大阪国際宗教同志会平成十年度第一回例会講演
『いのちと生命の違い』
 

元大阪大学蛋白質研究所所長
泉 美治



*思いがけず研究者に

ただ今、ご紹介に預かりました泉でございます。私はこのように頭を丸めてますんで、こういうお話をいたしますと、しばしば僧職と間違えられるんですが、これは全く衛生上の見地から(会場笑い)こういうこと(丸坊主)をしておるという次第でございます。

私の経歴を見ていただきましたら判りますように、大学の教授になるとは自他ともに、ゆめゆめ思いもしておらなかったのですが、人生を斜めに渡りまして、気が付きましたら、結局、とうとう大学で一番長い生活を「もう辞めないかん。辞めないかん」と思いながら送ったという次第でございます。

学歴も職歴も、大阪大学理学部というような「理学研究」と全く無縁の者が理学部の職員になったわけでございますので、一生、理学部の研究というのは、どこが、いわゆる「会社の化学の研究」と「大学の化学の研究」とが違うか?というところで非常に悩んだのでございます。

私の運命のいたずらといいますか、日本の蛋たん白ぱく質研究の先駆者といわれる大阪大学総長を務められました赤堀四郎先生の引退で、蛋白質研究所の講座の跡を継ぐという非常に数奇な運命を辿ったような次第であります。そういうことの中で、私は、どうも理学研究というのは、応用研究と違いまして、あるいは薬学の研究とか、工学部の応用化学の研究とは違いまして、理学部の研究というのは、自分の哲学を化学で表現してゆく、あるいは、物理で表現していくというのが、本来の理学研究ではないかということに、私自身は考え着いた訳でございます。

私は終戦直後に会社(武田薬品化学)に入りまして、進駐軍のマッカーサーの命令で、労働組合を日本で初めて作らなければならないということになり、労働組合を作るために、いわゆる「マルクス=レーニン主義」、あるいは「唯物論」というものを勉強せざるを得なかった……。というようなことで、ある時期は私自身も非常に唯物論的な考え方に惹かれておった訳でございます。

それが、ふとしたところから、友人からむりやり人数合わせに頼まれまして、三田の心月院というわりと大きい禅寺があるんでございますが、そこでの参禅会に「一晩でいいから、とにかく頭数だけに来てくれ」と言われ、引っ張り込まれました。その時に、初めて仏教というものに出会ったのでございます。その時の法帖は、持田間道老師という―駒沢大学の教授をされておったと思うんでございますが―非常に有名な法帖でございまして、その出会いも良かったのであろうと思うんです。仏教の哲学というものに対して興味を持っておりましたので、まあ、それを少しやりかけたところでしたので、ありがたいご縁でした。


*仏教の悟りと自然科学の関係

ご紹介にもありましたけれども、自然科学をやっております者は、非常に宗教と遠いようにお考えかもしれませんけども、特に仏教と自然科学とは―科学者本人が自覚するしないに拘わらず―非常に近い感覚的関係を持っていると思います。私も惹かれましたのは、仏教の悟りというものと、科学的発見をする手前の瞬間とが、良く似た状況であるのではないか、というようなことで、私の自然観というんでしょうか、自然を見る見方を仏教哲学の「唯わい識しき」に置いた訳でございます。そのようなことで、「唯識」というのは、未だに「私の理解しておる唯識が正しいのか、間違っているのか、はっきり言ってもらえる人もいないような次第なんですが」、唯識というものを、私なりに理解しておりますことを、私の自然観として研究生活を送ってきた次第でございます。

ここに書いてある私の著書『科学者の説く仏教とその哲学―創造と国際化のために―も、大阪大学在職中に東大出版会から「ぜひとも書いて欲しい」とよくいわれたのですが、私は「僧職でもないものが、合っているか間違っているか判らん保障のないものはよう書かんわ」と言っておったんですが、やかましく説得にきましたので、つい苦しまぎれに「定年退官してからだったら書いたるわ」と言ったのが運のつきで、実はこういう本を書かざるを得ない次第になったという訳でございます。そういうことで、西谷啓治先生に初めてお目にかかったのも、そういうことがひとつの行きがかりでございまして、今、コルモス(現代における宗教の役割研究会)の方にも、籍を置かさせていただいているというような次第でございます。

今、「バイオテクノロジーの専門家」と紹介されましたけれども、私の本職は有機化学でございます。ひいては、私のささやかな発見がもとで、新しい分野が開けたような学問でございまして、いろんな学問の境界領域―というよりも、交差点みたいなところ―にある仕事で、説明の仕様がないような仕事をやっておりますが、まあ本来は有機化学でございます。私が、生化学的なことに素人に毛が生えたぐらいに、ある程度、理解しておりますのは、ひとつに、蛋白質研究所の中における私の講座研究室の置かれておる職務上の位置がちょうど、生化学と物理あるいは物理化学と、あるいは、工学とか医学とかそういうところとの、交点のちょうどインターフェースみたいな、いわゆる「通訳」をしているような職務的な役割分担もあります。

そういうことで、周囲にいる人が、生化学あるいは医学関係の方が非常に多いというので、普通の有機化学者よりも生化学には少しは詳しいというようなことでございまして、それほど「バイオテクノロジーの専門」というわけではございません。とにかく、「素人じみておる」というご理解を願っておいたらよいかと思うのでございます。


 *難しい「いのち」の定義づけ

さて、今日のお話の本題でございますけれども、先日、三宅善信さんの方から、「何か生命(の問題)か臓器移植か、そのようなことを話してくれないか?」という話がございまして、このレジュメに書いておりますことだけでも、きっちりと話そうと思いますと数時間を必要とするぐらいに非常にややこしい分野の話でございます。今日はどこまで行けるか判りませんけれども、私自身が見ておりまして、宗教者の皆さん方、あるいは一般の皆さん方も含めてでございますけれども、それから、生化学をやっておる医学関係の人たちも含めまして、この「いのち」というものの取り違いをしているように思われるので、これについてお話をしてみたいと思うのでございます。同様に、医学関係の方から、逆に「宗教的な観点から、生命問題について話してくれないか?」と、両方から「話をしてくれ」をいわれるのも、そういう関係からでございます。

私、ここ(レジュメ)に書いてありますように、「臓器移植」―特に「心臓移植」―一般の臓器移植がどうのこうのいうのではなくて、特に問題になったというのは、心臓の―いわゆる生体臓器の―移植が中心の話でございます。それで、「脳死臨調」なんかで、いろいろと「脳死問題」と「生体臓器移植」とごっちゃになりまして、「死」の定義をせずに議論をされたというのが現実でないか、と私は思います。

もうひとつはですね、「いのち」というものに対しての理解の定義、いわば「いのち」の定義をせずに、脳死臨調は行われておった。ここが、混乱しているかぎり「あれでは絶対に終束するはずがない」と私は思うのでございます。どこが一番「いのち」というものについての理解が難しいかと申しますと、「いのち」という言葉を辞書で引いてもらったら判りますように、「生命の生命現象の属性」と書いてあります。それでまた、「生命現象」のところを引いたら「生命の属性」と書いてある。これでは、「鶏が卵より先や」と書いて、片一方で「卵が鶏よりも先や」と、まるっきり反対のことを書いてあるのと同じです。これでは、全く意味をなさん訳でございます。

こういうことが起こるのはなぜかと申しますと、「いのち」というものは、主体的にわれわれ誰もが自分の「いのち」というものを、誰一人として感じておらない人はないからであります。しかしながら、客観的に「いのち」というものを見た人も、それから、実際に「どういうもんや」ということを言えた人もないというものが「いのち」であります。ということは、「いのち」というものは相当抽象的な存在であるということで、話が非常に複雑になるというのが「いのち」の問題であろうかと思うのです。

皆さん方は、宗教界の錚そう錚そうたるお方でございますので、私よりも宗教的な意味での「いのち」というものはよくご存知と思いますので、まず最初に、医学的あるいは科学的にいう「生命」とはどういうものなのか?ということについて、お話をしたいと思うのでございます。

これは、ひとことで言わしていただきますと、科学的にいうておる「生命」というのは、「いのち」そのものじゃないんです。いわゆる「生命現象」なのです。お医者さんが、聴診器を当てて「もう死んだ」あるいは「まだ生きている」とよくいいますが、何も「いのち」そのものを見ていうているのでなはくて、いわゆる「生命現象」すなわち、心臓が動いておるか動いておらないか、脈があるかないかということで、それを判断しておるということです。「いのち」は見えるものではないんです。「いのち」は、生命現象を通して、「そこにいのちがある」ということが判るのが、「いのち」というものなんです。

したがって、科学の取り扱っているのは、「いのち」ではなく「生命現象」なのです。それを、「自分が今、感じておるいのちそのものを、科学は解明しておる」と理解されるところに、話がややこしくなる原因があるのでございます。生命現象というものを、これを「いのち」そのものと、もし置き換えますと、「いのち」にはいろんなレベルができてくるというおかしなことになります。「脳死問題」がやかましくいわれておったころに、「科学がもっと進んだら……」あるいは「科学が明確に生命を捕まえないから、いわゆるいのちが規程できない」というような、そういう錯覚をほとんどの方がされておったのではないかと思うんです。

しかしながら、現実には、科学が進歩すればするほど、科学的にいう「生命」というものは不可解なものになってゆくということでございます。たとえば、「脳死」というようなもの、あるいは「植物人間」というような状態が現れたというのは「医学が進歩したから」でございます。特に、「脳死」の場合は、「自分で呼吸して、自律的に自分の体をコントロールする能力を失っている」わけです。

皆さんは、「心臓が止まったらすぐに死ぬ」と思うておられますが、心臓が止まったらなぜ死ぬかと申しますと、心臓が止まりますと、やがてもう血液が環らないようになって、体中で一番酸素を消費するのは脳でありますが、脳は、だいたい十五分ぐらいの血液の循環が止まりますと、もはや元の状態に戻らない状態になってしまう。ということは、目の眉間のちょうど裏側のところにリンゴの芯みたいな形をした、視床下部という場所があり、その内側に、脳幹という小さい場所があり、この部分が体全体のコントロールをやっておる。あらゆる神経が通過しておるちょうど芯のようなところであります。

ですから、それ(脳幹)が止まりますと、私たちの体を作っておる臓器―心臓とか筋肉とかいろんなものを、桶おけの側板とか底板とかいう部分に例えますと、ちょうど脳幹というのは、桶の「わっぱ」みたいなもんでして、それを全部まとめておるそういう機能を持っているのが脳幹であります。そこが、心臓が止まって数分ないし十数分のうちに、脳幹の機能が止まって「脳死」が来て、そして、脳死が来てから、またしばらく経って呼吸が止まり、全部がずうっと止まってきて、徐々に体全体に死が及んでいくということになるわけであります。

昔は、強制的に呼吸をさせるような方法はありませんでした。心臓が止まりますと、電気でショックを与えてもう一回心臓を動かすというようなこともできませんでしたので、心臓が止まれば必然的に「脳死」が訪れて―脳幹の機能を失うことを「脳死」というのですが―しかし「脳死がきたから、即、死が来る」という問題ではないんです。それからしばらく時間が経ってから「本当の死」が訪れてくるわけであります。

したがって、昔は、心臓が止まったらそれ以上は医学的に救う道がなかったから、まあいえば「ご臨終です。誠に残念でした」と医者が言えば、万事混乱なく事は終わっておったわけでございます。今では、強制的に呼吸をさせたり、心臓を動かしたり、いろんなことができますので、それで、中枢(脳幹)のコントロールができなくなりましても、心臓と肺の機能を動かすことが人為的にできるようになりましたから、しかも、栄養の方は、全部注射で蛋白質に代わるものを注入することができるようになりました。

これは、私自身が薬屋としてただひとつやったことですが、蛋白質に代わるアミノ酸の輸液というのがありますけれど、皆さんが病気を長いことされましても、ひとつも痩せることなしに、肉や魚を食べなくても元気に生きられるのは、これはアミノ酸の点滴をやるからですけれども、その点滴を日本が最初に開発したもんですが、それのきっかけを作ったのは、ある成分のうちひとつだけ結晶にできなかったものを作る方法を私が考えついたというか、見つけたというか、そういうことがきっかけで、今、世界中でアミノ酸の輸液が使われているのです。

私自身もこれを発明して良かったんか、悪かったんか……。自分がそういう状態になったら「使わんといてくれ」と言っている(会場笑い)のですが……。飯を食べようという意識もなければ、おしっこに行こうという意識もなければ、何にもないわけなんですけれども、しかしながら、能動的に呼吸をし、心臓を動かす能力だけは自分でちゃんとできるわけで、だから、栄養剤を強制的に入れてあげれば生命は保てる。このような状態にあるのが「植物人間」であります。こういう状態ができたわけでございます。

そこで、「死ぬ」ということからもう少し詳しく考えてゆきますと、「生命現象ということが生命そのものである」と置き換えますと、どういうことが起こるかと申しますと、いろんなレベルの生命があるということです。レジュメにも書いておりますけれども、「個体」と書いてあるのは、私たちの体まるごとです。まるごとのいのちといいながら、これがもう既に「脳死」とかあるいは「植物人間」と、個体が生きているのか、死んでいるのかということになると、そこがややこしくなってくる。

それから、臓器移植ができるというのは何かといいますと、脳の細胞というのは、ものすごいエネルギーを使っているのであります。体中で一番使っている。皆さんもちょっと想像外だと思いますが、私たちの体の中で一番エネルギーを使っているのが脳なんです。結局、コンピューターの電力の供給のようなもんです。

ですから、例えば、われわれが戦争中、腕に銃弾が当った時でも、上腕を緊縛して血液を止めても、三十分に一回ぐらい緊縛をほどいて、血を流してあげれば、一日や二日止血してでもなんとかいけるわけです。ところが、脳は―近頃、首吊りがはやっておりますが(会場笑い)―首吊りをしますと、七〜八分でみな「あの世」に行ってしまう。なぜかと申しますと、脳はたくさんの酸素を消費しておるのを、それがパタッと止まるとですねえ、組織全体がだめになってしまうからなのです。手や足などは、徐々にしか酸素を使っておらない。止まれば止まったようにですね、じわじわと生きるということができますけれども、脳はそれができないというのが、ひとつの特徴なんです。

そういうことで、脳が駄目になっても、心臓や腎臓などは、そう簡単には生命現象はなくならない。ですから、臓器レベルでは「脳死」が訪れましても、非常に長い臓器であれば数時間、十数時間でも、かろうじで生きておる。私の住んでいる地域(兵庫県三田市)は、ここ十五年ほど前までは土葬でしたけれども、土葬の墓をなにかのはずみで棺桶に穴を空けたりしたら、「頭の毛を剃って入れてあったはずやのに、えらい髪の毛だけが伸びておった」という話はようあります。あれなんかは、皮膚の組織は組織としては、非常に長い期間生きておるということです。そうなりますと、「臓器レベルでの死」というもの、あるいは、「生命現象」というものは、「体全体と関係があって、また、関係がない」ということが言えるわけです。



*遺伝子は生命か物質か?

いわゆる、ライフサイエンス(生命科学)が進歩しますと、問題がかえってだんだんと複雑になってくるんですね。たとえば、「受精卵」がそうです。既に、精子を掛け合わした卵、それが、数年でも保存できるわけです。現実に畜産の世界では、もう日常茶飯事のことであります。皆さんもご存知のように、畜産業界では乳牛の受精卵は売買されておる。ドライアイスで冷やして輸送して、世界中で売り買いしておる現状があるわけです。それじゃ、この「受精卵」はちゃんとしてやれば、現実にそれから牛一匹できるわけですから……。

あるいは、人間でも「体外受精」はアメリカでは堂々ともう商売をやっております。そうなりますと、受精卵を生命現象と捉えますと、「いのち」があるのかないのか、はなはだややこしい。「受精卵」に「いのち」があるとして、それなら、その受精卵になる直前の卵や精子に「いのち」がないのかといったら、これも「精子バンク」といいまして、アメリカでは商売になっております。「これは数学に強い人の精子や」とか「これは〇〇に強いやつや」とか、もう種子屋と一緒ですわ。そういう状況になってきますと、精子というのは、精子だけでは一人前の生き物にはなりませんが、しかしながら卵と掛け合わしますと、一人前の「いのち」になる。すると、「これに生命があるんかどうか……」。こうなってきますと、はなはだ「いのち」というのは、こういう生命現象ということを「生命」と置き換えてみますと、複雑になってくるわけなんですね。

それ(体外受精)ぐらいのところですと、まだ、皆さんの常識のところですが、最近、問題になっておる「クローン」になってくると、もっと問題がややこしくなってきます。ひとくちに「クローン」といいましても、いろんなクローンがあるんです。一番問題なのは「体細胞クローン」。これは、われわれのからだは何十兆という細胞からできておりますけれども、その細胞一個一個に全部、遺伝子を一揃い持っておるわけなんです。その一組の遺伝子には、私たちの全身を造るのに必要な設計図が完全に全部入っておるわけなんです。

ですから、理屈から言いますと、私の体には何十兆という私を造るのに必要な設計図が入っておるわけです。ただ問題は、例えば、皮膚になっておる細胞の設計図は、皮になるようなところだけを残して、その他の全部遺伝子が働かんように、情報が出んように、ブロックされておるわけです。そういうものが、果たしてこれを解いて一匹の「生き物」を「造り出す」ことができるかどうかという問題があったんですけれども、最近、英国で「羊が体細胞クローン技術で誕生した」と盛んに報道されておりましたので皆さんご存知のことと思います。あれはですね、乳首のところの細胞から羊一匹を造り出した訳です。この仕組みは、「未分化」といいまして―受精後の発生段階で、ある細胞が手の指に変わっていくとか、脳に変わっていくとか、そういう未だ方向性が出ておらない細胞を「未分化」といいますが―いわゆる、そのなかに特定の目的に応じるように、ブロックされておらないというような状態です。

いわゆる「受精卵」は、一組の遺伝子からどんどんと細胞分裂をくりかえしてゆくのですが、人間の場合ですと、三ヶ月経ったら、われわれの脳の細胞が全部用意されてしまうわけです。妊娠三ヶ月の胎児が持っておる胎児の脳の細胞は、減ることがあっても増えることはない。一個一個の細胞がだんだんと大きくなっていくだけのことです。

ですから、「未分化」というのは、DNAの中から「脳になる設計図だけを使え」と、あるいは「手になる設計図だけを使え」と、そういう司令がまだ出ておらない。そういう状態の「何にでも変わりうる」細胞を「未分化」というんですけれども、それが、乳首の付近にあるわけなんです。それの中の遺伝子を採りますと、ちょうど受精卵の中の遺伝子と全く同じものがあるわけでして、それを使いまして、「ドリー」という名の羊のクローンができて問題が起こったわけなんです。これが今や、牛でも行われている。これなにも、ヒトで起こって不思議ではないということでございます。

そういうことになりますと、「細胞一個一個に生命があるのか?」といいますと、あるいは、こと遺伝子になりますと、これはもう、現在のわれわれの分類では「遺伝子(DNA)は化学物質」になっておるわけでして、遺伝子を生命体とは考えておらない。遺伝子というのは、冷凍しておくと無限にそのままの状態を保てる。現在では、「単なる物質」と考えられるようなもんだと……。生命体と物質のちょうど中間とされるウイルスよりもまだ物質的なものと考えたらいいんじゃないかと思うわけです。

そうなると、「遺伝子は生命があるのか?」というと、ちょっとわけが判らない。いうことで、いわゆる生命というものは、生命現象を生命と取り違えますと、非常にややこしいわけでございます。ですから、科学者がいっておる生命と、一般の人がお考えの生命、あるいは、われわれが常識的にいう生命と、相当内容が違うということが、この話でお判りになれたかと思うんですが……。


* 「死」は「いのち」の終わりか?



それから、今度は、いのちを「生きておるという証」としますと、反対の「死ぬ」ということ、つまり裏側から見てみますと、レジュメには「死の意味について」と書いてありますが、科学的に「死の意味は何か?」といいますと、「個体レベルでの死」というものは、単なる生き物と無生物、これのちょうど境目が死ということになります。


いわゆる「宗教が説く死」というのは、「必然のものである」と考えますが、「死は生命の終焉」という考え方そのものが考えものであって、私はコルモス(現代における宗教の役割研究会)でもよく言うんですが、宗教家の方は、「あの世がある」と言うてしまわれるんで、非常に誤解を招かれておる。「あの世はあると信じよ」というべきです。誰も判らんのです。お釈迦さんも「判らん」と言っておるのです。宗教の立場は、あくまで「あると信じよ」というべきです。

一方、科学者の「あの世はない」というのも間違いなんです。誰も「あの世がなかった」という報告は受けておらんわけですから「あの世がない」ということも言えないわけなんです。「ないと思う」としか言えんわけなんです。「ある」と断言し、「ない」と断言することが、宗教と科学が断絶しておる非常に大きな原因だと思っておるのです。

科学をやっておる者は、「私は判らんけど、来世はないように思う」と、そこまでで止めておけばよいのに、それを「あるなんて思うのは、非科学的だ」というと、はなはだことが穏やかでなくなる。誰も「来世がない」と科学的に証明した者はおらんわけで、あの世から帰って来た者はおらんわけで、だから、「あるもないも判らん」とお釈迦さんが言われておるのが、最も科学的にも正しい解答ではないかと思うんです。

ちょっと話が飛んできましたが、問題は、科学は「死」というものは「生物と物質とを区切る一つの出来事」と、ただ単にこう考えているかというと、そうじゃない。科学が最も問題としておるのは、個体の生命、個体の死というものがあって、種の生命が保たれるということです。生命の存在があるわけなのです。種の生命ということは、「永遠の生命」のことです。もっとも人間だけが往生際が悪いんですわ。人間以外の生き物は全部、種の存続のために自分の「いのち」があるわけなんです。カマキリの雄なんかは、種を付けた後は、雌に栄養をつけるために喰われてしまう。自分の「いのち」は子孫、種の存続のためにすべて費やしておる。人間だけが往生際が悪い。


*宗教は「愛」の安売りをするな

ところが、私がここで言いたいのは、こういうところ(国際宗教同志会)ですか言えるんですが、これを言いますと、一般の宗教家の皆さんから猛烈に反対されると思うんですが、すぐ「人権がどうの」とか、「愛がどうの」とか、言われまして、ですから科学者は本当に死ということの重要性を言おうとしても言えない状況を作っておるのも、これまた、非常に悲劇なことですが、そういうムードを作ってしまったのも宗教家、特にキリスト教的な愛というような考え方ではないかと思います。

キリスト教徒は「自分の心臓を提供します」というようなことがありましても、「愛」というのは、私の理解では、愛というのは、バイブルを信じる者、キリスト教によらず、イスラム教、ユダヤ教にしましても、それを信じる者の中において初めて愛は授けられるべきものであろうと思うのですが、その、「愛の安売り」をするところが話をややこしくさせていると思うんです。

現実に、敬虔なるキリスト教なりいわゆる「一神教」の信者の場合ですけど、これは極端すぎますが、「エホバの証人」のようなああいう考え方(注:手術や輸血を拒否する)が出てきて当然だろうと思います。エホバの証人の場合、行き過ぎと思うのは、血液みたいなもんはなんぼでも再生産されますので、「それやったら差し上げる」というのが合理的な考え方であります。ところが、こと心臓ということになりますと、いわゆる「心臓を欲しい」という人は、「提供者が死ぬのを待っておる」わけでして、それじゃ、心臓を提供する人の立場はどういうかというと、「待たれる立場になる」ということ。そこまでいかなくても、「愛」を説くキリスト教の本当の信者であったら、そういうような申し出(私の心臓を差し上げます)があっても、私は「ご辞退します」というべきではないかいなあと思うんですが、「愛」というものが安売りされるところに、最近、こういうことが多くなってきたんですな。

これがですね、まあ、あんまり言いますと具合悪くなってきますので、言いませんけれども、「人間だけが、種の存続が難しくなるような方向へ方向へ努力しておる」ような状況になっておるということなんです。これは、宗教関係の方も特にお考えいただきたいと思うんです。「科学は非常に冷酷である」と、こうよく言われておりますけれども、科学はどこにいわゆる「生命の尊厳」を認めておるかと申しますと、「個人個人の生命というものは、種の存続のためにある。個体の死というものは、種の存続のために死があるのであって、そういう意味においては、非常に尊厳なものである」と、こういうふうに考えておるのであります。

しかしながら、そういうことは、二十年ぐらい前の教科書には出ておりましたけれども、最近の高等学校の教科書を一、二冊見ましても、そういうことを書いてある教科書がなくなっておる。これはある意味で生命観が欠けておると思うんです。そこで具体的に、私たちの「いのち」というものはいったいどういうものかといいますと、先ほどもいいましたように、桶おけがわれわれの体としますと、その側板底板のようなものが、われわれの臓器であり、皮膚であり、いわゆる筋肉であると、こういうふうに理解していただきますと、脳幹というようなもので、ひとつの箍たががはまって、みんなが「桶という水を漏らさん機能」のために全部が統一されておる。その時に、自ずから、その桶の中に湛たたえられてくるものが「いのち」であろうかと、私はそう理解したい。


*生命を湛える桶

ですから、その板の一枚が欠けても「いのち」は溜まらんやろうし、底が抜けたらいっぺんやろうし、桶の箍たがが外れますと、これはもう瞬間的に湛たたえられているものがなくなるということになります。湛えられているものが清酒であるかワインであるか何であるかは、その桶の置かれておる環境とか経歴によって違ってくる。それがいわゆる、われわれが実感するところの「いのち」ではないであろうかと思うのです。

したがいまして、医学や科学が進歩しましても、生命というもの―私たちが主体的に考えておりますところの「いのち」というもの―は解明できない。それでは、医学や科学が進歩しますと、どういうことができるようになるかといいますと、一枚一枚の板が「いのち」というひとつの桶の中でどういう役割を果たしておるかという役割を解明し、お互いの関連を解明することは可能である。そして、それがどういう材質でできておるか、あるいは、そこの板のどこに腐りができておるかとか、歪みができておるかということは解かります。いわゆる、「いのちを湛えておる桶」から、いのちが漏れかけますと、「どこに原因があって漏れかけているか?」ということは解明できましても、「その中に入っているものが何か?」は、なんぼ進歩しても解らないもんだ。と、こういうふうに理解していただいたらよいのではないかと思うんです。医学関係や生物関係の人にこの話を言いますと、「泉さん、ほんまにそうや」と、ちょうど皆さん方と全く対象に、生物化学などをやっておる者は、つい錯覚をおこしておるということでございます。


*仏教がいちばん科学的

私よりも皆さん方の方がよくご存知だと思いますが、それでは、仏教の説く「いのち」というのは―それぞれの宗派でおっしゃっておることが多少、違っておりますが―この科学が非常に進歩した時代に、私自身が一生懸命になって仏教について今やりたいと思っておることは、「お釈迦さんの言っておることは、今のサイエンスというものと馴染みやすい。矛盾なく言える」と、言えるということなんです。それをわざわざ、まるっきり反対のような表現ばかりされるので、仏教は今の時代からみんな誤解を受けて、そして、日本人の宗教感が喪失していくように思われるのです。

私は、お釈迦さんの言われたことから出発して、そして、それぞれの宗派の説いておること……。先ほども言いましたが、「諸行無常や」となんぼ理屈では解っていても、自分の「いのち」が明日なくなるかも判らん時に、「刹那消滅や」と平然としておれたら、そら人間やないですわ。「私のいのちはどうなんねん?死んだらどうなんねん?」そういうふうな時に、救わなあかんのが宗教であると考えると、その時に初めて、その現場にいるいろいろな宗派の皆さん方が言っておられるようなことが生きてくるわけなんです。

それより以前において、先に結論を出されるために、今の若い人達は、こういう科学万能思想の時代に、かえって困ってしまう訳なんです。教科書にも、生命と生命現象は全く混同して書かれておるわけなんです。「生命の合成ができる」だとか……。冗談じゃない。生命の合成なんてできるもんじゃないんです。にもかかわらず、「生命の合成ができる」とか、いろんなことを書いておりますから、みんな誤った科学知識を持っております。

ここで宗教家が、ますます方向の違うことを言われますと、非常に皆さんが遠ざかっていってしまう。やはり、一度お釈迦さんが言われた原点に戻って、「それや!」と実感できることからもういっぺん始められたら、みんなが納得してくれるんでないかな、と私は思うのです。それがですね、「生死一如」や「刹那消滅」やと、そんなことでなんぼ「悟りが開ける」やと、どない言うたって、普通の人間がそんなこと知ったって、「あなたは癌でちょっと難しい」と言われてですね、それで平然と死ねるような人でしたら、よっぽど、どうかしとると思いますな。やっぱりそのような時は、「浄土があるんだ」とか、そういう救いというのが絶対必要である。そのところから始めていく……。その辺をよほどうまく考えなかったら、誤解を招く一方であると私は思うのです。

私は、お釈迦さんが言われておることが一番サイエンティフィックであるし、異論の余地がないし、今の若い人にかて、誰に話をしても、誰一人として反論はできるものはいないであろうと思うんです。「刹那消滅」とか「諸行無常」とかそういうような問題は、われわれ自然科学をやっておる者が、日々いわゆる「身をもって経験」しないとあかんのです。


*科学的発見と「縁」

案外、皆さん方は、自然科学者はそんなもんと無関係と思っておられますけれども、われわれは、いわゆる言葉として知らないだけなのです。「縁」とか「縁の不思議さ」とかですね。そしたら、「発見」や「発明」なんかですね。「なんでお前それ発見できたんや?」と問われたら、発見でも不思議なもんとしかいいようがありませんですね……。私が研究していた触媒化学でもそうなんですが、例えば、このポリエチレン―ビニールの袋―は石油のエチレンという原料から造られる化学物質ですが、触媒の歴史を見ていくと不思議なことに、「一番最初に発見されたその触媒が一番良かった」ということが、二十年後ぐらい、一つの触媒が見つけられてからですから、何百人、何千人、何万人という人が、ものすごい時間をかけて追実験をして、二十年後になって、「一番最初に見つけられた触媒の調合の割合が一番良かった」というような結論に達する場合が非常に多いわけなんです。

まあ、「縁」というような話をしますと、われわれ科学者、私のような化学者なんかは特にそうなんですが、化学者が何をやっておるかといいますと、新しいものを造るというよりも、新しい縁を求めておるだけです。原料は薬屋にみんなあるわけですわ。これをどうゆうふうに組合わして、何度に温度を上げて、どうして……と。結局、その「縁」を見つけるために、われわれは一生懸命やっておるということで、こういうことをいいますと、「ああそりゃなるほどそうやな」とそれが縁ちゅうもんやったと……。それから、仏教でいいますところのあるがままですわ。「諸法無我」というんですか「法」というのは、認識の対象としてのものではなくて、認識そのものであると私は思うんです。認識の対象というものは、「限定すべきなにものもない」と……。これは、創造教育という時に、非常に重要なことなんです。

教育というものはみんな「ものを限定してしまう」ということですから、今、ここにあるところのコップを「コップ」と教えて、ある発見の端緒を掴んでから、それを展開するのには教育がなければできんわけです。教育知識があればあるほど、展開は非常に広く壮大に完璧にできていくわけなんです。ところが、初めの端緒は、教育とは全く無関係の、下へ手たすると、教育があればあるほどそれに縛られて新しいことが見つけられない。このコップが「コップ」でなければならない必然性はなんにもこのコップはないわけなんです。われわれの日々の生活が、まさにお釈迦さんの言うておることそものもをひしひしを考えながら、研究をしておるわけなんです。

極端な例が、「量子論」なんかになりますと、もう認識そのものです。「電子」というておるけれども、電子を粒として見るようにしてしかけたら粒と見えるし、光やと思うてわれわれの目で見とるから、光やと見えるわけですな。今、電話がどんどんいわゆる「光通信」に変わっていってますが、「光」も電波としてみたら、光でなしに電波であるわけです。粒子として観測しようと思えば、光子として観測できるわけなんです。観測ということは、自分の主観でものを観ることなんです。

ですから、われわれ科学者は、自分の生活を振り返りますと、「唯ゆい識しき」がいっておることそのもの。自分の世界は、自分の記憶を通して観ておるんであって、その記憶を除いた時に、新しい違うものをもってきたら全く新しい世界が開けるわけなんです。ですから、この光でも、粒子や電波やいうておりますけれども、第三、第四のもっと可能性は無限にあるはずなんです。「諸法無我」です。それを、われわれの科学者の創造性というものの一番重要なところなんです。


*日本人の生命観

えらい横道になりましたけれども、そういうことで、私たちの「生命観」―日本人が「いのち」というてきたものは、「自分にかけがえのないもの」に対するいわゆる「思い」というんですか、主体的な存在観。それが日本人の大部分の人が考えるておる「いのち」ではないかいなと思います。それを、裏返しますと、八百萬やおよろずの神々です。もう、木にも岩にも便所にも、みんな日本は神さんだらけですわ……。ということは、日本は超多神教、すなわち「悉有仏性しつうぶっしょう」です。これは超多神教の祖霊信仰に通ずるわけであって、それは逆に、仏教の「悉有仏性」というものも無限ですから、悉有仏性にほとんど重なるわけであります。それが「日本人の生命観」ではないかと思うんです。

いわゆる「日本人の生命観」というのは、仏教の生命観、あるいは神道の生命観の、その狭間の中に、それがいわゆる「日本人の生命観」として、表れてきておるんではないかと、逆にこういうふうに思うんです。ですから、私はよく医者の友人に「君らの考えておるいのちは、客観的に見ておる生命であって、家族やら本人が考えておるいのちは、かけがえのないいのちなんだ」と言うんです。「それをたとえ死んだのが事実であろうが、子供を死なせたばかりの親に、ただちに『お前の子供は死んだんだ』と、そんな殺生なことを言うもんでない」といいますと、逆に医者が「なるほど、そういうたら本当にいのちいうてもえらい違いがありますな……」というのが、逆の方から聞くことでございます。

ちょうど時間が参りましたので、一応これで終わりまして、またなんなりと、大変勝手なことを話しておりますので、いろいろご意見やらございましたら、おっしゃってもらったら、なお、結構でございます。一応これで終わらせていただきます。


*質疑応答

司 会: 泉先生ありがとうございます。私ども宗教の現場におるものとして、造詣の深いお話を承わり、また、本日の参加者の顔ぶれを見ていただいて、仏教、キリスト教そして神道、それぞれの者がちゃんととっかかって質問ができるようにお話を展開していただきましたので、それぞれにご意見あるいはご質問等があると思います。どうぞみなさんよろしくお願いします。

片 岡: 住吉大社権宮司の片岡友次でございます。いろいろなお話を感銘深くお伺いておったのですが、ちょっと抜けておったと思う部分―つまり「安楽死」の問題について先生は、どういうふうにお考えでございましょうか?

 それと、先ほど「最初は唯物論的な考え方できとったんだけれども、仏教と出会って少々考え方が変わってきた」とおっしゃいましたが、私の中学校の同級生で、京都の府立医大の病理学を専攻したのがおりまして、大学に残って「人間は細胞の固まりだ」と力説してやまない男だったんですけれども、いつのまに心変わりしたのか知りませんけれども、現在、鳥取の山奥の無医村にまいりまして、そちらの農村の方々の診療を七十何歳ですけれども、まだ元気でやっておりますが、そういった心境を、お伺いしたいということ。 その二つを踏まえまして、宗教と医学あるいは科学は両立できるのかどうか? あるいは、最近の「クローン人間」の問題など、遺
伝子工学の方にもいろいな意見がございましょうが、そういった面で、泉先生はどのようにお考えなのでしょうか? 以上三点について、お伺いしたいと思いますが。

泉: 「宗教と科学に接点はあるか?」ということでございますけれども、私は、キリスト教においても、本当のキリスト教徒であれば、本当にキリスト教を理解すれば、ある種の接点があるのではないかと思うんですが、少なくとも仏教においてはですね、これは明確に接点がございます。

次元が違いますけれども、直交して接点がございます。私は、その接点は、「諸行無常」「諸法無我」が一つの接点でなかろうかと思うんです。そして、その次元を九〇度回転さす。それはなんだろうかと考えますと、それは「唯識」がいいんじゃないかと思っております。 

宗教家の皆さん方の前では言いにくいことなんですけれども、仏教の場合、「悟り」というもんはですね、とてもじゃないが、俗世の人間からしますと、俗世の人間が川の縁に立っておりまして、いわゆる「鉢の中に水が入っておるか? おらないか?」というのと同じで、その「悟った」といわれる方が、果たして本当に悟ったのか?

中身が入っておるか、おらんのか? は、永久に判らんことでございまして、それよりも私は、少なくとも思想や哲学というところまでだったら、間違いなく誰もが納得するんではなかろうか……。そして私は、それから宗教への転換というのは、その人が何かの人生のある転機を迎えた時に、それが初めて宗教へと本当に転換するんではないかと思うんです。それが、そこへ至る経路が、今のところは断絶してしまっておる。これが非常に残念だと思うんです。

それから、「安楽死の問題」というのは、一般的に、「尊厳死」と「安楽死」とを、取り違えておられる場合が多いんでございます。「安楽死」は、やっぱし私は非常に具合悪いと思うんです。といいますのは、「安楽死」というのは、医者が何らかの人為的方法で、いわゆる「その死」を早めるわけですから……。一方「尊厳死」というのは、私が申しましたように、「(延命措置としての)アミノ酸の輸血みたいなもんやらんといてくれ」というのはですね、もう、どっちみち元に戻らんもんであれば、人間は、物が食べられんようになって、だんだんと脱水症状になっていくとですな、わりと「楽に死ねる」んですわ。それを「もういらん」と言うとるところに、どんどん水分を入れるから、いわゆる「苦しみ」が増えるだけであって、ですから、私なんか医学関係の人間じゃないですけれども、そういうところに近い人間(医者)なんかは、「(自分の時は)もう手厚いことはせんといてくれ」と言うのがよくある笑い話でございます。ですから、いわゆる「尊厳死」というのは、「自分が生きるに値せんような生き方はしたくない」と……。だから、「無駄な治療はしてくれるな」というのが「尊厳死 」であって、これは私自身もですね、尊厳を持って死にたいと思っております。以外と、「自然に死ぬ」とわりあいと楽なんですわ……。それを無理(末期的医療行為)するからだんだんと苦しくなるんですな。私は「尊厳死」というのは、その人の人生観によって「徹底的に最後のチャンスをまだ待つんだ」というのも、それも本人の生き方だろうと思います。

片 岡: ちょっとその心境をお聞きしたいのですが……。先生の唯物論的な考え方が何のはずみで、宗教的見方に変わったかという心境をお聞かせ願いたいのですが……。泉 私は今、なぜ科学と仏教は接点があるかというと、「無常」とか「諸法無我」とかこういうようなことは、ある意味においては、非常に唯物論的なものの見方なんですな……。「諸行無常」というのは、科学自身が、日々証明しておることなんです。これを、科学はぜんぜん否定するどころか、すべて肯定しています。また、「唯識」の説いておりますように、「われわれの一人ひとりが違う世界を見ておるんだ」と、これも科学的に正しいことです。 

ですから、ただそれが科学の場合、それで止まるわけなんですね。少なくとも私が今、やかましく機会あるごとに言うておることは、教育の中において、それを実存的レベルにまで戻して教えてないところに問題があるんです。例えば、「われわれが新陳代謝を繰り返しておるんだ」ということを教え、あるいは「遺伝子の問題」でも、教えっぱなしであったら、今の教育は、文部省でも「いのちの尊さを教えないかん」と言いながら、「いったいなんでいのちが尊いねん?」と子供に問われた時に、答えようがない訳です……。 

それはなぜかというと、やはり少なくとも教育の中においては、実存まで戻しておかなあかんと思うんです。「遺伝子とはかくなるもんや」と教えたら、その足で「おまえ自身のいのちは、そういう上において成り立っているんだ」と、いうふうに教えることがいるんです。あるいは「諸行無常」やということを教える時も、「おまえ自身もそうなんだ」というところまで教育しておくと、これが本来の教養教育だと思うんです。それが欠けておるんですわ。 

そこで、逆に宗教というのは、今度はそれを主体的に把まえるもんであって、宗教というものは、例えば仏教ですと、自分の心の汚さ、煩悩の固まりのドロドロの人間だということを自覚することにおいて、それが初めて、原理や道徳として機能してくると思うんです。そんなもん、宗教の裏付けも何もなしに、「人のいのちは大切や」と、言うときながら、片一方では、子供にフライドチキンをポッポポッポ食べさせて、放ったらかしにしている親や学校が、子供に「いのちが大切や」と言うたかて、「鶏のいのちはどうでもようて」ですね、「友達のいのちだけは大事にせい」とそんなこと言うて、だれが納得するもんですか…。 

私はやっぱり、戦後教育に欠けておるのは、「教養教育」の定義がされなかったことにあると思うんです。「教養教育」というのは、大学において「知識の幅を広げる」といいながら、今の教育審議会の議論を聞いておりましても、なんか、わざわざ宗教的な発言を避けて通るかのごとくされておるというところに、いかにも空虚な口先だけの議論であって、あんなことなんぼやったかって、なんにもならんと思うんです。それと同時に、私は、宗教家の皆さんにも言いたいんですが、そんな難しいこと言わなくても、「誰でも毎朝、起きたら一度仏壇に手を合わせて、寝しなにもう一度手を合わして、とにかくそれだけ実行してみなはれ」と、何も難しいこと言わなくていいからと、「とにかくそれだけでも実行してみい」と、それぐらいの運動でもやられたらどうかと思うんですが……。どっちもないんですわ。そんなもんね、みんな無責任なもんですわ……。「祈りの大切さ」やなんやいうて理屈ばっかり言っておると私は思います。ですから、少なくとも私は仏教と科学は立派な接点を持っていると確信しております。

司 会:ありがとうございました。それから、本日は曹洞宗のお偉い先生方お二人が越しになられておられますが、何かございませんでしょうか? だいぶ仏教の方が分がいいように誉めていただいたと思うんですが……。キリスト教の先生に聞いたらお叱りを受けそうなので、仏教側の先生、ご質問ないでしょうか?

桑 原:太平寺住職の桑原亮三でございます。私、大正十四年の生まれでして、太平戦争に引っ張られたもんで、その当時、海軍におりましたが、あそこの教育というのは、徹底した自然科学の教育です。だから、今の天気予報のようなこともやらされましたけれども、あの頃は自然の中に「いのちの息吹」などは一切感じないで、すべてを物象化してこれを把えて、それから後、艦船や航空機を扱いました。乗ってる人間は主体的な人間であるけれども、扱う物質が、これはもう徹底した機械的、物理的なものです。だから、そういうことで頭が固まってしまいまして、若い時はそうでした。 

そして、私、家が寺でしたから、曹洞宗の永平寺僧堂で一年ほどしっかりたたき込まれて、その後で駒沢大学を出て仏教学を教えてもらい、それで物足りないので、京都大学に新制の大学院ができた年に、願書を出して入れていただきまして、西谷啓治先生のもとで、十年ほどお世話になり、ここで教わりましたのは、主体性の哲学です。だから、宗教的なことを突き詰めていけば、全部主体的なことが根元にあって、―非常に言葉足りませんので誤解を招きますが―そういう世界が宗教の世界であると……。

一方、物質的な世界と宗教の世界とは、お医者さんがおっしゃる「臓器を提供する」という立場と、「いのちを大事にしなければならない」という立場とのことですが、さっきお茶を飲んでおる時に泉先生に申し上げたのですが、何か五十年ぐらい前から自然科学と宗教との交点は、そのまま平行線をたどって、一番肝心なところ(真理)のまわりを、ぐるぐる回っているような気がします。そんなことが、ちらっと浮かんだんです。

今、お話を伺いましたように「死」は、「生物から無生物あるいは物質への移行」のことですが、これが瞬間であるとか―瞬間とは時間の幅のないことを瞬間といいますけれどもね―その間に、主体的な人間として何か感じるのか? それとも感じないのか? というところについて、泉先生のお話を承りながら、その死の「刹那」ですから、いわゆる時間としての点ですから、経過はありませんよね、その瞬間に主体として生きている人間は何か感ずるのか、感じないのか? そんなことお伺いしてたのですが……。

泉: 私は「刹那消滅」というのが一番正しい考え方ではないかと思うんです。私は、よく言うんですが、「刹那消滅」と「無常」という考え方とは、点と線というような関係、いわゆる「時間軸」の中においてものを考えますと「無常」になりますし、主体的に考えたら「刹那消滅」であろうかと思っています。ということは、「点と線」の関係は、「線」の切断面=「点」は面積も幅もないもんです。しかしながら、「点」は「線」の要素であることは紛れもない事実であります。「点と線の関係」を数学的に言いますと、「点は線の切断である」というんです。一本の棒があって、折れば、折ったところ(時点)が確実にあるんですが、折った棒と棒の間には何もないわけなんです。

これが、「点と線の関係」であって、これがわれわれの「いのち」の無常なる今の瞬間と、それから、無常という時の流れの中における存在との関係であろうかと思います……。本来、科学的に考えますと、やっぱり「刹那消滅」という、「今がすべて」という道元のものの考え方に私すごく惹ひかれるように思うんです。すべての過去の因縁は、現在に凝縮されているのであって、未来の決定は、すべてが「今」にかかっているということ。そして、確実にあるのは、「今」以外なんにも保障がないということ。これは、ちょうど量子論の「不確定性原理」などがそれに近いところを言うておるわけでございまして、いわゆるひとつのファクター(要素)、例えば時間を正確に読もうとすれば位置が読めない、位置を正確に読もうとすれば時間が特定できなくなると……。これは、まさにそれと同じことを言っていると思うんです。物理学をやっておられる方は、非常に仏教哲学に興味を持たれている方が多いということも事実です。

司 会: ありがとうございます。あと五分程ございますけれどもどなたかご質問ございませんか?

桑 原:清風高校の桑原昭吉です。若輩者で何も分かってないのですが、私自身、人が、何のために生きているか判りません。何のために生きてるんだろうと思います。そんなことから、この世の中には動物もあれば植物もあれば鉱物もあります。そういう中で、皆「いのち」という名があると私はそう思っております。そういう中で、「ひとつの(根源的な)いのち」に大統一されているのではないかと思います。すべての、宇宙そのものも地球も太陽も月も何か大きな意志を持っておるんではないだろうかと……。そういうふうに私は信じております。 

そういう中で、人間が肉体を持つ意味というのはどこにあるのか?そいうところを泉先生のご見解でお聞かせいただけたらありがたいなと思います。そういう意味で、私なりに、人間が人間として生まれる意味は、肉体を持っている意義はここにあるんだと……。だからこうして、こういう会にも出て、一生懸命自分の中のいのちを燃やすというか、探しているわけでございますが、そういったところから、肉体を持つ意味はどこにあるのか? というところを先生の見解をお聞きしたいなと思っております。

泉: こういう私自身宗教家でありませんので、適切なお答えができないと思うんですけれども、いわゆる「自分の存在が意義があるかどうか?」それは、自分自身が考えるべきことであろうと思います。それは、他の生物もおそらく同じものを持っておると思うんですよ。私の非常に親しい友人なんですが、「細胞融合」を見つけ岡田吉雄という先生がおりますが、あの方がよく言いますが、「生き物は一生懸命に生きておるんや。ひしひしと判る」と……。これは、生物を扱っておる、まるごと扱ている人ほど、そういうことを言います。人間だけが一生懸命になって生きておるわけではなくて、生き物も一生懸命になって生きておるんだということを、ひしひしと感じると……。 ですから、そういう点において、人間だけが特別であるとは言えんと思います。人間が特別な存在であるというのは、いわゆる「大きい大脳新皮質」を持っておりまして、「言葉」を持っておるがために、われわれには時間の観念があるということ。そこに、われわれの生きる意味とか、問題とかが出てくるのであって、もしやわれわれに時間感覚がなかった場合、その時その時をただひたすらに一生懸命になって生 きるということ以外はないと思うのです。

ということになりますと、「どうあるべきか?」と考えること自身も、煩悩のひとつではないかと思うのです。われわれは時間観念があるから、煩悩が発生し、うまいもん食べたら、「これを明日も食べたい」という欲望も発生する訳です。欲望といのは、時間感覚があって初めて欲望が出るわけです。私は、人間だけに「苦悩」があって、他の生き物にはおそらく「痛み」しかないのであろうと思うんです。犬が「この傷、明日、膿むやろうか?」と心配しとる顔を見たことないですわ。人間だけが「私は死ぬんではなかろうか?」と、ささやかな傷であっても、「これは化膿するのではないであろうか?」と思い悩む訳です。というのは、われわれは時間観念を持っておるからではないかと思うんです。そして、それ故にわれわれは、一生懸命になって生きるというところに、意味があるのではないかと思うし、それが、すべてではないかと、思うんです。

司 会: ありがとうございました。ちょうどお時間となりました。

今日は、泉先生に「いのち」の全体性ということにつきまして、その「生」と「死」とわれわれが単純に考えているものを分けるんじゃなくて、「生」と「死」と両方含んでおるのが、大きな意味での「いのち」であり、個体の部分においても、細胞レベルにおいても、あるいは種という大きなレベルになりますと、「個というものの死」が前提となって「種というものの生」が全うされておるわけでございますから、そういう広い意味の「いのちの全体性」ということを教えていただきまして、仏教で言いますところの、「生老病死」を越えたような境地というものを教えていただいたような気がいたします。 ありがとうございました。(おわり)