国際宗教同志会 平成20年度第2回例会 記念講演
『G8宗教指導者サミットで取り組むべき課題』       

UNITAR(国連訓練調査研究所)特別上席顧問
                 天理大学おやさと研究所所長 井上昭夫

6月13日、神徳館において国際宗教同志会(左藤恵会長)の平成二十年度第2回例会が、神仏基新宗教各宗派教団から五十数名が参加して開催された。記念講演では、UNITAR(国連訓練調査研究所)特別上席顧問の井上昭夫天理大学おやさと研究所所長から、『G8宗教指導者サミットで取り組むべき課題』と題する講演を頂いた。本サイトでは、数回に分けて紹介する。



井上昭夫教授

▼三宅歳雄先生とのご縁

ただ今、ご紹介いただきました井上でございます。これから1時間ほど、与えられたテーマについてお話しさせていただきます。先ほど左藤会長先生から、郵政大臣当時、アフリカで電気通信施設の支援をされたことを教えていただきましたが、今では、遊牧民族も携帯電話を使う時代であります。山賊やブッシュマンたちが、牛や羊の値段の取引を携帯電話でするようなご時世です。最新の科学技術がアフリカ奥地まで浸透しておりますが、これは時代が激変していることの証(あかし)でもあります。

その事実を一番身近に感じておられる方は、日本においてはアフリカ学会のフィールドワークをやっておられる先生方であります。5月24日、25日の2日間にわたり、龍谷大学で年次総会がございましたが、アフリカ学会は、おそらく宗教学会に次いで会員数(850名)が多い学会ではなかろうかと思います。そういう方々の研究について、話の途中で触れるかもしれません。

われわれが従来イメージする暗黒時代あるいは植民地時代のアフリカと、現在はガラッと様相が異なるところが出てきたということは、逆に言えば、貧富の格差が拡がってきたということです。経済成長率にしても、ここ数年で30パーセント近く上がっている国もありますが、成長率が上がれば上がるほど、貧富の格差も拡大してゆきます。これは官僚政治による支配の問題だと思いますが、本日はそのことに直接触れる時間はないと思いますので、そういった現状があるということだけを押さえていただいて、話をお聞きいただけたらと思います。

こちらのお教会の初代である三宅歳雄先生は1903年(明治三十六年)のお生まれですから、今年で生誕105年目に当たりますね。思い出しますと、1976年―ちょうど私が40歳の頃ですが―当時、私はシンガポールで天理教の布教活動をやっておりましたが、日本人布教師は、私だけだったと思います。そして、シンガポールにある国際宗教連盟という団体の理事をやっておりました。

1976年といいますと、ここにおられる先生方で参加された方もおられるかと思いますが、「第1回アジア宗教者平和会議(ACRP)」がシンガポールで開催されました。それより以前の1970年に京都で行われた「第1回世界宗教者平和会議(WCRP)」の際にも、当時三十代の私は、二十数名の天理の留学経験者を連れて、お手伝いに伺ったことを覚えておりますが、その時は三宅歳雄先生と直接お話しした記憶がないのです。ですから、私が初めてシンガポールで三宅歳雄先生にお目にかかった時、歳雄先生は73歳だったことになりますが、現在私が数えで72歳。「お会いした頃とちょうど同じ年回りになるな」と、年月が経つ早さに驚いている次第であります。

その時の歳雄先生の印象はどうだったかと言いますと、老子の言う「光而不輝(光りて輝かず)」という言葉がぴったりでした。息子のような年齢の私に対する先生の謙虚な姿勢や、シンガポールの布教状況について真剣に尋ねられる言葉遣いや振る舞いの数々は、今でも昨日の出来事のように、わが脳裏に焼き付いております。私が「先生、毎日カレーばかり(註:シンガポールはインド系の人口も多く、宗教上の理由で牛や豚を食べられない参加者に配慮して、インド風味付けのベジタリアン料理がよく供せられた)では大変でしょうから、日本食にでもお誘いいたしましょうか?」と申しますと、「先生―三宅先生は若い私に「先生」と呼びかけられて―それより、シンガポールの話をちょっと聞かせていただきたい」と言われました。また、会議の最中でもロビーへ中座して出てこられ「シンガポールの宗教の状況を知りたい」と、いろいろと布教の現場の状況をお聞きになる。もしかして、日本を発たれる前にシンガポールにおける私の活動を調査されて「よし、コイツに現地の様子を聞いてみよう」とお考えになったのだろうかと思うほど、熱心にお尋ねになりました。


▼アフガンゲリラとも友だちになった

私の難民支援活動に関しては、先ほどの紹介にもありましたように、1979年の12月25日の夜にアフガニスタンにソ連軍が侵攻した当時、ちょうど天理にある「憩(いこい)の家」(註:正式名称「天理よろづ相談所病院」という近畿地方ではトップクラスの医療水準を持つ総合病院)という病院の胸部外科に、京大医学部出身のアフガニスタン人の医師がおりました。彼が「寒い冬に(アフガンの人々が)塹壕(ざんごう)で元気に過ごすことができるか心配だ」そして「毛布一枚でも送ってやりたい」と心配しているのを聞いた上司―私はその胸部外科の上司と親友でした―が、「そういう話ならば井上さんのところへ行け」と言ったのです。

私は、当時アメリカ課の担当をしていたのですが、話を聞いた彼が私のところへやってまいりました。お役所みたいですが、アフガニスタンは中近東ですから「アフリカ課へ行ってください」とも「アジア課へ行ってください」とも言えません。そんな因縁から、『アフガン救済有志会』を立ち上げ、パキスタンのアフガニスタン国境近くの街ペシャワールにあります「アフガンの難民の村」に行くことになりました。


熱の籠もった井上昭夫教授の講演に耳を傾ける
国宗会員各師

その時に初めて出会ったのが、グルブッディーン・ヘクマティクヤールという、ヒズミイスラミというアフガンゲリラ七派のうちの最大派閥のボスであります。後に彼は1990年代、二度にわたってアフガニスタンの首相を務めた男でした。この話をすると長くなりますので、要点だけ申しますと、そこから分派した何人かが現在の親米カルザイ政権のアドバイザーや大臣になったことが判りました。数年前、天理の私の自宅に二十数年ぶりに電話があり、「お前、一度カブールにやって来ないか?」と誘いがありました。

当時、日本国内では、大阪以西には、国連の施設がありませんでした。私は「広島に国連施設がないのはおかしい。広島は大阪より知られている―アフリカでは、子供でも広島が何処にあるか知っているけれども、東京は何処にあるか知らない―。それほど、広島は世界的にシンボリックな意味を持っています。そこで、ジュネーブと広島とニューヨークを往復し、3年がかりでようやく広島にUNITAR(国連訓練調査研究所)を誘致したのですが、そういった経緯から私はそこの顧問に就任しております。

昨日、数年ぶりに広島へ参りました。と申しますのは、ちょうど今日のテーマに関わります『TICAD(第4回アフリカ開発会議)からG8サミット洞爺湖に向けて』という話を、JICA(国際協力機構)の副理事長である大島賢三さんがお話しになる。そして「ラウンドテーブルディスカッション(円卓会議)をするから是非来てくれ」ということでしたので、現地へ赴き、昨日の最終便でこちらへ帰って参りました。その印象も後ほど述べさせていただきます。

アフガニスタンの後、私は8年間、インドにおける貧困緩和支援活動の一環として、土嚢(どのう)でドームシェルターを造る仕事をしていました。その理由はまた後ほどお話ししますが、現在、世界各地で既にこのシェルターを二十数棟造り、今度はアフリカで造ろうと思っている訳です。私は、シンガポール布教に取り組む以前は、天理大学で非常勤講師をしておりましたが、学生が立ち上げたベトナム難民支援の活動もしました。当時、南ベトナムにありました古都ユエ市の大学と天理大学とで姉妹校の提携を結ぼうという話が持ち上がっていたのですが、先方から「北からベトコン(註:南ベトナムの「解放」による南北ベトナムの統一を目的とした北ベトナム軍の影響下にあった南ベトナムの反米共産主義ゲリラ勢力「南ベトナム民族解放戦線」の通称。支配下においた村々で、自分たちの命に従わない住民を多数虐殺した)が攻めてくるため、この話は実現できなくなった」と連絡があり、実現しませんでした。

このベトナム難民支援の際、私の教え子が2人現地に向かったのですが、日本人だったそのうちの一人は、サイゴン陥落の際に無理やり脱出させられました。私はこの教え子に「私が支援する限りは永住せよ!」と怒ったのですが…。その後の話として、ベトナム難民が「ボートピープル」として多数、日本にも漂着しましたが、ボートピープルの難民の中には、必ず北ベトナムのスパイが混じっているのですが、このスパイを発見しようと思うと、ベトナムの方言を理解する者でないと難しい。そういった経緯から、彼は間接的に外務省、運輸省から頼まれて「ボートピープルの中にスパイがいるのかどうか調べる」という、アフターケアまで取り組んでいたこともありました。

アフガニスタンの話になりますと、もう少し血生臭い話になるのですが、これは今日のテーマではありませんので詳しくお話ししませんが、私は、世界遺産のバーミヤン石仏が2001年3月、まさに爆破される瞬間を彼ら自身が撮影したものを、タリバーンの外務官から直接、カブールで貰いました。バーミヤンの石仏と言いますと、仏教徒にしてみれば、この石仏は(崇拝の対象である)「大仏様」ですから、非常に象徴的な存在であります。それが如何なる理由で爆破され、どういう戦略をとることになったのか? 当時のタリバーン政権の指導者であったムハンマド・オマルと、オサマ・ビン=ラディンの話はどうなっていたのか? 私がDVDを貰った元外務官の彼は、タリバーン政権から離れ、今、カブールの最高裁判所の判事をやっておりますが、私は彼からアルカイダのプロモーションビデオを入手し、国内では毎日放送から「貸して欲しい」という申し出があり、テレビで放映したことがあります。


▼人を助けて、わが身助かる

どうやら私の魂は血生臭い所へ行くと興奮するようです。そのような状況下で行われる支援とは、いったい何なのか?結論から申し上げますと「こちらが助けているつもりで、こちらが助けられている」ということが、しばしば起こります。これを天理教では「人を助けて、わが身助かる」と教えていただきましたが、この「自分が助かりたい」と思っている間は、人は永遠に助からない。「人を助けて初めて助かるのだ」という教えを、私は難民支援に関わって解ったという、情けない宗教者であります。

私はちょうど36歳の時に、天理教の原典である教祖中山みき様がお書きになられた、1,717の『おふでさき』を英語に訳して解説を付けたものを出版しました(註:『英文おふでさきの研究(上)おふでさき試訳』、『英文おふでさきの研究(下)訳註・用語索引編』共に天理教教義翻訳研究会発行。1971年刊)。その後「これで一応区切りがついた」と自ら願い出まして、シンガポールの布教を行った訳であります。

まず最初に私がシンガポールでやったことは「歩く」ことです。私は布教所から約7時間ほど離れている日本人墓地―おそらく先生方も行かれたことがあるかと思います―へ出向いて草取りをやりました。数えてみたところ、当時、お墓は八百数十基ほどありましたが、そのほとんどが、からゆきさん(註:明治期に、中国や東南アジアに娼婦として渡った女性のこと)や水子のお墓でした。

シンガポール政府は無縁墓地を取り壊して、そこに住宅を建てる―シンガポールは淡路島より少し大きいくらいの小さな国ですから、とにかく土地がない―政策を立てました。日本人墓地は、46番目の候補地に挙がっていたのですが、福田さんという明治時代に移住された呉服屋さん(の子孫)と2人で頑張ってシンガポール政府に陳情し「日本人会でここに管理人を置くから、是非そのままにしておいて欲しい」と、その計画をご破算にしていただいたこともあります。

こうして、私のシンガポール布教は、日本人墓地の掃除から始まりましたが、その後は、文化・音楽・スポーツ伝道を企画して、シンガポールに天理文化センターを設立しましたが、現在は1,000名を超える規模の文化センターが2つできております。こういった活動は布教そのものではなく、言ってみれば布教の手段としての文化交流ですが、このような活動をさせていただいたこともありました。私のこういった活動の動機と解説は、最近のアフリカでの活動も含めまして、昨年出版した『中山みき「元の理」を読み解く』と『天理教の世界化と地域化』という、海外布教伝道を異文化伝道と捉え、学術的、また実際にその活動家が出てきたひとつのプリンシプル(原理)でありますので、これをお読みいただければと思います。これらの著書は、国際宗教同志会様の資料室にもご寄贈させていただきますので、置いていただければ非常に光栄に思います。


▼失敗続きのアフリカ支援

それでは、これから本題に入らせていただきます。私は宗教間対話に対しては非常に懐疑的な論文も書いておりますので、もし三宅歳雄先生との魂のご因縁で、シンガポールでお会いすることがなければ、今日ここには立っていなかったと思います。しかし、若い時分に接した折の歳雄先生の謙虚な言葉遣いや立ち居振る舞いに感動したご縁で、ここに立っていると思います。非常に未熟な者でありますから、偉そうな言葉も出るかもしれませんが、それは三宅先生にも半分責任があるとご理解いただいて、お許しいただければと思います。


アフリカについて熱弁する井上昭夫教授

本日の講題は『G8宗教指導者サミットで取り組むべき課題』でありますが、このことにつきましては、新聞あるいはテレビを通して、ご存知の方も多いと思います。

まず、今朝の新聞までに掲載されたことを、時系列で4項目に分けて概説させていただきたいと思います。TICAD(Tokyo International Conference for African Development アフリカ開発のための東京国際会議)の“T”は東京を指すのですが、今回の開催地は東京ではなく、横浜であるにも関わらず「TICAD」と呼びます。以前、ある外務官僚が「TICADの“T”は外すべきじゃないか?」と漏らしたところ、「TICADという言葉を市民に広報して知らしめたのは私たちなのに!」と、学者を中心とした市民グループ「TICAD市民社会フォーラム」からずいぶん反対があったそうです。そのため「いや、“T”を外すというのは口が滑っただけだ。これからもずっとTICADでいく」とその役人が訂正したそうです。ですから、最近の新聞を見ていますと、「東京」という固有名詞を取って「アフリカ開発会議」と書かれています。

次回、5年後に開かれるTICADXが、東京で開催されるかどうかは判りませんが、下手に都会で開催するとテロの危険が伴いますから、おそらく田舎で開催するんじゃないでしょうか? 東京で始まったTICADは、現在アフリカには独立国が53カ国ありますので、先ほど三宅善信先生がおっしゃったように、日本が「安保理常任理事国になるための票が欲しい」というのが、日本政府がこの会議を設立したひとつの目的としてあったと思います。今から15年前の冷戦終結直後、世界がまだアフリカに注目していなかった時に、「日本がアフリカに注目してくれた」というメリットがあったことと関係していますが、実際には、なかなか開発支援の実績が見えてこない…。

2005年の『パリ宣言』で、EUを中心とした支援先進国が「過去半世紀のアフリカ支援は完全に失敗であった」という自己批判をやっております。「これからどうしたら良いのか?」という議事項目で議論した報告書が出ておりますが、それを元に今度は、日本のNGOと外務官僚が「日本政府はどうするのか?」という会議を行うことになりました。つい先日、第1回目の会議が、外務省の7階で開催されました。私もこの会議に出させていただいたのですが、議論は平行線を辿(たど)って、具体化してこない。これは無理もないことなんですが、学者などは「外務省のお役人は、アフリカについて無知である。アフリカの歴史をまったく理解していない」といったことをしょっちゅう言っております。もっとも、お役人の方々は、実情が判ってきた頃には、また転勤してしまうでしょうが…。


▼相反する運命を担った大陸

アフリカ大陸は、北と南とでは同じ「アフリカ」と呼ばれていても、気候風土や歴史的背景が全く異なるため、十把一絡げに語ることは不可能であります。大江健三郎はその著作の中で、アフリカ大陸の地図を「うつむいた男の頭蓋骨の形に似ている」と言っていました―彼は息子が知的障害を持って生まれてきたことから、人間の脳についていろいろ考えを巡らせている機会が多いことと関連しているのかもしれません―が、私には「葡萄の房」に見えてくるんです。ですから、アフリカ大陸は「頭蓋骨としての象徴的な意味」と「葡萄の房のようにたくさんの粒が集まって丸みを帯びた一房となり、人類が共存している様」の両義性を持っていると言えます。ですから、私は大江氏の著書を読んだ時に、「アフリカとは、2つの相反する性格的な運命を持った大陸だ」と感じました。

後でご紹介しますが、東アフリカ5カ国がTICADWに提出したプロジェクト提案(プロポーザル)ですが、これは政府間のプロポーザルではありませんから、会議では議論されませんでした。東アフリカには、ビクトリア湖という琵琶湖が100ほども入りそうな大きな湖がありますが、この周辺に3,500万人もの貧民がへばりつくように暮らしております。その周囲に立派な道路があるんですが、貧民は自動車を持っていませんから、彼らがその道路を使うことはありません。私はそこに、搾取の循環の輪を見たような気がしました。

私は「是非、そのビクトリア湖畔に、エコロジーを取り込んだ、現地の状況に沿うような技術を持って行って、エコビレッジを造りたい」というプロポーザルをウガンダ大使にしてきました。彼は今、東アフリカ5カ国(ウガンダ、ケニア、タンザニア、ルワンダ、ブルンジで構成するEAC東アフリカ共同体)の委員長をやっているため、彼を通じて5カ国の駐日大使と十数回議論を重ねまして、プロポーザルの原文に至った次第であります。その経緯につきましては、皆さまのお手元に配布しました『ビリグワ』(ビリグワ大使による「TICADWにおけるプロジェクト提案」)という冊子の中で詳しく説明がされています。これは、彼(ビリグワ大使)が考えていたこと―例えば、もしヨーロッパがアフリカを植民地化しなかったならば、われわれはどのような現状にあっただろうか? どのような文化を築き、どのような暮らしを営んでいたのだろうか?―と、私の考えていたことが一致しましたので、「ひとつ一緒に仕事をやろうじゃないか」という、合意に至った訳であります。

横浜市では、去年から「横浜から洞爺湖、そして世界へ」と、『元気なアフリカを目指して―希望と機会の大陸』というタイトルでパンフレットを出していますが、少し読ませていただきます。「TICADWは、2008年5月に横浜で開催されます。経済成長や民主化の進展等、近年のアフリカの明るい兆しを後押しするために、元気なアフリカを目指して、このメッセージを掲げ、国際社会の叡智を結集していくことを目指します…」これに対し、私は『元気なアフリカと苦悩するアフリカ』というテーマで文章を書かせていただきましたが、こちらは後ほどお読みいただけたらと思います。「…TICADWの後、7月にはG8主要国首脳会議が、北海道洞爺湖で開催される予定であり、日本はTICADWの成果をG8北海道洞爺湖サミットの議論に反映させ、G8サミットの議長国としてアフリカ支援の取り組みをリードしていく。そして、アフリカ開発の重要性が全世界で共有され、アフリカの人々の生活が向上することを希望いたしております」これが横浜市からの宣言文であります。


▼TICAD3つの重点分野

TICADWには、3つの重点分野があると書かれていますが、ひとつは「成長の加速化」です。詳しくは説明いたしませんが、これは緑と成長の大陸に、貧困を無くしながら支援を続け、実現を目指し、経済社会基盤、インフラの整備、貿易投資の強化、農業農村開発を指します。

2つめは「人間の安全保障の確立」です。人間の安全保障とは、人間の生存と尊厳への脅威から人々を守ると同時に、そのような脅威に人々が自ら対処することができるように、個人やコミュニティの能力を高めることが重要であるという考え方であります。『ミレニアム開発目標(MDGs)』(註:2000年9月に世界189カ国の首脳が集ってニューヨークで開催された「国連ミレニアムサミット」で採択された『国連ミレニアム宣言』と1990年代に開催された主要な国際会議で採択された国際開発目標を統合したもの)の達成には8つの項目があります。第1に「極度の貧困と飢餓の撲滅」、2番目に「初等教育の完全普及の達成」、3番目に「ジェンダーの平等と女性の地位向上」、4番目に「幼児死亡率の削減」、5番目に「妊産婦の健康改善」、6番目に「HIV/エイズ、マラリア、その他の疾病の蔓延防止」、7番目に「環境の持続可能性確保」、8番目に「開発のためのグローバル・パートナーシップの推進」これらを2015年までに達成するために、必要な支援を行う。加えて「平和の定着と民主化、経済発展の基礎の定着や良い統治(good governance)のための支援を強化していく」等が挙げられます。各国からアフリカに支援された予算が、平等に草の根レベルにまで届けられるところまで含めて、“good governance”と言っている訳であります。



G8宗教指導者サミットに向けて
アフリカの実情を学ぶ宗教指導者たち

続けて、3つめに「環境・気候変動問題への対処」とありますが、アフリカは気候変動の影響を最も受けやすい地域のひとつです。アフリカの気候変動に対処するための取り組みを支援し、環境保全と経済発展を両立させることが重要である。そのサブ・テーマとして、「緩和」すなわち、クリーン・エネルギーの利用促進、森林の保全等を推進してく。2番目に「適応」すなわち、干魃(かんばつ)、洪水等の自然災害、気温変動に適応するための支援を行う。3番目に「水」すなわち、効率的な水質、支援管理の給水、衛生施設の整備を推進する。といった、途上国で生活している人にとっては、言われるまでもなく判りきったようなことが重点項目として挙げられていますが、果たして、これがどのように具体的な政策として、日本政府は洞爺湖サミットへ繋げていくのか、私は大いに疑問を持っているところであります。


▼タリバーンは日本を狙っている

先ほど挙げた「人間の安全保障の確立」の項目の中に「テロ」が欠けていましたが、このテロについて、私がタリバーンの元外交官から直接手に入れました、いわゆるプロモーションのビデオ(DVD)ですが、2001年3月に起こったバーミヤンの大仏が爆破される映像を2分だけご覧いただきます。映像の後ろで流れているアラビア語の意味は、「われわれが見ているこのカセットは、現在起きているできごとである。それは、涙と血でもって現実の苦しみを語り、病気を診断し、薬を処方するものである。それは未来の吉報や希望の約束を設けているからであり、常勝し約束されたイスラーム共同体の世代を前にし、栄光と行動を刺激するためである。首に忠誠の誓いが無く死んだ者は誰でも、(イスラム教以前の無明時代の)ジャヒーリア的死を迎える」この映像の前に、ムハンマド・ナジーブッラー(註:ゴルバチョフ政権によって、アフガニスタンからソ連軍が撤退する過程で成立したアフガニスタンの共産党政権の首班。1991年12月のソ連邦崩壊の後、ムジャヒディン各派の攻撃で崩壊した)が虐殺された映像があるのですが、それは省略します。

ご注目いただきたいのは、このバーミヤン大仏が爆破された映像の後に、なぜだか日本のお寺が映っているところです。映像はそこで突然終わりますが、これが何処のお寺か調べてみたところ、浅草の浅草寺でした。全体で約58分のプロモーションビデオです。これが何を意味するか? と申しますと、私は「シルクロードの出発点であるアフガンに、下手に日本が関与すると奈良の大仏さんが次のテロの攻撃対象として狙われるんじゃないか?」と思い、天理警察署の刑事に「あんたたち、うかうか交通違反者ばかり捕らえて手柄を立てているようでは、いずれ大変なことになるぞ。アフガニスタンのバーミヤンという所は、シルクロードの出発ポイントだが、奈良は終着点なのだから、『ひょっとすると?』ということもあり得る。だからもっと世界に目を開かないとあかんぞ!」と言いましたら、2週間後に「テロ警戒中」という看板が、奈良から桜井まで道路に出ておりました。

今はまだ笑い話で済んでいますが、この浅草寺の裏手には大きなガスタンクがあります。タリバーンは新幹線の時刻表も持っていますから、その辺までちゃんと計算しているのかもしれません。

先ほどお話ししましたように、遊牧民族も携帯電話を使う時代ですから、われわれが知っているような情報は、タリバーンたちもすべて入手しています。現在、自衛隊がアフガンに派遣される話が出ているようですが、私は非常な懸念を持っておりますが、これは本日の主題ではありませんので、次に行きます。


▼経済成長の悪影響

横浜でTICADWが開催された後、「TICAD・NGOネットワーク」という、市民社会フォーラムがあったのですが、そこがプレスリリースを出しまして、TICAD閣僚準備会議における成果『横浜宣言』と行動計画案に対し、アフリカのNGOと一緒になって、これを大きく批判しました。「横浜宣言は、私たちの希望を完全に打ち砕いてしまった。最も甚大なのは、『経済成長の悪影響』の部分が、『状況分析』の部分から削除されたことである。また、『持続可能な経済成長は、確固たる社会基盤を元にしか実現されない』という理解が見受けられないことは大きな問題である。経済成長の促進、ミレニアム開発目標(MDGs)達成のサポートを統合する理解そのものが、TICADのアプローチから完全に抜け落ちている」この発言は、主にアフリカを研究している学者によるものであります。学会では政治的な発言はできないため、学者がNGOを作り、そこで政治的な発言をする訳です。

これまでひと月に一度の割合で、外務省との対話を進めてきましたが、TICADWに公式に参加できる日本のNGO代表は、当初12名が約束されていたにもかかわらず、実際に会議が始まると、2名しか中に入れてもらえませんでした。アフリカからも十数団体の代表的なNGOを呼びましたが、こちらは当初「一人も入れない」と言われました。しかし、だんだんと開催日が迫ってくるにつれ、世論の批判が強くなってきたので、最終的には数名の参加が許可されましたが…。

この学者と民間の草の根レベルを代表する人々から「草の根レベルで活動しているNGOの意見や、二十年来毎年現地へ足を運び、アフリカを研究している文化人類学的な視点などが、TICADの政治決断から抜けている」といった意見が出ていました。そういう対話を『求めてやらないと駄目ではないか?』ということを彼らは言っていますが、その一方で、『誰が、いつまでに、何をする』といった、具体的なロードマップが明確化されておらず、行動計画案に含まれていない。もしそれが含まれ、その前提として上記の機関を受け入れてくれるならば、同意する」というようなことを言っていました。これが今年(2008年)3月21日のプレスリリースであります。


▼地球温暖化と食糧不足

いろんなことが次々と起こっています。まず、石油価格の高騰、そして飢餓も増えつつあります。いわゆる途上国の飢餓問題は、ただ単に「円が上がった、下がった」というレベルの話ではなく、政府の転覆に繋がるような力を持っています。それから地震、水害、紛争の問題…。何故、飢餓が増えてきたのか? 昨日、JICAの大島賢三副理事長も話の中で取り上げていましたが、現在、発展途上国も含めてアフリカで、ここ1、2カ月の間に急激に拡大した食糧危機(註:本来、食糧であったトウモロコシやサトウキビなどが、国際投機マネーの流入による原油価格の高騰によってバイオ燃料の原料として転用されたために生じた食糧不足問題)の被害を最も受けている貧困層が、最も重要な議題となりました。

私はUNITARから「円卓会議(ラウンドテーブル)をやるから来て欲しい」と連絡を受けたため、広島まで参りましたが、肝心のラウンドテーブルの時間が10分ほどしかなかった上に、私は一度しか質問ができず、それに対する回答もなかったので、「そのような会議をラウンドテーブルと言うな!」と、後で抗議のメールをUNITARのディレクターに送っておきました。

彼(大島賢三)は、会議の席上で「こんなことを官僚が言ってもよいのか?」とこちらが心配するほど突っ込んだ内容の発言をしたので、私は一宗教家として驚かされましたが、それを少し紹介させていただきます。サブプライム・ローン問題対策としての金利低下の問題と石油価格の上昇が、食糧問題や貧困層に直結する大問題であり、また、今年の5月頃からは、食糧問題の暴動が全世界で急速に増え始めました。人口問題に関しては、数十年後に世界総人口が90億人に至るという人口増加が予想され、特に最も人口の多い中国とインドでは、40パーセントの増加が予想されます。石油生産は既にピークを超え、残るは石炭ですが、これも2015年にピークを超えます。

地球温暖化への対策を講じる時、発展途上国と先進国は、いつも意見が異なりますよね。「お前たち先進国が地球温暖化の原因を作っておきながら、これから化石燃料を大量消費して工業化していこうという途上国に『抑制しろ』」という制限を求めるのはおかしいじゃないか」と…。いつもこの対立からなかなか話が巧く進まない。そこで、CDR(Com-mon but Differentiated Responsibility)という、「共通しているけれど、痛みを分かち合うような、お互いに程度の違う責任を持とうじゃないか」という対策が法制化されなければならない。

しかし、最大のCO2排出国であるアメリカはそのようには動いていないですね。今日の毎日新聞を見ますと、「G8の洞爺湖サミットの議題から温暖化防止問題は外せ」と言われています。毎日新聞の見出しに『世界インフレ懸念拡大、原油・穀物の高騰』、日本においては『畜産・酪農支援最大規模に、補助金中心に限界も』とありますが、これも大変な話であります。

これまで人類は、グローバルな規模で食糧問題に出遭ったことはない。政府・自民党が6月12日に決定した畜産・酪農の緊急対策は、今年度当初の対策と合わせますと、約2,600億円と過去最大級のものです。テレビや新聞で報道されているように、養鶏場は次々倒産いたしております。畜産農業において、30年間にわたってほとんど値上がりしなかった鶏卵の値段は「物価の優等生」といわれてきましたが、それを可能にしてきた大規模養鶏場は、今や飼料の高騰で廃業に追い込まれ、その現状は他の畜産・酪農の議論にも影響しています。これらは、全部、原油・穀物の高騰と関係していており、それが象徴的に現れているのがアフリカです。大島さんは「192カ国の国際会議をまとめるのは、こういう次第でまことに至難の業である」と言われましたが、その至難の業に日本が議長となって、G8北海道洞爺湖サミットで立ち向かう訳です。


▼裾野を蔑ろにしているサミット

日本の大学や世界の大学も黙っておらず、6月29日から7月1日までの3日間、東大を主体として、旧帝大、大きな国公立の大学と、世界の有名な大学が集まり「大学サミット」というのも同時に北海道で開催されます。もちろん、今月末には、大阪と京都で「G8宗教指導者サミット」の開催も予定されていますが、私は「この“サミット”とは、いったいどういう意味なんだろう?」と考えざるを得なくなりました。サミットとは、もともと山の「頂上」という意味ですが、頂上から何が見えるか? というと、裾野や谷底が見える訳です。ところが、山が高ければ高いほど平野や谷底は見えなくなってくる。つまり、グラスルーツ(草の根)レベルの生活状況は、サミットであればあるほど解らなくなるという現実があります。

ですから、私は「サミット」よりむしろ「バレー(谷)」あるいは「The bottom of a gorge」といったように、「谷底」と呼んだほうが良いんじゃないかと思うほどです。頂上(サミット)から世界を見わたすのが先進国であればあるほど、平野は見えない。草の根で取り組んでおられるNGO活動をされている方や、何十年も現地に住み、あるいは通いながら研究を続けている人間の意見がG8サミットに反映されないということは、頂上が地表との縁が切れて、宙に浮いている状態です。「本来は裾野に支えられたサミットであるはずなのに、裾野を蔑(ないがし)ろにしているのは、おかしいんじゃないか」と、最近そのようなことを思うようになりました。

先進国の責任の取り方は、『京都議定書』で謳(うた)われている訳ですが、日本政府は「2009年までに、クール・アース2050年低炭素社会政策をまとめる」と宣言しています。しかし、「2050年は(目標年として)遠すぎるんじゃないか」あるいは「今その政策を謳っている者は、誰一人として目標年には生きてないじゃないか」といった批判もありますが、そういうスタンスで考えていこうという訳で、その政策を「2009年までにまとめていく」と言っていますが、果たして本当にできるのかどうか…? ともかく、口頭での確約はされています。

大島さんは「こういった、今まで人類が直面したことのないような危機が、科学技術の発展を通して急激に増幅している」そして「TICADWが開催される直前のこの数カ月の間に、それが目に見えてきた」ということを言われました。そして、最後には「こういう現象が起こるのは、神様から人類への警告へと捉えられる」こういう言葉を発しました。それまでは、外交官―彼はオーストラリア大使もしていたのですが、現在はJICAの副理事長として、現場を一番良く知っている人です―がよくやる手法で、統計などの数字を見せたりしていたのですが。そういう方がはじめて宗教的な言葉を使われた。

それから、今月号のある雑誌で見たんですが、石破茂防衛大臣が「いくら良い政策を作っても、やる人(執行機関)に気概がないと駄目だ。要は気概(実行力)の問題だ」と言われましたが、これは法律ではどうすることもできないですね。いくら法律を作ったところで、必ず逃げ道はありますし逆に、法律を作らなくとも気概があれば行動できるんです。

曹洞宗の方で読まれた方もおられるかもしれませんが、フィリピンのマニラのスラムでNGO活動をされている女性が、京都へ招かれて講演した折に言われた「私は泥の中から咲く蓮の花ではなく、美しい蓮の花を咲かせるための泥になりたい」という言葉に非常にショックを受け、NGO活動に拍車がかかったという話『泥の菩薩―NGOに生きた仏教者有馬実成』(大菅俊幸著 2006年3月初版発行)という本を先刻読ませていただきました。いくら教えを聞いて分析して知識が増えたとしても、実践しない限りは話にならない…。

▼おかげさま精神で

私はたまたまウガンダの駐日大使と意気投合しまして、アフリカ開発の一環である「貧困緩和の自立支援」プログラムに取り組むことになったのですが、皆さまにお渡しした資料はもともと全部英語で書かれておりますので、本日は日本語に訳したレジュメのタイトルだけを皆様にお配りしています。これを元に説明を20分ほどさせていただきます。

『第4回アフリカ開発会議に提出された東アフリカ共同体(EAC)によるプロジェクトの基本構想』のレジュメをご覧ください。現在、ケニアには「餓えた子にミルクを」という運動の1万坪レベルの大きな本部があるんですが、その隣の国がウガンダであります。2007年から天理大学の卒業生が、ウガンダでミッション(布教)センターを創っておりますが、ウガンダにンクンバという大学がある―アフリカの言語であるスワヒリ語には、日本語にはない「ン」で始まる語彙(ごい)が度々出てきます―んですが、この私立大学の教授を「日本に呼びたいので、スポンサーになってくれないか?」という話と関わりがありまして、その教授といろいろEメールを交わしているうちに、逆に「一度講演しに来てくれないか?」と招聘(しょうへい)がありました。

ンクンバ大学のスローガンが“I owe you(私はあなたに負っている)”なんですが、これは日本語だと何と言うか考えていますと「おかげさま」がピッタリとくる。隣のケニアでは、ノーベル平和賞をもらった環境活動家のワンガリー・マータイさんが「もったいない」という日本語を国際語にしましたが、私はケニアの大統領に「おかげさまのほうが、もっと思想的に深いよ」と教えてあげました。JICAは「もったいない」を“What a waste(なんという浪費)”と英訳していますが、この訳は非常に物質的な気がしますね。ですから、ウガンダでは「おかげさま」という言葉をシンボリックに発信してもらいたいと思い、新聞記者にも吹聴しています。

また、「おかげさま」をテーマにした思想的な歴史、背景を調べてほしいと学者の方にも頼んでいるんですが、なかなか出てこない。これが出てきたら英語に訳してウガンダへ送り、ちゃんと思想的なバックボーンを整えてから日本に向けて逆発信しようと…。それを国際用語にしていこうかと考えています。「おかげさま」の「お」はオノリフィック(敬称)の接頭辞ですし、「さま」も同じくオノリフィックの接尾辞です。この二つの敬称に挟まれてあるのが「かげ(影)」ですが、影は実体がなければ影はない訳ですから、私は「おかげさま」とは素晴らしい言葉だな、と思います。また、他の外国語で調べましても「おかげさま」という概念はあまりないんですね。しかし、これからのアフリカ開発についても、「おかげさま」には「あなたのおかげでお金が儲かったよ」というような軽い意味合いではなく、もっと深い思想的な宗教的な意味があると思うので、私は「おかげさま」が世界共通の挨拶になれば良いなと思っています。

そんなことを考えていた時に、ちょうど2006年にトリノで開かれた冬季オリンピックの時、フィギアスケートで荒川静香選手が優勝したんですね。当時の小泉首相が「荒川さん、ゴールドメダルおめでとう」と伝えたら、彼女が「おかげさまで」と答えたんです。その時、まさに私の考えていることが的確な場面で使われたのですが、「自分の努力はもちろんあったけれど、コーチや皆さんの応援のおかげで金メダルが取れた」という気持ちが、最初に「おかげさまで」という言葉になって出てきたので、素晴らしいことだと思いました。この言葉を日本から発信できるグローバルな言葉にならないものかと思いますが、それには説明が必要です。この点は、ぜひ先生方にもお考えいただき、教えていただけたらと思います。


▼微生物を利用したバイオレメディエーションとは?

去年は、(タンザニアの初代大統領である)ジュリアス・ニエレレの出身校でもあるサハラ以南のアフリカで最も有名な大学であるウガンダ国立マケレレ大学と共同シンポジウム「Linking Global Technologies for Self-Sustained Poverty Alleviation(貧困緩和自立支援のための地球的技術の連携)」を開催しましたが、そのリポートを元に今度のTICADWで東アフリカ5カ国のプロポーザル(提言文)を仕立て上げました。これがそのシンポジウムの時の報告書のカバーですが、この葡萄の房のように見える大陸の真ん中にある黄色い部分が淡水湖では世界で2番目の大きさのビクトリア湖です。

私にはこの湖が、どうもこの「頭蓋骨の目」のように見えます。大地溝帯(註:アフリカ大陸の東部を南北に貫く幅数十キロ、総延長7,000キロに及ぶ大断層。随所に落差百メートルを超える垂直な岩壁があり、この地殻変動の結果、大地溝帯の東側が乾燥化し、森林が衰退し、サバンナ(草原)化したことが、類人猿からヒトへの進化に繋がったとされる)がこの辺りを走っているため、進化論的に言えば、この辺りから一番古いアウトラロピテクスの骨が出てきます。

次に「何故このようなプロジェクトを立ち上げたか?」について、日本語に訳したものを皆さまのお手元に配布してあります。これはビリグワ大使自身が書いた文章を訳したものですが、現地では元の名前―英国の旧植民地には、やはり「ビクトリア」という大英帝国絶頂期の女王の名前を冠した地名が多いですが―である「ナルバーレ(女神の湖)」と呼ばれているビクトリア湖畔にエコ・ビレッジを創ろうという計画ですが、そのユニットをこれから説明いたします。

ミクロの世界で言えば「バイオレメディエーション」という、微生物を利用した環境修復の技術がありますが、例えば1989年にアラスカ沖で起きたタンカーのエクソン・バルディズ号の座礁による大規模原油流出事件の時に大きな問題になりましたが、その時に初めてバイオレメディエーションが評価されました。また、アメリカには、全米で10に分かれた環境保護局がありますが、1997年に日本海でロシア船籍のタンカーのナホトカ号が座礁した時、私はセクション9にあたるサンフランシスコ環境保護局―そこだけで日本の環境庁よりもはるかに多い4,000人ほどの役人や研究者がいます―に沿岸に流れ着いた廃油を持ち込み「バイオで修復できるか?」と弁護士や科学者に会っていろいろと情報交換を行った後、私はその石油分解酵素をポケットに入れて持って帰りましたが、ポケットの中の乾燥させたバイオを「それは何だ?」と空港の検査場で尋ねられた時は「エンザイム(酵素)だ」と答えると、そのまま通れました。

そして、日本で実際に海水にこぼしたオイルにパッと撒いてみると、微生物が活性化してオイルを食べてしまいました。日本では、こういった事故が起きた時には普通、化学的なものを廃油にかけて中和させてしまうんですが、粉末状になった廃油の分解物は有毒なものとして海底に沈んでしまいます。しかし、この方法では、廃油と同じ分量の化学物質(中和剤)が必要ですから、一トンの廃油が流れ出れば、1トンの中和剤が要る。つまり、膨大な中和剤が必要になる。

ところが通常、1グラムの中に通常10の6乗(100万単位)しか入っていないこの油を食べる小さな微生物を、特殊なテクノロジーによって10の12乗(1兆単位)まで7つか8つの性格の異なる微生物とコンデンス(濃縮)して入れてしまうことによって、トラックに一杯の量に相当する微生物を耳かき一杯分の大きさに縮小できた訳です。それを水で攪拌(かくはん)すれば、微生物はプラスチックなどすぐ通過してしまいますから、洋上の廃油は微生物の餌となり、そして、その生成物である脂肪酸は最終的には魚介類の餌になるんです。「ですから、タンカーはどんどん衝突してくれたら良いんだ」と、私が学んだテキサス大学名誉教授のオッペンハイマー博士は言っておられました。

これらの重大事故の経験によって、現在では、規則によってタンカーの外壁は一重では駄目で、ダブルハブ(二重底)にセットしなければならなくなりましたが、ナホトカ号は一重でしたから、薄かったんですね。

(タンカーの船底を)二重にしますと、強度が増す上、その二枚の甲板の間に粉末状のバイオ(レメディエーション用の微生物)を入れておけば、もし座礁したとしても、即座に微生物がオイルを喰ってくれますから、ぶつかればぶつかるほど魚介類は喜ぶ。なぜなら、微生物は流出油を食べ終われば餌がありませんから死んでしまいます。その死骸が脂肪酸となって海に沈み、魚介類の餌になっていく。

ですから、(油井のたくさんある)テキサス州ではパトカーに、日本ですと赤い消火器が積んでありますが、バイオが詰まった緑のタンクが積んであるんです。そして、石油を満載したタンクローリーが交通事故を起こした場合、タンカーの時と同様に路上に油が流出する上、発火の恐れもありますから、その緑のタンクに充填されたバイオを撒いて油を分解してしまうそうです。それが法律で定められているそうです。

ナホトカ号が事故を起こした時に、私は直ぐアメリカ大使館へ連絡を入れて駐日大使にもお会いしましたが、事故が起こったその日に、アメリカは80社から「うちの会社に日本海で起こったナホトカ号の廃油を処理させてくれ」と申し出があったそうです。しかし「日本の会社からは一件の申し出もなかった」と慨嘆しておられました。

当時、アメリカの副大統領がアル・ゴア氏で、日本の首相は橋本龍太郎氏でしたが、提言を出した時に「『バイオレメディエーション』という技術を、日本の政治家や企業は知っているのか?」と国会で質問させ―これは私が仕掛けたものでしたが―ました。それによって、初めて国会の議事録に「バイオレメディエーション」という言葉が記録された訳ですが、これを受けて、エキソバルディズム(註:酵素を用いた石油関連物質の分解)の経験者を呼んで、福井県の知事と読売新聞を主体にして英語と日本語で見開き両面の記事を出してくれましたけれども、私はその研究をずっとやっておりますので、バイオに関しては一応自信があります。


▼土嚢ドームの利用法

金魚が糞をするように、人間は生きている限り排泄する訳ですから「排泄物がエネルギーにならないか?」という発想を元に、大地を掘り下げて地中に作った土嚢ドームの中に、人糞と豚糞を入れて蓋をしますと、(地中ですから温度が一定なので)平均温度28度で嫌気性の微生物の作用によって、一番効率的に発酵します。発酵したものは液肥になり、完全に臭いが消えます。また、発酵過程で発生したガスは、ランプを灯す火などの燃料になります。ですから、排泄物が肥料と燃料になる訳です。

地下に土嚢ドームを造成して、糞尿から液体肥料とバイオ燃料ガスを供給する

現在、ウガンダではブタを飼っていますが、生後6カ月になると(雌は)子供を産みます。1回あたり11〜13頭で、1年に平均2・5回子供を産みますから、1年間で、雌1頭あたり約30頭子豚を産む計算になります。その30頭のうち、10頭を返してもらい、コミュニティで銀行を作り、グラミン銀行(註:バングラデシュの経済学者ムハマド・ユヌスが1983年に創設した銀行。主に農村部の貧困層を対象に「マイクロクレジット」と呼ばれる少額の無担保融資を、比較的低金利で行っている)のスタイルでお金を積み立てて行き、自立支援に向けていこうという訳です。現在、豚1頭あたり約1万5千円で買えますから、徐々に増やしていけば良いのです。

ところが、問題は「餌」です。トウモロコシも麦も小麦も人間の食糧だとすると、「じゃあ、豚に何を食べさせるか?」ということになります。そこでこの間、養豚の専門家をウガンダへ連れて行き調べました。平均的に東アフリカは、赤道を沿って走っている熱帯乾燥地帯(サバンナ)ですから、平均温度が28度あるのですが、これはまさに「自然の天国」だということで、アボカドを植えました。

因みに、アフリカのアボカドは日本には入ってきません。船だと時間がかかり腐ってしまいますから、全部ヨーロッパへ行ってしまいます。しかし、日本に入ってくるアボカド(中米産)は非常に良質だそうです。

アボカドは3年で採集できますので、まず1万5千本植えて、種と実を崩して、さとうきびとバナナの葉を切って乾燥させたものと微生物を混ぜて豚の餌にしようということになりました。そして3年後、豚の数が膨大になっているならば「豚糞は捨てずに有機農業の肥料。一方では燃料になる」というモデルを作りました。先だってもアボカドを350本植えてきましたが、またこの7月と9月にも、私は現地へ行き、コミュニティのあり方を研究してこようと思っています。

日本には基本的には「土の文化」がありますから、壁や塀も竹を編んで泥を塗って仕上げるような技法は日本では珍しくありません。「Builders without borders(国境なき建築家集団)」というニューメキシコにある団体の一人で、先月亡くなったイラン系のアメリカ人の建築家ナーダ・カリーリは、近代建築を見捨てて、一番自然な「土に帰る」建築を手がけました。これは建築材料のすべてを土でドーム状に造っていくのですが、理学的にも非常に強固な建物でして、地震が起こって近代建築は倒壊しても、この土嚢の円筒形の建物は倒れないことが、イランの古都バームで起こった大地震(註:2003年12月にイラン南東部を襲った地震。世界遺産にも指定されている古都バームの遺跡が崩壊した)でも証明―ドーム状の古い建物は残っているけれども、そうでないものは残っていない―されています。


土嚢ドームの内部には結構スペースがある

心理学的な面からみても、ドームの中に入りますと、お母さんのお腹の中に入ったような感じがして、心が落ちつき、夏は外気温より2度低く、冬は2度暖かい。作業的には、セメントを4パーセント混ぜた25キロの土嚢を、ドーム型に積み上げていき、最終的に2メートル75センチの直径で、高さ4メートル75センチのドームを、約680個の土嚢を使って完成させます。

その完成度合いはなかなか大したものです。阪神淡路大震災で甚大な被害を受けた神戸市長田区でも造りましたが、このドームを造る作業に、被災者であるお母さんや子供たちも参加してくれました。「泥を練る」という行為は、健康にも、精神的にも非常に良いんです。私は、亡くなられた河合隼雄先生(註:わが国におけるユング心理学の第一人者。国際日本文化研究センター所長や文化庁長官を歴任して、2007年7月に死去)にも「河合先生、箱庭療法(註:心理療法のひとつで、セラピストの前で患者が自由に人形を入れて箱庭を造ることによって、自己表現をさせる術)も良いけれども、ドーム療法のほうが達成感もあり、もっと良いですよ。一緒にやりませんか?」と申し上げていたのですが…。このような「土嚢ドーム」を、私は造っております。

アフリカにおいては、円形ドーム状のものがアフリカ独自のコスモロジー(宇宙観・世界観)に沿っています。逆に日本式の立派な構造建築は、アフリカの文化にそぐわないという現実があるんですね。私はこれまでに、インド、天理、長田区、そして再びインド、中国、カブール(アフガニスタン)、そしてカブールから250キロ離れたショマリという村にも土嚢ドームを造りました。


土嚢ドームを組み合わせてデザインされたエコビレッジのイメージ

そして一昨年にはウガンダで造りましたが、ウガンダでは、農場のあちこちに蟻塚(直径1メートル、高さ1・5メートルほどの巨大で堅牢なシロアリの巣)がいっぱいあり、農作業の邪魔になるんですが、塚はシロアリが唾液で土を細かく潰して作った巣ですから、われわれにとっては非常に良質な建築素材になります。そのため、この時は蟻塚でドームを造りました。今度もそれを含めてやろうと思うのですが、次に私のアイデアである「土嚢を主体としたコスモロジカルなビレッジ」を、専門の設計士に設計してもらったものを見ていただこうと思います。


▼エコビレッジ計画

最終的にこのテクノロジーは6つありまして、まず、鳥翼型風力発電。決して大きなものではなく高さ2メートルの、横に回る風力発電です。これは鳥が上昇する時ではなく、着地する時の理学的な解析がなされています。それから、先ほど申し上げたバイオガス・トイレと、「Bee-keeping Bank in Ecovillage」と呼ばれる養蜂バンク。現在、日本では在来種であるニホンミツバチはほとんど絶滅していますが、アメリカでも蜜蜂が4割ほど減っています。これにより、花粉の交配ができず農作物にも影響が出ています。現在、科学者が研究しているものの、未だ原因がよく解らないのですが、とにかく蜜蜂が激減している現象があります。

そういうことも研究されている一方で、日本にはアフリカからたくさんの蜂蜜が輸入されています。私は以前「日本の蜂蜜は純粋な蜂蜜だ」と思っていたんですが、よく調べますと、飴を置いておき蜂にたからせて巣を作らせ、そこから採取した蜜を「蜂蜜」と名乗っている話を聞きました。私は「ウガンダの蜂蜜は何だか変な匂いがするな」と思っていたのですが、後に、そのウガンダの蜂蜜のほうが純粋で、日本のものが不純だったということが判りました。例えば、山へ行って初めてキンモクセイの匂いを嗅いだ子供が「お母さん、あの花、便所の(芳香剤の)匂いがするね」と言った話を聞いたことがありますが、われわれはそういったことを繰り返していると思うんです。最初に刷り込まれたものが「自然のものだ」と錯覚していることが、われわれの身の回りにはよくある話ですから、思想も含めて絶えず注意が必要だと思います。

養蜂技術は、7世紀に渡来人が三輪山に持ってきまして、方位を計る呪術に使ったのが始まりです。江戸時代にその技術が発展し、日本は養蜂技術においては世界一流になりましたが、現在では、肝心のニホンミツバチがほとんどいなくなってしまいました。この間、私は84歳の養蜂家に会いに和歌山県へ行きましたが、彼が「私は5歳から養蜂をしているが、ここ2年間は蜂が全然寄ってこない」と言うので「原因は何ですか?」と尋ねると、「やっぱり花が少なかった」と言っておられました。

苗は主にビニールハウスで作りますが、あの時に種苗業者が農家に必ずセットで売るのが、プラスチックのケースに入れたミツバチです。ミツバチをビニールハウスの中に放すことによって、花粉を交配させて苺ができるんですが、これは女王蜂なしでミツバチが活躍してくれる訳です。しかし、これは人工的に作る訳にいきませんから、アフリカでは養豚バンクから進めました。

▼ビクトリア湖に船を浮かべる計画

この他にも、ビクトリア湖にはダウ船(註:イスラム圏の伝統的な沿岸航行用木造小型帆船。1本か2本のマストに1枚ずつの大きな三角帆を持ち、釘をいっさい使わず紐やタールで組み立てる)がありません。インド洋では、帆船が文明を運んだ訳ですが、私も「(琵琶湖の100倍の広さがある)ビクトリア湖で帆船による交通網を作ろう」と考えました。日本には、FRP(繊維強化プラスチック)製で、廃船になった漁船がたくさん見受けられます。先日、海上自衛隊のイージス艦あたごにぶつけられた漁船もFRPでできていました。船体の厚さはわずかに0.6センチしかありませんが、間に強化繊維のメッシュが入っています。非常に強固な素材で、たとえ、船の取り付け部品(上物の装備)が腐敗しても、本体は永久に腐敗しないんです。

しかし、現在日本では漁業が不振で、漁船の持ち主(漁業従事者)の跡継ぎが居ないため、廃船を沿岸に放ったらかしにして夜逃げしてしまう例が出てきています。これは、廃棄物の不法投棄という大変な公害問題であります。FRPは、融解して再度プラスチック製品としてリサイクルしようと思っても、繊維という不純物が混ざっているため、ペットボトルをリサイクルするようにはいかず、廃棄物処理に大変お金がかかります。そこで、私がビクトリア湖で帆船を作る計画を立てていることを知った漁協の組合から「先生、一艘あたり30万円出しますから、12メートルの船を引き取ってください」と声がかかりました。

ウガンダでは、30万円出しますと、古いヤマハの漁船用エンジンが買えますから、このふたつを合わせれば一丁あがりです。この船を40フィート(12メートルの船がすっぽり入るサイズ)のコンテナで運ぼうと思っていましたら、アフリカ大陸の東岸(インド洋側)最大の港であるモンバサ港が、ケニアの大統領選挙による社会混乱(暴動)が起こったことで使えなくなり、モンバサ港から陸路ビクトリア湖までコンテナを運ぶことができず、計画がパーになりました。

私はこのことから「神様は私に何をさせようと思ってるのか?」と考えたのですが、「お前(井上)、できないという理屈をゴチャゴチャ言っていないで、現地へ出向いて行って自分で造れ!」というメッセージだと受け止めました。そこで早速、実際に現地(ウガンダ)へ出向いて船大工を一人探し出し、一緒に12メートルの船を造っていくことになりました。私は現在、船の勉強もしつつ、来月も現地へ行き、船を造るための木材を集める予定です。魚は湖上を歩いて取れませんから、小さな船が一隻でもあれば、これは大きな自立支援になります。われわれは魚の取り方を教えるのであって、ただ、金品を与えるだけの支援ではない。最初は隠れてやり、成功したら大きく宣伝しようと思います。

次に、C6の「フォレストガーデンとパーマカルチャー」ですが、このふたつをドッキングさせまして、バイオガス・トイレから作られた有機肥料により、森の中で果樹を育てる。将来的には、「ビクトリア湖上島嶼(とうしょ)(註:ビクトリア湖の中には、約3千の小島がある)大学」という研究機関を創る夢を持っております。そこに国連の機関を誘致しようと…。

それから(初等教育を普及させるために)、アフリカに日本政府の支援によって小学校を1,000校創る。53の国数で割りますと、1カ国あたりたった20校ですから、経済大国日本の国家予算からしてみれば、この予算は「蚊の小便」みたいなものです。「小学校を1,000校創る」というと、すごい援助をやっているように聞こえるでしょう? けれども、アフリカ人は「日本人が援助(ODA)で建ててくれる学校は、まるで御殿だ」と言っています。立派過ぎるんですね。

現地の状況に即したものを造れば良いのに、何故なのか? それは、現地の安い素材を用いて学校を造っても、それでは建築を請け負う日本企業が儲(もう)からないからです。こういった外務省と経団連が癒着した状況については、医療企業がアフガニスタンに寄附した16億円のうち6億円がまったく無駄であった。現地では電力供給が不安定なため、停電の頻発する地域に、最新式のレーザーメスなど持って行っても、現地の医療現場ではほとんど役に立ちませんからね…。

学校を造れば、生徒が要る。しかし、貧困家庭の子供は皆、貴重な労働力になっています。例えば、水源から各家庭にまで水を運ぶのは子供の仕事ですから、子供が学校へ行ってしまうと水を運べなくなる。そこで子供の代わりにお母さんが水を運ぶとなると、今度は家の収入がなくなる。ですから、途上国においては「子供を学校へ行かせる」ということは、同時に、貧困家庭から「労働力を奪う」ことになるので、それぞれの家の近くに井戸を掘る必要が出てきます。井戸を掘ったら、今度はその水を水瓶に汲み、頭上に乗せて運ばずに済むように、風力発電によるポンプで水を移送できるシステムを考える。

このように、援助ひとつ取っても、総合的に考えないと、ただ、学校を造っただけでは、逆に貧困の格差が拡がる原因となる。しかも、製紙工場はアフリカ大陸にはエジプトにトイレットペーパー工場が1つあるだけで他にはなく、後は全部輸入に頼っていますから、教育には欠かすことのできない紙もどんどん値上がりしています。そんな状況でアフリカに学校を造っても、彼らが損をするだけです。こういった内容を私がJICAの大島副理事長に質問したところ、彼はあまり技術的な面に関しては知らないようでした。

私は製紙工業について研究しましたから、「富士山は絶対、ユネスコの世界遺産になれない」と自信を持って言えます。と申しますのも、広大な山麓には、あの周辺にある製紙業界のペーパースラッジ(註:古紙を再生する時に生じる産業廃棄物)が全部埋め立てられているんです。掘ったら大変なことになりますよ。いくら心ある登山家が山頂付近のゴミを拾っても、山腹に大量のスラッジが埋め立られているという現実…。以前に私が「北海道から沖縄まで、ヘリコプターを使って産廃場の調査をしようじゃないか」と言いましたら、ある新聞記者から「先生、そんなことやったら(不法投棄業者に)殺されますよ」と反対されたこともありました。

ナホトカ号の流出油も、ある焼却会社が買い取りましたが、確かその会社が倒産したにもかかわらず、その後、あの廃油がどうなったのか、まったく新聞記事に出てこない。日本のマスコミは、話題になっている時だけ洪水のように報道しますが、その後のフォローがなく、ニュースにも一貫性がない。アフリカをフォローしている学者は現実を知っていますから、今の話をしますと、そういう形になってしまいます。


▼百年の計は教育にあり

アフリカで「米を増産する」ことも良いですよ。古い言葉ですが「緑の革命」をやったら良いのです。しかし、これは20年前に、もうある人がやっています。日本政府がそういった活動に「力を入れてやる」と言っていますが、米を作る面積が増えれば増えるほど、遊牧民族はプレッシャーを受けます。この遊牧民族と農耕民族の生き方の整合性をどうつけるか? そのためのソフトウエアやテクノロジーはまだありませんから、これから学者と相談しながらやっていかないと駄目でしょうね。ただ単純に「米の生産効率が上がれば貧乏人は飯が食えて豊かになる」と考えるのは非常に危険であることを指摘するために「研究機関を立ち上げようじゃないか」と提案しています。

結論を申し上げますと、そのためにはどうすれば良いか? と言いますと、やはり、私は人材育成が一番大事だと思います。日本が敗戦後の焼け野原から立ち直ったのも、アメリカのガリオア資金(註:占領地域統治救済資金)によるフルブライトなどといった奨学金を受けて欧米へ行き、科学技術などを学んで帰ってきて、教育や企業にフィードバックしたという背景がありました。「日本政府は、そういった留学生の交換制度を何故行わないのか? 何故、文部科学省や外務省は、奨学審議制度を確立しないのか?」と思います。私は、各宗派教団が1年に1人ずつアフリカに留学生を出し、アフリカから1人留学生を呼んでいただければ、アフリカも日本も変わると思っております。

やはり、教育が一番大切です。実際には、数十万人の小学校の先生が不足しているんですから、学校を1,000校造っただけでは話になりません。では、その先生をどうするか? 例えば、大学院生レベルの人を日本に呼んできて勉強してもらう。あるいは、日本の金で他の先進国から招聘(しょうへい)してもらい、アフリカから勉強しに行く。最初はフルブライトのような大きなスケールでなくとも良いので、どこかの教団が音頭を取って「この指止まれ」で、宗教界で1年に10名でも交換留学生制度を実現していくことで、人間の柱を相互に作り、教育に裾野を広げたフィードバックをしてゆけると思います。これを絶対実現させるためには、まずモデルを作らなければなりません。「お金を集めるのは外交官の仕事で、ソフトは私が持ってくる」ということで、次に図面を8枚見ていただきます。


▼アフリカ支援は私の人生最後の仕事

これが「ウランジ」と呼ばれる、タンザニアに自生している竹の一種ですが、この竹垣を、風を呼び込む壁にしまして、風力発電するシステムになっています。これは上総(かずさ)掘り(註:掘り抜き井戸の代表的な工法)で掘った井戸ですが、電力で地下から水を上げて給水します。ここにはトイレが1基ずつ付いています。次が、中の図面です(図省略)。直径2メートル75センチ、高さ4メートル70センチぐらいのドームが680個ぐらいの土嚢を積んで造ってあります。この表面に、きれいにプラスター(註:石膏・漆喰などを水で練って塗り、仕上げに用いる材料の総称)を塗りますと、非常に立派な家になります。

これは天理大学で私がデザインして造りました土嚢ドーム(図省略)ですが、上から見ると、梅鉢(天理教の教紋)に見えます。この写真は、土の中に土嚢を積んでバイオ・トイレットを作っているところですが、この時、素材の半分以上は蟻塚を使いました。江戸時代の日本で発明された井戸の上総掘りの手法は、1902年か3年に英訳された後、インドが盛んにこのシステムで井戸を掘っていました。現在ケニアで、簡略化されたものを売ることに、あるNGOが成功しました。それを学んで、日本で廃れつつある手握り井戸でも、一人でやっても300メートルは掘れますし、岩も砕くことができます。いろいろデータがあるんですが、とにかくこの技術を現地に活かせば、ガソリンも要りません。何も焦ることはない、人力でゆっくりやれば良いんですよ。

先ほどの「ウランジ」という種の竹を切ると樹液が出てきて、そこに蜜蜂がたかっていますが、この樹液を朝夕採取しますと、竹1本あたり1・5リットル取れます。この竹林がこの付近には一杯あり、砂糖の代わりとして使用したり、一晩寝かせておくと自然に発酵してアルコールになり、「ウランジビール」として売られています。これを幹線道路脇の両側に竹の密林を作って採取すれば、すごい自立支援の活動になるんじゃないか? と思い、この樹液を日本に持ち帰り、ある有名なビール会社に液を持っていき「これで『かぐや』―かぐや姫は竹から生まれましたから―というブランドのビールを造って、売り出してくれないか? 利益の2割はアフリカの自立支援に使いたいんだ」と、研究を依頼しましたが、結局、情報をパクられただけで、OKの返事は貰えませんでした。

しかし、私は今後も竹の樹液を使ったビールの商品化を、しつこく追求していこうと思います。「これはカルピスのようで、非常に美味しい」という学者の報告もあるんですけれど、「これを使って、現地の人が助かるようにしよう」という発想はないんです。とはいえ、最近は学者の中にも「やはり、自分たちの学問のあり方はおかしいんじゃないか? われわれが博士号を取れたのはアフリカのおかげだ。アフリカ人を対象にした研究論文で博士論文を取って、自分は大学で教員として収入をもらって生きている。それはアフリカ人に助けられながら生きているのであって、一方、自分はアフリカ人をひとつも助けていない」という事実を解っている人が出てきつつあります。そういう学者たちとグループを組み、是非、この小さなモデル事業を成功させたいと思っております。

このプロジェクトは、一宗教家の端くれとして発想した様々な難民支援の活動の中から出来てきた私の最後の仕事だと思っています。家内や親戚や友人には「ビクトリア湖で船を造って、お月さんやお星さんを見ながら、そこで息を引き取れれば、僕は満足なんだ」と言っているんですが…。本当にそうなるかもしれないですね。その後―もう既に生まれ変わっておられるかもしれませんが―再び、あの世で三宅歳雄先生にお会いするのが楽しみです。以上で話を終わらせていただきます。ご清聴、有り難うございました。 

(連載おわり 文責編集部)