国際宗教同志会 平成22年度第1回例会 記念講演
『私の外交体験と日本の役割』

外務省 関西担当 特命全権大使
田邊隆一

2010年2月5日、金光教泉尾教会の神徳館国際会議場において国際宗教同志会(平岡英信理事長代行)の平成22年度第1回例会が、各宗派教団から約50名が参加して開催された。記念講演では、昨秋まで駐ポーランド特命全権大使を務めていた、外務省の田邊隆一関西担当大使を招き、『私の外交体験と日本の役割』と題する講演と質疑応答を行った。本サイトでは、この内容を数回に分けて紹介する。


田邊隆一大使

▼願ってもない関西赴任

ただ今、ご紹介いただきました田邊でございます。京都宝ヶ池の国際会館で、昨日(2月4日)今日と「関西財界セミナー」という会議が関経連と同友会の共催で開催されていまして、今日はそちらから直接移動してきたため、間に合わないかとハラハラしましたが、ギリギリ間に合い、ホッとしております。

去年(2009)年の9月20日にポーランドから帰朝してすぐの9月下旬に、岡田克也外務大臣から「関西へ赴くよう」と任命がありました。私はもともと京都府綾部市の出身ですので、「関西で仕事ができる」と大変喜んでおります。という訳で、10月1日に大阪へ転勤してきましたが、まだポーランドから引越荷物も届かないうちに、早速、10月2日からオーストリアの大統領ご夫妻を大阪でお迎えして以来、今日までに、大統領4名、首相2名、副首相2名、外務大臣4名、その他の大臣を含めると全部で14名の国公賓・要人をお迎えしました。つい最近は、ベトナムの副首相も関西を訪問されましたが、記録によると、これだけの短期間に外国要人の公式訪問がこれほど集中したことは滅多にないということです。

お配りした私の略歴の中にも在任期間中に起こった出来事がちょっと書いてありますが、いろんなところへ赴任する直前に、あるいは行っている間に、驚くような事件がよく起こりました。これは私の宿命なのか、運命なのか知りませんけれども、そのタイミングに合わせて何かが動くことがよくありました。私が行くまでは静かだったところが、いざ行く段になると何か事が起こりますので、今回も「関西に行く」と申しましたら「何が起きるかね?」という話がありました。ポーランドに行く前も、同僚から「あなたは紛争付いているからまた何か起こるかもしれないね」と言われたんですが、既にポーランドはNATOにもEUにも加盟していますから「そんなことはない。良いことしか起きませんよ」と言っていました。

後ほど詳しくお話しいたしますが、私が居る3年の間に、日本企業は100社増え、現在は250社がポーランドで事業を展開しております。その中には関西の企業も多く含まれますが、私は非常によい展開だと思います。そんな流れの後に関西へ赴任し、来た途端に要人の訪問ラッシュを受けましたが、これも良い動きだと思っております。ちょうど橋下徹知事による(府庁の)WTC(移転)や関空の話題がよくテレビで取り上げられていますので、関西は今、非常に注目を浴びていると感じています。

私は「関西」を勝手に広く解釈いたしまして、(一般的な近畿2府4県だけではなくて)今日までに福井県から徳島県までだいたい車で8,000キロ走りましたが―関西広域機構の定義では「鳥取県も関西だ」ということですから、来月は鳥取県を回る予定です―各府県の知事と、県庁所在地の市長と、それから商工会議所等の経済界の幹部の方とお会いして、「如何に関西をPRしようか?」あるいは「関西と世界との関係を深める上でのお手伝いができないか?」と日々仕事をしております。本日は、大変素晴らしい機会を頂きましたので、私が経験したことをご説明し、その時どういった考え方で仕事をしてきたか? あるいは、その後の日本の役割はどういったところにあるのか? といったことを、個人的な体験からお話しさせていただければと思います。

まず、外務省に入りましたら「ドイツ語での研修を受けよ」ということで、フランクフルトで研修を受けている最中の1972年に、ミュンヘンでオリンピックが開催されました。「オリンピックで日本からもスポーツ選手が大勢来られる。その他にもいろんな方々が来られるので、そのお手伝いをせよ」ということで、ミュンヘンにまいりましたら、ミュンヘンオリンピックの最中にテロ事件(註:パレスチナの武装組織「黒い9月」による、オリンピック選手村でのイスラエル選手人質占拠事件。西ドイツ警察のミスで結果的には人質が全員射殺された事件)が起きました。

当時、私たちは車で毎朝ラジオを聞いていたんですが、「オリンピックの平和が破られた!」というニュースが耳に飛び込んできました。直感的に思ったのは「もしかしたら、日本赤軍が起こした事件じゃないか?(註:この5カ月前に日本人テロリストがテルアビブ空港で乱射事件を起こした)」ということでしたが、東京からもすぐに「日本の赤軍派の事件でないか、あるいは日本人がこの事件に関わっていないかを調べよ!」との指示が来ましたので、結局2日間ぐらい徹夜をしたのを覚えています。最後は非常に悲惨な事件として終わりましたが…。当時は、過激派による人質事件やハイジャックといったテロ事件の非常に多い時代でした。


▼ベルリンの壁崩壊

70年代にミュンヘンでそういう経験をして、フランクフルトでさらにドイツ語を少し勉強した後に、西ベルリンの日本総領事館で勤務をいたしました。当時の西ベルリン(註:第2次世界大戦の結果、敗戦国ドイツの首都であったベルリンは、米英仏ソ4カ国によって分割統治され、ソ連によって占領された東ベルリンは、そのままドイツ民主共和国=東ドイツの首都となったが、米英仏3カ国によって占領された西ベルリンは、東ドイツによって周囲を完全に包囲された陸の孤島、いわばドイツ連邦共和国=西ドイツの「飛び地」のような状態であった)は、まだ街中から郊外に至るまで延々と「ベルリンの壁」に囲まれており、非常に閉塞感がありました。

西ベルリンの郊外を車で走って行きますと、緑の森や湖があってきれいなんですが、少し行くと必ず目の前に「Grenze (国境)」と書かれた壁がドーンと出てきて、監視員が哨戒(しょうかい)する塔もいっぱい建っておりました。また、壁づたいに歩きますと、東側から逃げてこようとして撃ち殺された方、あるいは運河を泳いで撃ち殺された方の十字架がずっと立っています。当時、西ベルリンに勤務した時、私は毎日仕事で東ベルリンにある駐東ドイツ日本大使館に行っておりました。「チェックポイント・チャーリー」というアメリカとソ連によってそれぞれ占領されていた地域間のチェックポイント(検閲所=国境)があり、そこで一般の観光客もそうされるように、たとえ外交官でも、徹底的に調べられた後に東側へ入りました。東へ入りますと、すぐに後から尾行車が付いてくるような、まったく自由のない、非人道的な別世界がそこにありました。


現代史の「現場」での体験を語る田邊隆一大使

当時の東ドイツは、統計的には「コメコン(註:ソ連の主導で東欧を中心とした共産主義諸国間の経済協力機構)」と呼ばれる東欧諸国の中ではトップの経済力を持っているということでしたが、実感で言いますと、マーケットには果物もなく、野菜は腐っているという有り様で「これが東欧諸国で一番の優等生なのか?」という印象でした。当時は「(米ソ間の)緊張緩和の時代」ということで、非常に「デタント」という言葉が流行っておりましたけれども、ベルリンに居りますと何のことはない、目の前には相変わらず延々と鉄条網が張り巡らされている訳ですから「何も変わっていないんじゃないか」と感じていました。私が勤務していた間にも、トンネルを掘って逃げてきたり、あるいは棒高跳びの選手が棒高跳びの棒を使って逃げようとしたりと、いろんなケースがありました。最初の勤務地がベルリンであったことによって、私は、特に自由と人権の重要性において非常に多くのことを感じました。

ある時、東ベルリンの教会関係者から招待状が届きました。東側の一般市民が西側の外交官と接することは厳しく制限されていましたが、ある筋を通して連絡をいただき、東ベルリンのある小さなアパートを訪問しました。そこで食事をいただいて話をした時のことを覚えておりますけれども、東側市民にとって、情報はどんどん西から入ってきますし、電波には国境はありませんから、テレビのチャンネルを捻ると西側の豊かで自由な状況を知ることができ、自分の精神世界も拡がるんですが、物理的には一歩も東ベルリンから西ベルリンへ行くことはできない状態でした。

この壁がなくなった後も、あれほど憧れていた西側へ行った人々の多くは、夢破れて結局「自分の故郷は東ベルリンだから」といったん西側へ行ったとしても戻ってくることになるのですが…。1989年11月の「ベルリンの壁崩壊」以前とでは、移動の自由がないという点が1990年以後と大きく異なります。当時の東ドイツの人々にとって「外国旅行」とは、せいぜいハンガリーやチェコといった東側の国々を旅することだけでしたが、壁がなくなったことで、お年寄りなどは「昔の記憶に残っている(共産化以前の)ドイツを訪問したい」とずいぶん言っておられました。

ちょうど3回目のドイツ勤務をしていた1989年にベルリンの壁が落ちる訳ですが、当初勤務していた1972、3年頃のベルリンでは「この壁が崩れ落ちることなどあり得ないだろう。たとえ壁が崩れるにしても、あと100年ぐらいはかかるだろう」と思っていましたし、80年代の初めの段階においてさえ同じような感想を持っていました。ですから、ベルリンの壁が崩れて東西両ドイツがひとつになった時、「われわれは『コメコンの優等生』と言われた東ドイツを過大評価していたな」という実感を持ちました。皆様も、統計を見る時には「独裁国家、あるいは権威主義的な国の統計というのは信用できないものだ」という目を持って、発表されるデータを見ていただいたほうが良いのではないかと思います。


▼日本のPR役として

東京へ帰ってきてからは、国内広報課で外国の情報をできるだけ国内へ伝えてゆく仕事をやりました。それから、アジア局で南アジア、インド等々を担当しました。当時はタイやシンガポールといったASEAN(東南アジア諸国連合)は非常に華やかだった時代で、1970年代のインドは、日本にとってまだまだ「遠い国」でした。

しかし、日本のタンカーは、産油国のあるペルシャ湾から広いインド洋を横切ってマラッカ海峡を通過して日本へ戻ってくる訳ですから、海上交通の要衝マラッカ海峡はもちろん大事なのですが、当時の私は「何故、もっとインド洋を大事だと言わないのか?」そして「インド洋の周辺国をもっと大事にしなければいけないのではないか?」という問題意識を持っておりました。当時、私は外務大臣に、長年日本から誰も要人が行っていない国へ行っていただきましたが、やはり、もともと親日国であるインドやスリランカなどの国々との関係を、ASEANだけでなく、もっと大事にするべきであり、ましてタンカーが通ってくるインド洋は、もう少し大事にするべきではないのか? このシーレーンをいったい誰が守るのか? と思っておりました。

その後、大臣官房という中枢の部署におりましたけれども、その折「日本は中南米との関係が弱いのに、外務省に当該する地域局がないのはおかしい」ということで、中南米の国々十数カ国を回った後、中南米局というものを立ち上げる仕事に関わりました。中南米は、移住された日系人の2世以降の方々が大勢活躍されており、大変日本との血の繋がりや絆のある国々ですから、そういった国々との関係は大事にすべきであるという訳です。
それから再び1980年に「ドイツへ戻れ」という指示がありました。それは日本製の小型車がドイツの市場で売れ始めた頃でした。日本車はコンパクトで燃費が良く、サービス網の充実が図られていました。ドイツはその昔、日本製のカメラに市場を席巻された苦い経験がありますから、「今度は自動車産業が危機に瀕するかもしれない」と、不安を持ちました。私は大使と一緒にドイツ中を4万キロ走って講演活動を行い、「日本の自動車が売れる理由は何か?」そして「ドイツの自動車―私も長年ドイツ車に乗っていますが―も、日本の国内にサービス網を拡げてゆけば、どんどん売れる」ということに加え「サービス網が充実していないのは、ドイツ側の努力が足りないのでは…?」といった反論もずいぶんしました。その2年後にBMW等が日本の各県に支店を出してサービス網を作りました。その後は皆様もご承知の通り、日本中何処でもドイツ車が売れております。

現在は、こういった自動車の問題も含めて日独間の貿易のインバランス(不均衡)も解消されていますが、当時はまだドイツから見て日本は「遠い国」でしたが、日本車の輸入問題を通してドイツ人たちが真剣に「日本」という存在について考え始めたと思います。1981年、82年頃にドイツの新聞で「日本は“再発見”された」という特集が組まれ、多くの人が日本の良さを知ると同時に、弱点―「日本人は休みも取らず、住宅環境もあまり良くない。だから日本の経済活動に対して、われわれはさほど驚くことはない。逆にしっかりと輸出をしよう」といったように―も知られることになりましたが、結果的に良い方向へ動いたと思っています。


▼インドネシアの国づくりに協力して

その後、今度はインドネシアへ赴くことになりました。経済協力担当ということですが、当時のインドネシアはまだ、スハルト大統領による独裁体制でしたが、日本は一生懸命国づくりを手伝っておりました。初めての南の国(途上国)ですから、インドネシア語を学び―書店の語学コーナーに行きますと、よく『2週間で○○○』といった簡単な語学入門編がありますが、私は海外赴任の内示をもらうと、だいたいまずこういった本を購入して―行くまでにその国のある程度の基本的な会話を勉強していきます。これまでに赴任したすべての国でも、最低限、原稿を読みながらなら、スピーチだけは現地語でできるようにしております。

幸い、インドネシア語は、外国語として修得するには非常に簡単な言葉で「私、行く、明日」とか「私、行く、昨日」といったようにすれば良いだけで、「行くでしょう」とか「行きました」のような未来形や過去形といった動詞の変化が何もありません。インドネシア語ができれば、言語的に近縁なブルネイ語やマレーシア語もだいたい解るから「これはしめた!」と思いましたね。また、日本語と語感が非常に似ていて「プランプラーン」は「ゆっくり歩く」という意味で、「ウダラ」は「空気」ですが、日本語にも「うだるように暑い」という表現があります。他にも「疲れた」にあたる「ペチャ」は、「ペチャンコになる」ようで、何か日本語と通じるものを感じます(会場笑い)。おかげで、なかなか体からインドネシア語が抜けず、今でも覚えております。

私が出会った経済協力の関係者の方々と、最初は英語で仕事をしていたんですが、そのうちこちらがインドネシア語を話し始めますと、面白いことに、向こうから返ってくる返事が日本語なんです。まず、こちらが相手の言葉を学んで話しますと、向こうも「タナベさん、実は俺も今、日本語を勉強していて日本語の辞書が欲しいんだけど…」といった話もしました。そんな中でインドネシアの国づくりに関わりました。私の作戦は、やはり1年ごとに計画しても仕方がないので、5カ年計画と日本の政策を摺り合わせて、1年がかりで準備を重ねました。相手は「これも必要だし、あれも必要だ」といった調子で、分厚い本(計画書)を出してきますが、そのままではメリハリが効かないということで、日本からの調査団とわれわれが一緒になって、1週間ぐらい時間をかけて分野を6つぐらいに絞り込みました。おかげさまで、巧くいったんじゃないかと思うんですが…。

今は随分きれいになりましたけれども、私が居た当時は、ジャカルタの日本大使館の後方を見ますと、大きなスラム街がずっと拡がっていました。ODA(政府開発援助)はやはり、金持ちのための協力ではなく、一般の貧困層のための協力をしなきゃいけないと思います。例えば、人口1,000万人以上の大都市であるジャカルタの救急病院を見に行ったんですが、非常に建物自体も老朽化しており、機材も古いものを使用していたので、「これでは駄目だ」ということで、その病院へは無償援助で医療機材を入れました。

しかし、機材を入れるだけでは不十分で、人材を育成するためにも、青年海外協力隊や専門家が現地へ赴く必要があると思い、2年以上かけて青年協力隊を入れていただく交渉をいたしました。そうやって救急病院を造り、私が離任してから1年ぐらい後のことですが、大規模な列車事故が起きました。金持ちの方々は、石油資本関係の大きな民間病院に運び込まれます。それは「お金を払えばすぐに診てもらえる」ということですが、これは裏返せば、「お金を払えない人は診てもらえない」ということになります。つまり、「世の中すべては金次第」という世界です。ですから、インドネシアに居る間は、われわれも常に、自宅にある程度現金を持っておき、何かあれば「まずお金を見せて」から治療を受けるような状況でした。事故が起きた時、一般市民の方々は公立の救急病院へ運び込まれたのですが、日本からのODAで救急病院を造っておいたことが幸いして、多くの方のいのちが助かったと聞いております。このように、当時は実際に一般市民の役に立つような経済協力を心がけていたことを覚えております。


▼貿易摩擦の最前線で

インドネシアから戻ってきますと、日本と欧米間の経済摩擦で、日本には莫大な貿易黒字がありました。「これを何とかしろ」ということで、霞ヶ関の諸官庁と毎晩ある意味「喧嘩」でございました。外務省は、「国益のために国内政策を変えなければいけない」という場合、あらゆる官庁と議論し、政策を変えていただくように持っていきます。当時、国内にはさまざまな規制があり、皆さんの実際の生活に関わる話ですと、当時は「チョコレートやウイスキー、ワインの関税が高い」とか「チューリップの球根は輸入できない」といったようなことを、国内の関連業界との絡みも踏まえつつ、「日本がもう少しオープンな経済市場になれば良い」ということで、当時は朝から晩まで外国から要望されるものを持って、国内の調整に当たりました。

その後、アメリカとの関係で、当時は「ジャパン・バッシング(日本叩き)」と言いまして、アメリカと日本間の貿易摩擦がいっぱいありました。加えて、アメリカからの「日本文化や日本のシステムはすべて異質であり、日本はそういった日本独特の制度を変えるべきである」といった文化摩擦もありました。

しかし、これはやはり「日本のことを理解されていない」ということで、アメリカに対するキャンペーンをやりました。当時、経団連の副会長をされていたソニーの盛田昭夫氏にも一緒にニューヨークへ行っていただき、「チャリティーをやろう」ということになりました。政府だけでできる話ではありませんから、現地に進出された企業の方々にいろんなところへ顔を出していただき「ひとり1ドルですから、いちいち本社にお伺いをたてる必要もないでしょう」と声をかけていただきました。また、「人道的なことへのご協力もしていただきたい」と、ワシントンで官民合同会議を開きました。日本というものをどう理解していただくか? ということをやりました。

「日本の国家とは、いったいどういう国ぶりなのか?」ということが外から見えないことが「どうも欧米とは異なる異質な国家ではないか」という見方に繋がっていたのではないかと思います。これは「貿易黒字を減らす」といった具体的な案件への対応を指すのでなく、より本質的な意味で、「日本は、世界に貢献する国なんだ」というイメージをきちんと創り出していく政策や外交を行わなければいけないのではないか? というのが、その折に議論された内容です。要するに、日本が経済協力も含めて「世界の平和、世界の安定のために、常に協力をしている国である」という方針に基づいて外へ向けて発信してゆけば、「日本は世界のために貢献している平和国家である」というイメージが強くなると思っていました。これが1985、86年の頃の話です。


▼ベルリンの壁が崩れても…

その後、また3回目のドイツ大使館(駐ボン)勤務となりました。1988年に出向き、1989年にベルリンの壁が落ちました。そして、西ドイツの通貨である西ドイツマルクがすぐに東ドイツへ入り、東ドイツの経済状況もどんどん変わっていきました。ドイツに限らず、ポーランドの自主労組「連帯」や、後に大統領にまでなったレフ・ワレサ氏の活動…。チェコやハンガリーの動き…。西側自由主義体制のオーストリアと東側共産主義体制のハンガリーの間の国境の鉄条網をハンガリーの外務大臣が切ったおかげで、東ドイツやチェコ・スロバキアなどの共産主義国家から(移動が許されていた同じ共産主義体制の)ハンガリーまで逃げてきた来た人々が、西側のオーストリアへ逃げることができるようになりました。こうして、東側の体制にも風穴が開いてゆく中、ベルリンの壁も維持できなくなり、1989年11月にとうとう壁が落ちました。

その時、私もすぐにブランデンブルグ門の前まで行き、歓喜する東西両ドイツの人々と一緒にコンコンとハンマーでベルリンの壁を砕きました。今日は京都の「関西財界セミナー」会場から直接こちらへまいりましたので、壁の欠片を持ってくることができませんでしたが…。自ら砕いた欠片を持ち帰れば良いのですが、実際の壁はとても固いので普通にコンコンやっただけでは粉になるだけで塊が取れません。ですので、結局落ちている手頃な欠片を拾ってきました。このベルリンの壁は、今も私の部屋に飾ってあります。そして、ベルリンの壁の大きな穴を跨(また)いで、東へ行き、再び西へ戻ることを何度も繰り返し、小躍りしたことを記憶しています。それほど、外国人である日本人の私でさえも、ベルリンの壁が崩れたことで大変な解放感を与えていただきました。

その結果、ヨーロッパはずいぶん変わりました。1990年代に入ってすぐ、ソビエト連邦がロシア連邦になり、共産主義体制が潰れて、ポーランドもハンガリーもチェコもスロバキアも西側自由主義社会に入ってきました。これにより、ヨーロッパが安定し「今後どんどんそういった方向へ向かって行くのかな?」と思わせる、非常に楽観的な時代だったと思います。しかし、物事はそう簡単には行かず、「逆戻り」とは言いませんが、ロシアもプーチン政権になってからは、再び権威主義的な体制が強くなってまいりました。

ドイツからベルリンの壁がなくなり「少し平和になったか」と思っていた頃、イラクではサダム・フセインが暴れていて、すでにクウェートへ侵攻(1990年8月)していました。当時、私は東京から「次はリヤドへ行ってくれ」ということで中東へ異動することになり、ちょうど湾岸戦争開戦(1991年1月17日)の2カ月ほど前に、フランクフルトからサウジアラビアへ転勤いたしました。当時はサウジアラビアへ向かう観光客など誰も居らず、サウジへ向かう機内は、戦争に行くアメリカ軍の兵隊ばかりという物々しい雰囲気の中、リヤドへ赴任しました。当時、「実際に戦争になるか、ならないか」という議論が種々ありましたが、私は「必ず戦争になる」と思っていましたので、家族を英国に残し、単身赴任で現地に向かいましたが、到着後、わずか2カ月弱で湾岸戦争が始まりました。当時、アラビア石油など石油の採掘を行っている日本企業もあり、現地で働いておられる日本人の方も多かったので、戦争が始まった場合、如何にして在留邦人を脱出させるかということを予め決めておきました。幸い、100日間で戦争は終わりましたが、日本人は誰も怪我することなく無事でした。

私はリヤド滞在中、三十数回空襲を受けましたが、サウジアラビアの東のダーランというペルシャ湾に面した街に、1発目のスカッドミサイルが飛んできました。実際の戦争が始まる訳ですから、緊張いたしました。当時は、CNNテレビの衛星放送が始まったばかりで、戦場の現場から中継していました。発射されたイラク軍のスカッドミサイルがイスラエルへ飛んでいくのか、サウジアラビアに飛んでくるのか判りませんが、いずれにしてもイラクで発射されて3分ほどでこちらへ向かって飛んできます。われわれは、眼前にペルシャ湾が見えるホテルの最上階の部屋を陣取りました。ホテル側はしつこく「防空壕に入るように」と言ってきたんですが、「もし、一発でもミサイルが命中すれば、10階建てのホテルなどあっという間に瓦礫になってしまう。それなら何処にいても同じことだから、いっそ見晴らしの良いところに居よう」と最上階を選んだ訳です。時計を見て、「あと数秒で攻撃が来る」という時、真っ暗闇の中を閃光がズバーッと数キロ先に落ちました。それが1発目のスカッド・ミサイルでしたが、幸い、それはペルシャ湾上に落ちましたので破壊されたものはありませんでしたが…。それから三十数回の空襲を経験しました。途中からはアメリカ製の「パトリオット・ミサイル」という、現在日本にも配備されている地上発射式迎撃ミサイルが配備され―これが上がる度に「ドシーン!」と家中に響くような音がいたしますが―迎撃態勢が整えられたことで、少し安心いたしました。

▼せめて日の丸を付けた飛行機が……
 
日本人は欧米人とは頭の形が違いますから、ドイツ製の防毒ガスマスクを装着すると、どうしても隙間が空いてしまいます。こんなゆるゆるのマスクでは、いざという時に役に立ちません。やはり、自分たちの頭の形にあったガスマスクが良いということで、東京からガスマスクを送ってもらえれば一番良いんですが、当時、日本ではまだ防毒ガスマスクは武器の一種と見なされていたため、「武器輸出禁止原則に引っかかり送ることができない」(会場笑い)と回答が来ました。すでに民間機は飛んでませんでしたから、実際に送る手段もなかったのですが…。結局、われわれは地元でドイツ製を入手し、ガスマスクは常に携帯しておりました。余談ですが、実際にもし化学弾頭が炸裂した場合は、ガスマスクだけでは駄目で、皮膚も全て覆う必要があります。よく映画に出てくるような、頭の先からつま先までスッポリと被うあれぐらい厳重な対策をしないと、身を守ることはできません。

戦争が終わる2日か3日前にミサイルが飛んできまして、われわれのすぐ傍にあったアメリカ軍の兵舎に弾が当たったのですが、その際、何十人かの方が亡くなりました。戦争が終わる時期が近づけば近づくほど、「もしかすると、サダム・フセインが化学弾頭を使うかも…?」という危険性がありました。もし1発落ちれば、かなり広範囲に被害が出ますから、当時は非常に緊張しておりました。北朝鮮は、この化学弾頭をいっぱい持っておりますし、昨今はミサイルが実際に発射されることが増えてきました。今後はミサイル攻撃から自国をどう守るかが、日本にとって安全保障上、非常に大事になってまいります。
あの時、もしサダム・フセインが化学弾頭を使ったら、もしかすると「アメリカは核兵器を使うかもしれない」という脅しがあったため、イラクは化学兵器を使わなかったのではないか? といった話もございましたが、とにかく百日間の戦争は終結しました。その間もペルシャ湾岸の破壊された油田から、油は海上へとどんどん流れてきますので、日本は港の前に「オイル・フロート」という長い浮き輪を自国から取り寄せて、油が港に入ってこないようにする対策(オイル・フェンス)を行っていました。サウジアラビアでは真水は海水を淡水化していますから、水道の水はすべて元は海の水です。おかげさまで、戦争中、一度もサウジの水道は止まりませんでした。日本の協力はそういった分野でも行われています。

ただ、残念なことに、自衛隊機・民間機を問わず日本の飛行機は戦地では飛べません。飛行場に日本からの支援物資が運ばれてくる時、われわれは迎えに行ったんですが、運んできたのはアメリカの貨物機でした。現地にはテレビカメラマンが大勢待機していましたが、「何だ、日本の飛行機じゃないのか!」と取材もされず、報道もされませんでした。もし、あの飛行機の尾翼に描かれているのが星条旗でなく日の丸だったならば、それこそ世界中に日本の貢献が目に見える形でドーンと報道されたでしょう。「旗を示せ!」(Show the Flag !)という言葉がありますが、日本はせっかく良い協力をしているのですから、そんな時は、やはり日の丸が付いた日本の飛行機を使うことが大事ではないかと思いました。

湾岸戦争も終わり、クウェートの復興等の仕事がありましたが、その後「オーストリアへ急遽戻れ!」と指示がきました。再びドイツ語圏の国でウイーンですから「少しは静かかな」と思っておりますと、ユーゴスラビアのボスニア問題等が火を噴いておりました。当時、明石康代表(国連旧ユーゴ問題担当事務総長特別代表)や緒方貞子代表(国連難民高等弁務官)がいろいろ動いておられましたので、(ユーゴスラビアの隣国であるオーストリアの)「ウイーンからユーゴスラビア全体を見て対応しよう」という、日本政府のユーゴスラビアに対する初めての対応でした。難民センターを造ったり、いろんな形で官民共に地域の問題に関わりました。これを2年間ほどやらせていただきました。


▼親日国インドとの微妙な関係

それから、ミュンヘンの総領事をした後、そろそろ日本へ戻っても良い時期なんですが「次はインドへ行ってほしい」という話がありました。私は若い頃にマハトマ・ガンジー、スバス・チャンドラ・ボース、ラビンドラナート・タゴールといったいろんな方の本を読みましたので「インドは非常に大事な国だ」と思っていました。貧しいかもしれないが、一生懸命民主主義でやっている国ですし、アジアの中でも日本と非常に関わりの深い国でございます。戦争中も英国の植民地にされていたインドを解放すべく、日本軍とインド国民軍最高司令官のチャンドラ・ボースは一緒になって、インパール作戦(註:中国国民党軍を支援する英国軍の補給ルートを遮断するために、日本軍とインド国民軍が共同してビルマに近い北東インドのアッサム地方で行った軍事行動。補給線を軽視した杜撰(ずさん)な作戦により、歴史的敗北を喫した)をやったりしておりますから、もともと日本とインドの関係はいろいろあります。そんなインドと日本の関係は、私も「もう少し深める必要がある」と思い、喜んでインドへ行きました。

インドは「縦横3,000キロメートル」と言われるように、とても大きな大陸です。ちょうど日本企業がどんどん出ていく時期でしたので、そのお手伝いをいたしました。また、インドはまだ非常に貧しいですから、青年海外協力隊の派遣、人づくり、技術協力、経済協力等々いろいろ行いました。現在でもインドは、日本における経済協力の最大対象国になっております。どんどん道路を造ったり、かつてわれわれが東南アジアでやったようなことを、現在インドでやっております。関係も「戦略的パートナーシップ」という言葉で表現されています。ASEANにはもちろん共産主義の国もありますけれども、現在ミャンマーを除くASEANの大半の国々が民主主義の国になってまいりました。一方、私が駐在していた頃のインドネシアは独裁国家でしたので、国家体制上では「自由と基本的人権」を謳(うた)っていても、実際には政治犯がどんどん人権を無視して捕まえられているような時代でしたから、そういった意味での連帯感はありませんでした。


講師の実体験に基づく話を熱心に聴き入る宗教者たち

その点、インドは経済的には非常に貧しい国ではありますが、民主主義の国ですから基本的な価値観を共有する連帯感があります。インドは現在、どんどん経済成長を続けており、日本を必要としています。私が居た頃の世論調査でも「世界で何処の国が一番好きか?」という問いには、日本がいつも一番でした。そのような親日観がインドにはございます。

インドで思い出すのは、私がちょうど着任して1週間経った頃に、マザー・テレサさんが亡くなられました。カルカッタへ行き、活動されていた場所を訪問させていただきました。現在のインドと日本の関係は良い方向に動いていると思いますが、私が居た間に、インドが突然、核実験を行ったため、「インドはけしからん!」という声が日本では官民挙げて巻き起こり、これを修復するのに若干時間を要しました。

それは、ライバル中国の軍事力急拡大、隣国パキスタンの核保有、しかもその背景に北朝鮮の影が見え隠れしていたことなどが原因でしたが、(いつでも核武装をする能力を持ちながら)インドはずっと我慢していたものの、核保有国の努力不足で一向に核不拡散が進まないということで、「自国を守るためには核保有をせざるを得ない」という結論から核実験に踏み切ったようです。その経緯を日本側にも伝え、できるだけ早い信頼関係の回復に努めました。その後はお互いの理解もきちんと元に戻り、現在は多くの日本企業の進出にともない、日印関係はより良い方向に動いております。

インド駐在の後、ようやく日本へ戻りました。次は何処へ行くかと思っていましたら「東京都庁へ行ってほしい」とのことでした。石原慎太郎東京都知事から「東京から日本を変える」というお話があり、私も国益について考えておりました。そして東京都庁で仕事をさせていただくことになりました。当時は、横田基地の返還から、羽田空港の再国際化、アジアの大都市との連携、YS11の後継機を造る純国産ジェット機のプロジェクトなど、前例のない話が多くありましたが、石原都知事の外交顧問として当初予定されていた2年勤務から結局4年近く東京都庁に居り、しかも、その間に石原都知事の随行としてワシントンDCを訪問中に「9・11」事件に遭遇までいたしました。しかし「(東京都庁での)勤務もあまり長くなると、今度は外務省に戻れなくなるから、そろそろ戻ってきて欲しい」ということで、今度はセルビア・モンテネグロ(新ユーゴスラビア連邦)の首都ベオグラードへ行くことになりました。


▼「困った人々」を助ける日本の海外援助

内示を受けた段階で、首相が暗殺(註:2003年3月12日、首都のベオグラードにてゾラン・ジンジッチ首相が暗殺)されました。それまで誰もセルビア共和国の首相の名前など聞いたこともなかったのに、新聞の一面にも『(セルビア共和国)ジンジッチ首相暗殺』と見出しが出て、にわかに注目が集まりました。これは、スロヴォダン・ミロシェビッチ(註:1989〜97年、セルビア共和国大統領。1997〜2000年、ユーゴスラビア大統領)というユーゴスラビアの紛争を起こした人をオランダのハーグにある国際刑事裁判所に移送したことから「民族の裏切り者」とみなされ、暗殺されたということです。ジンジッチ首相は、民主主義を導入したセルビア共和国の前首相です。

私が居た当時は、まだセルビア・モンテネグロ(註:2003年に(新)ユーゴスラビア連邦から改称されたゆるやかな国家連合。新ユーゴ連邦政府はセルビア人が中心に運営していたため、モンテネグロ側から独立要求が起こり、その不安定要因を回避するために国名を「セルビア・モンテネグロ」と改称した。しかし、最終的には2006年にモンテネグロが独立し、セルビア共和国となった)という2つの共和国からなる国でしたが、紛争の後で貧しく、世界からも孤立しており、民族主義者も多く複雑な状況でした。私のパートナーは一貫して民主主義を信奉している人に限り、サポートを行っていくことにしました。

当時われわれがやった協力は、「市民の足になるように」と、トルコで買ったドイツ製の新品のバス93台を寄贈しました。すべてのバスには日本とセルビアの国旗が付けてあり、「日本国民からのプレゼントです」と英語で書きました。セルビアは、どちらかというとあまり清潔ではないためバスも汚れていたのですが、私は「このバスは日本国民からのプレゼントなので、とにかく丁寧に扱って欲しい。バスは毎日洗ってほしい」とだけ条件を付けたところ、非常に一生懸命やっていただけました。市民の皆さんも自分たちが仕事に行ったり、学校に行く際のバスである訳ですから「自分の生活ができる」と、車内で煙草を捨てたりせず、とてもきれいに使ってくれていました。私は2年近く駐在したのですが、滞在中に他の市バスも皆同じ様な色になり、「とにかく他の市バスもきれいに洗おう」という雰囲気になってきていました。

学校を訪問すると、屋根が壊れていて雨漏りする。寒い冬も、窓が閉まらないため子供たちは寒さで震えている。授業で使う椅子や机も、もう何十年も取り替えた様子がない。日本には「草の根・人間の安全保障無償資金協力」という1,000万円までの無償援助ODAがあるのですが、これを活用しまして、私が居る間だけでも約40校ぐらいの学校の屋根を直し、窓を直し、学校中の椅子と机を取り替えました。そこには皆、小さな日の丸が付いているんです。「新しい時代を生きる子供たちには、是非新しい気持ちで学んで欲しい」と思いました。

それから、病院施設が酷い状態―共産主義の国はどこもそうなんですが―のため、四大都市の拠点病院の医療機器を取り替えました。また、これも草の根無償の資金協力の一環ですが、救急車1台と、救急病院のシステムに最低限必要な機器を寄贈いたしました。この取り組みは、まず首都のベオグラードから始め、徐々に他の街へも展開しました。病気になった時にも、セルビアと日本の国旗が付いた救急車が来てくれる。また、「救急車で運ばれたおかげで自分の子供が助かった」といった話も出てきます。その2つを柱にして援助を続けました。ヨーロッパのいろんな国を見ていて、彼らも何か感じるところがあったのかもしれません。通常「外国からの援助」といいますと、何か背後に意図があったりするものなんですが、日本の場合は本当に「困った人々を助けよう」という気持ちで協力していただいている。「日本のような遠い国からこのような協力を得られるなんて信じられない」とお礼状が届きました。そういう訳で、セルビアは非常に親日的です。

セルビアだけではなく、ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国も同じです。ボスニアのサラエボへ行きますと、同じ様に日本のバスが走っております。これはもちろん政府だけでなく、多くのNGOをはじめとする皆様の協力のおかげです。そういった積み重ねから、この地域における日本のイメージや日本に対する感情は、非常に良いものありますので、これを大事にしなければと思います。国連の安保理において、日本が「常任理事国になりたい」と手を挙げている訳ですが、こういった小さな国々が―もちろん、周辺諸国の影響もありますが―日本を支持する態度を表明してくださってます。
             
ベオグラードから東京へ戻りますと、2004年3月に、国連コソボ暫定行政ミッション(UNMIK)統治下のコソボで暴動が起きました。ユーゴスラビア連邦時代には、セルビア共和国内の“自治州”であったコソボでは、アルバニア系の人々がセルビア人によって抑圧されていたんですが、セルビアが“盟主”の地位から滑り落ちたことによって、身の危険を感じた多くのセルビア系住民が、どんどんと“隣国”セルビアへ逃げ出したため、今では逆に、セルビア系住民のほうが少数派になっており、これまで抑圧されてきたアルバニア系住民が、今度は逆に、セルビア人の住んでいる地区に放火や略奪をしたりといった民族浄化(註:複数の民族集団が共存する地域や国家において、特定の民族集団を強制的に排除しようとする政策)の憎しみが続いていました。

われわれは、両民族が和解できるようなプロジェクトを作ったり、これまでのように学校や救急病院の修復を行ったり、人材育成の一環で日本へ研修に来てもらったりしました。コソボでの暴動が終わった後も、日本は東京でバルカンの安定のための国際会議を開催し、引き続き、この問題ではイニシアチブを取っております。そういう経験をしたものですから、いつしか私は、外務省内で「紛争地域の専門家」のように見なされていたんでしょう。コソボ問題に続いて「アフガニスタンをちょっとやってほしい」と頼まれ、東京で1年間、アフガニスタンの政策をまとめる仕事をいたしました。


▼マイナスからの出発

1年の間に、私はカブールへも2回出張し、カルザイ大統領をはじめとする関係諸氏と話し合いました。英国で開かれた大きな会議へも2回参加し、モスクワでも麻薬撲滅の会議をやり、東京でも大きなアフガニスタン支援会議を開催し、カルザイ大統領にもお越しいただきました。私自身も一生懸命サポートした訳ですが、当初から日本はアフガニスタンへ民政支援を展開しております。カルザイ大統領も「日本の支援に対しては、本当に有り難いと思っている。私は民族の伝統や文化を大事にしながらも、近代的な国家を創りあげてきた日本から学びたいし、アフガニスタンをそういう国家にしてゆきたい」といつもおっしゃってました。

アフガニスタンについては、おそらくこれからも、復興に相当時間がかかると思います。私が赴いた3、4年前でも、カブールで、ある大臣にアポイントメントを取っていた時にも、突然電話がかかってきて「今日は来ないでくれ。この周辺で自爆テロがあるかもしれないという情報が入っている」と言うので「では、明日に変更しよう」と急遽変更したことがありました。いつも防弾チョッキを身につけて機関銃を持った人と共に防弾車で動き回るんですが、それでも自爆テロにはかないません。

今もさまざまな事件が起きているアフガニスタンに関する報道を見ていますと、「アフガニスタンは今後どうなるんだろう?」と思います。しかし、よく考えますと、あの国でもちゃんと大統領や議会の選挙が実施されました。「選挙に違法な行為があった」と言われていますが、それはアフガニスタンに限った話ではありませんし、最初からあまり完璧な状態の民主主義を期待できなくとも、ある程度のレベルに達しているのであれば良しとしなければいけない状況下にあると思います。それでも国民は皆、タリバンが支配したような社会には戻りたくない。女性も学校へ行き、職業に就き働きたい訳です。基本的に皆アフガニスタンがそういう方向へ向かって欲しいと思っています。

治安が悪いのは、警察官が足らなかったり、軍隊の装備が不十分なためです。アフガニスタンには、タリバンなどの武力を持ったいろんな部族のグループがありますが、そこへアルカイダという外国から入ってきた資金力のあるグループも加わり、内部を攪乱(かくらん)している訳ですから、そう簡単に数年の内に収まるとは思えません。ここは20年近く国内紛争が起きている国ですから、社会インフラがすべて破壊されており、道路も一から造っていかなければなりません。私はいつも「ゼロからの再出発ではなく、マイナス二十数年からスタートしたが、今何年経過したか?」と思います。現在、まだ新しい政権に変わってから5、6年しか経っていませんから、マイナス15年ぐらいのことで、本来のスタートラインであるゼロ年になるまで、まだまだ時間がかかりますから、息の長い対応をしていかなければなりません。

とはいえ、どの国も世論がありますから、そう何年間も外国の軍隊を駐留させておくことはできない面もあります。正直申しまして、アフガニスタン周辺諸国に民主的な国はありません。そういう中で、アフガニスタンがこの厳しい状況を乗り越えて、何とか民主的な国家として繁栄してもらうためにも、日本は腰を据えて、長期的な計画を以て、教育、医療、学校といった、これまで取り組んできた民政支援に今後とも取り組んでいく必要があると思います。私は、まず5カ年計画を作っていただくよう伝え、その後、5年毎にわれわれ日本がどういった協力をしていくかについて、双方きちっと摺り合わせを行い、一緒に国づくりをやっていく必要があるという考えを示しました。

と同時に、現在多くの国々が協力してやっていますが、治安が悪いことに対し、日本もいずれできることがあれば、さらに協力していく必要があると個人的に感じています。ちなみに、ポーランドは人口4,000万の国家ですが、現在2,600人の若者をアフガニスタン国際治安支援部隊へ派遣し、すでに16人がアフガニスタンで犠牲になっています。しかし、ポーランド人は民主主義を守るためには「一緒に戦っていかなければならない」と感じており、与党・野党とも同じ気持ちでやっておられます。


▼ポーランドは欧州随一の親日国

ポーランドについて、少しお話したいと思います。ポーランドは非常に親日的な国で、映画の好きな方ならアンジェイ・ワイダ監督の名前を挙げる方もおられるでしょう。この国は、1919年に再び国家として独立しましたが、それまでの123年間は世界地図からその国名が消え、プロイセン王国とハプスブルグ君主国(オーストリア帝国)とロシア帝国に三分割されていました。ですから、ショパンが活躍した19世紀やキュリー夫人がノーベル賞を受賞した(1903年と1911年)の時代は、自分の国がなかった訳です。

しかし、ずっと溯って12、3世紀の頃のポーランドは、ヨーロッパの中でも一番大きな国で、世界遺産にも指定されたクラクフの歴史地区を訪れますと「これが当時、最も繁栄した街なのかな?」と感じます。ワルシャワは戦争で何回も潰されていますから、瓦礫の山の中から造り直された街です。そして1919年にポーランド人が「やっと再び祖国ができた」と喜んだのも束の間、20年後に、今度はスターリンの軍隊(ソ連)とヒトラーの軍隊(ドイツ)によって挟み撃ちに合い、1939年に国が消えてしまいます。

その間、多くのポーランド人が過酷な運命に晒された訳ですが、1945年に第2次世界大戦が終結し、いざポーランド人が祖国を回復しようとすると、今度はソ連軍が占領し、ソ連社会主義圏に組み込まれてしまいました。自由を求めた人々は再び自国へ戻ることができない。自国へ戻っても収容所へ放り込まれるといった状況でした。私がポーランドに居た時に聞いた話では「戦争が始まってドイツ・ナチス軍と戦って捕まった。アウシュビッツへ入れられるも辛(から)くも逃げて、ソ連軍と一緒になってドイツと戦った。そして、やっと新しい国ができたと思ったのも束の間、今度はポーランド共産党に捕まり、『お前は民族主義者だ』と、またもや監獄に20年放り込まれ、ようやく解放された」という話がありました。

1989年に至ってやっとポーランドは民主化する訳ですが、そこに至るまでも、ポーランド国内で、独立自主管理労組「連帯」の活動(註:社会主義国家では、共産党(労働党)が唯一の意思決定機関であり、政府も議会も軍隊も労組も共産党の指揮監督下に置かれる)という長い戦いがありました。そういう話を聞いていますと、本当にわれわれが想像する以上に厳しい経験を重ねてきた民族だと思います。

私が滞在した昨年(2009年)は、まさに節目の年で「民主化20年」そして「NATO加盟10年」そして「EU加盟5年」。そして日本との国交が1919年に成立されましたので「日本・ポーランド国交樹立90周年」という佳節の年でもありましたので、さまざまな行事が行われました。私が大使として着任した当時、140社だった日本企業も250社まで増え、シャープやブリヂストン、東芝も大きな工場を建て、現在は70近く工場があります。そういう意味では、ポーランド、チェコ、スロバキア、ハンガリーは、現在ヨーロッパにおける日本の物づくりセンターとなっています。

皆様もご存知の通り、やはり日本に対する関心は、どこへ行っても非常に高いですね。「日本の文化をもっと知りたい」と、武道も盛んに行われています。空手、合気道、剣道も盛んですし、ポーランドでは相撲も盛んでした。「日本語を学びたい」という人も多くいます。最近は、日本アニメの影響を受けている方も居られます。しかし、われわれはそういった関心に対して、十分に応えているとは感じません。日本語教師も不足しています。とはいえ、そういった部分の国家予算(ODA)もずいぶん削られていますから、厳しい状況ではあるんですが…。

何故それほど日本に対する関心が強いのかと申しますと、やはり、日本は欧米列強の植民地にならなかった唯一のアジアの国であり、明治以来「天は人の上に人を作らず…」と、民主主義を一生懸命学んで自分のものにしてきた。それから、資源は何もないのに、これだけの経済力と技術力を持っている。一方、カルザイ大統領ではありませんが、長きにわたって守り続けてきた自国の言葉や文化は、決して化石ではなく今の世でも生きている。その上で近代社会を形成してきたことが挙げられると思います。もちろん、日本国内にも多くの問題を抱えていますが、外から見ると、日本の豊かさ、日本の技術、日本の文化は魅力的に見えるのだと思います。


▼人類史の普遍的価値を求めて

そういう意味では、日本が蓄積してきた経験を、どんどんいろんな国に伝えて使っていただけばと思います。そうすることによって、世界が安定し、豊かになってゆく一助になれば良いと思います。東南アジアは、インドネシアひとつを挙げても、私が滞在した1983年頃と比べてもずいぶん変化し、中産階級が生まれてきました。韓国、台湾もそうですが、豊かになるにつれて中産階級が増えてきて、政治体制も変わってきます。その国に民主主義が定着するかどうかは、ひとえに中産階級層が一定以上存在するかどうかにかかっていると思います。

日本がいろいろ国づくりに協力しているインドやアフリカが豊かになってくれば、世界的な大きな変化になると思います。もちろん、インドやアフリカのみならず、中南米、中近東と日本がお手伝いできるところは、いろいろあると思います。大学時代に読んだドイツの哲学者カール・ヤスパース(実存主義哲学者・精神科医)の著作のひとつに、『歴史の起源と目標』があるんですが、人類の歴史の中における紀元前三世紀頃を「人類の枢軸時代(アクシス)」という言葉を使っています。これは要するに「キリストが誕生するまでの300年余りの時代に、ギリシャの哲学、インドの哲学、ユダヤ教、儒教や道教といった、現代まで続くあらゆる考え方が当時すでに現れており、われわれが持っている問題はすべて論じられ、答えが出ている」と言っているのです。その当時の精神的な高さから、われわれはより進歩したのかというと、私の個人的な解釈では、当時を頂点として、むしろ下がっているのかもしれないと思います。

今の世界を見ていますと、先進国に限らず、あらゆる所で「モノやカネにすべての価値がある」といったような価値観が見受けられますが、目に見えないものの大切さ、精神的なものの考え方―サン・テグジュペリの『星の王子様』でも「大切なものは、目に見えない」とサラリと書かれています―の価値を見直す必要があります。

自然との共生、環境問題を考えてみる時、「地球における最大の癌細胞は人間だ」と言っている方が居られましたが、地球において、われわれは新しい哲学を求められていると思います。われわれは「誠」とか「気」や「正義」を大切にする日本の伝統を、より強く大事にしていかなければならないと思います。私は学生時代から、いつも胸中に吉田松陰先生の『士規七則』を持っていまして、当時の松下村塾で若い人々がこれを読んで毎日勉強していたのかと思いながら読みますと、「勇気」や「師に対する恩」や「日本の歴史に対する誇り」などが出てまいります。

それは、新渡戸稲造先生の『武士道』に限らず感じられます。外国の方々で武道を学ぶ人々と接していても、時折「サムライだな」と感じることがあります。それは、彼らが日本人が本来持っている素晴らしい資質を大事にしてくれているからではないかと思いますが、われわれ日本人ももっと大事にしなければならないと思います。時間がずいぶんオーバーしてしまいましたので、私の話はこれで終わり、次に皆様のご質問にお答えしたいと思います。
                         
(連載おわり 文責編集部)