのちである」といった視点が必要であり、逆に、これを妨げる存在は何か? というと、それが「近代合理主義」だと思います。

私たちは明治以降、この「近代合理主義」に少し洗脳されてきたのではないでしょうか? 面白いことに、日本人は生まれたら宮参りを、お盆やお彼岸には墓参りを、そしてお正月には初詣をします。結婚式に至っては、8割方がキリスト教式か、神式です。その上、クリスマスにはキリスト生誕のお祝いをし、死んだらおおかたの人がお坊さんを呼んで葬式を出します。そんなことをしているにも関わらず、「あなたは宗教を信じていますか?」と人から尋ねられると「いえ、私は無宗教です」とか、「私は無信心です」と言うでしょう? これはおかしいと思いませんか? 本当に無宗教(無信心)の人ならば、そんなことはしません。では、何故、皆このように答えるのでしょうか? 確かに、一神教を信ずる人たちから見れば、「宮参りをし、クリスマスを祝い、法事をするような」無節操な人々は無信心です。けれども、それは一神教を信じる人々の価値観であって、日本人はずっとそういうことをやってきた訳です。

明治維新から約150年が経とうとしています。確かに、日本は経済発展を遂げましたが、現在の日本人のこころの拠りどころ、もしくはこころの有り様というのは、既に取り去られて久しい気がいたします。梅原猛さんがおっしゃった「明治以前の取り戻すべき感性」があるとすれば、まずそういったことを見直すところから入っていかなければなりません。私は修験道の立場から発言しますから、修験者として言っていますが、私は別段、「修験道だけが優れている」と思っている訳ではありません。確かに、修験道には、今日申し上げたように、たくさんのキーワードが残されていますが、同様に、神道にも仏教にも数多くのキーワードが残されているのです。ただし、近代合理主義の弊害に気付きがないと、なかなか元々からあった、日本人の多様な精神文化を取り戻すことは叶わないように思います。

「宮参りもするが、墓参りもする」日本人の心情というのは、決して卑下するものではないと思います。一神教を信じる人たちが行っているように、ひとつの価値観で物事を括(くく)ろうとしている限り、いつまで経っても争いは絶えません。日本においては、イスラム教徒とキリスト教徒が喧嘩しているのを、私はついぞ見たことがありません。日本人が全てを受け入れてきたように、「多様なものを持っている」ということが大事です。

「多様性」とは、単に宗教だけを指すのではなく、自然との関わり、人との関わりの中で育まれるものでもあります。「日本には四季があり、豊かな自然環境がある」また「地震や台風など、自然災害が多い国」と言われますが、もし、日本列島がもう少し北に位置していれば北方文化(大陸・遊牧文化)になったでしょうし、もう少し南に位置すれば南方文化(海洋・漁労文化)になっていったのです。しかし、日本は、中国や韓国から(儒教や仏教や道教といった高度に体系化された)文化が入ってくる一方、北方及び南方からも、それぞれ独自な文化が入ってくる反面、南東側は地球で一番広い太平洋だけが広がっている。すなわち諸文化の集積地だった訳です。それが、多様な文化を並立して育んできたのです。

実は、この限られた日本列島の下には、全地球上の一割にあたる八十いくつかの活火山があります。そういった自然からの脅威もあるが、同時に多様な自然からもたらされる豊かな恩恵もある……。われわれの感性は、そういう自然条件と様々な文化が交わった中から育まれてきたものなんですから、そんなに卑下する必要はないんです。

むしろ、こうも言えるのではないでしょうか。「もしかすると、ひとつの価値観で括ろうとすることで衝突が起こり、自然をもの(対象物)として見ることで破壊を進めてきた20世紀の反省を促す、あるいは提言を与えられるような価値観を日本の歴史・文化は持っているのではないか」と……。ぜひ、宗教者のほうから、今後そういった提言を続けていくことが、大切なのではないかと思います。今の日本は、何処に立っているのか? これから何処へ行こうとしているのか?明治以降、宗教者もある種そういう価値観(近代合理主義)に手を貸し、共に歩んできた面があったと思います。しかし、もう一度明治以前の価値観を見直すことを自らの教えの中に見出すことが、より日本を活性化させることに繋がるのではないかと思います。

ちょうど時刻も3時半になろうとしています。私の話の一番良いところは、定められた時間には終わるというところですね(会場笑い)。拙い話でございましたが、ご清聴有り難うございました。
(文責編集部)