大阪国際宗教同志会 平成17年度第三回例会 記念講演
『多宗教の併存と社会的摩擦?欧州・日本・インドネシア?』
               

マールブルク大学 名誉教授
国際宗教学・宗教史学会 元会長
            マイケル・パイ

10月6日、金光教泉尾教会において、大阪国際宗教同志会(三宅龍雄理事長)の平成17年度第3回例会が開催され、神仏基新宗教各派の宗教者約50数名が参加した。英国のケンブリッジ大学で言語学と神学を学んだ後、5年間、日本に研究滞在。1982年からドイツのマールブルク大学で宗教学を教授、1995から2000年にかけて、IAHR(国際宗教学・宗教史学会)の会長を務められたマイケル・パイ先生をお招きして、『多宗教の併存と社会的摩擦――欧州・日本・インドネシア――』という講題でお話しいただいた。本サイトでは、その内容を順次掲載する。  


マイケル・パイ博士

▼併存か並存か

皆様、こんにちは。本日は伝統ある大阪国際宗教同志会にお招きいただき、嬉しく思っております。大森慈祥先生をはじめとする皆様に感謝いたします。私は、この泉尾教会に初めて訪れましたが、緑が溢れ、静かで、とても平和な印象を受けました。今、私たちが抱えている世界的に難しい問題については、皆様よくご存じだと思いますが、今日は、私の簡単なお話の後にご質問やご意見を伺いたいと思います。

さて、本日は、正式な講演のように形式張ったものではなく、自由に話を進める形を執りたいと思っています。本日のテーマである『多宗教の併存と社会的摩擦――欧州・日本・インドネシ――』は、三宅善信先生と共に編み出したものなんですが、話の流れとして、ヨーロッパ、インドネシア、日本の順に事例を挙げていこうと思います。最初に、現在三つにカテゴライズ(分類)される現代世界のシチュエーション(状況)を考えていき、続いてその事象を分析してみようと思います。また、本日のタイトル看板に「多宗教の併存」とありますが、この「へいぞん」という日本語を辞書で調べてみると、2つの形に書くことができると気が付きました。ひとつは、本日の表題にもなっている「併存」、もうひとつは「並存」です。実は、これは私の宗教学研究にとっての出発点とも言えるのです。

「多くの宗教は、隣に並び存在している」というのは事実です。日本でも他の国でも、いくら「世界はひとつ」とは言っても、この前提を無視することはできません。そして、ちょうどこの言葉が、最近特に私の頭の中で動いていると思います。英語ですと「Adjacency(隣接)」と言いますが、宗教に関する事柄ならば「Religious Adjacency」と言えると思います。この表現は私が初めて用いました。「Adjacency」という単語は随所に見つけることができますが、「Religious(宗教的)」を冠に付けることが新しい表現ですね。この訳として、「宗教の並存」は近いと思います。今日は、その他の同義語として、ドイツ語の「Religionen(レリギオーネン=多宗教)Nebeneinander(ネーべンアインナンダー=各個人の傍にある)」をひとつだけ挙げておきましょう。

これから、本日のテーマに関する本が出版される予定なのですが、その本の中で、東南アジアの様々な宗教的なシチュエーションを紹介しています。東南アジアは「(異なる信仰を持つ者が)互いに傍に立っている」地域ですから、現在注目されているテーマだと言えます。ただ、多宗教が並存していることは事実ですが、大切なことは、「私たちがその事実をどのように解釈するのか? あるいは、それをどのように捉え、考えていくのか?」だと思います。では、まず最初に地域ごとのシチュエーションを見ていきましょう。


▼英国における宗教的状況の変化

まず、ヨーロッパの場合を見ていきましょう。ヨーロッパには多くの国々がありますが、その共通項は、やはりキリスト教への信仰です。多数派がカトリックかプロテスタントであるかによって、それぞれの国で教会が様々な地位を持っています。また、東ヨーロッパ地域においては、そういう地位を正教会(オーソドックス)が占めているということも忘れてはなりません。ヨーロッパには、基本的にこの3つの大きな流れがあって、その教会間に併存がないと互いに生活ができません。

けれども、20世紀、特に第2次世界大戦が終結してからは、ヨーロッパの旧植民地(アジアとアフリカ)から大勢の人口が流入し、欧州各国の人口構成が複雑化し、それに伴って宗教の有様も変化しました。例えば、私はイギリス北部に長年暮らしましたが、そこにヨークシャーという工業都市があります。そこにはヒンズー教徒、イスラム教徒、シーク教徒が大量に入ってきました。それによって、もともとあったキリスト教会の勢力が弱まり、社会がある程度世俗化したことで、一種、日本的な多宗教のシチュエーションに近い状況になって来ていると思います。

そのために、ヨークシャーにあるリーズ大学で、Community Religions Projectを始めました。このプロジェクトは、「地域に実際に存在している宗教団体を、各研究者や学生によって実地研究(フィールドワーク)をする」というものでした。その頃、大学院の学生と話をしていた時に、「一番最近、宗教的な建物に入ったのは何時、何処でしたか?」という質問をしてみたのですが、当初なかなか答えが返ってきません。聞いてみると、彼らは、リーズ大学で学ぶ間、「一度も宗教施設に入ったことがない」と言うんですね。

私は「今後はそういうことではいけませんよ。このリーズにあるどんな宗教施設でも構わないので、一度訪れてみて下さい」と答えました。そして、「宗教施設には集う大勢の人々が、何をしているのか? 何を歌っているのか? 互いに何を話題にしているか? どんな儀式を行っているのか? どのような服を身につけているのかを実際に見て、来週私に教えて下さい」と2人に注文を出したのです。

すると、1人はヒンズー教のお寺に行き、もう一人はシーク教――日本ではあまり知られていませんが、非常に興味深い宗教のひとつです。この宗教はパンジャーブという土地を起源とする宗教です――の寺院へ行き、その後その時の経験を元に研究を始めましたが、それこそがCommunity Religions Projectの始まりでした。

すでにこの時から30余年の月日が流れましたが、今では、このような研究はごく一般的なものになりました。ヨーロッパの学生たちは、図書館に閉じ籠もって勉強するだけではなく、大学がある街に存在する宗教ついて学び、実際に宗教施設を訪ねたり、街中で人々との交流を図るなど、より実践的になったということです。これは非常に良い傾向だと思いますね。

しかし、ヨークシャーには、もうひとつ注意を払わなければならない大切な点があります。それは、「この地には、バングラデシュからの移民が多い」という点です。悲しいことですが、ブラッドフォード市では、青年たちの間での「イスラムか、否か」の区別に端を発した争いによって、多くのトラブルが発生しています。特に夏の暑い夜は騒がしいようですね。


マイケル・パイ教授の講演に
耳を傾ける国宗会員各師

政治家や宗教指導者の方々は、今でも対立する宗教団体があることをよくご存じだと思いますが、大切なことは「どのように対立する団体を扱うか?」また、「どのように紛争や小競り合いを止めさせるか?」ということだと思います。私は宗教そのものが原因なのではなく、宗教はむしろ求心力を高め、アイデンティティを形するため受け取りの手段として用いられ、その後、宗教の名の下にトラブルを生み出していることが問題だと思います。適当な区別は必要だと思うのですが……。微妙な関係である「アイデンティティ」と「宗教」をどのように区別し、また、どのように教育し導いてゆくかが、われわれの今後の大きな課題と言えるでしょう。


▼独仏西各国の場合

次にドイツを取り上げてみましょう。主要な教会を例にとってみると、カトリックとプロテスタントは、国内においてほぼ同じくらいのパーセンテージを占めますが、最近は、このオフィシャルな2宗派以外にも新たな宗教が興りつつあります。カトリックとプロテスタントの主要教会は、国民から徴収した税金(註:ドイツでは所得税に併せて、一定率で教会税が国によって徴収され、地域の信者の人口比率に応じて、教会に分配されるシステムになっている)が教会の経済的基盤になっている(つまり、神父や牧師は、国家公務員扱い)ことからも、国家と非常に密接な繋がりがあることが判ります。英国や日本ではまた違うシステムですが、この税金を基盤としているドイツの教会において、現在は教会の会員数の減少による2大宗派の基盤そのものの弱体化が問題視されています。

と同時に、国家(教会税代行徴収システム)とまったく関係のない宗教が増えつつあることから、従来の宗教教育の枠組みを超えた教育の多様化の必要性についての議論が出てきています。例えば、これまでは、宗教教育といえば、「カトリックに基づく教育か、プロテスタントに基づく教育か、あるいは宗教教育を受けない」という3つの選択肢だったのに対し、これからは「イスラム教徒に対する宗教教育もできるようにすべきでは?」という声も上がってきました。ドイツ国内におけるイスラム教徒は、主に高度経済成長期に大量に受け入れたトルコ系移民の「ガスト・アルバイター」が占めます。

イギリスにはインドから、フランスには北アフリカからイスラム教徒が入ってきていますが、フランスでは、イスラム教は今やカトリックに次ぐ2番目の勢力となっています。無宗教も多いのですが、2番手はプロテスタントでもなく、ユダヤ教でもなく、イスラム教なんです。本日、私が持参したデータによりますと、現在300万人ものイスラム教徒がフランス国内で暮らしているそうです。この300万人という数字がどれくらい大きい数字かと言いますと、「ノルウェーの人口とほぼ同じ」と言えば、割合と多いと言うことがお判りいただけるかと思います。

スペインも同じような有り様ですが、スペインの興味深い点は、中世の頃のスペインは、イスラム教とユダヤ教とキリスト教が併存していた点です。もし、皆様がスペインを旅行される機会があれば、是非、南スペインへ足を延ばされることをお勧めします。南(ジブラルタル海峡の対岸)はイスラム世界と隣接した地域ですから、セビーリャやコルドバには、今でも中世の大きなモスクが残っているのです。その中には、「レコンキスタ(再征服)」によって欧州大陸から再びイスラム教徒が追い出された時代に、彼の地を領土としたカトリック教徒の王によって建てられたモスクの中の教会を見ることができます。しかし、このような教会が建設される以前は、イベリア半島ではユダヤ教とイスラム教とキリスト教は平和的に共存していたそうです。

時折「唯神論(一神教)こそが問題の根源にある」という意見を耳にしますが、私はそうは思いません。確かに、唯神論は明らかに信仰と関係がありますが、だからといって多神教に対する態度が一辺倒という訳でもなく実に様々ですし、かつてのスペインを例に挙げても、「唯神論」は障害ではなかったと言えます。ですから、ヨーロッパの国々は、それぞれの歴史による異なったシチュエーションが存在しますが、共通する根本的な原因は「人権思想」が基盤となっています。

最近、「トルコがEU(欧州連合)に加盟する可能性が強まっている」というニュースが、巷で話題になっていますね。もちろん、加盟することになっても、今日明日という話ではなく、10年、15年先のことだとは思いますが、もし、トルコがEUに加入することになったら、欧州におけるイスラム教徒の数が大幅に増えることになます。

ざっと計算してみますと、「5人に1人がイスラム教徒」ということになります。そうすると、ヨーロッパは今後、「キリスト教の大陸」から「キリスト教とイスラム教の大陸」へとシフトしていくことになります。この変化に対しては様々な意見が出されていますが、中には警鐘を鳴らす人々もいますが、その一方で「1つの政治的な基盤の上に、キリスト教やイスラム教、そして無宗教などすべての宗教があるのが良い状態ではないか?」という意見もあります。

▼インドネシアの宗教省について

次にインドネシアの場合を例に挙げて話を進めていこうと思います。インドネシアは、先ほど三宅善信先生がおっしゃったとおり、99パーセントがイスラム教徒の国です。私はこの2、3年の間にもう1人の学者と共に、研究のために3回ほどインドネシアへ足を運びましたが、現地で非常に興味深い会議をインドネシアの人と共に立ち上げました。

この会議の話題のひとつとして、「レリジアス・ハーモニー(宗教的調和)」というのがあったのですが、実はこの「ハーモニー」という単語はインドネシア語なんです。一見すると英語(harmony)のようですが、オランダから入ってできたインドネシア語の語彙(ごい)です。当初、われわれがテーマとして考えていたのは「宗教的共存(Religious Coexistence)」でしたが、会議に出席したインドネシア側から「Coexistenceという言葉からは十分なポジティブさを感じない。むしろ、Harmonyと言ったほうが良いのではないか」という指摘が出たため、われわれも「オーケー。それならばそうしよう」と受け容れたのです。今、私の席に置いてある本が、その会議を重ねた結果、出版されたものです。こういった共同作業は非常に興味深いものです。

一番最初にインドネシアのヤーヴァ(註:Yava サンスクリット語で「大麦」を意味する。Jawa(ジャワ)の語源)へ行った時は、ちょうどイラク戦争が始まった時でした。もともとは学問的な宗教学の交流が目的でしたが、時期が時期だけに、街には西洋人がほとんど居ませんでした。インドネシア側から「われわれが取り組もうとしていることを人々に話して欲しい」との要望があったため、喜んで話をさせてもらいましたが……。この「レリジアス・ハーモニー」を主題にした会議のテーマには、続けて「問題(プロブレムス)」や「実践(プラクティス)」、そして「教育(エデュケーション)」という言葉が続き、取り上げる内容も、国際会議として非常に具体的なものでした。

しかし、実際のところ、「レリジアス・ハーモニー」はそんなに容易な理想ではないんです。これからも具体的な活動を通して、話し合いの場を持ち続けてゆく必要があります。そして、先ほど三宅善信先生もおっしゃいましたが、忘れてはならないのは、ジャワ島はイスラム教が強いですが、バリ島ではヒンズー教が、そしてスラウェシ島(旧セレベス島)ではキリスト教の勢力が強いといったように、イスラム教徒が多数派ではない地域が点在している点です。津波の甚大な被害を被ったバンダ・アチェは、スマトラ島北部のイスラム教が強い地域でした。

このように、インドネシアの99パーセントの住民はイスラム教徒かもしれませんが、地方によってはイスラム教が一番強いとは限らない訳です。インドネシアという国家は非常に大きく、日本とも全然違います。戦後に独立を果たした国ではありますが、様々な民族、伝統を有した国でもありますから、どのように管理するか――特に宗教において、どのような政策を執るか――が非常に重要になってきます。

ジャカルタには「宗教省(Department Agama)」がありますが、非常に大切な政府機関のひとつとなっています。この「アーガマ」はインドネシア語で「宗教(複数)」を意味します。元々はインドから入った言葉ですが、実は、中国語では「阿含(あごん)」と書きます――日本にもそういう名前を冠した新宗教教団がありますね――。とはいえ、インドネシアでは、この言葉は仏教との関わりはなく、もっと広い意味(=宗教)を含有していますね。現在この機関では、5つの宗教(イスラム教・カトリック教・キリスト教(=プロテスタント)・ヒンズー教・仏教)が公認されています。本来ならば、キリスト教とカトリックは同じ宗教としてカウントされるべきですが、インドネシア語の「Kristen」はプロテスタントを意味します。

インドネシアでは、宗教としての権利を持つために、必ず唯神論(唯一神Tuhan)が必要です。一般的に、ヒンズー教には唯一神はないのですが、(その神々のひとつである創造神の)ブラフマを最高神と考えた場合は、唯神論だと言えないこともないですね。また、仏教には様々な宗派があり、ある意味無神論だとも言えます(笑い)。菩薩だけを取り上げてみても大勢いますからね。ところが、インドネシアの仏教では、「アーリーブッダ」という他の仏や菩薩の背景に存在する仏がいます。日本ではあまり知られていませんが、大乗仏教の発展において、比較的遅い段階に生まれた概念です。このアーリーブッダを基に、「仏教も唯神論である」と認められました。

インドネシアにおける宗教上の問題のひとつは、「儒教」が含まれていないということです。これは中国系住民にとって非常に難しい状況を与えます。では、中国系のお寺では、いったい何を崇拝しているのか? ということになります。あちこちへ足を延ばしますと、「ナビ コンフツ(註:「コンフツ(confucius)」は孔子のこと)」というのに出会います。このアラビアから来た「ナビ(Nabi)」という言葉は「預言者」を意味しますが、これはモハメッド(ムハンマド)が最後のアッラーの預言者(註:イスラム教では、ムハンマドに先行する「ユダヤ教のモーゼも、キリスト教のイエスも皆、唯一神アッラーの預言をしてきた」ことになっている)であるように、「彼(孔子)もまた預言者である」ということを表したかったのです。

また、中国のお寺には「三教」という教えもありますが、これは「3つの教え(道教・仏教・儒教)は1つの教えに帰する」という考えをもとに、政治的には唯神論であると言っています。

インドネシアの政治家は、宗教省に端を発する多宗教併存をモデルとした政策を編み出すのですが、成功した政策もある反面、失敗することも時々あるようです。成功した一例を挙げると、以前「モスクと教会の間で、敵対する若者たちが相手方のモスクあるいは教会を燃やしてしまう」といったトラブルがありましたが、これに対し、「そんなことをしてはいけない」という意見を持った若者のグループを結成し、イスラム教徒は教会を、キリスト教徒はモスクを護るといった相互的な運動が展開されたと聞きました。

最後に、インドネシアの宗教の現状として、宗教省に属する「宗教のハーモニー」という部局を紹介しておきましょう。このオフィスへ行きますと、いろいろ興味深い話も聞けますし、ある時は、未だあまり知られていない地方の宗教施設を案内してもらったこともあります。ここはモスクと教会が隣り合って建っているのですが、モスクの指導者たちと教会の指導者たちが非常に仲良く、同じパーキングを利用していました。一例を挙げると、イスラム教の特別な儀式がクリスマスと重なった場合、教会が1日遅れで儀式を行うなど、互いがスムーズにパーキングを利用できるように調整していましたね。もちろん、皆「問題がなくなった訳ではない」ということは解っていますが、解決方法を模索する動きも同時に進んでいます。


▼神仏接近について

最後に日本の場合ですが、日本の状況は私よりも皆様のほうがよくご存じでしょうから、本来何も話すことはないと思うのですが、2点だけ取り上げたいと思います。

ひとつめは、私の印象ですが、仏教と神道は、(明治維新時に「神仏分離」されたといいながら、その実、)明治・大正・昭和の初期の間にある程度まで近づいたような気がする点です。もちろん、「神仏分離」の結果は現在に至るまで残っていますが、同時に近接して活動している様があちこちで見受けられます。

例えば、南紀の那智大社は少し山手にありますが、参道を登っていきますと道が二股に分かれています。左の道を行くと那智大社の大きな鳥居がありますが、右の道を行くと階段に変わり、青岸渡寺へと辿り着きます。お参りする人々は、この道が分かれる時点でどちらをお参りするのか決めなければなりません。青岸渡寺は、西国三十三所観音霊場の第一番札所ですから、お遍路さんたちは迷うことなく右の道へと進みますが、他の人たちはもっぱら那智大社のほうへと足を進めます。

興味深いのは、神社を参拝するか、お寺の参詣が済めば、これでお終いかというとそうではなく、ほとんどの人が、神社とお寺の間にある小さな門を通って、もう一方のお寺(あるいは神社)へ行くということです。結局は、どちらを先に参拝するかというだけです。区別はあるのだけれど、隣に存在していることが互いに明らかであり、お参りする側もだいたい両方へ行くという点が非常に面白い点だと思いました。

それから同じような例ですが、皆様、琵琶湖の竹生島をご存じでしょうか? そこにはお寺(宝厳寺)も神社(都久夫須麻神社)もあり、観音像(千手観音)、弁才天像も祀られています。間違っていたらご指摘いただきたいのですが、弁才天は明治の『神仏分離令』により、お寺のほうに行かなければならなかったのだと思います。ですから、今は弁才天堂となってお寺の管轄になりましたが、海岸にほど近い神社の下にも新しい弁才天堂ができてきました。そうして、また神道と仏教が近づいている訳ですね。現在、弁才天はこの島の中心となる神であり、この島を訪れる人たちは、先ほどの那智の例と同じように、お寺と神社の両方をお参りするのが一般的になっています。

それでは、最後の例ですが、京都に「役行者(えんのぎょうじゃ)町」という所がありますよね。私は今年は、たまたま遅く祇園祭が終わった後に、京都に着いたことで気が付いたのですが、役行者町の山鉾には、実際に本物の修験者の方が役行者役で乗っています。祇園祭は宵山と山鉾が巡行する2日間だけでなく、2週間近く続き、各町で様々な催しが行われますが、役行者町でも修験者によって、護摩をはじめとするいくつかの行事が行われます。本来、祇園祭は神道と関係が深いのですが、有名な祭の中には、このように複雑な要素も含まれます。そう考えると、日本の宗教は以前に比べ、神仏が互いに近づいたように思います。もし、私の理解が間違っていたら教えていただけると助かります。

この他に、海外の研究者から見て関心を集めている事柄として、新宗教の教団間の関係がとても良いということです。もちろん、創価学会と立正佼成会の関係のように、そうでない場合もありますが、それでも多くの教団の関わりが非常に協力的な傾向があると思います。「新日本宗教団体連合会(新宗連)」という団体があること自体が珍しいですね。これはヨーロッパでは考えられません。もちろん、ヨーロッパにおいても国内に新宗教が興り、また、他国からたくさんもたらされていますが、それら同士の横の繋がりというものはありません。その点、日本の新宗教は非常に興味深いですね。

問題点を挙げるとしたら75パーセントの日本人が『私は無宗教だ』と思っている一方、ほぼ同じパーセンテージの人が「お正月には神社へ初詣をし、お彼岸にはお墓参りをする」といった非常に宗教的な実態を持っている点です。先ほど、この会議に先立ち、お話をしていた折にも話題に上っていたのですが、そういった20代から30代にかけての若者たちは、日本の伝統宗教についてほとんど何も知りません。これは、あまり良くない現象ですね。私は、その原因のひとつとして「宗教教育の不在」を挙げられると思いますが、宗教教育は何らかの形であったほうが良いと思います。しかし、これは非常に難しい面もあります。と申しますのも、ひとつの教義に準拠して教育が行われた場合、これを他宗教の代表者は喜びませんから。そこで「なんとか中立的な宗教プログラムができないだろうか?」という声が上がっていますが、これはとても大切な話題だと思います。


▼良い意味での宗教教育が大切

こうやってヨーロッパ・インドネシア・日本を見てきますと「基盤としての国家と宗教の関係」という共通点を見出せます。様々な形が可能だと思いますが、まず正しい理解の上に立った自由と責任――宗教指導者の責任、政治家の宗教に対する責任といったレベル――が必要だと思います。そして、宗教と宗教教育に対する責任の所在がもっと明らかになれば、(これはまた原因が異なりますが)地下鉄サリン事件などを引き起こした一連のオウム真理教のような病的な宗教活動の抑制にもなると思います。そのためにも、良い意味での「宗教教育」が行われることが大切だと思います。

話は各国の宗教事情から分析に入ってきましたが、ここで、今お配りしているテキストをご覧下さい。様々な方向性が考えられると思いますが、この「セマンティックマップ(Semantic map=意味上の地図)」は「諸宗教が併存する社会は、今後どのように変化していくか?」という考えを単語に置き換えた場合、どのように並ぶかを私個人の観点に基づいて書いてみたものです。今日は短い時間で準備しましたので、ここに書かれた順序・言葉では足りない、あるいは、これ以外の考えをお持ちの方もおられると思いますが、その場合は、どうぞ遠慮せず批判をして下さい。喜んで書き直させていただきます。

中央を多宗教の現状として、左右に2つの方向性を示しています。右は現状からさらに活動的になっていった場合。簡単に言えば、この右側が私の望んでいる方向です。もちろん、「戦争より平和が良い」という思いは皆様も同じだと思いますが、ある特定の時代、国によっては「戦争を起こすほうが良い」と考える人々がいますから、「それは私の態度ではない(私は戦争は望んでいない)」と、十分に区別する必要があります。

キリスト教とイスラム教を取り上げた場合、2つの可能性があります。例えば、イスラム教には「ジハード(註:イスラム教徒が遵守すべき行為のひとつ。個人の内面へのジハードは自らの心に潜む悪と戦うことであるが、一般的には外面へのジハードとして、イスラム共同体を防衛するための戦いとして理解されている)を使って戦争する」という考えがありますし、あるキリスト教の流れには――米国の右派には、この傾向が顕著に見られますが――「良いことのためには、まず戦いが必要だ」という考えを持っていることは明白です。

この2つの宗教には全く異なった面もありますが、最終的な進路は、結局、われわれ人間が学び、教えに耳を傾け、実践しながら決めていくのです。ですから、望むべき方向の決まりをわれわれは大切にしなければなりません。「競争・対立・闘争」を選べば、討論は激しさを増した末に、没交渉になるでしょうし、対する「共存・協力・集合」を目指せば、新しい調和や対話が生まれて来る訳です。

最後に、私はあくまでも宗教学者であり、宗教を観察し、分析する責任を担う者です。宗教指導者ではありません。ですから、私はできる限り事実をはっきり捉えたいと思っております。宗教指導者に求められる役割は、学者とはまた異なりますから、皆様には今後の向かうべき進路を定め、若者たちに適切な教えを与えていただくようお願いしたいと思います。本日はご清聴有り難うございました。

(連載おわり 文責編集部)


10月6日、金光教泉尾教会において、大阪国際宗教同志会(三宅龍雄理事長)の平成17年度第3回例会が開催され、神仏基新宗教各派の宗教者約50数名が参加した。英国のケンブリッジ大学で言語学と神学を学んだ後、5年間、日本に研究滞在。1982年からドイツのマールブルク大学で宗教学を教授、1995から2000年にかけて、IAHR(国際宗教学・宗教史学会)の会長を務められたマイケル・パイ先生をお招きして、『多宗教の併存と社会的摩擦――欧州・日本・インドネシア――』という講題でお話しいただいた。本サイトでは、講演に続いて質疑応答の内容を掲載する。

三宅善信: 
それでは、質疑応答に移らせていただきます。ご質問される方は挙手をしていただきまして、お名前と所属のご教団名をおっしゃっていただいた後に、ご質問をお願いいたします。と申しましてもなかなか手が挙がらないので、皆様の心の準備が整うまで、司会者が少し話させていただきます。


本日はマイケル・パイ先生に、ヨーロッパ、インドネシア、日本における事例を挙げていただきましたが、常日頃、われわれは「ヨーロッパ」というと、ひとつのものに大きく捉えがちですが、実情はまちまちで、例えば、英国には「国教会」がありますが、その割には人々の教会への帰属意識は低いと言えます。また、ドイツにおいては「教会税」というシステムがあって、各教会で宗教家がお布施を集めるのではなく、代わりに国家が国民の所得税と一緒に教会税を徴収し、その莫大な金額を各地域毎のプロテスタントやカトリックといった宗派の人口比率に従い、各教会へ分配します。つまり、牧師(プロテスタント)や神父(カトリック)は国家公務員のようなものですね。

最近、ドイツでは、キリスト教民主同盟(CDU)が選挙に勝ち、ドイツ社会民主党(SPD)政権に取って代わりました(註:2005年9月の総選挙の結果、キリスト教民主同盟(CDU)とキリスト教社会同盟(CSU)の統一会派が比較第一党となったため、CDU党首のアンゲラ・メルケル氏がドイツ史上初の女性連邦首相の座に就いた)。一方、フランスにおいては政教分離が進んでいますから、イスラム教徒も公の場にあたる学校などでは、(イスラム教徒の女性が人前では着用しなければならない)スカーフの着用を(宗教行為に当たるとして)禁止されています。スペインは、中世のイスラム教都市コルドバなどに代表されるように、歴史的にイスラムの影響が大きい国です。

イギリスは、かつて多くの海外植民地を抱えていたために、アジアやアフリカから大量の異民族が流入しました。なかでも、インドは英国に長きにわたって支配されていましたから、イギリスにはヒンズー教やシーク教の方が大勢おられます。また、ドイツは戦後の高度経済成長の時期に、人手不足を補うためにトルコから「ガスト・アルバイター(ゲスト労働者)」としてイスラム教徒の労働者が流入したことがきっかけとなり、国内にイスラム教徒が定着しました。

そういった様々な歴史的事情から、現在、ヨーロッパには人口の十数パーセントがイスラム教徒という国もあります。日本人は「ヨーロッパはキリスト教の地域だ」と思っておられるでしょうが、実際には多宗教が並存している状況があるということがお判りいただけるかと思います。では、このあたりでどなたかに質問をお願いできると有り難いのですが……。それでは、福嶋先生お願いいたします。


福嶋 光: 金光教佐野教会の福嶋と申します。マイケル・パイ先生は、天使の名前である「マイケル(ミカエル)」というお名前ですが、諸宗教を比較する時、おそらく私たちは無意識のうちに、自分自身が依って立つ宗教を基準として他の宗教のことを考えると思うのですが、パイ先生ご自身の宗教的立場(信仰)についてお聞かせ願えますでしょうか?


マイケル・パイ: 日常の仕事の中では、私は自らの信仰に関することは述べません。何故かというと、私が専攻している「宗教学」という学問は、中立を保たないと上手くいかないものだからです。けれども本日は特別に、少し個人的な面にも触れてみましょう。

私自身は赤ん坊の時から現在――今年で66歳になり、もうずいぶん髪や髭も白くなりましたが――に至るまで、発展だったかどうかは判りませんが、少なくとも様々な変化の過程を経てきたと思います。私の両親が英国国教会の信者でしたから、私も幼い頃は教会で礼拝に参加していましたが、成長するにしたがって、私は「あまり単純すぎる教義はいけない」と思うようになってきました。もちろん、キリスト教の中だけでも様々な解釈が存在しますが、実践によって、教義の中のどの部分に力点を置くかが変わってきますからね。私は、その頃からあまり「教義」という言葉が大切でなくなってきたんです。つまり、「概念よりも人間が大事だ」と……。これは私にとっては、思考の「発展」だったと思います。

「現在、宗教的にはどの教団に所属しているのか?」という意味でいうならば、私は一度も英国国教会から出たことはないんです。ところが、実際には、最近に至るまで、私は勤務先でありますドイツに20年ほど居りましたから、この期間、英国国教会へ足を運ぶ機会が全然ありませんでした。そして、私の妻はドイツ人で、ユダヤ教の家系の出身です。でも、2人でドイツのキリスト教の教会へ足を運ぶ場合もあります。ですから、基本的な立場としては、「クリスチャンだ」と言えると思いますが、ただ、そこにどういう意義があるのか? という意味で考えますと、複雑な問題があると思います。

もう1点加えますと、私は長年にわたって仏教を、とりわけ大乗仏教に関する勉強を続けてまいりましたので、一個人あるいは1人の人間として、大乗仏教の思想に影響を受けていると思います。ですので、私はキリスト教と仏教の間の接点に特に興味を感じているのかもしれません。ただし、それは標準的なキリスト教徒の考え方ではありませんから、あくまでも個人的なものですが……。


三宅善信: 有難うございます。冒頭からなかなか答えにくい質問にお答えいただき、有難うございます。宗教学に携わる者は、常に自らの宗教的立場(信仰)を問われますが、そこでまったくの中立の視座を保つというのは、非常に難しいものであります。しかし、だからといって、初めから一方の側に偏してとなると、学問の中立性を欠くことになります。福嶋先生の弟さんは、東大で宗教学を修められた後、東京の某大学で宗教学を教えておられますが、彼は、同時に金光教の教師でもある訳ですから、同様の中立性に関わる問いかけを常に持っておられることと思います。

これは私の勝手な解釈ですが、例えば、ヨーロッパ人の「私はプロテスタントです」とか「カトリックに属しています」といった宗教感覚は、アメリカにおけるデノミネーション(denomination=教派や教団)のそれと異なり、どちらかというと、一般的な日本人が自身の宗派について聞かれた時に答える「うちは念仏です」とか「法華です」とか「禅宗です」といった返事の仕方に近い感覚を持っているように思います。われわれ日本人は、しばしば欧州とアメリカを同じキリスト教の国としてみなす傾向がありますが、実際の状況には大きな違いがあると言えます。

それでは次にどなたか、質問でなくてもご意見でもございませんでしょうか?


岡 玉美: 立正佼成会の岡と申します。本日は、大阪国際宗教同志会にはじめて参加させていただき有り難うございます。ただ今のご講演の中で「現在の若者の75パーセントは『私はどの宗派あるいは教団にも属していない』と思っている現状がある」とありましたが、私も子供を持つひとりの親として、これに対するパイ先生の「(公立学校教育における)中立的な宗教教育プログラムの提案」にはまったく「そのとおりだな」と感じました。私は、現在ご縁があって、立正佼成会におりますが、「若い方たちにも是非、様々な宗教の縁に触れていただきたいな」と思います。本日の講演では、そのことが一番印象的でした。


マイケル・パイ: 有難うございます。とても興味深いコメントを頂きました。ずいぶん前の話になりますが、実は私は、初めて日本を訪れた時に立正佼成会を訪問し、信徒の方々の活動を目の当たりにして感心したことがあるのです。確か1970年頃だったと思うのですが、佼成出版から宗教教育のためのテキストが出版されました。私はレビュー(書評)を書かせていただきましたが、このテキストの面白いポイントは、立正佼成会の教えの源である仏教だけでなく、世界中の主要な宗教の基本的な知識が書かれていた点です。もちろん、その中では仏教に最も重点が置かれてはいましたが、それにしても日本の宗教教育における目覚ましい1冊だったと思います。このレビューは、イギリスの真面目な雑誌にも掲載され、私自身、とても嬉しかったことを覚えています。

しかし、日本宗教にも問題があります。例えば、「国家と宗教の分離」の問題がありますが、これはある意味、非常に大切な原則ですね。現在、日本では特定の一宗教が国家の宗教となってはいけないことになっています。一方、日本では学校教育の一環として、修学旅行で奈良や京都を訪れ、国宝や重要文化財に指定されたお寺で仏像を見学しますが、その際、仏教の教えの中から生まれてくる教育は行われません。あくまでも美術品としてそれらを眺めるだけなのですが、そういった現状と「自分の家の宗派すら判らない」という現代の子供たちの状況は、必ずしも無関係ではないと思います。

ですから、日本も私立学校にとどまらず、公立学校でも、もう少し仏教や神道をはじめとする日本宗教に関する教育に取り組む必要性を感じます。教育は日本国内の宗教だけでも構わないので、伝統仏教や神社神道に限らず、天理教や金光教といった新宗教の知識や動向も含めて――人間は動向に影響されますから――ある程度まで理解することが大切です。多分、そういったプログラムを取り入れることは可能だと思います。現在の「政教分離」の原則を守っても、何らかの内容ある教育をすることができると思います。


三宅善信: 有難うございます。他にどなたかご質問をされる方はおられますか? 


松本好弘: 上宮天満宮の松本です。今日は、初めて大阪国際宗教同志会に出席させていただきました。今、立正佼成会の岡様からあったご質問とちょっと関連があるのですが、最近、日本の子供たちが親を殺すなど、以前には考えられなかったような犯罪が頻発しています。私は、若年層に至るまで心の荒廃が進んでいるように思われるのですが、これに対して、宗教は子供たちの心を、元あった純粋な姿に戻るための手助けをできるのではないか? と思うのですが、パイ先生はその辺りはどのようにお考えでしょうか?


マイケル・パイ: 難しい質問ですね。私がこの質問を正しく理解しているかどうか判りませんが、まず背後にある問題ですね。日本の様々な宗教団体は、比較的仲良く共存していますが、一歩踏み込んでみると、バイアス(偏見)はずいぶん違いがあると言えるのではないでしょうか? 教団における価値やコンプレックスは、それぞれの伝統によって内容が異なると思います。もちろん、同じ日本人としての共通価値もありますが、そういう点もありますね。ですから、「私たちの内面に何が必要なのか? 宗教から何を教わることができるのか?」という問題に対して、一般的な回答をひとつ出すことはできないような気がいたします。

例えば、ここに代表を派遣されている宗教団体の中だけでも、おそらく、いろいろな特別な事柄があると思います。そういった自らの伝統の中にある宝をもう一度見直してみることが、私たちの役に立つのではないでしょうか? そこから、社会の病に対する処方箋のようなものが浮かび上がってくるように思います。

ただ、これは、本日参加されているすべての宗教者の方に申し上げたいのですが、基本的に私は「A教団におけるこの伝統は素晴らしい」とか、「この習慣は悪い」といったような、私個人の判断を主張したいとは思いません。

「自分に対する自信」や「隣人への尊敬」、「家族をはじめとする周囲の人々から受けた恩恵を大切に思う気持ち」を持つことは、当たり前だと言ってしまえばそれまでですし、おそらく皆様も日々同じような内容を教えておられると思います。あとは、どのようにそういった基本的な心の有り方を説くのか? ということが大切なのであって、超越したこと(教義的内容)は、また別のテーマになると思います。

そういった内面性とは別に、大切なのは、日本のことだけを考えてはいけないということです。他宗教と比較した時、「この宗教は普遍的である」あるいは「これは日本独特の宗教だ」という違いはあるかもしれません。しかし、どういう形をとっていても、グローバル化した現代において、ヨーロッパだけが「イスラムの隣人」なのではありません。日本も、世界における「イスラムの隣人」なのです。ですから、若者たちが世界中の複雑な違いを理解し向き合っていくためにも、われわれは力を入れて教育をしていく必要があると思います。これで、お答えになっていれば良いのですが……。


三宅善信: 有難うございます。なかなか難しい問題であるにもかかわらず、良いお答えだと正直に思います。これは、日本人自身が克服しなければならない問題であるにもかかわらず、実際のところなかなか思うようにはいっておりません。先だっての総選挙で大勝したわが国の総理大臣にも聞かせてあげたいと思いますね。本当に素晴らしいお答えだったと思います。

もし、時間に余裕があれば、まだまだ質問させていただきたいことがあるのですが、そろそろ時間が迫ってきております。冒頭でお伝えしたように、この後、パイ先生は関西空港に到着された奥様を迎えに行かなければなりませんので、終了時間を延長することができません。また、私も、1時間後には関空へ赴き、海外に出発しなければなりませんので、今日は時間厳守で終わらせていただこうと思います。本日は、マイケル・パイ先生、誠に有難うございました。皆様、先生にもう一度拍手をお願いいたします。

(文責編集部)