国際宗教同志会 平成21年度総会 記念講演
『チベットの現状と特別会議について』
      

ダライ・ラマ法王日本代表部事務所 代表
ラクパ・ツォコ

2009年2月10日、京都山科の一燈園(西田多戈止当番)において、国際宗教同志会(三宅光雄理事長)の平成二十一年度総会(議長、松下日肆本門法華宗管長)が、神仏基新宗教各宗派教団から百余名が参加して開催された。記念講演では、長年チベット人の信仰の象徴であったダライ・ラマ14世が、中国人民解放軍の武力侵攻から逃れてヒマラヤ山脈を越えインドへ亡命してまもなく50年になろうというこの時期に相応しく、チベット亡命政府のダライ・ラマ法王日本代表部事務所のラクパ・ツォコ代表が、チベット民族の歴史と現状について講演した。


ラクパ・ツォコ氏

▼ダライ・ラマ法王の代表として

ただ今ご紹介いただきましたダライ・ラマ法王の日本と東アジアの代表を務めるラクパ・ツォコと申します。今、三宅善信先生から「日本語が大変堪能である」とご紹介いただきましたが、私自身、まだまだ言葉には自信がないところもあります。途中解りにくい箇所もあるかもしれませんが、その旨ご了承いただければと思います。本日は、伝統ある国際宗教同志会に講師としてお招きいただき、本当に光栄に思っております。また私は、ダライ・ラマ法王の日本と東アジアの代表として、日本人の方々一人ひとりと付き合って、人間同士、心の通じるような話をすることが私の役目です。

2,000年以上の歴史があったチベットという国は、この50年間、インドで亡命政府としてやってまいりました。現在の私の立場である「ダライ・ラマ法王日本代表部事務所代表」とは、解りやすく言いますと、この亡命政府の「駐日大使」に当たります。ですから、一国の大使と同じように、難しいこともいろいろありますが、自分自身の心の中に何事にも負けないぐらいの気持ちを持って、たくさんの日本人の方々と接しています。1976年に開設されたダライ・ラマ法王日本代表部事務所では、私の前には6名の歴代代表がおりましたので、私が7代目になります。私たち7人は、少しずつ努力を重ねてきましたが、やっと去年あたりから少しずつチベットに対する関心が日本国内でも高まってまいりました。


注目された記念講演には百名を超す宗教者が聴講した

その成果の流れの中で、西田先生や三宅先生とご縁をいただきまして、仏教界や神道界の先生方とご一緒に、一昨年インドのダラムサラへお越しいただき、法王様と親しくお会いいただく機会がございました。そのおかげで、去年6月末に開催されましたG8宗教指導者サミットに、私も参加させていただくことができました。世界の各宗教の代表の方々が居並ぶ中で、私はダライ・ラマ法王の名代ということで大変尊重していただき、ただ出席するだけではなく、基調講演をする場も与えていただけました。

現在、厳しい状況下に置かれているわれわれチベット人に、このような機会を与えていただきましたこと、事務局長を務められました三宅善信先生に、心から感謝しております。日本にもさまざまな事情がありますけれども、私たちが長い間待ち続けてきた日本政府や日本国民、とりわけ仏教徒の方々の心の中に、チベットという国、チベット人のことを忘れられぬように、日本で努力を続けておりますので、皆様、どうぞこれからもよろしくお願い申し上げます。


▼「チベット自治区」は本来のチベットの西半分

今日は『チベットの現状と特別会議について』というテーマに沿ってお話をさせていただきますが、まずチベットの現状を紹介する前に、お配りしたチベットの地図をご覧いただきたいと思います。中国政府がチベットを侵略して、今年がちょうど50年に当たるのですが、1965年あたりから、彼らはチベットを勝手に2つに分割して、そのうちの一地域のみを「西蔵(チベット)自治区」としました。今日、中国政府が国際社会に対して「チベット」と見なしているのは、この西半分の黄色い部分だけです。これが中国側の解釈に基づいた「チベット(西蔵)」です。


図表Map_Tibet

しかし、われわれチベット人にとって、これはとんでもない話です。私たちの国はこんなに小さくありません。歴史的には、この赤と黄に塗り分けられた地域を合わせた全体ではじめて「チベット」なのです。この「チベット」全体の中には3つの地域があります。中国の「チベット自治区」とほぼ重なるこの広い地域がウ・ツァン、右上の赤色の部分がアムド。ダライ・ラマ14世が生まれた所です。そしてこの右下の緑色の部分がカムです。2,000年の歴史の中において、これらの3つの地方は常に「チベット」としてひとつにまとまっており、別々の国になったことは一度もありませんでした。

ところが、1949年10月に中華人民共和国が成立し、早やその翌年に中国人民解放軍がチベットを侵略し、1965年の文化大革命の時にチベットを分割して支配する政策を執り、「チベット自治区」というものを創りました。以後、世界中に「チベット」という場合は、この黄色い部分だけしか紹介されませんから、世界中の人は「チベット」と言うと、この「チベット自治区」のことだと思うようになりました。

それから、さらにアムド地方とカム地方を、既存の四つの省に分割して編入し、それぞれを青海(チンハイ)省、四川(シーチュアン)省、甘粛(ガンスー)省、雲南(ユンナン)省の一部とされました。そしてこの4つの省をさらに15県に分けました。

因みに、最近、中国で地震(四川大地震)があったアムドのアバはこの辺りですね。地震があった地域に、チベットの領土はかなり含まれています。ざっとチベットの地理をご説明しましたが、詳しく知りたい方は、ダライ・ラマ法王日本代表部事務所のホームページをご覧ください。もちろん、今日来られている日本人の方の中には、チベットについて非常に詳しい方も居られると思いますが「チベット人自身の口からチベットの情勢を聞くのは初めてだ」という方もいらっしゃると思うので、具体的な話も織り交ぜてお話ししようと思います。

一般的な日本人の方にとって、チベットの印象といいますと、NHKをはじめとする各放送局の番組で紹介されるような「高原」や「山」、「お坊さんの五体投地」や「鳥葬」といった、チベットの神秘的な部分はよく日本でも放送されていますね。また、チベットにはよく砂漠のイメージを重ねる方が多いようですが、実際上のチベットの大きさは、西ヨーロッパ全体の大きさ―日本の面積の7倍―に相当する広さですから、緑も非常に豊かですし、非常に美しい湖もあります。

もともとのチベット人の人口は600万人ですが、中国人民解放軍のチベット侵略によって、そのうちの120万人のチベット人がいのちを失いました。日本と中国との間の歴史においても、南京大虐殺などいろいろありますが、数字で比較してもこの120万人という数は決して少なくありません。また、中国政府はパンダを国家間の友好のしるしとして贈ったりしていますが、パンダのもともとの生息地域は、チベットのミアという所で、チベット語で「パンダ」を意味する「チェラトン」という名称もあります。後ほど環境問題などにも触れます。


▼むりやり調印させられた17カ条協定

私はチベットのことを「このように理解すれば良いのでは」と思う例を挙げましょう。第2次世界大戦により、日本や日本を取り囲む国々が大変混乱していた当時、皆さんの親御さんの世代の方々は大変な苦労をされましたが、その時、私たちの親の世代は、ヒマラヤの奥で平和な時代を暮らしていました。そして、戦争が終わり、日本も周辺の国が徐々に落ち着き、国と国の関係も徐々に回復してきました。そんな中、1949年に中国で国民党と共産党の間の内戦に決着がつき、蒋介石率いる国民党は台湾島―欧米での呼び名は「フォルモサ」―へ逃げました。そして、毛沢東率いる共産党が北京で共産主義の政府を作り、中国全土を実効支配しました。そしてそのすぐ翌年の1950年に、中国政府はチベットへ侵攻しました。共産主義政権が成立した直後に侵攻しているということは、「最初からそういう計画だったのか?」とすら思ってしまいます。

翌1951年、チベットは中国政府により『中西17カ条協定』へむりやりサインさせられました。中国政府は、自分たちがそっくり書き換えた協定にチベット政府の国璽を捺させただけでなく、チベット政府の国璽まで偽造したのです。その条約に拠って、中国政府はチベットを「解放」しに来ました。彼らの言うところの「解放」は、この時の条約に由来します。しかし、正直なところ、中国政府がチベットの何を解放しにきたのか、私たちは未だにピンときません。本当に解放しに来たのならば、解放後にさっさと帰ってくれれば良いのですが、今日に至るまでチベットの人々にあれだけの苦しみをもたらし、チベット国の天然資源、遊牧民の生活リズム、あらゆるものを駄目にしました。森はどんどん切り拓き、お寺を破壊して、お坊さんを殺し、刑務所に入れ、労働改造所(強制収容所)に入れ、「(中国共産党にとって都合のよい)愛国教育」ということで、チベット人を一生懸命洗脳しようとしましたが、結果的に中国政府は、何の良い結果も得られませんでした。

それがどういう形で証明されたかと言いますと、去年の3月10日頃から「チベット自治区」に暮らすチベット人だけでなく、本来のチベット国全体に暮らすチベット人の、長い間ずっと我慢して我慢してきた怒りの火山が噴火したのです。中国公安当局によって多くの僧や尼僧が秘密裡に殺されている現実は、ただ私たちに知らされていないだけで、今日もまだ続いているのです。ですから、世界中の新聞記者は、チベットへ自由に入ることが許可されないんです。もし、仮にビザが下りても、必ずその後ろから誰か監視員が付いて行き、決められた日程どおりにしか動くことが許されません。現在、ラサにある大きな建物やホテルには24時間警察が監視していますし、街中はトイレまで外で警察が見張っている…。そういう状況が続いています。

中国がチベットへ侵攻した1951年当時、ダライ・ラマ14世はまだ16歳で、パンチェン・ラマ10世はわずか10歳でした。このように指導者がまだ若い世代の時は、中国政府にしてみれば侵略の絶好のチャンスでした。チベット政府は1959年まで、これ以上中国政府との関係が悪化しないように一生懸命交渉しました。1952年には、ダライ・ラマ14世もパンチェン・ラマ10世も北京を訪れて毛沢東と会って、いろいろ交渉しています。

しかし、中国政府による侵略が決定的になった1959年3月9日に、チベットのラサにある中国軍の施設で行われる演劇にダライ・ラマ法王が招待されました。中国政府から「警備なども抜きで、ダライ・ラマ法王お一人で来てほしい」と要請がありました。チベット政府の閣僚は非常に心配し、翌日には、その話を耳にしたラサ市民が続々と集まってきました。そのような状況下で、ダライ・ラマ法王は静かに秘密の方法をとって、ヒマラヤを越えてインドへ逃げることができました。

そして3月17日にインド国境へ辿(たど)り着いた時、初めて「武力の威嚇によってむりやりに調印させられた17カ条協定を、われわれは認めない」と記者会見で発表しました。そして1959年から79年までの20年間に、チベット自治区内外の多くのチベット人が亡命しました。当時はまだほとんどのチベット人が中国内に残っていましたが、この20年間は封鎖により、まったく外と内との連絡が途絶えました。


▼チベット人と文化を殲滅(せんめつ)しようとしている

中国“国内”に残ったチベット人は、共産党政府による「愛国教育」を受けさせられました。もちろん、文化大革命の期間中(1966年〜68年)は、中国全土も大変な被害に遭った時代でした。当時、殺されたり、飢えで亡くなったチベット人は120万人と言われています。それだけではありません。紅衛兵や煽動された人民により、チベットでは6,000ものお寺が破壊されました。

一口に「お寺」と言いましても、日本のお寺とチベットのお寺の役割は少し異なります。チベットのお寺は信仰の対象になっているだけでなく、仏教や地理、歴史、医学などさまざまな学問を学ぶ総合大学のような場所でもあります。そのようなお寺を6,000も破壊し、チベット全土で7つのお寺だけを残しました。その中のひとつに、―チベット仏教で、ダライ・ラマに次ぐ高僧で、阿弥陀如来の化身と信じられている活仏である―歴代のパンチェン・ラマが座主を務めるタシルンポ寺院がありますが、これはパンチェン・ラマ11世が現在、中国政府のコントロール下に置かれているため、破壊されずに残されています。

破壊されたお寺は、ただ建造物が壊されただけではありません。何世代にもわたって受け継がれてきた貴重な仏教文化であるタンカ(註:チベットにおける壁掛け式仏画)や仏像を盗んで、古美術商を通して売買や美術館に収集されるなど、あらゆるところにチベットの歴史的遺産が散逸してしまいました。チベット人たちの生の声で言わせてもらえるならば、中国の役人たちが商売―言い換えれば「泥棒」―をしてチベット文化を金儲けの対象にしてしまったんです。

今日、中国政府はたいそう威張りながら「われわれはチベットに発展をもたらした」と言っています。確かにチベットに新しいビルは増えました。しかし、その建物に誰が住んでいるかというと、人民解放軍をはじめとする中国人ばかり…。他にも、商人が自分たちで新しいビルを建てたりもしていますが、チベット人たちはいまだに昔ながらの古い建物で暮らしています。ですから、中国政府が言うところの「発展」とは、あまり関係のない状況にチベット人は置かれています。

また、同じ学校で学んだ中国人とチベット人のうち、たとえチベット人のほうが成績優秀であったとしても、仕事には繋がりません。仕事には中国人が優先的に就くことができ、チベット人はなかなか良いチャンスに恵まれません。僻地にはチベット人の村がたくさんありますが、これらには中央政府の行政サービスはまったく行き届いていません。その代わり、次世代を堕落させるような麻薬(ドラッグ)や酒、売春、カラオケボックスはどんどん増えていきます。

これも中国政府の政策なのかどうか判りませんが、中国政府はチベット地域に「太陽島」という風俗営業目的の歓楽街(註:中国各地に造られた川や堀で囲まれた歓楽ゾーンを「太陽島」と呼ぶ)を作って、ドラッグやセックスでチベット人を堕落させ、エイズなどの病気(註:一説には、エイズを患った売春婦を送り込み、これをチベット人に感染させてチベット人を滅亡させようとしている)も拡がりつつあります。そういうことが、今、現実にチベットで起こっています。

文革で破壊されたお寺も、今は少しずつ復活しつつある状況ですが、これは何も中国政府が予算を出して再建された訳ではなく、世界中に移り住んでいるチベット人たちが、自分たちの田舎のお寺を復興するために少しずつお金を送り込む努力を重ねてきた結果です。こういった行動に対しては、中国政府は共感もしない代わりに、批判したり、禁止したりもしません。何故ならば、外国のメディアや外国人観光客に対して「ほら、見て下さい。お寺も復活しているし、お坊さんもいる。チベットにはちゃんと信仰の自由があるじゃないですか」と、格好の宣伝材料になるからです。しかし、これらは、中国政府の協力の下に復興できたものではなく、チベット人が自分たちの稼いだお金を外国から送金し、少しずつ復興させてきたものなのです。

また、お坊さんは袈裟を身につけることは許されていますが、お寺の中に仏教的な勉強を学べるような施設がありません。何故なら、指導する立場にあった高僧の方たちが次々と亡くなって減りつつあるからです。現在は、観光客に見せるためのディスプレイ的なお寺があるだけで、中身は大したことありません。では、チベットの実際の仏教文化は何処にいったのかというと、亡命しているチベット人たちによって受け継がれています。


▼ヒマラヤに仏教文化を残す

ダライ・ラマ法王がインドに亡命して50年間の歳月が経ちました。1960年代から80年代の中頃までは、寒いチベットから暑いインドに急に移住(亡命)したことによって、体調を崩して病気にかかり、亡くなった人もたくさんいます。しかし、それ以降少しずつ生活状況、とりわけ衣食に関わる状況は少しずつ改善されてきました。しかし、インドのダラムサラにあるチベット亡命政府が何より優先して力を注いでいることは、若い世代への教育です。おかげで今日(こんにち)、ほとんどの難民チベット人は読み書きができるようになりました。

インド政府から賜った亡命政府の拠点となる未開墾の土地を有効に使うためには、まず森をきれいにすることから始めなければなりませんでした。しかし、森に生息していた毒蛇やコブラにやられて、二百数十名のチベット人が落命しています。ダラムサラは現在では、人が住み暮らすことができて、かつ農業が可能な土地になりました。そこへ、規模は小さいですが、古いチベット文化施設を復活させつつあります。インドでダライ・ラマ法王と多くの亡命チベット人によって、仏教文化をもう一度われわれチベット人の手で復興させることは、ヒマラヤ全体の仏教文化にも良い影響を与えています。


ラクパ・ツォコ氏の熱弁に耳を傾ける国宗会員各師

これは、インド国内に暮らすインド人にも影響を与え、インドで仏教文化を再び復活させる動きが出てきました。インドは仏教の故郷(ふるさと)であるにもかかわらず、現在、インドにはほとんど仏教徒がいません。なぜなら、皆さんご存知のように、大乗仏教は6世紀にインドから中国へ、中国から韓国、日本へと伝わり、7世紀にはチベットからモンゴル高原を経て、シベリアまで達しました。現在のロシア連邦内のブリヤート共和国、トゥーヴァ共和国やはるかコーカサス地方のカルムイキア共和国へも伝えられました。小乗仏教(上座部仏教)は、ずっと以前からスリランカ、ミャンマー(ビルマ)、ラオス、カンボジアなどを3つのルートに分かれて伝わりました。

ところが、私たちチベット人がインドへ亡命するよりはるか以前の13世紀初頭、イスラム勢力のインド侵攻により、仏教の文献などはすべて燃やされ、貴重な資料や遺跡がほとんど破壊されてしまいました。以来、数百年間、インドには仏教文化がほとんど残っていないような状況でしたが、そこへダライ・ラマ法王とたくさんのチベット人たちが亡命して、インド政府から戴いた土地で新たに生活する基盤を築き、自分たちの仏教文化を復興させようとしています。

かつて、7世紀にチベット高原を統一して古代チベット(中国名「吐蕃」)王国を建国したソンツェン・ガンボ(註:620年に王国を建国し、ラサに都(みやこ)した。唐の太宗の皇女とネパールの王女を妃とし、唐とインド両文化の摂取に努め、チベット文字を制定した)の時代に、チベットから多くの留学生がインドへ送られました。

留学生たちはサンスクリット語を学んでインドの仏教文化を学び、最終的にインド人の先生たちと委員会を作って仏教の文献を翻訳した後、チベットへ持ち帰りましたが、今では逆に、ほとんど仏教文献が失われたインドにおいて、今度はチベット語の文献からサンスクリット語へ逆翻訳が進められています。インド人の学者たちが再び一緒に取り組み翻訳しているのですが、彼らは「もともと原典にあった味わいが、実によく残されている」と、大変驚いています。

学者の方たちは「チベット仏教とお釈迦様の教えは一緒だ」と言います。何かにつけ「チベット仏教」を強調したがりますが、この「チベット仏教」という呼び方は、私たちチベット人がチベットの仏教文化を自慢するために喧伝しているのではなく、仏教文化について研究している欧米の学者たちが作った言葉なんです。ダライ・ラマ法王と多くのチベット人がインドに亡命して50年…。今では、中国領チベットの中には形だけしか仏教文化が残っていませんが、本当の仏教文化が亡命先のインドに残っている。これはチベットのみならず、ヒマラヤ全体の仏教文化復活に繋がっています。

また、モンゴルは昔からチベットにたくさん留学生を送っているチベットとはまるで双子のような国ですが、現在も毎年、チベット亡命政府の宗教文化省が、外モンゴル(註:モンゴル共和国のことを中国人は「外蒙古」と呼び、中華人民共和国領内のモンゴル人たちの居住地域を中国人は「内蒙古」と呼んでいる)から毎年2、300人の留学生を受け入れる伝統が続いています。

モンゴル人たちも、いずれも宗教を否定した社会主義国であるソ連と中国によって外モンゴルや内モンゴルに分けられ、社会主義化された波瀾万丈の歴史がありますから、仏教の伝統がちゃんと残されていません。ですから、習うべきことはインドへ留学生を送って学び、自国へ仏教文化を持ち帰り、伝統文化を守っているような状況です。

もちろん、現在私たちにはチベット亡命政府の存在だけが力ですが、ダライ・ラマ法王は既に五十数カ国を訪問され、ご自身の考え方や哲学、仏教文化を紹介し続けておられますが、このダライ・ラマ法王との出会いをきっかけに、欧米の国から多くの学者の方が訪れて、十数年にわたってダラムサラでチベット人と共に勉強しています。現在では、ハーバード大学やコロンビア大学にはチベット語をペラペラ話す仏教学者が大勢居られます。私たちは、国土もなく経済力も何もないけれども、「仏教文化を残す」という意味においては、ある意味、亡命チベット人の存在が大きな貢献に繋がっているのではないかと思います。


▼中国の歴代王朝とチベットの関係

皆さんによく「どうしてチベットと中国の間でこのような問題が起きるのですか?」 と尋ねられます。中国政府は、チベットを「自分たちの国の一部だ」と主張しているけれども、「チベットが中国の一部だという歴史的根拠はひとつもない」ということは、私たちチベット人だけが言っている訳ではありません。今、中国政府が歴史的チベット全域から「欲しいところ」を占有し、「自国の一部分だ」と主張しているに過ぎません。これまでの歴史を見直してみれば、その主張は成り立たないということが判ります。

どういうことかというと、7世紀、中国は唐帝国の時代でチベットはソンツェン・ガンポの時代ですが、当時のチベット王国はとても強い国でした。また、チベットに仏教が導入される前は、非常に喧嘩っ早い民族だったため、ソンツェン・ガンポが逆に中国を侵略したこともありますし、中国の皇帝の娘を妃として迎えたこともありました。そういった歴史上の繋がりを―もちろん、それ以外にも中国とは文化的、経済的繋がりもありましたが―政治的な理由に置き換えて「チベットは中国の一部である」と主張しているのです。

もうひとつは13世紀の元帝国の時代です。皆さんもよくご存知のように、当時のモンゴル帝国は、インドと日本だけは版図の中に含まれませんでしたが、アジアからヨーロッパの東半分近くを占めた大帝国でした。当時は、中国もモンゴル人によって完全に征服されていたため、漢民族が何もできないような状況が約300年ぐらい続きました。その時代は、支配者たるモンゴル帝国と被征服民たるチベットやヨーロッパの国々との間の関係が築かれました。

中国政府は当時の歴史も自分たちの都合の良いように解釈し、結局、モンゴル帝国は支配した地域である中国に拠点を移して元帝国を名乗ったので、「チベットは中国の一部である」と言っていますが、そうなると、現在のヨーロッパの国々の東半分は「中国の一部」ということになるはず(会場笑い)なんですが、そんな論理では成り立っていない。その中国の独善的解釈を聞いている世界中の学者は笑っていますけれども、実際には、軍事的な力関係がありますから「いいじゃないですか。言いたいことを言わせておけば…」というような放置した状況になっているだけなので、決して、「中国の主張」を事実であると認識しないでください。

漢民族の王朝である14世紀の明帝国の時代の約400年間は、中国とチベットはあまり歴史的に関係がありませんでしたが、お互いに不可侵で非常に平和に過ごしていました。しかし、仏教徒である満州人の王朝である清帝国の時代(17〜20世紀)には、清帝国はサキャ派の高僧と非常に深い関係にありました。清の皇帝は、チベット仏教四大宗派のひとつサキャ派の高僧を自分のグル(宗教的師匠)として迎え、帝師は皇帝の宗教のみならず政治的な面でも相談役も務めていました。こういった歴史的な流れも、彼らは自分に都合良く解釈し、「チベットは中国の一部だ」と主張しています。

1912年から1949年の37年間は、中国は満州人の建てた帝国である清朝から独立し、国民党の蒋介石(チャンカイシク)主席たちが37年間中国を支配した中華民国の時期ですが、1918年当時、国民党政権は、チベット政府と条約を結んでいます。これは、国と国として結ばれた条約でした。しかし、1949年に毛沢東(マオツォートン)の共産党によって国民党が台湾(フォモサ)に追われた後、共産主義が中国全土を支配し、その翌年の1950年には、中国人民解放軍がチベットへ侵攻し、今日までの複雑な状況が続いています。

ダライ・ラマ法王は、ご自身がインドに亡命されている間にも「中国政府とチベット問題について話し合わなければならない。話を進めるためには、チベット独立ばかりを唱えても現実的にならない。問題の解決を実現するためには、中国とチベット双方のためになるようにしなければならない。そのためには過去の歴史はどうでも良い。過去は過去。歴史は歴史家に任せ、中国人とチベット人は互いを嫌いであっても、これからは一緒に仲良く進まなければならない」という考えに基づいて、「中道のアプローチ」という政策を考えられました。

ダライ・ラマ法王の「中道のアプローチ」という政策は、中国政府側が(地図を指しながら)「このように、ちゃんと『チベット自治区』があるじゃないですか」と言っても、チベット側は「自治区と言っても名ばかりで、実際には、独裁国家のやり方だ」と言います。たしかに、中国政府の政策はあまりにも極端で、やり過ぎです。しかし、ダライ・ラマ法王はその一方で、非常に現実的に問題を捉え、「2,000年以上の歴史を持つチベットは、歴史的な独立国家としての権能は十分にある。しかし現実的には、もうそのことを強調しません。何故なら、中国政府はチベット問題が飛び火して中華人民共和国を分裂させることを恐れているからです」と指摘されています。中国政府の一番の心配はそこにあります。


▼チベット亡命政府の役割

ですから、その不安の種をダライ・ラマ法王は巧く呑み込んで、「独立は求めません。チベットの外交と防衛の権限は責任も含めて中国政府にお任せします。しかしその代わりに、それ以外のことは、チベット人に任せてほしいのです。本当の意味においての自治権を与えてほしい」と…。ダライ・ラマ法王の主たる考えは、「チベットの民族」と「チベットの文化」そして「チベットの環境」この3つをなんとか守りたいということです。

その気持ちを込めて『中道のアプローチ』を掲げてきましたが、中国政府は今日に至るまで、国際社会に対しては「(中国政府は)ダライ・ラマの特使と話し合いの機会を持ちます」という格好を付けるばかりです。特使が北京に行って話をしても、中国政府の言っていることと実際にやっていることがまったく一致しない。しかも、会うたび毎に中国政府の言い分は変わります。一方、ダライ・ラマ法王は、言っていることとやっていることに食い違いがなく、スタンスも、この50年間ずっと変わっていません。

この50年間、今日に至るまで、いろいろなやり取りがありましたが、結論から申し上げれば、中国政府はチベット問題を解決したくないんです。そのことは既にハッキリと見えてきたのですが、「このような状況下で私たちチベット人はどうすれば良いのか?」ということで、ダライ・ラマ法王は去年(2008年)の11月に「特別会議を開きたい」と、世界各地に亡命しているチベット人代表者をインド北西部にあるダラムサラの亡命政府に招集しました。私たちがインドで亡命生活を送る間、ダライ・ラマ法王には2つの考えがありました。

ひとつ目は「将来、チベット人たちがチベットへ戻る時期が来た時、現在の亡命政府は自然になくなるだろう。何故ならば、海外に住んでいるチベット人よりも、チベットに住んでいるチベット人が民族自決の中心となるべきだし、また、彼らが中心となって新たなチベット政府を創るだろう。その政府に、私たち亡命政府の者は参加しない。しかし、もしチベット内に住んでいるチベット人たちが私たち亡命チベット人の協力を求めるのであれば、私たちはいつでも協力をする用意がある」という考えです。

もうひとつは、亡命政府の基本的ルール―われわれは、亡命政府のルールを『憲法』とは言わず『チャーター(憲章)』と呼びます。そのルールは完全に民主主義的なやり方で、亡命政府は2,000年以上の歴史があったチベット政府を受け継いで、ダライ・ラマ法王の下には、内閣と議会、そして7省があります。各省庁は、宗教・文化省、内務省、財務省、文部省、公安省、情報・国際関係省、厚生省)があります。チベット亡命政府における外務省に相当する情報・国際関係省が12カ国に設置した代表事務所は現在、ニューデリー、ジュネーブ、ニューヨーク、東京、ロンドン、カトマンズ、ブダペスト、モスクワ、パリ、キャンベラ、プレトリアそして台北にあり、実質的には在外大使館としての役目を果たしていますが、その中心となる代表(=大使)のひとりとして、今日こうやって皆様の前でチベットについてお話をしているわけです。

▼中国の「西にある蔵」

そして、もうひとつの話題は、皆様もきっと関心がおありだと思います。何故ならば、これはわれわれ全員に関係していることだからです。ある意味、日本の方々にとってチベットは遠い存在ですが、現在チベットで起こっていることは、直接的ではなくとも、回り回って最後には皆様にも関係があることなのです。それは、チベットの非常にデリケートな環境の問題です。今、チベットではとんでもないことが起こっています。皆さんもご存知のように、現在、中国は水不足から農業に深刻な影響が出ていますけれども、その原因はどこにあるかというと、実はチベットにあるんです。中国政府はチベットのこと西蔵(シザン)と呼んでいますが、日本語だと「中国の西にある蔵」になります。これは意図的なものかどうか判りませんが、この言葉がすべてを表しています。では、「西にある蔵」とは、何を指すのでしょうか?

まず、天然資源。チベットははるか大昔海底だったことから、天然資源が非常に豊富です。例えば、ウラニウムは非常に良いものが採れますし、中国の美術館に展示されているひとかたまりの非常に大きな金塊から作られた美術品は、チベットの山から産出されたもので、いわゆる砂金を溶かして作ったものではありません。まさに、チベットは「天然資源の蔵」と言ってよく、60〜70種類の天然資源が採れます。現在、ツァイダム盆地という、油田開発の見通しが立っているところもあります。しかし、石油を出そうにも技術も足らず、技術支援や費用も不足しているため、見通しが立つまで、工事の着工を見合わせているような状況です。

豊富な天然資源の蔵の2番目は「水」です。アジア大陸の主な大河の水源は、ほとんどチベットにあります。中国の黄河や揚子江はもとより、パキスタンに流れ出るインダス川やバングラデシュに流れ出るガンジス川やベトナムに流れ出るメコン川など、アジア13カ国の水はチベットの水が関係しています。今日(こんにち)世界中のあちこちで石油の獲得戦争が繰り広げられています。しかし、専門家は「100年後、200年後には、われわれは水の利権争いをしなければならなくなる」と言っています。もしそうなった場合、「世界の屋根」と呼ばれる水の源チベットはどうなるのか…?


現在、中国国内で350都市が水不足になっており、その中でも100都市が深刻な水不足に悩んでいます。そういった水不足の問題を解消するために、中国政府はヤルン・ツァンポ川にダムを造り、水の向きを南のインド側へではなく、北の中国側へ変える計画が進んでいます。この計画により、中国国内の水不足が解消され、多くの人のいのちが救われるのは良いことです。しかし、ではインドやバングラデシュの人々はどうなるのでしょう? 河川地域の環境はどのぐらい保てるのか、非常に深刻な問題です。

例えば、ツァンポ川をはじめとする7つの大きい川すべてにダムを造るとどうなりますか? 中国には水も電気も行き渡り豊かになりますが、他国はどうなるでしょう? 現在のチベットを食べ物に例えたら、中国は「チベットをいったん食べてしまったけれど、消化不良を起こして、度々トイレに走る」状態だと言えます。もし、世界中の国々が「じゃあ、消化が済むまで(チベット問題が世論から消え去るまで)待つか…」と、チベット問題に触れないようにしても、いつか、そのお鉢が自分のところへ回ってくる日が来ると、私たちは見ています。

水の豊かな日本に住む皆様には、「水には利権がある」という認識はないかもしれません。何しろ冬の豪雪と夏の梅雨と秋の台風のおかげで、水の問題がないからです。しかし、4月から6月にかけてのヒマラヤ全体の水不足は非常に深刻です。それでも水源がちゃんとあれば何とかなる。しかし、中国政府はその天然資源の宝庫であるチベットの山々から遊牧民を追い出して一箇所に集め、チベットの土地を買い占めて、軍事施設や工場を建てています。また、残った土地は中国人の建設業者へ転売され、業者は8階建てのプール付きの立派なビルディングを建て、ワンフロアー5,000万円で売り出しています。裕福な中国人はこういった部屋を買い取って、冬は北京で過ごし、夏は日本の軽井沢のようにこのチベットの別荘で過ごしています。チベットの環境はこうやってどんどん破壊されつつあります。

もし、チベットの環境問題は、チベット人だけに関わる話であって、日本をはじめとするアジアの国々の豊かさや幸せが永遠に保証されているならば、日光(東照宮)のお猿さんのように「見ざる、聞かざる、言わざる」のままで居ても良いのかもしれません。しかし、この問題が他人事でないのだと気付くのは時間の問題です。日本のように自然が豊かで、アジアにおいても大きな存在感を持っている国は、世界中で困っている人に対し、何らかの貢献をする責任があるのではないかと私は思います。もし「貢献はできない」というのであれば、こういった宗教の名の下に邪魔をすることだけは止めておかれたほうが良いと思います。国際宗教同志会のような、立派な活動をされている皆様に、その点を少しでもご理解いただければ、と思います。


▼ダライ・ラマ法王の務め

最後に、ダライ・ラマ法王がご自身の務めとされている3つの点を皆様にお伝えしたいと思います。法王は「私は、世界中の様々な国の人々に接して、様々な文化を学ぶ機会がありましたが、私は常にひとりの人間として接してきました。私は自分の人生の中で3つ重要なことを学びましたが、とりわけ、そのうちの2つが大切です。1つ目は、われわれ人間誰もが持っている価値―優しさ、慈悲の心、思いやり、許す心といった価値観―を促進するために講演を行っています。

2つ目は、世界の中には、さまざまな問題がありますが、こころの拠り所として宗教がある一方、時に宗教から問題が来ていることもあります。ですから、世界の様々な宗教者の方々に接して和を促進することを、一生懸命努力しています。この2つは、私に死が訪れるまで取り組むつもりです。

3つ目は、この世で私は「チベット人のダライ・ラマ法王」という名称を持って生まれてきたため、チベット国民の信頼が非常に厚い。そのチベット国民が今、大きな問題を前にして困っている。この問題に解決の糸口を見つけることは私の義務でもあるので、その役目を果たす。もし、この問題を解決することができたら、最初のふたつの務めを死ぬまで続けるつもりです」とおっしゃっています。この言葉からも解るように、ダライ・ラマ法王はチベット問題を「一番重要な問題」だと言っておられません。もちろん、最初の2つの務めにチベットのことも含まれてはいますが…。

今日、お集まりの皆様の中には、大変大きな力を持っておられる方もいらっしゃると思います。もし、チベット問題に少しでも理解を得られるようであれば、この場をお借りして、心からお力添えをお願いしたく思います。どうぞよろしくお願い申し上げます。   

(連載おわり 文責編集部)