大阪国際宗教同志会 平成18年度総会 記念講演
『外交と宗教:一外交官の経験から』
              

関西担当特命全権大使
天江喜七郎

6月26日、神徳館において、大阪国際宗教同志会(左藤恵会長)の平成十八年度の第2回例会が神仏基新宗教各派の宗教者約40名が参加して開催された。外務省入省以来、1979年のイラン・イスラム革命や1991年のソ連クーデターの際に現地に逗留して、国家崩壊の現場を実体験するなど、波乱に満ちた外交官人生を送られ、中近東や旧ソ連邦等、宗教の影響の大きい地域での駐在勤務が豊富な天江喜七郎関西担当特命全権大使をお招きして、『外交と宗教』という講題でお話しいただいた。本誌では、その内容を数回に分けて掲載する。


天江喜七郎氏

▼宗教を知らない人間は半人前

身に余るご紹介をいただきまして、有難うございます。このお話をお受けしてから、本日の演題を何にしようかといろいろ考えたのですが、『外交と宗教:一外交官の経験から』という演題にさせていただきました。内容に即した簡単なレジュメを皆様のお手元にお配りさせていただいております。講演時間は、だいたい小一時間でしょうか? その後、皆様からご質問を伺いたいと思っております。

元もと、私は宗教に非常に関心がございました。と申しますのも、私は仙台で生まれ育ったのですが、私の母がひとのみち教団の非常に熱心な信者でした。戦後、ひとのみち教団はPL教団へと名称が変わりましたが、そこの二代目教祖(おしえおや)である御木徳近(みきとくちか)先生(註:一九三六年、父御木徳一の跡を継いで人道徳光教会の二代教祖となるが、翌三七年、不敬罪で起訴され投獄。教団は強制解散。戦後、不敬罪の消滅により釈放。PL(パーマネント・リバティー)教団として再興し、「人生は芸術である」を教義に神道色を排して全国に進出し、1951年には立正佼成会の庭野日敬師らと共に、新日本宗教団体連合会(新宗連)を結成、理事長に就任。国際的平和運動の発展にも尽力した。その後、教団名は「パーフェクト・リバティー」に変更)が釈放されて暫くの間、仙台の私の実家に1年ほど滞在され療養されたことがあります。そういう幼少時の背景から、私は「人の道」あるいは「世のため人のため」といったような雰囲気に包まれて育ったのではないかと思います。

その後、1967年に外務省に入省してからかれこれ40年になりますけれども、その間、世界中の様々な国に勤務しました。そこで身に染みて感じたことは、「やはり、宗教というものがしっかりと自分の心に根付いていない民族は、早晩崩壊してゆくのではないか?」ということです。これは、ほぼ確信に近い思いがあります。その具体的な例としまして、私が経験した3つの革命を例に挙げてみたいと思います。

第1番目は、イランにおいて1978年から1979年にかけて起きたホメイニ革命、いわゆるイラン・イスラム革命です。シャー(パーレビ皇帝)が君臨した石油大国が、あっという間に変貌してゆく様を目の当たりにし、また、多くの人々があっけなく亡くなってしまうのも、目の当たりにしました。

第2番目は、1991年から1992年にかけて、ソビエト連邦という超大国が音を立てて崩れ去った時です。この時に、ソ連邦はロシアをはじめとする15の共和国に分裂し、新たにウクライナ、カザフスタンといった多くの国々――いずれも共産主義とは無関係の国々――ができました。これは同時に、カトリックやオーソドックス(正教会)といった宗教の復活でもあり、私はそういった変化も目の当たりにした訳でございます。

第3番目は、一昨年(2004年)でございますけれども、私が大使をしておりましたウクライナが、旧政権から新政権へと大きく変わりました。これはすなわち、従前のロシアの属国のような立場から、ヨーロッパ社会の一員になるべく非常に大きな舵を切った民衆の大きな運動(オレンジ革命)が根底にあるのですが、私はそこに身を置いていた訳でございます。

そういった外交官としての経験から、また、私の子どもの時から現在に至るまでの人生を通じて感じていることは「やはり、宗教というものを知らない人間は半人前だ」ということです。ソ連邦が崩壊した訳は、(共産主義政権が)宗教というものを完全に度外視し、そこに思いを致さなかったからだと思います。私は「これは天罰が下ったのではないか?」という気持ちを抱きました。やはりソ連時代には、「人間というものは生かされて生きている」ということが出てこなかったと思うのです。「物さえ造ればよい」あるいは、「人を物質面においてのみ幸福にすればよいのだ」とやってきた。しかし、ソ連は精神的な幸福のみならず、物質的な幸福も得られることができなかった。ということが、ソ連邦が崩壊した最大の原因ではないか? と思っております。


▼英国で知ったキリスト教の多様性

では、今から私の簡単なレジュメに基づきまして、私のこれまでの経験をお話ししたいと思います。まず、今から39年前の1967年に、ロンドンから約40キロほど西のオックスフォードの方向に行ったところにある、小さなベーコンズフィールドという町に研修のため赴いたのですが、当時、この町にいる日本人は私だけでした。周りは皆イギリス人ばかりで、週末に街へ出てもほとんど見知らぬ人ばかり・・・・・・。そういう中で、唯一私に声をかけてくれたのが、英国教会の牧師さんでした。その牧師さんの家に呼ばれまして、何度か食事をご馳走になり、お話を聞く機会がありました。これが、私がキリスト教世界に足を踏み込んだ最初の機会だったと記憶しています。

当時、非常に驚いたことは、それまで私は「キリスト教世界というものは、バイブル(聖書)を中心とするひとつの統合体であって、どこを突いてもイエス様とマリア様。あるいは、バイブルが基礎になっている。また、司祭は妻帯できない」と思っていたのですが、その知り合った英国教会の牧師さんは、結婚されていて、お子さんもおられたことです。ある時、食事をしながら「イギリスにおける売春婦の役割は是か非か?」という話をしていたのですが、最初、私はその話の意図が解らず、きょとんとしていました。実は、西洋社会には未だに売春を合法的にやっている国がございます。ドイツもそうですし、イギリスもそうです。ちなみに、日本は売春禁止法があるため、非合法になります。

その時は、牧師さんの「これ(売春)は宗教的にはどうなのだろうか?」という問いかけから話が進んだのですが、彼は「どんな仕事であっても、それが自分に与えられたものであるならば、これは神の召出しなのだから、たとえそれが売春であったとしても仕様がない」ことであり、したがって「売春を国が職業として認めていることは仕方がないのだ」ということを堂々と言っていました。私は驚きましてね。もっとも、そのイギリス人の牧師さんには奥さんが居られるのですから、(司祭は独身でなければならない)カトリック教会やオーソドックス教会とは異なる妻帯可能なキリスト教司祭があったということも驚きでしたけれども、このような事柄を通じて、「キリスト教社会でも非常に多くの考え方がある」ということが初めて解ったということだけでも思い出深い土地です。

ロンドンには、カール・マルクスの墓がございます。彼はプロイセン(現ドイツ)で生まれ、イギリスで亡くなっていますが、彼はロンドンで有名な『資本論』を書いています。『資本論』を通じて、本人が訴えたのは、「唯物弁証法(ゆいぶつべんしょうほう)」と言いますか、要するに、人間を幸福にするために、物というものをいかに駆使していくか?ということです。また、科学的な実証主義という観点から、「科学によって実証されないものは信じない、信じる必要はない」という態度だったと記憶しておりますが、マルクスの住んでいた所(ソーホー)は、ロンドンの貧民窟(スラム)なんです。周囲も貧しい人々が暮らす中、「ここにマルクスが住んだ」という標識を辿(たど)ってある建物に入って行きますと、小さな部屋に、確か子どもが4人居たと記憶しています。亡命者であったマルクス本人は職業がなく、いわゆる失業者でした。

とにかく自分でいろんな執筆をして、それを新聞社に売り、日銭を稼いでいたのですが、その一方で彼は家の近くにある大英博物館へ毎日通い、もの凄い勉強をしたんです。マルクス本人は結核だったため、血を吐きながらの凄まじい勉強です。周囲には立派な家が建ち並び、シャトーには大金持ちが住んでいる。なのに、どうして自分は厳しいこんな人生を生きなければならないのか? 子どもたちの食べるものがない。奥さんが働いてもなお、苦しい生活から脱出できない・・・・・・。この厳しい下積みの生活の中から、彼は何を悟ったのかと言いますと、「この世の中は絶対おかしい」という思いだったと思います。そのような状況にいる人間にとって、人生は2つの生きる道から選ぶことができると思います。ひとつは、神に頼る。もうひとつは、現在の制度をぶち壊す。私は、マルクスは後者を選んだのだと思います。

と申しますのは、マルクスの『資本論』を読みますと、例えば、この時計は商品ですが、商品というものは、どうやって出来上がってくるのか? ということが克明に分析されています。そうすると、この時計を実際に作っているのは、結局、工場労働者なんですが、資本家はお金を出した後、何倍ものお金を労働者から搾(しぼ)り取って、自分たちだけが儲けています。そこから資本が出来上がってくる。今度は、外国に投資して植民地にし、帝国主義になり、アジア・アフリカなどといった他の国々から石炭や鉄鉱石を持ってきて、さらに大きな工業国として発展していく・・・・・・。そうやって1本の時計を追ってみると、結局、この「資本主義というものは悪である」ということが見えてくる。

そういうもの全てをこの地上から無くすことによって、平等な社会が生まれるのではないだろうか? これが、マルクスが訴えたかったテーマだと思います。このマルクスが書いた『資本論』や、あるいは「唯物論的弁証法」に関する文献を一所懸命勉強して最初に社会主義の国を創ったのが、ソビエト・ロシアでございます。一九一七年にレーニンがこれ(ロシア革命)を実行します。「マルクス・レーニン主義」というのはそこから出てくる言葉ですが、マルクスの一番の根幹は、やはり、ロンドンのマルクスが育った厳しい状況にあったのだということを、私はこの目で確認しました。

その後、私は2カ月ほどかけて欧州各国を旅行しました。イギリスからフランス、スペイン、そしてイタリア、ギリシャ。それから北に上がりましてオーストリア、ドイツ、ベルギーと周ったのですが、その旅行の中で非常に面白い現象を見つけました。それは、フランスも含めてイタリアに至るまでの地中海沿岸はローマ・カトリック教会の世界ですね。教会内部に入りますと、聖母マリアが中心に据えられ、腕に幼子のイエスを抱いている。それが神々しい光彩を放っていて、その周りに色んな聖人の像がある。それがだいたい地中海様式の教会ですが、それが北のほうに参りますと、一転してプロテスタントの教会には何もない。十字架に架けられたイエス・キリストの像、あるいはキリストもなく、単なる十字架だけが架けられている。そこへステンドグラスから差し込んだ光によって、神々しい雰囲気を醸(かも)し出す・・・・・・。

最初、私はキリスト教におけるこの2つの流れがよく解りませんでした。何故、ヨーロッパの南はマリア中心で、北のほうはイエスが中心なのか? また、南は多くの聖人の像が架かっているのに対し、北はそういうものがほとんど見あたらない。この2つのキリスト教の違いを私は体験したのですが、これは皆様もご存知の通り、カトリックを中心とするキリスト教世界というものが、中世にいろいろな問題にぶち当たったため、「もう少し純粋なキリスト教の原点に立ち返るべきではないか?」と、宗教改革という大きな流れを提言せざるを得なかった訳です。その宗教改革が実際に起こったのは、スイスやドイツといった中・北部ヨーロッパでしたが、そこからプロテスタント教会はアメリカへも伝播していきました。


▼物心両面の貧しさで国家が崩壊

次に、1969年に私はイギリスからモスクワへと転勤になります。ここで驚いたことは、先程申し上げたマルクスの無神論がそのまま実践されていたということです。モスクワには有名な「赤の広場」がございますが、そこに聖ワシリー寺院という、葱坊主のようなドーム屋根のついた非常に興味深い建築がございます。私も何度か訪れましたが、寺院、つまり教会であるにもかかわらず、ここには十字架も何もないんです。これは何かというと、博物館になっているのです。1969年当時、モスクワの教会は1つか2つを除いて、全部博物館にされてしまったのですが、その際に、十字架もキリスト像もマリア像も全て持って行かれてしまうという宗教弾圧の時代が続いていました。

これは、なにも1960年代に限った話ではなくて、すでに1920年代から、ロシアの共産主義者が地固めをしていく過程で、「宗教は阿片だ」と捉えられていくのですが、要するに、人間は宗教に頼っているようでは幸せになれない。お腹を空かしている人にはパンを、喉の渇いている人にはお水を、電気のないところには電気を与える。これが政治でなければいけないし、また、国家の指導者の役割でもある。しかし、そこに一旦「宗教」というものが入ってくると、全体がぼやけてしまう。したがって、「宗教というものに頼っていては、国の発展あるいは社会の発展というものは有り得ない」という観点が当時のソ連時代を支えていた訳です。

バザールという、様々な日用品の売っている市場があるのですが、そこへ行きました時に、イコン(聖画)が売られているのを見かけました。イコンといえば(正教会の内壁に描かれた)聖画ですから、本来ならば信仰の対象であるべきものなのに、それが道ばたの土の上に一杯置かれているんです。それも高値で外国からの観光客に向けて売られているのですが、言ってみれば、これは自国の神様を外国に切り売りしているようなものです。それを見た時、私は正直、「勿体ない」と感じたのですが、また一方で、「何故この国では、このようなことが起きているのだろう?」と疑問も感じました。

私はモスクワには2度勤務した経験がございますが、2度目は1990年から1993年の3年間滞在しました。ちょうどソ連邦の最後の頃でございます。1度目の滞在であった1969年から1971年の頃は、まさにソ連の最も景気の良い時代でしたから、街は美しいし、物も安い。贅沢しなければ、お腹も一杯になれるし、お酒も飲めるような時代でした。


天江大使の講演に耳を傾ける国宗会員各師

その18年後には、もうほとんど生活物資が不足しており、パンも列に並ばなければ買えないような状態でした。実際、私の家内も、パンや牛乳を買うために、寒い中を30分も並ばなければなりませんでした。その当時、1991年のことでしたが、初めてアメリカ資本がモスクワに店を開きました。ハンバーガーを売るマクドナルドが進出してきたんです。私たちは、そのマクドナルドの店先で列を作って並ぶんですが、氷点下20℃から30℃の真冬に、かれこれ40分ほど店の外に並びます。順番が来てようやく中に入りますと、驚いたことに背広を着た立派な格好をした人々がそこにいる訳です。彼らは「今まで食べたことのない美味しい物が食べられる」という噂を聞きつけてやって来ていますから、いったん店の中に入りますと一時間は出てこないです。厳寒の中、マクドナルドの席が空くのをじっと待つ・・・・・・。そんな時代でした。

笑い話があるのですが・・・・・・。大きな国営のスーパーマーケットの前に長い列ができています。この国では、長蛇の列ができていると、たとえそれが何の列か判らなくとも、「これは何かある」と――実際、そういった状態なんですが――さらに列ができます。この列が30分経っても、1時間経っても動かない。とうとう列の最後尾に並んでいた男が「けしからん。どうしていつまで経っても列に並ばなきゃならないんだ!」と怒り出しました。そして、「こんな事態を招いたのは共産党で、その共産党のトップはゴルバチョフだ。だから今から俺はゴルバチョフを殺しに行ってくる!」と言い残して、列から外れてクレムリンへ向かって行きました。

しかし、小一時間も経った頃、男がまた戻って来ました。男の前に並んでいた男が「どうした? ゴルバチョフとは会ったのか?」と尋ねると、「残念ながら、クレムリンには、ここよりもっと長い行列ができていた」と答えた(会場笑い)というお話です。このような笑い話になるほど、当時のソ連は、何処へ行っても何を買うにも長蛇の列で、皆が苦労し、皆が不満を持っていた様子が沸々と感じるような話でございます。


▼偏った発展が国家崩壊のキッカケに

それがガラガラと音を立てて崩れたのは、1991年の12月26日でした。私が外務省に入ることを選んだのは、北方領土問題を解決し、今後、日ソ間に安定した環境を創り出さないと、将来日本はどうなるか判らない。ソ連の脅威はいずれ大変なものになる・・・・・・。といった思いが根底にありましたので、ロシア語を学んだ訳ですが、そのソ連邦が無くなってしまったのです。あれほど世界の中で一流の国として、人工衛星にしても最初に打ち上げましたね(註:1957年、人類初の人工衛星スプートニク1号を打ち上げ、1961年には、初の有人宇宙船ボストーク1号がユーリ・ガガーリンを乗せて打ち上げられた)。

18年前に滞在した時、ソ連邦という国は、とにかく鉄の結束力で国中を押さえ込み、反政府勢力が出ればシベリアへ流刑。文句さえ言わなければ、食べ物は安く手に入り、パンも豊富にあるから食べてゆくことには困らない国でした。徳川幕府は265年間、平安時代はおよそ400年間続きましたが、ソ連邦は、私が滞在した1969年からの3年間の間だけでも、そのような状態からもさらに良くなりつつありましたから、私は「この国家(体制)は、500年は続くんじゃないか?」と思いました。しかし、18年後には国そのものが瓦解・・・・・・。いったい何が起こったのかを考えた時、私は「この国は、物心両面の豊かさを国民に与えてやれなかった」ことが、最大の理由ではないか? という気がいたしました。

精神的には、先程申し上げた通り、教会というものを完全に弾圧してしまいました。物資的にはどういう状態が続いたかと申しますと、例えば、自動車を1台ずつ皆に与えられたとしても、100キロも走ると、バルブがおかしくなったり、ピストンがおかしくなり、すぐに買い換えないといけない。国家は「100万の家族には100万の自動車を用意し、1家族に1台ずつ与えれば良い」という発想に基づいて供給していますが、自動車にせよ、扇風機にせよ、使って1年も経たないうちに壊れてしまうと、国民には「もっと良い自動車が欲しい」、「もっと良い扇風機が欲しい」という欲求が湧いてきます。仮に、ソ連の人口が2億5,000万人で、約1億5,000万の家庭があるとします。国は1億5,000万軒の家を造り、また、あらゆるものを1億5,000万台作り、一家に1台ずつ与える・・・・・・。そういったことを全て計算しながら生産していくのです。

ところが、当時のモスクワに行きますと、駐車してある自動車のワイパーが無いことに気が付きます。何故、ワイパーが無いのかというと、皆、車を降りる時に外して家に持ち帰り、また翌日車に乗る時に填(は)め、勤務先に着くと、再びワイパーを外すからなんです。これは「自動車1台にはワイパーが2本必要になるため、自動車を100万台生産するならば、ワイパーは200万本生産すれば良い」という発想で供給されているためですが、たとえ自動車の寿命が10年もったとしても、ワイパーは1年ほどで劣化してしまう消耗品です。ですから、本来ならば200万本の10倍、2,000万本作らなければならなかったのです。けれども、そういったことは一切やってこなかった。それで、他人の車に付いているワイパーを、夜中に人目を忍んで盗みに行く輩(やから)が現れる訳です。要するに、結局、ソ連という社会主義国家の計画経済は、量は保証したけれども、質というものに関しては全く保証していなかったんですね。

その後、私は1977年にイランへ赴任いたします。その頃、イランに君臨していた「シャー(アン・シャー)」とは、「王(の中の王)=帝王」を意味しますが、当時のイランは石油が豊富に産出し、天然ガスも開発され、中東の中で一番豊かだと言われていた国です。その国へアメリカが軍事援助をしていくことからも、シャー(パーレビ皇帝)は、イスラム世界の中でも特異な存在であったと言えます。そんな国が、私が滞在した3年の間に、また瓦解したんです。

このシャーが1979年1月16日に出国(アメリカに亡命)した直後の2月1日に、亡命先のフランスからホメイニ師が帰国しています。私の下宿しておりました家は、偶然ホメイニの従姉妹の親戚だったため「イスラム革命」の賛成派でしたが、私は「イスラム革命」とまったく関わりのない一外交官でしたから、1階の私の部屋と2階の家主の家族の部屋とを行き来して、いろいろとお話を伺う機会がありました。何故、シャーの政権が倒れたのか? これもまた、宗教と関わり合ってくる問題なのです。

イスラム教が成立したのは7世紀で、その後ペルシャ(イラン)がイスラム教化します。イスラム教化する前のイランは多神教の国で、燦然と古代より続くペルシャ文明が輝いておりました。しかし、いったんイスラム教化されるや、それまでのすべての神々の像が破壊され、あちこちにモスクが建設されました。その状態を再び元に戻そうとしたのがシャーだったんです。彼にとって「イランの栄光」とは、紀元前6世紀から紀元前4世紀まで続いたアケメネス朝と、紀元後4世紀からイスラム帝国の成立する7世紀までオリエントにおいて強大な力を誇った「ペルシャ帝国の栄光」だった訳ですが、アラビア半島に勃興したイスラム勢力が来た後は、それまでの古代文明と相容れず、イランは完全にイスラム化されてしまったのです。それ故、その時からイランの苦悩は始まったのだと・・・・・・。

シャーの求めたものは、石油資源だけに頼るのではなく、アメリカ資本を導入して工業を興し、さまざまな産業を展開するといった西洋型近代化――ひと言で申し上げればアメリカ化――を進めていくことだったので、その一環として、社会主義化したソビエト・ロシアがやったのと同じように、イスラム教会(モスク)を新築することを禁止したのです。

ですので、シャーは近代化のために、いわば「脱・宗教化」をかなり強力に推し進めてきたんですね。その影で、イスラム教聖職者の強硬派はすべて捕らえて刑務所へ送り込むか、あるいは殺してしまうといった時代が続きました。これに反発して立ち上がったのがホメイニですが、この時が現在まで続くイラン・イスラム革命の、最初の時でありました。


▼スンニ派とシーア派の違い

このイスラム世界は、大きく2つに分かれています。これは皆様もご存知のとおり、現在のイラクでも拮抗しているスンニ派とシーア派ですが、私はイランに駐在していた際に、この2つの派閥の“違い”が非常に良く解りました。「スンニ」とは「預言者ムハンマドの時代から積み重ねされた『慣行(スンナ)』に従う人々」という意味で、「シーア」とは「ムハンマドの血統で後継者であったアリーの子孫のみが正統である」という『アリーの党派(シーア)』という意味です。預言者ムハンマドが610年頃にアッラーからの啓示を受けてコーランを記しますが、ムハンマドは2男4女を授かったにも関わらず、男子は2人とも成人せずに死んだため、若くて一番実直だった、ムハンマドの従兄弟(いとこ)アリーを養子(娘婿)として迎えました。そして、彼と結婚した娘ファーティマから、ハサンとフサインの2人の孫が生まれました。そのアリーがムハンマドの跡(註:預言者の死後、イスラム共同体の選挙で選ばれた初代アブ・バクル、二代ウマル、三代ウスマーン、四代アリーの四代にわたる正統カリフのこと)を継ぎ、「われこそが盟主である」と宣言したのですが、その時既にダマスカスに自分よりも力の強い人(ムアーウイヤ)が「われこそが正統な後継者だ」と反旗を翻しました(註:以後、ウマイヤ朝がカリフを世襲)。その上、アリーが暗殺されてしまい、680年に起きた有名な「カルバラーの戦い」で、アリーの子孫は完膚無きまでやられてしまいます。

彼の息子であるハサンとフサイン2人のうち、ハサンは恐さのあまり逃げてしまいましたが、フサインは「(預言者に指名された第四代正統カリフである)親父アリーの仇(かたき)だ」と言って、メッカのほうから大群を率い、現在のバクダッドの近くでウマイヤ軍と激突しますが、父と同じく散々な目に遭い全滅の憂き目を見ます。このアリーとフサインの2人がシーア派の殉教者となった訳です。その時に生き残り、ウマイヤ帝国の迫害を恐れて東へ逃げた人々が建てた国が現在のイランの辺りにできました。それから、西方へ逃げた人たちが、レバノンの南にあるシーア派の比率の大きな地域へと定着しました。

では、このシーア派とスンニ派では、いったい何が違うのでしょうか? スンニ派にもモスクがありますが、そのモスクの中にはコーランだけが置かれています。スンニ派イスラム教徒はそこでコーランを読み、神(アッラー)と直接対峙(対話)します。モスクにお坊さん(聖職者)らしき人は居ることはいるのですが、あくまでも形の上での存在であって、(教義の解釈においては)介在せず、個別指導を行ったりしていません。

一方、シーア派では、モスクには必ず「ウラマー」と呼ばれる聖職者が居て、その方が教徒のいろんな話を聞き、また、毎週金曜日には自らが説教し、人々を正しい方向に導く役目を担っています。私は一度、シーア派の聖職者を養成する学校を訪れたことがあるのですが、驚いたことに、ほんの4、5歳から学校に入学し様々なことを学ぶのですが、彼らはそこで20歳になるまで数学や科学技術から外国語までありとあらゆることを学ぶのです。当然のことながら、ユダヤ教やキリスト教についても学びます。最終的には、何を聞かれても完璧に答えられるようになるまで修行する訳です。

そして、彼らが60歳から80歳ぐらいになり、シーア派のトップであるアーヤトラ・オズマ(大いなる神の徴)と呼ばれる位に就きますと、「ファトワー」を発する権限を持つようになるのですが、これは世の中で起こる不可解な出来事に対して「コーランによれば、この出来事はこういう意味なのだ」と決定を下す(解釈権を有す)ことです。イランの最高指導者のホメイニ師が就いた地位はこれに当たりますが、このファトワーと呼ばれる決定は、彼らイスラム教徒にとっては神の決定に等しいものですから、それが仮に「爆弾を抱えて自爆テロに行け」といった内容であった場合、皆がその方向に靡(なび)いてしまう恐さがあります。

スンニ派の場合は、そういったとりまとめを行う聖職者がおりませんから、コーランを読んで神との間で問答し、自分で考え、ある時アッラーの声を聞く。その答えが「爆弾を抱えて飛び込む」ことだと思ったなら、後は何ひとつ迷うことなく飛び込んでいく・・・・・・。それがスンニ派です。ですから、極限の状態に置かれた場合に、恐ろしい(危険な)のはシーア派とスンニ派のどちらか? と尋ねられても、どちらとも言えないですね。シーア派は、集団として行動する点に大きな危険性を孕んでいますが、先ほど申し上げたアーヤトラ・オズマにもなりますと、大変な知識人であることはもとより、ある意味、辛抱することも知っているバランスのとれた人物です。こういった人は「皆、爆弾を抱えて飛び込め」などということは言いません。今、問題になっているアルカイダなどの団体は、シーア派ではなくスンニ派です。エジプトやサウジアラビアのスンニ派の原理主義者が、徒党を組んで、反米あるいは反イスラエルの闘争態勢を取っています。


▼一神教伝承の宝庫ダマスカス

私が(駐シリア大使として)ダマスカスに着任したのは2000年ですが、人が連続して1万年以上暮らした歴史を持つダマスカスという土地は大変興味深い土地でした。テヘランもなかなか良い所でしたが、ここはまるで旧約聖書に出てくるエデンの園のような所――冬は暖かく、夏は涼しい。一年中いろんな果実がなる――でした。ダマスカスの街の近くに小高い山があるのですが、そこにはこんな言い伝えが残っています。エデンの園を追われたアダムとイブは、子供を3人もうけます。カインとアベルという男の子が2人、そして女の子がもう1人。カインとアベルは自分たちの妹を奪い合うのですが、結局カインが石でもって弟のアベルを殺してしまいます。その場所が、このダマスカスの山の中腹だと伝えられています。この逸話は旧約聖書には載っていないのですが、ダマスカスにはこの話が言い伝えられています。

ダマスカスの街の中心には「ウマイヤドモスク」という世界的に有名なモスクがありますが、そもそも、紀元前に(多神教の)ローマがそこへ神殿を築き、様々な神様の像を祀っていました。そして、紀元1世紀に今度はキリスト教が広まった時、その神殿にキリスト教会を継ぎ足しました。今でもそこへ行きますと、当時のステンドグラスを見ることができます。8世紀の初頭に、今度はイスラムのモスクに改装されましたが、全部合わせると3,000坪ほどの広大な敷地です。

その四隅にミサイルのような形をした尖塔(ミナレット)が建っていますが、そのうちのひとつは、今でも「イエス・キリストの像」と呼ばれています。つまり、イスラム教のモスクの中にイエス・キリストの像が立っているんですね。これには非常に驚きました。イスラム教の昔はキリスト教(から派生したもの)であり、キリスト教の昔はユダヤ教(から派生したもの)であるといったように、彼らは皆、「神はひとつ(一神教)だ」と言っていても、その神の呼び方は、ある時はヤハウェであり、またある時はアッラーと様々です。しかし、ずっと一神教だけできたのが中東から西側です。

ダマスカスのウマイヤドモスクは、ローマ神殿であった時は多神教でしたが、時を経てキリスト教会へと変化し、最終的にはイスラム教のモスクになりました。このモスクの中央には密閉された大きな棺(ひつぎ)があります。それは誰の棺かと申しますと、バプテスマ(洗礼者)のヨハネ・・・・・・。要するに、イエスの先駆者として、若き日のキリストにヨルダン川で聖水をかけて洗礼を施したあのヨハネです。彼の地では「ヨハネは、首を切られた(註:ヨハネは当時のユダヤの領主ヘロデ・アンティパスの結婚を非難したため捕らえられ、斬首された。これをテーマにしたオスカー・ワイルドの戯曲『サロメ』が有名)後、ダマスカスまで首を持って来られた」とされるため、そこが聖地となり『ヨハネの首塚』と呼ばれています。先程、話に出てきたシーア派の始祖の1人であるフサインの首もここに祀られているそうです。こういった背景から、このダマスカスという土地は、キリスト教やイスラム教にとって、ずっと中心的な舞台だったのだと判ります。


▼一神教はどのように成立したのか

次に、話は多神教へ移ります。私は随分と以前から「何故、この世の中には一神教と多神教が存在するのだろう?」と疑問に思っていました。ちょうど中曽根康弘先生が総理大臣だった当時に、ご自身も禅宗に帰依されていて、また宗教問題にも大変詳しい方でしたので、私は「何故、一神教と多神教の世界観はこうも違うのでしょうか?」と尋ねてみました。

すると、「インドとメソポタミアの中間あたりが一神教と多神教に分かれる分水嶺じゃないだろうか?」という答えが返ってきました。要するに、インドは多神教の世界。仏教にせよ、現在のヒンズー教にせよ、いろんな神様がおられます。ところが、中東から向こうは、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教という「他の神は一切排除する一神教」の世界になるということなんですが、その分かれ目がパキスタン、ペルシャ(イラン)の辺りにあるというのです。実は、古代ペルシャで成立したゾロアスター教は、対立する「善(光)と悪(闇)の神」の二神教の世界なんですが、それがどこからか一神教に変化するんですね。この点については、早稲田大学の考古学の吉村作治教授が著書に書いておられました。

一神教の起源は、紀元前1500年頃、メソポタミアに存在したミタンニ王国という小国があったのですが、その国では「アテン」という神だけを祀っていました。ミタンニ国王(註:トウシュラッタ王)は、わが娘である王女(註:タドウキパ)が大国であるエジプトの王(ファラオ)アメンホテプ4世の元へ嫁ぐ――もちろん、政略結婚です――時に、このアテンの神様の像を持たせたのですが、夫となったエジプトのアクエンアテン王(註:アメンホテプ四世から改名)は、それまで多神教の下に神官たちが宮廷で揮っていた権力を「王(ファラオ)の改革に対する抵抗勢力」としてこれを排除するために、都をテーベから新都テル・エル・アマルナに遷し(註:強大になった南都の仏教勢力の力を削ぐために、平城京から平安京へと遷都した桓武天皇を類例とすれば解りやすい)、彼は新たに妃によってもたらされたアテン神だけを祀り、従来の多神教の神々を一切祀らないこととしました。これは「アクエンアテンの宗教改革」と呼ばれていますが、この改革は結果的には見事に失敗してしまいます。

そして、クーデターが起こって、多神教の神官が再び権力を握り、宗教改革期間中に一神教化に尽力してきた人々を迫害します。迫害を受けた人々は落人(おちうど)のようにナイルデルタ地域に身を隠し、自分たちの信仰を守り続けました。その地で生まれたのがモーゼです。モーゼはユダヤ人ですが、後に成立した旧約聖書には「多くのユダヤ人が唯一神ヤハウェを信仰してエジプトを脱出した」とあります。モーゼ一行はエジプトからイスラエルへの逃避行の道中、シナイ半島にあるシナイ山で「唯一の神を信じ、他の神を一切信じない契約(いわゆる『十戒』)」を結びますが、モーゼはその契約を守って、「約束の地」カナン(現在のパレスチナ)に至る訳です。

私もいくつか縁(ゆかり)の地を尋ね歩いてみました。例えば、シナイ山や、モーゼが死後埋葬されたというネボ山というところは、草木のほとんど生えない本当に殺伐とした荒野のような土地でした。確かに、ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も砂漠から生まれた宗教なんですね。その背景にあるのは「緑滴る豊饒の神がおわす」(日本のような)土地ではなく、本当に「生きるか死ぬか」、「信じるか信じないか」といった厳しい二者択一の判断を求める世界なのです。

メモでも触れましたが、新約聖書を読みますと、イエス・キリストは、確か5、6歳の時から30歳頃までの事跡が空白期間となっています。これはどこにも書かれてないんですね。新約聖書の他にも聖書に準ずる書物がありますが、エジプトのコプト教会(註:紀元二世紀にエジプトで独自に発展したキリスト教の東方諸教会の一派)のテキスト(『トマスによる福音書』)に興味深い記述があります。これは古代のキリスト教ですが、カイロに行きますと「イエス・キリストは二十代の頃エジプトに居た」という書き物が残っています。現在のキリスト教各派はそれを一切認めていませんが、唯一コプト教だけがそのことを認めています。「同じキリスト教の中でも様々な側面があるのだな」と私も感じた次第です。


▼戦争の原因となる排他的信仰

最後に『文明と宗教の衝突』というテーマを取り上げますが、確かに、戦争が起こると昔から、誰もが「自分の国が勝つように」と自分たちの信じる神を奉じて相手を打ち負かそうとします。敵国である相手国も同様です。結果、負けたほうは、神も人も皆殺しに遭います。それが古代から連綿と続く歴史ですが、2001年に「9・11(米国中枢同時多発テロ)」が起きてからも、アメリカが(自分たちが信仰する神を奉じて)アフガニスタンやイラクを攻撃するという同じ図式が今日まで続いています。アルカイダは、先ほども触れたスンニ派を中心に組織される極めて攻撃的な「武力でもってして世界を変えなければならない」といった思想を持つグループです。

一方、ジョージ・W・ブッシュ大統領が育ったテキサス州は、アメリカ南部に位し、アメリカの中でも福音派(原理主義)プロテスタントがとりわけ強く根付いた地域です。これは要するに「本来のキリスト教世界に戻るのだ。(それも、中世的なゴテゴテした)カトリックのようなものではなく、(大切なものは)聖書と信仰のみ」といったような、非常にシンプルな形態を取っているプロテスタントなのですが、そういったところにネオ・コン(新保守主義)と呼ばれる政治グループが在ります。

これは、未だ事実かどうか確認が取れていないのですが、ネオ・コンの人々が信じているキリスト教はプロテスタントですが、一神教の中でも極めてユダヤ教に近いキリスト教である。そのため、「ユダヤ教が中東に広まれば広まるほど、キリストの再臨が確かなものとなり、この世は救われる」と信じられている。そんな話を耳にしたことがございます。

「イスラエルに対するアメリカの非常に強い肩入れ。それに対するアルカイダの反発」というのが、現在の大きな対立の図式としてあります。そのネオコンとイスラエルの関係、およびアラブ世界はもとより、イランも含めたイスラム教徒との対立・・・・・・。残念ながら、この両者の間には衝突という現実があります。もちろん、宗教的な背景だけではなく、石油資源という大きな経済的資源問題も背後にありますので、宗教だけの戦争だとは言えないと思いますが・・・・・・。

しかし、残念ながら「9・11」の直後にブッシュ大統領が不用意に発した言葉は「われわれはクルセイダー(十字軍)を組織しなければならない」でした。「十字軍」とは、皆様もご存知の通り、11世紀から13世紀までの3世紀にわたって、ヨーロッパのキリスト教諸侯が、中近東のイスラム教徒をやっつけて、聖地エルサレムをキリスト教徒の手に取り戻すために組織された多国籍軍です。「十字軍」という言葉を使った以上は、それと同じような構想がブッシュ大統領の頭の中にはあったはずです。


▼日本外交の課題

最後になりますが、外交というものを考えた場合、やはり自国の国益は護らなければならないとは思いますが、同時に、国益と国益のぶつかり合いとなると、当然そこに戦争が起きる危険性を孕みます。そこで、国益と国益のぶつかり合いをどう調整するか? これは結局、パイがあってそれをどちらかが得るために奪い合う訳ですから、そのパイをいかに大きくしていくか? ということが、われわれ外交官に課された課題ではないかと思います。領土はひとつであって、動かないものであるならば、領土に代わる価値を創り出し、それを皆で分けてゆく・・・・・・。それが、今後将来における外交の課題ではないかと思います。

まともな宗教であれば、説いていることは皆、愛であり慈悲であり寛容の精神なんです。それが何故戦争になるのだろうか? と・・・・・・。以前、私がまだ東京に居りました時、さる防衛庁の高官の方と一晩議論したのですが、その席で彼は私に「天江さん、私はよく解りません。ブッシュ大統領は幼い頃から非常に信仰篤い人だと聞きますが、9・11以降、あのように中東地域に軍隊を派遣しているのは何故なんでしょうか? キリスト教の信仰そのものには『右の頬を打たれたら、左の頬を差し出せ』という言葉があるように、私にとって、キリスト教信仰には暴力の影が微塵も感じられないのです。アメリカはそのキリスト教を篤く信仰している国であるにも関わらず、常に武力、武力で解決しようとします」と尋ねてこられました。

確かに不思議ですよね。ひとつひとつの宗教の根源にあるものはまさに愛であり、平和なのですから・・・・・・。先程「領土は増えないから奪い合いが起きる。だから、領土に代わる価値を増やしていくことが今後の外交における課題だ」と申しましたが、これは政治界、宗教界においても必要なのではないでしょうか? 日本に対して、中国や韓国がいろいろなことを言ってきていますが、日本文化に息づく聖徳太子の「和を以て尊しと為す」という言葉に表される和の精神を、日本人は世界に対して、外交的にも人間関係においても、もっと主張していって良いのでないか? と思います。少し時間が超過してしまいましたが、以上で終わらせていただこうと思います。ご清聴有難うございました。

(連載おわり 文責編集部)