国際宗教同志会 平成21年度第3回例会 記念講演
『裁判員制度について』

大阪高等検察庁 総務部 司法制度改革担当検事
竹中ゆかり

2009年10月9日、神徳館国際会議場において国際宗教同志会(平岡英信理事長代行)の平成21年度第3回例会が、各宗派教団から約60名が参加して開催された。記念講演では、各地で運用が始まったばかりの「裁判員制度」を学ぶため、大阪高等検察庁総務部司法制度改革担当検事の竹中ゆかり氏を招き、『裁判員制度について』と題する講演と質疑応答を行った。


竹中ゆかり氏

▼裁判員制度の概要

ただ今ご紹介に与(あずか)りました大阪高等検察庁の検事の竹中ゆかりと申します。本日は、本年(2009年)5月21日からスタートいたしました裁判員制度についてご説明いたします。お手元に配付しておりますパンフレットと小冊子を使って説明させていただきますので、皆様もどうぞ袋を開けてご覧ください。こちらのパンフレット『裁判員制度』に基づいて解り易く説明していきますので、何かご質問等ございましたらなんでも結構ですのでコーヒーブレイクの後にお尋ねください。また、この配付資料の中に、このような最高裁が発行しております『よくわかる! 裁判員制度Q&A』も同封してあります。おそらく、皆様の質問の大半はこれで収まってしまうかもしれませんが、また後ほどお読みください。

それでは、裁判員制度についてお話を進めてまいります。まず資料の1ページを開けてください。まず「裁判員制度とは何ですか?」というところから始めていきたいと思います。裁判員制度は、資料に大きな文字で書かれているとおり「国民から選ばれる裁判員が、刑事裁判に参加する制度です。6人の裁判員と3人の裁判官が、ともに刑事裁判に立ち会い、被告人が有罪か無罪か、有罪の場合どのような刑にするかを判断します」というものです。これにはいろんな意味があるのですが、逐次説明してまいります。

まず「国民から選ばれる裁判員」とは、全ての国民を指すのではなく「20歳以上の選挙権を有する国民の中から選ばれた裁判員の皆さん」という意味です。2行目の「刑事裁判に参加する制度」とありますが、これはいわゆる損害賠償請求などといった民事裁判には関与いたしません。また、同じ刑事裁判でも、地方裁判所あるいは地方裁判所支部で行われる第1審の裁判に関わっていただきます。ですから、簡易裁判所あるいは高等裁判所あるいは最高裁判所といったところで行われる裁判に関与するものではありません。それから、すべての刑事事件、刑事裁判に関与する訳でもありません。一定の重大な犯罪に関する刑事裁判にのみ関与していただきます。それはどんな犯罪ということについては、後でご説明いたします。

それから3行目の「6人の裁判員と3人の裁判官―彼らは法服を身につけた職業裁判官です―の合計9名の合議体で裁判をする」ということですが、原則と例外がございます。原則は申し上げたとおり「6人の裁判員と3人の裁判官」ですが、例外的に争点がなく、比較的簡易な事件の場合には「4人の裁判員と1人の裁判官」の5名の合議体で裁判がなされることもあります。現在のところは、この原則的な9名の合議体で審議がなされております。


裁判員制度について解りやすく説明する竹中検事

ちなみに、大阪でもすでに1号事件、2号事件の判決が出ました。神戸と和歌山でも第1号事件の判決が出ました。この冊子に戻っていただき、4行目と5行目ですが「刑事裁判に立ち会う」というのはどういうことかと申しますと、表紙の法廷の状況を写している写真をご覧いただくと、この写真の一番奥の法壇に九つの椅子席が置かれています。中央に3人の裁判官が座り、その両脇に裁判員に3名ずつ座っていただきます。ここに座っていただいて、目の前で行われる裁判を傍聴していただくことが「刑事裁判に立ち会う」ということになります。

4行目に「被告人が有罪か無罪か、有罪の場合どのような刑にするかを判断します」とありますが、先ほどご覧いただいた表紙の写真の手前にある「傍聴席」は、誰が入っても良いことになっていますが、裁判員の方々はこういった公開の法廷で行われた裁判において見聞きした情報を記憶していただいて、「評議室」という非公開の部屋で―6名の裁判員と3名の裁判官の皆さんが同じテーブルを囲んで―「果たして、あの被告人は有罪なのか、無罪なのか?」あるいは、有罪の場合、「刑は死刑・無期懲役・禁固刑といった刑罰のいずれが適当なのか?」また「有期刑でも、執行猶予を付けたほうが良いのか、良くないのか」そういったことを議論していただくことを「評議」と呼んでいます。この「評議」を経て最終的に出されたものが「評決」となります。ですので「評議」そして「評決」を、裁判員の方々に非公開の部屋で行っていただくということになります。これが、裁判員制度の概要です。


▼何故、裁判員制度が導入されたのか

では、そもそも何故このような裁判員制度が設けられたのでしょうか? これには3つ理由があると言われています。1つ目は『民主主義の活性化』と難しい表現が用いられていますが、要は、国民の皆さんが持っている普通の感覚―いわゆる「民意」―が、裁判に反映されることで、裁判がより身近なものに感じられ、同時に司法に対する信頼が高まるということです。
2つ目は『住民自治の活性化』と言われています。後ほど申し上げますが、この一定の重大な犯罪に関する刑事裁判に関わっていただく訳ですが、どの事件も皆さんが居住している市町村で起こった身近な、かつ重大な犯罪であります。となると、こういう犯罪を起こさせないようにするにはどうすればよいのか? 特に最近は、児童虐待をはじめとして家庭内の事件が増加しています。介護に疲れ、将来を悲観して無理心中をしようとして起きてしまった犯罪もあります。そういった犯罪を無くすにはどうすればよいのか? といった意識が、一般市民が実際の刑事裁判に参加することによって、皆さんの間に芽生えてくるだろうという期待です。余談ですが、例えばこの重大な犯罪の中には、刑の最高刑が死刑や無期懲役というものも予定されているものがございます。そうすると、「死刑制度」そのものをどうするのか? といったような問題も、一般の市民にとっては今まで他人事のように思っていたけれども、自分が裁判員になって死刑が求刑された事件に関わることになった場合に「死刑は本当にあって良いんだろうか?」と考えるきっかけにもなるということであります。

3つ目は『コミュニケーション能力の向上』です。「評議」の場において、9人の人間が自分の意見を解りやすく述べ、相手の意見の理解にも努める。そして、お互い話し合いの中でひとつの結論に達していくための「コミュニケーション能力」あるいは「交渉する能力」も向上するであろうという期待です。こういった3つの理由から裁判員制度が設けられたと言われています。

よくアメリカやイギリスの映画やテレビドラマに「陪審員制度」という、裁判員制度と似た制度の下に裁判が進められるシーンが出てくるので、皆さんも見聞きされたことがあると思います。この「陪審員制度」と「裁判員制度」はどう違うのかを簡単に申し上げますと、これはアメリカやイギリスで行われている制度のほうは、事件単位で一般の国民の中から陪審員が選ばれて判断する点は同じなんですが、一般市民から選ばれた陪審員はあくまでも「有罪か無罪か」を決めるだけで、プロの裁判官が量刑を決めることになっています。日本の制度は裁判官も加わり、有罪か無罪かだけでなく、有罪の場合は量刑まで判断するところが大きな違いです。

実は、日本にも陪審員制度があったことをご存知でしょうか? 昭和三年から十八年までの間、陪審員制度があり、かつて京都地方裁判所には「陪審員法廷」が実際に残っていました。現在、この法廷は立命館大学に寄贈されています。では、何故、わが国の陪審員制度は途中で停止されてしまったのでしょうか? その理由として「裁判権がその判断に拘束されない」つまり、やり直しができたんです。また、有罪になった場合、被告人が訴訟費用を負担しなければならないということで、被告人自身が嫌がったという経緯もあります。あとは、戦時になって各地で戦渦が拡がり、なかなかそういったことに関わり合う余裕が無くなったといった様々な理由がありました。ところが、「裁判員制度」へと形を変えて、新たに司法へ民意の反映が実施されるに至りました。


▼裁判員裁判の実例

では次に、裁判員制度にはどんな事件が対象になるのでしょうか? 先ほどは「一定の重大な犯罪」と申し上げましたが、冊子中程の「裁判員裁判の対象事件」という項目をご覧ください。この対象事件には、2つのタイプがございます。1つ目は、最高刑が死刑または無期懲役・禁固が予定されている事件。その例として、殺人事件、現住建造物等放火事件―これは、人がその建物に住んでいる、あるいは、人が現実にそこに居る建物に放火した事件です―それから強盗殺人のような事件のことです。一時、タクシー強盗が「流行(はや)った」というと語弊があるかも知れませんが、非常に横行したことがございました。タクシー内で運転中のドライバーにナイフで首を刺して売上金を奪い取るといった事件もそのひとつです。それから、強姦致傷事件、強姦致死事件。強姦した後に女性に怪我を負わせたり、死亡させた事件です。少し変わった事件ですと、覚醒剤密輸事件があります。実は、大阪の1号事件も2号事件も、この密輸事件だったんですが、こういったものも対象事件に含まれます。こういったものが第一のパターンである「最高刑が無期懲役・禁固または死刑が予定されている事件」です。

2つ目のタイプは、「短期(1年以上)の懲役または禁固」に当たる罪で、故意に人を死亡させた事件―つまり、交通事故のような過失で人を死亡させる「自動車運転過失致死罪」のようなものは含みません―ですが、どういった事件が該当するかというと、飲酒運転や暴走行為の結果として起こる傷害致死事件、あるいは危険運転致死事件等が該当します。



このように、2つのタイプの事件とも、「非常に気が重くなる大変な罪だな」というような犯罪であります。では、いったいその対象事件というのは、全体の刑事事件裁判においてどの程度の割合を占めるのかというのがこの円グラフで表されています(図1)。平成二十年度の「全国の地方裁判所における刑事通常第1審事件数」の概算で、9万3,000件のうち、裁判員裁判対象事件数が2,324件。パーセンテージでいいますと、約2%です。「なんだ、そんなに多くないな」と思われるかもしれませんが、わが国にはそれだけ重大犯罪が起こっているとも言えます。この2%の事件の中の内訳が、円グラフ左側にあります。「トップスリー」というと人聞きが悪いですが、第1位が「強盗致傷」つまり、殺害するに至らない強盗事件が590件。第2位が「殺人」、殺人事件でもいろんなケースが増えています。例えば家庭内の殺人や、秋葉原の事件のような無差別殺傷事件、少年犯罪も増えています。第3位が「現住建造物等放火」―先ほど申し上げたとおり、(結果的に人が死ぬかも判らない)人が住んでいる、あるいは人が現実にそこに居る建物に放火した場合です―この3つがトップスリーです。

次に、「裁判員制度は、平成二十一年5月21日スタート!」と書かれた欄をご覧ください。「全国60カ所で実施」とありますが、この内訳は第一に地方裁判所の「本庁」と呼ばれている所が50カ所で、いわゆる「本部」のような存在です。これに一部の支部(10カ所)が加わります。ですので、地裁の全ての支部で(裁判員裁判が)行われる訳ではないということです。この近畿管内ですと、堺支部と姫路支部でのみ行われるということになります。この下に「裁判員は、それぞれの裁判所の管轄区域内に居住する有権者から選ばれます」と書かれていますように「自分が住んでいる地域内で起こった犯罪が、同じく住んでいる地域内の裁判所に係属し、その裁判所で開かれる裁判に参加していただく」ということになります。ですので、大阪に住民票があり、居住しておられる方が、札幌の裁判所にいきなり呼ばれるということはございません。ただ、(もともと札幌にお住まいの方で、単身赴任等で現在大阪にお住まいなのですが)住民票は動かしていない場合どうなるかという問題はありますが…。


▼実際に裁判員になったら…

次に「裁判員裁判の日数」にまいります。実際裁判員裁判が始まると、裁判員の方は1日拘束ということになりますから、大切な仕事を抱えている方や、(日頃から)社会奉仕活動に関わっているという方も、裁判の期間中はそれを犠牲にしていただかなくてはなりません。いったい、どれだけの日数がかかるのでしょうか? ここに過去のデータが挙げられていますが、裁判員の負担を軽減するためにも、裁判に関わる日数ができるだけ短くなるように様々な工夫や努力が行われます。例えば、裁判における争点や証拠を事前に整理したり、できるだけ裁判を連日的に行ったりすることによって、約7割の事件は3日以内で終わります。このデータは、平成二十一年度に始まる裁判員制度に先立ち、過去10年来行われてきた模擬裁判―裁判員は一般の希望者から選ばれます―のデータに基づいたものです。

3行目に「裁判における争点や証拠を事前に整理」という文言がありますが、これがいわゆる「公判前整理手続き」と呼ばれているものです。ここには裁判員の皆様は参加いたしません。これは検察官が起訴した起訴状に書かれた犯罪事実のいったい何処を争うのか? ということと、争点になっているところを明らかにするための証拠調べをどの程度するか? という「証拠の整理」のことですが、これを裁判所と検察官と弁護人この三者が非公開ですが話し合いをして、できるだけ労力が少なく、時間的にも効率の良い裁判を運営するための努力をしております。連日開廷、つまり3日間なら3日間集中して審議を行い、3日目には判決を出してお終いにするということで、約7割の事件は3日以内で終わるということであります。

その下に「裁判は、昼食をはさんで五〜六時間」と書いてありますが、朝の9時半ぐらいから始まり、昼食1時間を挟んで、だいたい夕方の5時頃までには審議を終了することになります。アメリカの陪審員法廷のように「その日は家に帰れない」とか「1カ月間ホテルに缶詰めになる」ということはありません。基本的には連日家まで帰っていただき、テレビのニュースを見ていただくなり、新聞を読んでいただくといった日常生活は問題ありません(註:アメリカでは陪審員は、自身の意見が左右されかねないので、公判期間中は新聞、テレビ、インターネットなどを見てはいけないことになっている)。お子さんの居られるご家庭でも「お母さんが裁判員に選ばれて居ないので、ご飯が食べられない」などといったことにはなりませんので、ご安心ください。ただ、裁判所から遠いところに居住しておられる方には、宿泊費用を提供しますので、ホテルにお泊まりいただくケースもございます。


竹中検事の講演に熱心に耳を傾ける国宗会員諸師

次に「裁判員等になる確率」を説明いたします。この「裁判員等」の意味は、下に書かれてあるように「1年間で裁判員または補充裁判員になる確率は」とあります。つまり「裁判員」の他に「補充裁判員」も選任する訳です。これはどういうことかと申しますと、例えば、裁判が始まったのは良いが、1日で終わらない。2、3日かかる、あるいは4、5日かかるケースもあります。その間に、病気になられる方や事故に遭われてどうしても来られなくなってしまう人も中には居られます。そういう方にむりやり出てきていただく訳にはまいりませんから、その方は途中で解任して、補充で選ばれた裁判員の方に引き継いで出ていただくことになります。このことが「裁判員等」と表記されます。

この裁判員等になる確率ですが、裁判員を6名と補充裁判員を2名選任する場合の一般的な確率が、全国平均で5,600人に1人になります。そうしますと、本年度(平成二十一年度)全国で裁判員候補者名簿に登録された方は、全国で約29万5,000人になるといったデータが出ております。もちろん、これは全国平均ですから地域によって違いは出ます。例えば人口が非常に少ない地域だと確率は上がりますし、事件数が非常に多いところでも確率は上がります。少し嬉しい話は、裁判員裁判の対象事件数だけでなく、犯罪件数が、実は年々減少傾向にあります。これは決してわれわれ(検察庁)がサボっているということではなく、社会自体が安全な場所になりつつある―体感治安はそうもいかないという問題があるのですが―傾向にあるといえます。

今年の4月11日付の各新聞に「地域ごとの当選確率」みたいなことが載っていましたが、大阪府民で裁判員に選ばれる確率は、なんと全国第4位と書かれていました。また、地方裁判所別では、堺支部を除く大阪の本庁が、全国1位で2,921人に1人の割合ということですが、これが多いと言うべきか、少ないと言うべきかということですが、それだけ大阪というところは、事件数が多いということです。


▼裁判員の選任手続きについて

では、どのように(手順)して裁判員に選ばれるのでしょうか? 中には「できれば選ばれたくないな」と思っておられる方も居られるでしょうが、選ばれた時のために心の準備をしておきましょう。次のページ「裁判員等選任手続の流れ」をご覧ください。まず、前年の秋頃に、各地方裁判所が管内の市町村の選挙管理委員会がくじで選んで作成した名簿を基に、次年度1年間の裁判員候補者の名簿を作成します。次に、前年の11月頃に「候補者への通知、調査票の送付」とありますように、「候補者に選ばれましたよ」ということのお知らせが、裁判所から候補者に送られます。その際、「調査票が同封される」とありますが、これに必要事項を記入し、裁判所に返送してもらいます。この調査票に何が書かれているかといいますと、明らかに裁判員になることができない人(欠格事由)ですとか「職業禁止事由」などが出てきます。後で詳しく説明いたしますが、要ははじめから裁判員になれない人がいるということです。「1年を通じて辞退事由が認められる人」というのもありますが、そういった方は裁判所に来ていただく必要はありません。

ただ、この通知が届いたからといって、すぐに裁判所に行かなければならないのかというと、そうではありません。この時点では、「呼び出し状を受け取る可能性がある」つまり「来年1年間は、裁判員になる可能性がある」ということです。明らかに裁判員になれない人、あるいは裁判員を辞退できる人についての詳しい説明は後で申し上げます。
             
次に「事件ごとに名簿の中からくじで選定」とありますが、この過程で裁判員候補者名簿の中から、本当に裁判に関わる方を選びます。これはもちろん、対象事件が起訴されて、第1回の公判期日が決まってからとなります。事件ごとに裁判員候補者名簿の中から、くじで裁判員候補者を選びます。くじで選ばれる人数は、事件ごとに異なりますが、通常「1件あたり50人から70人程度となります」と書かれています。実際は、裁判員6名と補充裁判員2名―3名の場合もありますが―が選ばれます。「8〜9名を選出するのに何故、そんなにたくさん呼び出すのですか?」といいますと、例えば、当日の天候が悪く出席率が低くなる場合もありますし、青森であった一号事件のように、性犯罪のような場合、被害者を個人的に知っている可能性がある人の場合は、その人を外していかないと、公正な裁判ができなくなる恐れがあるということを被告人に印象付けてしまうことにもなりかねないということから、不選任の手続きになる可能性が見込まれる場合は呼び出される人数も多くなります。

次に、原則的には、裁判の6週間前までに行われる「選任手続期日のお知らせ(呼出状)・質問票の送付」があります。これは「第1回公判期日の約1カ月半までに、必ずこういうものを送りますよ」ということです。このテキストに「お知らせ(呼出状)」と書かれている理由は、もし、それに『呼出状』と書きますと、「悪いことをした訳でもないのに、なんとなく『出頭せよ!』と呼びつけられているかのようで聞きづらい」という理由からこのように表記しているのですが、実際に国民の皆さんのお手元に届く手紙は『呼出状』という表題です。

表をご覧いただきますと「くじで選ばれた裁判員候補者に選任手続期日のお知らせ(呼出状)を送付し、その際、質問票を同封します。選任手続期日のお知らせ(呼出状)には、裁判所に来ていただく日程が記載されています」とあり、この日程に沿って、裁判員になる方かならない方かを選任する訳です。また、選任された方へ向けて、その後に始まる裁判の予定も記載されています。この質問票には必要事項を記入していただくことになるのですが、質問票の回答から、辞退が認められる場合(辞退事由)には、呼出しを取り消すこともあります。これは裁判所が決定することですが、その場合は裁判所に来ていただく必要はありません。

「1カ月半も前にこんなものを貰うんですね?」と思われる方もおられるかもしれませんが「2、3日仕事を休んで貰わなければならない」あるいは「家を空けてもらわなければならない」ということになると、スケジュールの調整をしなければいけない方も居られると思いますので、(裁判所も)余裕を持って呼び出しを行っております。とは申しましても、3カ月、4カ月前に送りますと、その間に「引っ越しました」とか「心情に変化が起きてしまい、当日は行けなくなってしまう」ということになるので、だいたい1カ月半前に送ることになっております。

次に裁判の当日、第1回公判期日でございます。この日の午前中に「選任手続」が行われます。もし選任手続が長引くようでしたら、1日目は選任手続のみとなり、2日目以降に裁判が始まるという場合もあります。現在行われている手続は、通常午前中に選任手続を終えまして、不選任になった方はそのままお引き取りいただきます。補充裁判員も含めて、選任された皆さんは宣誓をしていただいた上で、午後から法廷に臨んでいただくことになります。先ほど写真でご覧いただいた椅子に座っていただいて、実際の裁判を見聞きしていただきます。「選任手続き」の下欄をご覧ください。「選任手続期日のお知らせ(呼出状)を受け取った裁判員候補者には、選任手続の当日、裁判所へ来ていただくことになります。裁判長は、候補者に対し、不公平な裁判をするおそれの有無、辞退希望の有無・理由などについて質問をします。この手続きは、候補者のプライバシーを保護するため、非公開となっています」とあります。実はこの選任手続きは質問等をする場なんですが、弁護人と検察官も立ち会うことになっております。最終的にはくじで選ばれる(裁判員を選出する)んですけれども、その前の段階で、例えば辞退事由が認められる方はそこから外されますし、また、弁護人や検察官も理由を示さずに「この人は不選任が適当です」と述べることができますので、そういった方もそこから外れます。

次に一番右端の欄をご覧ください。「最終的にその事件の裁判員6人(必要な場合には補充裁判員―先ほど「だいたい2名」と申しましたが、3名の場合もあります―も選任)をくじで選びます。通常の事件であれば、午前中に選任手続きを終了し、午後から審理を開始します。裁判員や補充裁判員に選ばれなかった方は、ここですべての手続が終了となり、お帰りいただきます。裁判員がどのような仕事をするかは後ほど申し上げます。


▼裁判員になれない人

では「裁判員になれない人、裁判員を辞退できる人とは、いったいどんな人ですか?」という説明をいたします。まず「裁判員になれない人」には4つのタイプがあります。ひとつ目は、いわゆる「欠格事由のある人」そもそも裁判員になれない理由のある方です。いくつかあるんですが、「国家公務員になる資格のない方」、そして「義務教育を修了していない方―ただし、義務教育を修了した人と同程度の学力があれば、まったく問題ありません―」です。読み書きができなかったり、裁判を傍聴していても、話の意味が解らないということになりますので、一応義務教育を修了した人となっております。その他にも「禁錮以上の刑に処せられた人」懲役、禁錮といった刑罰に処せられた人です。そして「心身の故障のため裁判員の職務の遂行に著しい支障のある人」ですが、例えば寝たきりのため、どうしても動けないという方、あるいは病院で意識不明の状態にある方も、どうしても出席はできません。こういった方々が、そもそも裁判員になれない「欠格事由のある人」と見なされます。

2つ目の理由は「就職禁止事由のある人」と言われているものです。仕事の関係上、裁判員になれない方です。例えば、国会議員―非常に忙しいですし、国務がおろそかになってはいけませんから―や、国務大臣、そして裁判官、検察官、弁護士といった裁判に関与する司法関係者―裁判員制度は、広く国民の皆さんに関わっていただく制度ですから―もなることができません。それから警察、大学法学部の教授、准教授、司法修習生も含みます。さらに―これは当たり前なんですけれども―、「逮捕または勾留されている人」もこれに該当します。逮捕されている人が裁判員として出てしまうと、捜査や取り調べといった優先事項を妨げることになるため、選ばれません。

3つ目のタイプは「事件関係者」です。そりゃあそうですよね、「自ら裁かれなければいけない立場の人たちが裁く立場になってどうするんだ?」という話です。事件関係者、被害者、被疑者、被告人(が、いわゆる「事件関係者」にあたりますが)、その(当該裁判の)事件の被告人あるいは被疑者、被害者、告訴した人、目撃者となっている参考人などは、そもそも裁く側に立ってはいけないので、裁判員になれません。

4つ目の理由は少々抽象的で申し訳ないのですが、「不公平な裁判をする恐れがあると認めた人」です。これは裁判所が認めるものですから、どういった点に着目するかなかなか難しいところがあるんですけれども、頭から「この事件はニュースでも見たけれども、(この犯人は)絶対シロですよ」と、人の話を全然聞かない人がいますよね。今、会場でもクスッと笑った方もいらっしゃいますが、「こうじゃないか、君」と、頭から決めてかかってしまう人や、予断―目の前で示された証拠調べの結果だけを見て判断して欲しいが、「報道ニュース番組で見た」とか「隣のおばさんが言っていた」とか「主人がこう言っている」といった余計なことがすでに頭にあり、最初から決めてかかってしまう人として認める場合は裁判員になれません。以上が「裁判員になれない人」の説明でした。

次に「では、裁判員を辞退できるのはどんな人ですか?」ということですが、これもいろいろあります。例えば、今日お集まりの方の中にはお歳を召された方もいらっしゃいますので、どうか気を悪くなさらないでいただきたいのですが、年齢70歳以上の方は辞退ができます。これは別に「辞退してくれ」と言っているのではなく、出席していただいてももちろん全然構いません。それから「地方議会の議員」は、会期中辞退できます。「学生」も学業を優先していただいて構わないということで、辞退できます。他にも、過去5年以内に裁判員または補充裁判員をされた方や、同じく過去5年以内に検察審査会に関わった方も辞退できます。

これはあまりお勧めすると「皆そうなってしまうのではないか?」と懸念されることなんですが、皆さんにお配りした紙に「辞退事由として質問票でお尋ねすること」とありますね。下段真ん中に、実際の選任手続きのお知らせ、呼出状が送付された時に同封される質問票があるんですが、丸印で書かれたような事情がある場合、これは辞退できる典型的な事情があるということになります。

先ほどの「欠格事由」は、そもそも難しい、そもそも駄目な場合を指しますが、例えば「重い病気またはケガにより裁判所に行くことが難しい」といった場合、辞退できます。ただしこれは程度の問題もありますので、実際にどの程度難しいのか? といったことは、診断書で証明してもらう必要があります。それから「親族・同居人の介護・養育を行う必要がある」おじいさんや小さい子供が居るが、代わりに面倒を見てくれる人が居ない場合などです。ただし、地方自治体によっては託児所で一時預かりサービスを実施する地方公共団体もあるようですので、地元の市町村にお問い合わせしていただければ、と思います。

「他の期日に行うことができない社会生活上の重要な用務がある」難しい表現ですが、これは例えば「明日、お葬式があるんです」といった場合もこれに含まれますし、「妊娠中または出産直後(出産日から8週間以内)である」という方ですと「授乳が大変です」とか「いつ生まれるか判りません」となり、裁判所へ出向いていただくのは難しいですよね。また、「重い病気またはケガにより治療を受ける親族・同居人の通院・入退院に付き添う必要がある」といった、自分自身は健康だけれども、そういった方が周りにいて、どうしても自分が付き添わなければならない理由がある場合ですね。他にも「妻・娘の出産に立ち会い、またはこれに伴う入退院に付き添う必要がある」場合ですが、最近はご主人が出産に立ち会われるケースが増えていますから、こういったケースも辞退できる場合があります。

それから「裁判所の管轄区域外に居住しているため、裁判所まで出向くことが難しい」場合です。先ほど住民票の話が出ましたが、例えば「現在、仕事の関係で単身赴任で名古屋に住んでいるが、住民票は家族が住んでいる大阪においたままだ」といった方もいますよね。名古屋から大阪でしたら、まだ裁判所へ来ていただくことも可能と思いますが、これが札幌となると難しくなりますよね。

それから「仕事上の重要な用務があって、自らがこれを処理しなければ著しい損害が生じる恐れがある」これはいろんな解釈が可能だと思いますが、要はこの人でないとどうしても駄目だという仕事、例えば皆様のような職業(宗教家)もそうですし、非常に難しい心臓外科手術、脳外科手術ができる「ゴッドハンド」と呼ばれるような医者の方が、希有な事例の手術の執刀を控えているといった場合は「(裁判所へお越しいただかなくて)結構です」となるでしょうし、プロのスポーツ選手にも「あなたでなければ駄目なんだ」と言われる方が居られるでしょう。ただ、これは程度の問題がありますので「自分は○○だ」と言っても「裁判所に来てもらいましょう」となるケースもあります。それでも、裁判官から質問を受けるか何か証明するものを持参していただくことによって、認められる場合もありますし、そうでない場合もあります。以上が「裁判員を辞退できる場合がある人」に関する説明でした。


▼裁判員の役割

次に「裁判員の役割」についてお話しいたします。「晴れて選任された」と言っても、中には晴れやかな気持ちでない方も居られるかもしれません(会場笑い)。けれども、私はこれまで裁判員裁判に立ち会っておりますが、どの裁判員の方も非常に真面目で、厳粛に、前向きに受け止めておられて、ふざけたことをおっしゃる方は居られませんでした。裁判後の記者会見でも「(裁判員を)やって良かった」というコメントが出ていました。

「では、何をするのか?」といいますと、まず「審理」です。裁判員は、裁判官と一緒に審理―先ほどは「裁判」や「公判」という言い方をしましたが、「審理」とも言います―に立ち会います。裁判官、検察官および弁護人は、(裁判員裁判の審理期間を短縮するため)法廷での審理を始める前に、事件の争点を整理し、必要な証拠を厳選した上で、争点に集中した審理を行いますが、この整理手続のことを「公判前整理手続」というと、前ほど申しました。

それから、裁判員の方は「大量の証拠を読み込む必要はありません。法廷で証人や被告人の話を聞いたり、凶器などの証拠品を見たりすれば、事件について判断することができます。法律知識も必要ありません」と資料に書いてますように、にわかに六法全書を購入したり、刑法の教科書を買う必要などはありません。難しい法律用語は、噛み砕いて解りやすく説明させていただきます。私共も、審理後に裁判員の方々に何か資料を持ち帰って読んでいただくことのないように心がけ、法廷ですべての証拠調べを行っていただき、そこで見聞きして得た心証を元に評議していただくように努めております。次に「裁判官、検察官および弁護人のやりとりが平易で解りやすいものになるように工夫します」とありますが、当然ですね。これ以外にも、簡単なイラストやチャートを使うことによって、解りやすく説明いたします。

次が「評議」です。写真では数人の方が集まって話していますが、裁判員は、裁判官と一緒に、被告人が有罪か無罪か、有罪の場合、どのような刑にするかを議論し、決定します。これは冒頭でも申し上げましたが、「評議」では、法廷で見聞きした証拠のみに基づいて判断します。「評議」では、一人ひとりの疑問や意見を自由に述べ合うことが大切です。ここで重要なのは「自分の意見を言いっぱなしで終わるのではなく、人の意見も聞いてほしい」ということです。「私はこう思う」という方と「いや、俺は違う。俺はこう思う」と、お互い譲らない姿勢のままでは、いつまでたっても議論は平行線のままですが、喧嘩する必要はありません。仮に「何故、あなたはそう思うんですか?」とか「君は何故そう思うのか?」といった議論になっても、裁判官がうまくリードしますので、ご安心ください。

そして、裁判員と裁判官が議論を尽くすことによって、正しい結論を導き出すことができます。この「導き出す」ことを「評決」と言うのですが、一番良いのは全員一致で同じ判断に達するのが理想的ですが、意見が割れた場合は多数決にします。

最後に「判決」です。「裁判員は、裁判長が行う判決宣告に立ち会い、その職務を終えます」ということで、判決の宣告と同時に、裁判員の仕事はこれでお終いです。仮に、この判決に不服のある者が14日以内に控訴した場合、事件は控訴審に係属する訳ですけれども、高等裁判所で行われる控訴審には、裁判員の方は立ち会う必要はありません。

判決書きには、裁判員の皆様のお名前は一切載りません。法廷でも「裁判員1番さん、2番さん」あるいは「Aさん、Bさん、Cさん」といったように匿名になっておりますので、皆様のプライバシーが外に漏れるという心配は一切ございません。

時間がだいぶ残り少なくなってまいりましたが、皆様の疑問にお答えする意味で、最後のページをご覧ください。「裁判員制度Q&A」として、4つの質問と答えが載っています。この中で皆様の一番関心があろうかと思われるところから順に説明してまいります。左下の「裁判員候補者や裁判員になったら、手当や交通費はもらえるのですか?」という質問ですが、裁判所に行くにも交通費がかかりますからね。例えば、契約社員の方だったら「裁判所へ行く日は(欠勤扱いになるので)日当が入らないけれども、その分のお手当はいただけるんでしょうか?」という質問があります。これに対する回答が「裁判員候補者―候補者の中には、選任手続きに呼ばれたものの選任されずそのまま帰宅される方もおられますが―または裁判員として裁判所に来た方には、日当と交通費が支払われます」ということです。

日当の具体的な金額は、裁判員の場合は1日あたり1万円以内、裁判員候補者(になっていたけれど、実際には選任されなかった方)の場合は1日あたり8,000円以内で、選任手続きや審理・評議にかかった時間に応じて支払われます」そして「また、裁判所が自宅から遠いなどの理由で宿泊しなければならない場合には、宿泊料が支払われます」ということになっています。ここで注意していただかなければならないのは「実費が出るという訳ではない」という点です。こういう言い方をすると語弊があるかも知れませんが、「一番経済的なルートで公共交通機関を利用した場合にかかる金額を基準とする」と法律で決められています。ですから、例えば自家用車で高速道路を利用したからといって、高速代金やガソリン代が出る訳ではありません。あくまでも公共交通機関を使って一番経済的な方法でお越しいただいた場合にかかる費用が出ます。これは後日、振込という形を取ります。


▼守秘義務違反について

さらに、次も皆様の関心が高い質問―いわゆる「守秘義務違反」に関するQ&Aですが―「裁判員として審理に参加した経験を話すことは、守秘義務違反になるのですか?」とありますが、裁判員として関与したことによって得られた知識・経験を他の方に漏らしてはいけません。もし漏らした場合は罰則が科せられます。では、どのような刑罰かと申しますと、懲役1カ月から6カ月、あるいは1万円から50万円の範囲内の罰金です。

では、どのような事柄が守秘義務事項になるんでしょうか? ここにその答えが書かれています。「公開の法廷で見聞きしたこと―どういった人が証人として出てきたか? 証人がこんなことを言っていた。検事がこんなことを言っていた。弁護人がこんなことを言っていた。裁判員はこんな質問をした、といった公開の法廷で行われたことです―であれば、基本的に誰かに話しても問題ありません。裁判員として裁判に参加した感想―「辛かった」とか「非常に身が引き締まる思いがした」とか「被告人の家族の気持ちを考えると昨夜は眠れなかった」といったような―を話すことも問題ありません。

守秘義務の対象となるのは、評議の際の裁判員や裁判官の意見の内容―非公開の評議室で行われた裁判員と裁判官の意見の内容―多数決の人数、結論に達した過程―「○○氏がこう言ったことで、形勢が一気に反対に傾いたんですよ」とか「あの評決、実は僅差やったんです」といったような評議の内容―などの『評議の秘密』と、事件の記録から知った被害者など事件関係者のプライバシーに関する事項―例えば性犯罪の場合ですと、最近は被害者の名前や住んでいる場所を法廷で証さないようになっていますが、仮に犯行場所が被害者の住所地の場合、被害者が誰なのか直ぐに特定されてしまいます。そこで、法廷では絶対に名前を明かさず「大阪府内のAさん」といったような表現になりますが、裁判員が閲覧する記録には必ず固有名詞が載っています―や、他の裁判員の名前などの『職務上知り得た秘密』です。

先ほど「裁判書きには裁判員の名前は載らない」と言いましたが、法廷でも裁判員の名前を口に出されることは一切ありません。ですから、これを第三者に話すことも守秘義務違反になります。「何故、こんな堅苦しいルールを決めたんですか?」といった批判は少なからずあります。しかし、これをやらないと、誰でも「自分のプライバシーに関わる情報が流出する可能性があるなら、私は裁判員をやりたくない」と思いますよね? あるいは「裁判員のAさんがこう言ったことで死刑になった」あるいは「無罪になった」といったことを明らかにされてしまうと、次から裁判員になる人は「私が何か発言したら新聞に載るんじゃないか?」と恐くて何も言えなくなってしまいます。ですから、これは自由な評議を守るため、裁判員の皆様のプライバシーを守るための罰則規定だということをお含み置きください。

次に、右上をご覧ください。これは守秘義務と似て非なるものなので、罰則規定はありません。「裁判員候補者に選ばれたことを公にしてはいけないと聞いたのですが、上司や同僚に話すことも許されないのですか?」とあります。実は、これは守秘義務と関係ないんですけれども、法律に「裁判員候補者に選ばれたことを公にしてはいけない」という条文があります。これを守らなかったからといって罰則が科されることはないのですが、やらないでくださいね。

では「上司や同僚に話すことは許されないのですか?」とありますが、「公にする」という言葉の意味は「不特定多数の人に『私は裁判員候補者になりました』と言うこと」なんですね。例えばブログやホームページを持っている方が「実は私、裁判員候補者になったんです!」などと書くと、これは誰でも見ることができますから「裁判員候補者に選ばれたことを公にした」ということになります。何故、そのような規定をしているのかといいますと、誰もがアクセスできる情報媒体などで公表することによってマスメディアの方がアクセスしてきたり、場合によっては、いろんな事件関係者が近寄ってくる可能性もなきにしもあらず…。ということになります。そういったことを未然に防ぎ、裁判員になり得るべき人のプライバシーを守るための規定なんです。ですから、仕事を休むために、裁判員に選ばれたことを上司や同僚、友人に言うのは問題ありません。むしろ上司に黙って勝手に休んでしまうと「何故無断で休むのか?」という話になります。

最後に、右下のQ&Aにまいります。「裁判員や裁判員候補者が裁判所に向かう途中に事故にあった場合、補償を受けることはできるのですか?」とありますが、事故以外にも病気や怪我といったケースも考えられます。これに対する答えとして「裁判員は、非常勤の裁判所職員であり、常勤の裁判所職員と同様に国家公務員災害補償法の規定の適用を受けます。したがって、裁判員がその職務を果たすため裁判所と自宅の間を行き帰りする途中で事故に遭った場合、同法の規定に基づき、補償を受けることができます。また、裁判員候補者についても、裁判員と同様に補償を受けることができます」とあります。補償に関係することになりますが、例えば「裁判員としての仕事に向かう途中に事故に遭い怪我をしたため、裁判所へ行くことができません」といったことが起こった場合どうすれば良いかというと、これはいわゆる「辞退事由ができた」ということになり、辞任の申し立てをすることができます。辞任の申し立てを行い、例えば診断書の提出を行って裁判所が「その理由がある」と認めた場合、解任して、先ほど申し上げた補充裁判員を代わりに足すということになります。これは病気になった時も同じです。

以上が、裁判員制度の説明です。ご清聴有り難うございました。

(連載おわり 文責編集部)



国際宗教同志会 平成21年度第3回例会 質疑応答
『裁判員制度について』

大阪高等検察庁 総務部 司法制度改革担当検事
竹中ゆかり



竹中ゆかり氏

司 会: それでは、ただ今から質疑応答を始めさせていただきます。せっかくの機会ですし、この席上で話されたことは守秘義務違反にもなりません(会場笑い)から、具体的な事例も含めてどんどんご質問をしていただければと思います。その際は、最初にご所属の教団名とお名前をおっしゃっていただきたいと思います。どなたか挙手していただけますか?

木村且哉: 大本国際部主任の木村且哉と申します。今日は、有意義なお話を拝聴させていただき、有り難うございました。現在の裁判員制度において、私は宗教的信条への配慮が充分になされていないように思います。私ども大本では『死刑制度』に反対しておりますので、たとえ如何なる犯罪であろうとも、最終的に死刑判決は認められません。評決の場では、仮にプロの裁判官を含む八人全員が死刑に賛成し、(死刑制度に反対する大本信者の)1人だけが死刑に反対した場合でも、多数決で死刑判決が下る訳ですが、この「明らかに死刑になるだろうという裁判に臨まなければならない場合」の裁判員の方の宗教的の信条違反への負担感に対する配慮がなされてないように思うのですが、今後そういった配慮はなされるんでしょうか?


「死刑制度」に反対する質疑応答の口火を切った
大本の木村且哉国際部主任

竹中ゆかり: その方を選任対象者から外すかどうか? ということですが、選任手続きに当たって事前に質問票が同封されますし、当日も、聞きたいことや不安に思っていることがある場合は、質問票に記入いただく時間があります。実際に「辞退したい」と書かれた方には個別に面接を行い、何故駄目なのか理由をお尋ねします。そして「自分としては裁判そのものに対して公平な裁判を行う自信がない」ということであれば、辞退が認められる、あるいは選任から外される可能性は十分あります。

ただ、今、信条云々というお話がありましたが、あくまで、裁判員制度を通して行われる手続きとは「目の前で行われている証拠が信用できるかできないか? それによってこの犯罪事実が認められるのか、認められないのか? 認められる場合はどういう刑が相当か?」ということを話し合うことであり、個人の信条や信教といったものに対して「あなたの対応を明らかにしなさい」とか「(個人的信条から発せられた)あなたの判断はおかしい」いったことを話し合う場ではないんですね。あくまでも公開の法廷で行われた事実、証拠を調べた結果、これが認められるかどうかを判断していただく―日常生活において行われる通常の「あいつは怪しい」とか「あいつはクロだね」といった感覚に基づいて判断をしていただく訳です―のであって、「思想信条の自由」を害するものではないということをお含み置きいただければと思います。

ただ、今言われたように、通常ならばこれは死刑に相当する重い罪かもしれないけれども「宗教的信条から、死刑を選択肢のひとつとして考えることはどうしてもできませんので、たとえどういう証拠が示されても私は皆さんと同じ意見にはなりません」と、最初から評議を放棄するような形にならざるを得ないということを解りやすくおっしゃっていただければ、選任から外れる可能性は十分にございます。もちろん、それはおっしゃっていただかないと解りませんから、個別質問の際におっしゃっていただくのが一番良いと思います。ただ、最終的に決めるのはあくまでも裁判所ですから、この場で「(こうおっしゃっていただいたら)絶対大丈夫ですよ」と請け合うことはできないことはご理解ください。また「この人は選任されないほうが良いですよ」と不選任の請求を申し立てることもできます。ただ「是非、おっしゃってください」と勧めると、皆さんがその理由で辞退されても困るんですが…。これでお答えになっているでしょうか…?


司 会: 有り難うございます。例えばアメリカの場合ですと、ブレズレンやメノナイトやクウェーカー教徒などは、宗教上の理由によっていかなる場合でも人を殺すことができないため「良心的兵役拒否(コンシエンシャス・オブジェクション)」を申し出ることができます。だって戦争に行って「敵兵を撃ち殺すぐらいならば自分が撃たれるほうがマシだ」という人が自軍にいたら、味方の兵は皆非常に危険になるため、そういった人たちは徴兵制度下においても徴兵を忌避できることが法律的に認められています。

もちろん、その代わり、一定期間その人は公共奉仕を行うことになっていますが…。日本は、宗教がそれほど強くないため、そういった事例は少ないと思いますけれども、例えば「宗教上の理由で、子供さんの輸血を拒否したり、手術を拒否したりした結果、本来なら助かるはずの子供さんが死んでしまった」といった事件が起きてしまった場合、その裁判に参加する裁判員も宗教上の理由で意見が大きく異なるでしょう。このように宗教がもともと持っている、通常の世俗の法体系とは異なった価値観に従って生きている人々に対し、裁判員制度はどういった配慮を行うのか? という問題があると思います。


竹中ゆかり: この法律は、あくまでも国民によって選ばれた議員からなる国会において多数決で決められた法律であり、かつ「3年後には見直す」という経過規定もございます。「実際に運用したら不具合のところは多々出てくる」というご意見はその通りだと思いますので、その要素を国会で国民の代表の方々に出していただいて、良い法律へ変えていく必要がございます。先ほど申し上げたとおり、「自分が思っていること」や「自分が信じていること」や「自分がこうして欲しいと思っていること」をお話しする機会を作ったほうが良いかもしれませんね。


司 会: 国会の「法律見直し規定」と申しましても、あてになりません。臓器移植法案の時はなかなかしませんでした(註:1997年に制定された『臓器移植法』は、施行後の運用実態を見て5年後に「見直す」ことが規定されていたが、実際に同法が「見直され」一部改正されたのは13年後の2009年だった)からどうなるか判りませんが…。では次の質問、どなたかございますか?


懸野直樹: 京都の野宮神社宮司の懸野と申します。例えば、裁判員に選任された人物が被告人と面識はなくとも、相手の弁護人が知り合いだった場合、どうなるのでしょうか?あるいは、法廷に出た時、その場に居合わせた新聞記者が顔見知りだという場合もあります。ですので、いくら「プライバシーに配慮する」と言っても、実際には自分の顔を知っている方が法廷内にいっぱい居るという可能性もあります。こういったケースはどうなるのでしょうか?



宗教家は地域における「有名人」なので、
裁判員としてのプライバシーが守られないといの観点から問題提起する懸野直樹野宮神社宮司

竹中ゆかり: 残念ながら、それは辞退事由に当たらないですし、欠格事由にも当たらないですね。


懸野直樹: では、そういった場合、裁判員のプライバシーは保護されないんですね。


竹中ゆかり: そうですね。法廷内に知っている人がいる場合は仕方ないですね。


懸野直樹: われわれ宗教者は、割と世間に顔を知られている存在なんですよ。例えば、いざ、法廷に出てから「あなた、三宅さんじゃないですか?」と言う方が出てくる可能性もあります。そうなったら、「裁判員Aさん」と裁判官が言っても意味ないですよね。


竹中ゆかり: そういう方には退廷命令が下って、速やかに外に出ていただくことになると思いますが、その相手がマスメディアだった場合、接触してはならない規定―もちろん、これは罰則規定ではないんですが―もあります。先ほど申し上げたように、職務を解かれた後ならともかく、職務に就いておられる間は裁判員の名前や年齢層といった情報に関しては、絶対に秘匿(ひとく)されることが守られます。また、裁判員候補者、裁判員に選ばれた方、あるいは裁判員だった方に何らかの威迫(いはく)行為等があれば、それは処罰対象になりますので、プライバシーは一応は守られていることになると思いますけれども「私は有名人だが、どうなるんだ?」という方の場合、辞退事由に該当する可能性がないとは限らないです。例えば「今日行われる講演会は、講師である私が居ないとどうにもならないので、どうしてもこの日は行くことができない」といった形で断ると、そういうこと(認められる場合)もあり得ると思います。ただ、認めるかどうかは裁判所の判断によりますから、私が「絶対、辞退事由か欠格事由に該当する」と申し上げることはできません。


司 会: 例えば、清水寺の管主さんなんかですと、毎年暮れに、清水の舞台の上で毎年、「今年の漢字」を書かれて、その様子は必ずニュースで放映されますから、京都中の方が管主さんの顔を知っています。もし彼が裁判員に選ばれたら、法廷に出た瞬間に誰か判ってしまいますよね。また、イチロー選手のように日本中の人が顔を知っているような野球選手でも、あいにくシーズンオフに裁判員候補者に選ばれた場合、辞退事由に当たり得る「試合があるので来ることができません」とは言えません。こういったケースは非常に稀だとは思いますが、そういうことも起こり得るということです。では、次にどなたか居られますか?


村山廣甫: 曹洞宗審事院の村山です。「やっと来たか…」という感じで裁判員制度を取り上げていただきましたが、竹中先生のおかげで陪審員制度と裁判員制度の差がよく解りました。非常に優秀な裁判員制度の規定だろうと思います。ひとつに、裁判員に対するいろいろな後の負担を軽減させるような努力がされているように思います。裁判官と共に有罪・無罪の刑を判断する。これは私ども伝統教団内の制度とよく似て(註:ほとんどの伝統教団では、国家の制度とほぼ同様の三権分立のガバナンス機構が定められ、実際に運営されている)おりまして、監察部の個人名を出しませんし、審判部も審決する限り、審判名を出しません。

しかし、今一番悩んでいることは、インターネットのブログなんです。これがどこで漏れるのか判りませんが、監察段階―つまり、国で言えば検察の証拠調べ、検証段階です―の中身や、審決の過程がどういう訳か漏れてしまうんです。その情報が、匿名で対外的にインターネット上に流れてしまう。わが宗門でもこういった問題が出ております。裁判員制度においても、こういったことに備える必要性はなきにしもあらずだと思いますが、いかがでしょうか? 構成員の限られている宗門でもこのようなことが起こるのですから、不特定多数の国民が参加する裁判員制度では、必ずやこのような問題が生じるはずです。


「守秘義務」が担保されないと心配する曹洞宗審事院の村山廣甫老師

竹中ゆかり: 要するに「守秘義務違反を摘発する」ということですね。


村山廣甫: 守秘義務違反に対する罰則はあるけれども、それについての資質はやはり人によって違いますから…。しかし、井戸端会議のような感覚で話す人が出てきても困るんですよ。


竹中ゆかり: 罰則規定を設けているぐらいですので「これはあまりにも酷いね」という場合には、立件して適正に処罰する方向になると思います。


村山廣甫: お言葉を返すようですが、そういうことが起こっている段階で、漏れた情報が出版物になることも起こり得ます。また、以前にわが宗門では7年間にわたって109件のビラがある地域に配られ、審判が実質、不可能な状態になったこともあります。


竹中ゆかり: ビラの場合は、例えば名誉毀損になり得るのであれば、警察あるいは検察庁に告訴していただく、告発していただくことで立件することは可能ですよね。


村山廣甫: しかし、こういったことは今後、裁判員制度そのものに対して非常な脅威になってくると思います。国家の定めた裁判員制度に参加したいわれわれとしては、やはり宗教的な色彩を訴えたい(社会の価値観に一石を投じたい)という気持ちはありますが、それをするには宗教家もいろんな意味でリスクを負います。ですから、裁判員の選定を行われる際に、もう少し突っ込んだ対応、一工夫があっても良いのではないかと思います。


竹中ゆかり: 例えば、それは具体的にどういったことをどうしてほしいということでしょうか?


村山廣甫: 例えば、一番最初の候補者の選定段階で意図的な選定はあるんでしょうか?


竹中ゆかり: 有権者名簿から無作為に抽出するのですから、ありません。


村山廣甫: ないですよね。それなら、候補者を呼んで選定する段階で、ひとつ予防線が要るのではないかと思います。実際、選任過程で候補者は皆、面が割れてしまいますから、そこで知り合い同士だということも判るでしょう。もちろん、そういったことは、選ぶ側には判らないかもしれませんが…。例えば、われわれのような宗門内での係争マターが生じた時は、職業弁護士を入れません。友人(僧侶)が(問題にされている僧侶を)弁護するのは良いけれども、職業弁護士は絶対入れません。これは何故かというと、相方が依頼した弁護人同士が知り合いだったら信任問題などどうにもならないですからね…。それと同じ様なことが、裁判員制度でも起こり得るのではないでしょうか? 裁判員は6人おりますから…。


竹中ゆかり: なるほど。「たまたま友達同士の人が同じ裁判の裁判員に選ばれた場合、談合してしまう危険性がある」ということですか…。これは難しいですね。


村山廣甫: もちろん、リーガルマインド(=法的判断力や思考力)を持っている人たちばかりなら現行のシステムで良いと思いますが、一般の人は、意外とわれわれの盲点を「当たり前のこと」として見ていたりしますからね。


竹中ゆかり: 今の段階の法律では、事件関係者の知り合いなどは選任対象から外すことになっているのですが。例えば、事件関係者以外にも、目撃者や被害者や被告人と同じ居住地区に住んでいる人は、おそらく道端で会っている可能性もありますから、外すようになっていると思いますが…。それ以外に、くじで選任される者同士がたまたま知り合いだった場合―例えば、偶然隣同士の方が選ばれてしまうとか―ですよね。


村山廣甫: そうです。あり得ることです。それともうひとつ、選任された人がたまたま全員女性だったり、全員男性だったりすることもあると思います。
           
竹中ゆかり: おっしゃる通り「(裁判員の構成を)男女同じ比率にしたほうが良いのでは?」とか「年齢層も均等に配分したほうが良いのでは?」というご意見もあるのですが、現在はくじで機械的に決まってしまうため、偏ってしまうこともありえます。それに、例えば女性に「年齢はおいくつですか?」とお尋ねすると、今度はプライバシーの問題も出てきますからね…。けれども、おっしゃる意味はよく解りました。本日は報道の方も多数お見えですから、今日出た意見が何らかの形で報道に反映されれば、後ほど民意の反映としてより良い法律の運用、ないしは法律の改正に関わってくるかと思います。

司 会: 補足して質問させていただきたいのですが、例えば、先般行われた(裁判員裁判の)第一号か第二号の事案において、被告人の方が70歳代のご高齢であったのに対し、裁判員の方々はほとんど20代から30代と非常にお若い…。そういった条件下で「懲役10年」の判決が下った場合、あと10年生きられるかどうかすら判らない高齢の被告人にとっての「10年」と、まだまだ「やり直し」のきく20代から30代の人にとっての「10年」とは、意味が違うと思います。

あるいは、性犯罪の場合、先ほど村山廣甫先生がおっしゃったような男女の比率も判決に影響を与えるという点で看過できない問題です。アメリカですと、ほとんど黒人ばかりが住んでいる地域や、逆に白人ばかり住んでいる地域がありますが、特に容疑者の方が黒人だった場合、黒人の多い地域で裁かれるか、白人の多い地域で裁かれるかによって、判決が大きく異なることが多々あります。日本ではそういったケースは少ないとしても、今申し上げたような社会階層上の違いや性別の違い、老若の違い等が判決に及ぼす影響が考えられます。

また、これまでに実施された裁判員裁判は皆、「やった。やってない」という事実関係については、皆さん「(私が)やりました」と、犯行の事実を認めた被告人の裁判だけが対象になっているため、「検察側と弁護側が全面対決(やったかやってないか自体を裁判員が判断)」する話はないですよね? でも、これがもし、全面的に「私はやっていない。冤罪(えんざい)だ!」と主張する方が被告人になった場合―これからは、そういったケースはどんどん出てくると思いますが―にはどうなのか? という問題です。おそらく数日では裁判は済まないと思います。

それなのに、「裁判員裁判は3日から4日で完了します」と、この制度を定着されるために、盛んに短期間を喧伝されますが、では「これまでの裁判が、5年も10年もかかっていたのは、いったい何をしていたんだ?」ということになります。つまり、従来の法曹のプロによって行われていた裁判が怠慢であったか、これから行われる裁判員裁判が拙速に過ぎるかのどちらかになります。また、被告人が「私は無実だ!」と全面否認して争えば、当然、裁判は長期化しますよね。そういう場合、職業裁判官でない一般市民が、どれだけその裁判にお付き合いできるのか? という点についてはどのようにお考えでしょうか?

竹中ゆかり: 実際にそういう事件もありますね。本当に一から争う裁判―「私はやっていない。犯人ではない」という事件―が、実際、既に裁判員裁判に該当する事件として、裁判所に係属しております。今後、公判前に争点整理をされながらも、やはり、法廷では証拠調べ、証人尋問をしなければなりませんから、それこそ、3日間では絶対終わりません。場合によっては、無期懲役などの求刑をする可能性の高い事件が実際にあります。こういった場合、例えば、その週に連続して行われるのは3日間までとし、明けて翌週以降も3日間ずつ期間を空けながらやっていくことになると思います。もちろん、最大の努力を払って証拠を厳選して行われると思いますが、かといって、証拠を削ぎ落とし過ぎて本当の姿が見えてこないままで、いい加減な裁判を行う訳にもいきません。そういう意味では、裁判員に選ばれた国民の皆さんにはご苦労をかけることになるかもしれません。

おそらく、そういったことから「法律の運用上、対象事件としてこれで良いのか?」といった問題意識が法律の改正に繋がっていく場合もあると思われます。ですから「(現行のシステムで)問題点は全く起こらない」ことはあり得ないと思っております。今のところは、これまでに終了した裁判に関していえば、被告人は全て事実関係を認めているから冤罪は考えにくいとして、2日から3日、せいぜい4日で済んでいますが、だんだん重たい内容のものも出てまいります。今後の運用を通して、問題点も先鋭化してくると思いますので、結果的にそれが国会で議題として上程され、議論されることで法律の改正に繋がっていくと思います。

ですので、「どうお考えですか?」と問われても「そうなるでしょう」としかお答えできないですね。最大限の努力はいたしますが、ただやはり実体的な真実の発見―真相はいったい何だったのか?―を考える上で、「証拠はこれだけしかないから、これだけで決定してくれ」というのではなく、「本当にこの人が犯人なのか?」ということは、やはり見極めなければならないと、われわれ検察側はもちろん、弁護人の方も裁判員の皆さんもそうだと思います。ですから、ある程度時間がかかる事件があるということは、その通りだと思います。

司 会: その上、日本の場合、風土や文化が「個人主義が確立されている」欧米とは異なり、例えば、もし、私が被告人にされてしまい、その公判で「濡れ衣だ。私はやってない!」と強烈に無実を主張した場合―本人は「やっていない(無実だ)」からこそ、より強烈に無実を主張する訳ですが―、不幸にして被告人にアリバイなどがなかった場合、往々にして、その態度を「被告人は反省の色も見えない」と言われて、無実を主張すればするほど、実際には罰が重くなる傾向もあると思います。99・9パーセントが有罪になる日本の刑事裁判の現状では、たとえ全くの冤罪であったとしても「私がやりました。反省しています」と認めていたら、懲役3年執行猶予5年程度で済むところを、この期に及んで「反省の色もないから」と裁判員の心証を悪くして懲役5年にされてしまうという本末転倒の事態が起こり得る。

これが、キリスト教が文化の背景にある欧米では、有罪が確定するまでは、全ての被告人は推定無罪として取り扱われ、「その人が法廷でどのようなふてぶてしい態度で自己主張したか?」ということと「その人自身の犯したこと」はまったく別なこととして判断されるんですが、日本の文化的風土の場合は、裁判員裁判に限らず、これまでの職業裁判官による場合でも、被告人が事実を否定すればするほど、心証的に「(罪を犯しながら)反省の色がない」と捉えられ、『遠山の金さん』じゃないですが、むしろ「畏れ入りました」とお上のお慈悲に縋ったほうが罰が軽くなる傾向があります。

ですので、実際の公判戦術として、執行猶予狙いで「畏れ入りました」と言ってしまうほうが得だ。というような、事実関係を歪めるケースも起こり得ます。このように、被告人の真実の叫びが、むしろ「犯人のくせに、反省の色がない」といった心証から罪が重くなる傾向があるんじゃないかという点に関してはどうでしょうか?

竹中ゆかり: 必ずしもそうではないと思います。「反省の色もない」というのは、法廷で揃えられた証拠を見て「これは犯人に間違いない」という心証が取れているからこそ「反省がない」というような追及ができる訳ですよね。ですが、そもそもその証拠を認めるかどうか? というところから裁判員に説明していきますから、私は一概には言えないと思います。

司 会: 有り難うございます。この点は、冤罪との関係もございますね。他にどなたか質問ございますでしょうか?

井上昭夫: 天理大学おやさと研究所の井上昭夫と申します。例えば、法務大臣に任命された方でも、その人の信条あるいは宗教上の理由から、死刑執行を拒否される権限はあると思うんですが、そういった方が法務大臣になることについてはどうなのでしょうか?


価値観を全く事にする宗教者としての心意気で現職検事に迫る
井上昭夫天理大学おやさと研究所所長

竹中ゆかり: それは、私が個人的にどう思うかをお尋ねなんでしょうか?

井上昭夫: いえ、その方が信条として、必ず死刑判決を拒否される(つまり、死刑執行の許可をしない)ことを事前に知り得た上で、法務大臣が任命された場合、法律上はどうなるのでしょうか?

竹中ゆかり: 任命された以上は法務大臣に就任されるんでしょうね。

井上昭夫: そうなると、いくら裁判員制度であっても、検察によって被告人に死刑が求刑され、死刑の判決が出たとしても、死刑執行を命じる立場の法務大臣が「死刑は最初から選択肢にはない」という状況を創り出す可能性も起こりますよね。

竹中ゆかり: そうとは限らないんじゃないでしょうか?

井上昭夫: 死刑を執行するための印鑑は法務大臣がお持ちなんですよね?

竹中ゆかり: もちろん、そうですよ。

井上昭夫: では「殺さない(現法務大臣の下では、死刑執行が認可されない)」ということが判っていても、(最高刑として死刑が適用されるような重大事件の)裁判をやるんですか? 矛盾してませんか?

竹中ゆかり: 難しいですね。死刑の執行と判決のあり方とは、また別なので…。いわゆる「裁判員裁判」とは、有罪か無罪かを決め、有罪の場合は量刑を決定するというシステムですよね。それと「刑の執行」のあり方はまったく別の分野ですので、必ずしもリンクしないんじゃないんでしょうか?

井上昭夫: 宗教上の信念を優先するか、法律を尊重するか難しいところですね。例えば、ハワイで行われた陪審員裁判の際にも、法廷で最初に行う「宣誓」の際に、アメリカでは聖書に手を置いて宣言するのですが、ある陪審員の方が「わたしは仏教徒だ」といって拒絶し、聖書に手を置かずに宣誓したことが問題になったことがあります。私は、その結果を知りませんが、そういう宗教意識や信念が法律に関わり合う歴史的な流れの中で、裁判員制度は、法務大臣の権限について、信仰は自由ですが、前もって(死刑執行の)判を捺さないということが判っていて「主権者である国民から選ばれた裁判員裁判の出した結論と、死刑を執行するための判を捺すか捺さないかは別の問題だ」と言えるんでしょうか?

竹中ゆかり: けれども、法務大臣が本当に捺さないかどうか? という保証もないですよね。ただ、そういった方が法務大臣に任命された場合、世論が動きますよね。

井上昭夫: 宗教者は決して世論に従わないと思いますよ。

竹中ゆかり: 民主主義の世の中ですから、法務大臣がそういう「偏った発想」を持っておられて「絶対判子捺さない」ということは…。

井上昭夫: 宗教者はそれを「偏った発想」だとは思わないんですよ。法律のほうがが偏っているんです。

竹中ゆかり: 法律に不備があるということであれば、やはりそれは国会に上程して法律を改正していくという方向が民主主義のあり方ですから、ここで議論しても仕方がないことだと思います。

井上昭夫: 竹中先生は、すぐに「民主的」とおっしゃいますが、例えば、イスラエルの国会では、ある法案に対して議員全員が賛成した場合は、逆に「無効」になってしまうのです。つまり、ユダヤ人は、民主主義における全会一致を胡散臭(うさんくさ)いものと考え、「ものごとには必ず賛否両論があるはずだ」と考えるのです。ですから、どうしてもその法律を通したければ、必ず最低1人が反対に回ります。このように、変わる法律と変わらない宗教的信念の関わりを、法律家である竹中先生はどのように考えておられるんでしょうか? あなたが、ご自分の論理の正統性の根拠として主張されているその「法律」そのものが変わるものであることは認められますか?

竹中ゆかり: もちろん、法律は民意を反映する訳ですから、国会の多数決で「こういうふうに変えましょう」ということが決まれば、変わります。そこにどんな意見が盛り込まれるかは、皆さんが1票を投じた国民の代表である国会議員がどういう意見を述べるかによりますよね。また、「そういう風な意見を述べてほしい」と、それぞれの団体・組織としてアピールすることはできますよね。それがまさに「民主主義」ということだと思います。

司 会: 有り難うございます。実は、数カ月前までこの国際宗教同志会の会長を務めておられた左藤恵先生は、20年ほど前、海部内閣の法務大臣をされていました。ご承知のように、左藤先生は真宗大谷派の僧籍もお持ちでしたので、法務大臣就任時の会見で「私は(仏教の不殺生戒を守らねばならない)僧侶だから、私が法務大臣をしている間は、死刑執行の判は捺さん」とおっしゃっていました。では「何故、(死刑執行を裁可する役目の含まれる)法務大臣の職務をお引き受けになられたのかな?」と私も思いましたが…。ですから、法曹界の方が思っておられるより、宗教界の問題意識はまた異なったところにあります。先ほど井上先生がおっしゃったように、法律は変わるもので、宗教的信条は変わらないものですから、その両者が対立した時には、常に法律のほうが尊重されるとは限らないですよ。他にどなたかおられますでしょうか?

西田多戈止: 一燈園当番の西田と申します。「民意」というものは、本当に頼りないものであります。例えば、その「民意」が、小泉純一郎氏が総理大臣であった時には自民党に大量議席を与えさせ、今度は「チェンジだ」と鳩山由紀夫氏が総理大臣になるように民主党に大量議席を与えた訳ですから…。


裁判員へマスコミ報道が与える「予断」について 懸念する
西田多戈止一燈園当番

山口県光市の母子殺人事件の犯人は憎くて憎くて仕方がないと感じる一方、この間の冤罪事件(註:「足利事件」の犯人にでっち上げられ、18年間も無実の罪で人生を奪われた菅家利和さんのこと)を思うと怖いと思います。その時その時のマスコミの報道の仕方やいろんな情報によって世論が左右されていく怖さばかり感じています。これがか弱い人間の姿かと思ったりもするんですが…。

竹中ゆかり: 「裁判員の方々が、種々の情報の影響を受ける」ということは、その通りだと思います。扇情的なマスメディアの報道によって、後日、被疑者が犯人でないことが明らかになったとしても、人々はその報道により「本当は犯人じゃないのか?」と思われてしまうことは確かにあると思います。しかし、裁判員裁判で要求されていることは、そういった予断を排除していただき、目の前で行われた証拠調べや証人の話、証拠物・証拠書類を見ていただくとか、被告人の話を聞いていただくといった中で得られた心証に基づいてしか判断ができないんですね。ちゃんと理由を述べ、判断の過程を判決書きに表さないと駄目ですから、「○○放送のTVでこんなことを言っていた」とか「××さんの報道番組でこんなことを言っていた」と言っても理由として書けないですよね。

竹中ゆかり: そういう中で、裁判員の皆さんによる判断はそれなりに公平・公正なものになっていくという担保はあるんです。アメリカの陪審法では、陪審員は「有罪か、無罪か」を裁判官に伝えるだけで、そう判断するに至った理由は示しませんから、むしろ日本の裁判員制度よりアメリカの陪審員制度のほうが危ない(註:「適用される法律そのものが間違っている」と確信する陪審員が、故意に法を無視した評決を下すことが事実上可能である)と思うんですが…。日本では、必ず判決書きに「どうしてこの事実を認めると言えるのか?」と理由を述べますが、もちろんそれは裁判官と裁判員との間の評議の結果です。

ですから、議論の中で裁判員の皆さんの予断(註:法廷以外のテレビや新聞や週刊誌に書いてあったことや見聞きしたこと)は全て排除されるはずなんです。裁判官も「どうしてそう思われましたか?」と尋ねた際の回答が理由にならない理由だった場合、「その意見は採用できません。他の方はどう思われますか?」と話を振り、仮に他の裁判員の方から反対意見が出て、最初の方が合理的な反論できなかった場合、最初の人の意見は「採用しがたい」ということになりますので、その意味においては、公正な裁判はある程度担保されていると思われます。

司 会: 有り難うございます。私は幸いにも、まだ起訴されたことがないのですが、日本における刑事裁判の起訴状の主語は誰なんでしょうか? 目的語は―例えば私が被告人の場合でしたら―「三宅善信、お前を○○の罪により起訴する」となりますが、その「起訴する」の部分の「誰が」の部分です。

竹中ゆかり: 検察官ですね。

司 会: 当然、検察官ですよね。ところが、検察官というのは、国家の機関のひとつですよね? 一個人である被告人に対して、国家の機関のひとつが起訴し、これまた国家の機関のひとつであるところの裁判所という機関で裁かれること自体が、極めて不平等なことはないでしょうか? 

竹中ゆかり: 何故ですか?

司 会: 解りやすいようにプロレス興行を例に挙げますと、例えば「どんなに強いレスラーでもアントニオ猪木には勝てない」というのと同じ命題です。何故なら、一レスラーであるアントニオ猪木は、同時にその試合の興行元である新日本プロレスのオーナー社長でもある訳ですから、アントニオ猪木が対戦しているレスラーも、その試合を裁くレフリーも、皆、アントニオ猪木から給料をもらっているからです。

日本の刑事裁判の場合、いったん起訴されたら、99・9パーセント有罪になりますが、これはレフリーとプレーヤーが裏ではつるんでいるからと言われても致し方ありません。これでは、事件の唯一の目撃者が(お裁きをする)お奉行様その人だったという『遠山の金さん』と差がない。日本では200年前から基本的なシステムは変わっていないと言われても致し方ない。とても民主主義国家の刑事裁判とは言い難い。

一方、アメリカの場合は、もし刑事裁判に訴えられた場合、例えば「マサチューセッツ州対三宅善信の裁判(トライアル)」というように表現されますが、「トライアル」という言葉の意味は「やってみなければ判らない」という意味ですから、「お白州に引っ立てられてきた被告」という言葉の響きとはえらい違いです。ともかく、アメリカでは争っている相手が非常にはっきりしています。つまり、日本で被告人の立場になった場合、はじめから被告人は極めて不利な立場に立たされるんじゃないかと思います。もちろん「お前がそんな疑われるようなことをするからいけないのだ」と言われてしまえばそれまでかもしれませんが…。アメリカでは、国家の権力機構の一部と自由人たる個人がハッキリと戦う訳ですが、日本の場合、どういう風に公平・公正さが担保されるのか? 一般市民が裁判員として裁判に関与することで、裁判がより「市民感覚」に沿ったものになるのであれば良いのですが、むしろ、結果として、善意の市民が国家権力の行使(註:刑事裁判は、被告人の生命・自由・財産を強制的に奪うという暴力装置としての国家権力の行使に他ならない)することに加担することにはならないでしょうか?

竹中ゆかり: ならないと思いますね。「三権分立」という言葉がありますが、日本では司法・行政・立法それぞれが独立しているんですね。

司 会: そんなことは皆、小学校で習って知っていることですが、日本では、それぞれが本当に独立して機能していると思われますか? 

竹中ゆかり: 制度がそのように機能している以上、印象的なことを問われても、私は何ともお答えしようがないです。役所もまったく別ですし、制度がそうなっているのですから、議論のしようがないです。

司 会: 私の知人で、検察官になったり裁判官になったり、また行政官として法務省に勤めたり、あちこちの役所を何度も異動されている方が居られますが、三権分立の手前、裁判官の身分のままでは行政官は務められませんから、判事から、いったん検事になって、経済産業省へ出向された後、再び裁判官になられたりしています。「制度として三権分立があるから、それぞれ分かれている」とおっしゃいますけれども、実際われわれから見たら、これらの身分は「イケイケと違うんですか?」という風に思えるのですが…。

竹中ゆかり: しかし、職業裁判官は「良心と日本国憲法のみに従って裁く」ということで、忠誠義務を課せられています。それを守っているかいないかはそれぞれの裁判官の資質による訳です。仮に守っていない裁判官へは、実際「弾劾裁判」というものもあります。ですから、制度としては担保されている訳です。それが実際どうなのか? というと、それは個々人の持つ印象の問題なんですね。そういったご批判があることは粛々とお受けしますが、少なくとも制度がズルズルということではありません。

司 会: 民主主義はコストが高いですから、初めからベストなものができあがるとは想定されていません。試行錯誤でいろんなことをやってみて、高いコストを払いながら、より良い方法へ進めていくことがプロセスです。ですから、竹中先生のおっしゃることはよく解るのですが、一方で「私と同じように思っている人も少なからず居るのではないかな?」と思います。

滝澤俊文: 神奈川県から参りました、むつみ会の滝澤と申します。2点ほどお伺いしたいのですが、最初に「裁判員になれない」項目の4番目に「不公平な裁判をする恐れがあると思われる人はなれない」とあります。それは、裁判所が認定するということですが、例えば裁判官と検察官と弁護人がそれぞれ意見を言えるということでしょうか? それとも裁判官だけの判断で決定されるのでしょうか?

竹中ゆかり: 選任されないかどうかを認めるのは、3名の裁判官の合議で決められます。ただ、それに対して、検察官や弁護人は「この人は不選任にしたほうが良いです」という意見を述べ、不選任請求をすることはできますが、最終的にそれを決定するのは裁判所です。

滝澤俊文: ということは、一応裁かれる弁護側も、裁く側の検察側も意見を言えるんですね。


「現住建造物放火罪」の認定について質問する滝澤俊文むつみ会宗務長

2点目は、今朝の朝日新聞に記事が載っていたのですが、確か「裁判員裁判の対象事件としては、放火事件は「人が現に住んでいる建物が対象になる」ということだったんですが、横浜の事件では、蓋を開けてみると、ビニール傘か何かに放火したのですが、放火した本人の「人が住んでいる建物に放火するつもりは全くなかった」という言い分が認められ、結局「人が住んでいないものへの放火」ということで、裁判員裁判の対象事件でなくなるようなのですが、そういった事件の場合も裁判員が関わることになるんでしょうか?

竹中ゆかり: そうですね。起訴した時点の証拠関係から検察官が判断したのが「現住建造物等放火罪」に該当すると…。この事件では「家以外のものに火をつけた」ということですが、それが「媒介物」として近くにある民家が延焼する可能性があることが解っているにも拘わらず、「それでも良い(燃え移った時は、燃え移った時だ)」と思って放火したならば「『現住建造物等放火罪』の着手がある」と法律上認定されます。ですから、そのような(対象事件として)処理をしたのだと思います。

ところが、証拠関係から見て、また裁判員のお話なども聞いてみた結果、「やはり本人が言うとおり、家にまで燃え移るとまでは思っていなかった」という弁解が、まったく信用できるかどうかは別として「合理的な疑いということで、認定しがたい」と判断された場合、「建造物等以外放火罪」に認定落ちしたという刑です。ですから、法律の適用によって罪名が変わった訳で、起訴する時点では証拠関係から「これは現住建造物等放火罪で行ける」と判断され起訴したため、対象事件ではあります。ただ、審議の過程で認定が落ちていくということは十分にあり得ることです。例えば、殺人罪や殺人未遂罪も裁判員裁判の対象事件ですが、当初「殺人未遂罪」で起訴したけれども、審議の過程でどうしても殺意を認定することができない場合、この事件は「殺人未遂罪」ではなく「傷害罪」に認定落ちすることもあります。

滝澤俊文: 良く解りました。有り難うございます。

司 会: 私個人は「国民に法律や行政をより理解させるため」としての裁判員制度そのものには大賛成ですが、プロの裁判官もそうだと思いますが、不幸にして「死刑」という判決に至ってしまった場合―今のところ、まだ裁判員裁判で死刑判決は出ていませんが―やはり、死刑判決を下した裁判員の方の心情は大変重いものを一生背負っていかなければならないものがあると思います。そういった重い責任を、職業裁判官でなく、一般市民に負わすということは、もちろん「法律で決まったこと」なので仕方ないことではありますが、一方で法律は普遍ではありませんので、「もし、将来、死刑制度が廃止された場合、誰がその重い心的負担を一般市民に追わせたことへの責任を取るのか?」という問題もあります。

まだ、わずか数カ月しか裁判員裁判が実施されてませんが、そのわずかな傾向だけから見ても、これまでに下された量刑を見ると、ほぼ検察側の求刑に近く、(「求刑の八掛け」が相場といわれる)プロの裁判官の判決よりも重い刑罰が下る例が多い印象を受けます。むしろ、国民の感覚を導入することに重点を置くならば、刑事裁判よりも民事裁判のほうが良いのではないでしょうか? 猥褻(わいせつ)の概念も昔と比べると随分様変わりしていますし、罰金の金額も数十年前の100万円は現在の1億円ぐらいの感覚があります。そういった「時代と共に変わるもの」に関しては「国民の常識」に頼ったほうが良いのではないでしょうか? そして刑事訴訟の場合は、かつてあった同じ様な事件の量刑との整合性―昨年は同じような事件が懲役3年だったのに、今年は懲役10年になったとか―が問題になります。個別の対象事件に関する証拠や見聞きした内容から判断する裁判員が審議に加わることによって、被告(あるいは判決確定者)間に法律の適用に関する不平等が生まれる可能性があるとは思われませんか?

竹中ゆかり: その点については、確かに施行前に繰り返し実施された模擬裁判の段階で、裁判員役の方から「量刑の基準が判らない」といった意見が出ておりました。そこで討議した結果、「量刑データベース」へ、同じ罪名で、被害者の人数、被害状況、凶器、被疑者の背景などのキーワードを入れて検索した結果、どのぐらいのスパンで、どれぐらいの幅で、どれぐらいの量刑がかつて適用されたかという、いわゆる「量刑傾向データ」を抽出し、評議の際に見せることになっています。ですので、今おっしゃったような「施行前は懲役3年だったのに、今年からは懲役10年になった」という並外れた結果にはならないと思います。重要なことは「国民の皆さんがどう考えているか?」です。一般感覚を裁判の中に活かしてゆくことが、この裁判員制度の本来の骨子です。

例えば、青森の第一号事件(性犯罪)においては、(予想以上に)非常に高い量刑を得られた訳ですが、現在、被告人は控訴しておりますので、それが良いのか悪いのかという私自身のコメントは差し控えますが、われわれ法曹関係者の間では、「性犯罪」はこれまで、強盗などの事件よりも低いものに見られてきた傾向がありました。

竹中ゆかり: しかし、これでようやく刑法上の刑罰の高さが追いついてきたように感じますが、運用面はどうかと言うと、かなり開きがあると実感しました。つまり、女性1人が強姦に遭ったということは、それこそ人生無茶苦茶にされるぐらい凄く重い出来事なのだということを、裁判員の皆様にも感じていただけたのかな、と思いました。このように、量刑に民意が反映されるならば、この制度にも意義があったのかなと思います。

司 会: 有り難うございます。逆のケースとして、殺人未遂で、実の息子に殺されかかった被害者である父親が、裁判員に対して「なにとぞ穏便に…」と取りなし、実際にかなり刑が軽くなったケースが最近、大阪でございました。おそらく素人の一般国民は、こういった感情の部分をより重んじる傾向があると思うのですが…。

竹中ゆかり: あの事件は、私自身が法廷に立っておりましたから良く解るのですが、被害者の怪我自体もそれほど重度なものではありませんでした。同じ殺人未遂(註:人を殺害することを意図して犯罪の実行に着手しながら、これを遂げられなかった行為のこと)であっても、相手を死にそうな状態にすることと、10日間で治る怪我だったのとでは、自ずと量刑に開きが出てまいります。もちろん刑を出すに際して、被告人の動機、背景事情、被害者と被告人との関係、被告人の更生可能性といったさまざまな要素が加味された結果、更生可能性に重点が置かれ、執行猶予が付されたということです。「殺人未遂なのに、何故、執行猶予が付いたのか?」と思われるかもしれませんが、その人は罪名を見ただけで判断されていると思われます。実際法廷をご覧になられた方ならば、おそらく同じ気持ちを持たれたのではないでしょうか? 適切な判断だったと思います。

司 会: それから、これまでの裁判員裁判では「被告人が心神耗弱(こうじゃく)状態であった」というケースはまだあまり出ておりませんが、これも非常に難しいケースだと思います。というのは、宗教的に申しますと「プロの殺し屋」でもない限り、人が人を殺(あや)める場合は、たいてい殺す瞬間は「何がなんだか判らない」精神状態になっていると思われます。被害者を執拗に何度も刺してしまったのは「深い殺意があったから」というよりはむしろ「興奮して思わず何度も刺してしまったからだ」と言えます。例えば「会社を早退して家に帰ったら、妻が浮気をしている現場を目撃してしまった。そこで思わず逆上して台所にあった包丁で妻を刺してしまった」といったケースが起きた場合、後から考えたら「何故、そんなことをしてしまったんだろう?」というようなことを、人間という存在はしてしまうものだと私は思います。

つまり、普通「人が人を殺す」という行為は、たいてい逆上して殺している訳ですから、どの人もその瞬間だけ「心神耗弱状態であった」と言えます。ところが、その瞬間だけ心神耗弱状態であった健常者は殺人罪に問われて、もう少し長期間心神耗弱している方は、逆に「本人に責任能力がない」ということで無罪放免になる…。このバランスに関するこれまでの職業裁判官の判断は、一般市民の感覚とかなり異なるという気がするのですが、如何でしょうか?

竹中ゆかり: 難しいですね。従前の裁判においては、その辺りを職業裁判官が判断していた訳ですが、その判断材料として、捜査段階の供述もさることながら、法廷での被告人の供述であるとか、拘置所での勾留生活における異常行動であるとか、精神的な疾患を持っているというのであれば主治医の意見であるとか、過去の診断書などのすべてを分析し、精神鑑定を通して専門医の方に診ていただき、心神耗弱なのか、完全責任能力があるのかをご判断いただく材料を提供しますので、決して裁判官が主観的に「こうだ!」と決めてかかっている訳ではないんです。つまり、客観的な資料が担保されている中で、判断されてきたという実情があります。同じことが裁判員裁判で行われる訳で、それを理解していただけるように立証活動をしていくのがわれわれの役目ですから、裁判員裁判になったからといって、その判断が大きくブレるという危険性は考えていないんですね。

司 会: では、他にどなたかご質問がございますでしょうか?

山田隆章: 融通念佛宗の山田隆章と申します。失礼ですが、私は、法律の専門家の先生方が、宗教が言わんとしていることについて、本当に解っていてくださっているのか…?と思っております。卑近なことを申しますと、日本では、宗教家は、たとえどんなに立派な活動をいたしましても、叙勲や○○褒章といった賞をお上(かみ)から頂くことは無いわけです。宗教家がお上から頂く時は、その人が「保護司をしていた」とか、「教誨師をしていた」という場合のことであって、その方面からなにがしかの賞を頂かれる方も居られますが、それはあくまでも「保護司」や「教誨師」としてであって、宗教家としての本来の働きに対してではありません。


裁判員制度の“前提”となっている「客観的な正義によって人間は
常に正しい判断をする」という考え方そのものを真正面から問題視する
山田隆章前融通念佛宗宗務総長

ところが、この裁判員裁判では、宗教家も一般市民の1人としてこれに参加します。私は仏教徒ですが、仏教には「五戒」とか「十戒」といった戒律がありますが、その一番最初に挙げられるのが「不殺生戒」です。ですから、人が人を殺すなど、如何なることがあっても正当化されるものではありません。われわれ宗教家は、ある面において、法律よりも厳しい一面を持っていると思います。例えば、先ほどから竹中先生は「証拠を以て判断する」とおっしゃってますが、仮に私が「あの人が憎いな。あの人と同じ空気を吸っているだけでも嫌だ。あいつを殺してやろう」と、心の中でその人物を殺す稽古をしたとします。たとえ、実際の犯行に及んでいなくとも、仏教では相手を憎むことそのもの、「殺してしまおうか」と心中思うこと自体が大罪な訳であります。ですから「現象」として出てきたこと(=犯行)だけで判断するという姿勢に、「それで良いのだろうか?」と疑問を感じます。

今般の裁判員裁判とは、われわれにしてみれば、非常に難しい司法試験をくぐり抜けて来られたエリートの方々が、「司法に一般国民の意見をより反映させるために」と思われて実現させた制度であります。また、われわれは「国民審査」といった形で以て、総選挙のたびに最高裁の判事を審査する機会も与えられてもいます。そうして選ばれた法曹界の方々に、裁判について本質的な判断を委ねているにも関わらず、一般国民の感覚とは全然違うような気がいたします。特に、宗教家がその行動規範の拠り所としている「こころ」の問題にしても、法曹界の方々は十分これを斟酌してくださっていると安心して良いのかと思っていたところ、今日こうやって実際に法曹界に身を置かれる竹中先生から詳しくお話を伺う機会を得た訳ですが、かなり違っているような気がしましたが、竹中先生はどのようにお考えでしょうか?

竹中ゆかり: 今、伺った内容は、ご意見として拝聴させていただいたんですが、先生のご意見に対して私がどう思うかというご質問でしょうか?

山田隆章: 法律家の方々が、われわれ宗教家が申し上げたような事柄を、本当にご理解いただいた上で、裁判員裁判のような制度ができたのかどうかについてお伺いしたいです。

竹中ゆかり: この制度は国会で審議されてできあがった法律ですので、その中でいろんな考えが表明されているはずなんです。ですので、宗教家に対してまったく無理解な方ばかりが国会議員になっているとは考えにくいのですが…。お答えになってますでしょうか?

司 会: 竹中先生がおっしゃるような、客観的で、われわれ個々人の心情から乖離(かいり)したところにある「理念としての正義」ですとか、「多数決は正しいものを導き出すであろう」という前提を、おそらく宗教者は前提にしていないんじゃないかと思います。そんな前提によって世の中が成立しているのであれば、戦争なんて起こらないはずなんです。しかし、実際には戦争も人殺しも、毎日のように起こっています。それはつまり、「客観的な正義」によって「人間は常に正しい判断をする」ものではないという考えに基づいて、多くの宗教―キリスト教にしても、イスラムにしても、仏教にしても―は成り立っているんじゃないかと思います。もちろん、世の中には世俗の世界と宗教の世界があり、日本は特に世俗性の強い国ですから、竹中先生のご意見のほうが多数派になるかもしれませんけれども…。これがアメリカに行くと全く違う。もちろん、イスラム圏でも全く違います。

もちろん、本日、先生がお話になられたことを心底、先生自身も「それが本当だ」と思っておられるかどうかは判りません。お立場的に、そうでないと検事という仕事は務まらないからおっしゃっているのかもしれません。しかし、宗教者は「愛」や「正義」といったものが本当に成立しているのかというところから疑っているのが宗教者だと思います。そこが、本日のディスカッションが噛み合わないことの理由としてあるのではないかと私は思いますが、先生如何でしょう?

竹中ゆかり: 今のは「ご意見」ではなかったんでしょうか? では、私の「感想」として述べさせていただくと、確かに拠って立つ所が違うので、おそらく話が噛み合わないんでしょうし、結論も出ないでしょう。しかし、私はあくまでも自分の考えを述べているだけであって「私の言うことが正しいのだから、私の言う通りにしなさい!」と言っている訳ではないんですね。ですから、そこのところを愛の精神でご理解いただければと思います(会場笑い)。

司 会: 何故、こういうことを申し上げるのかというと、先生は検察官という国家権力を行使する立場に居られますから、例えば「三宅善信はけしからんからパクれ(逮捕せよ)」と思えば、私の自由を奪うことができる立場に居られるんですよね。つまり、そういう暴力装置としての国家権力を行使する立場にある方は、普通の人よりも、よくよくそういったことをお考えいただいてご配慮いただきたいという思いがあってのことです。

私は、本日は最初の第一歩だと思っております。裁判員制度も始まったばかりで、試行錯誤しており、もちろん検察官も、裁判所も、弁護士も「こういう風になるだろう」と予想して始めたことがそうならないこともたくさんあるだろうと思います。それは徐々に進めていくことによって、先ほど申し上げたように「民主主義のコスト」ですから、修正を重ね、よりベターなものを創り上げていく必要があると思います。その点、宗教ははじめからベストを目指していますから、発想の向きが違うといえば違うのですけれども、民主主義の制度としてもよりベターなものを目指していかなければならないと、私も国民の一人として思っております。

ですから、今日は、宗教界と法曹界の交わりの第一歩だと―法曹界の先生からしてみれば、もう宗教家と話すのは懲り懲りだと思っておられるかもしれませんが―思っております。宗教界も、裁判員制度に対して大変関心を持っております。先ほどお話の中で「裁判員になる確率は約5,000分の1」とおっしゃってましたが、これは1年間の確率ですから、20歳から70歳までが裁判員に当たる当該年齢とすると50年間ありますから、100人に1人が経験する―大阪なら犯罪が多いですから50人に1人くらいの確率で当たる訳ですが―それでも1人の宗教家が一生のうちに裁判員に当たる確率は低いですけれども、皆さんの檀家さんや氏子さん、信者さんが当たる確率なら毎年、誰かが当たる訳です。その時に、檀家さんや氏子さんや信者さんから「先生、裁判員に当たってしまったんですけれども…」と相談を持ちかけられる確率はものすごく高いです。そういう点で、宗教家が裁判員制度について学ぶ意味は大きいと思います。これをきっかけに、皆様も裁判員制度について学んでいただき、竹中先生がおっしゃったように「制度は改革していくものだ、制度はみんなで創り上げていくものだ」ということも含めて、今後とも、注目してゆきたいと思います。先生どうも有り難うございました。

竹中ゆかり: 有り難うございました。

(連載おわり 文責編集部)