国際宗教同志会平成28年度第1回例会 記念講演
『中東で今、何が起きているか? 宗教の役割』

同志社大学一神教学際研究センター 副所長
サミール・ヌーハ

2016212日、金光教泉尾教会の神徳館国際会議場において、国際宗教同志会(西田多戈止会長)の平成28年度第1回例会が、各宗派教団から約50名が参加して開催された。記念講演では、同志社大学一神教学際研究センター副所長のサミール・ヌーハ教授を招き、『中東で今、何が起きているか? 宗教の役割』と題する講演を英語で行った。本サイトでは、この内容を数回に分けて紹介する。


サミール・ヌーハ先生
サミール・ヌーハ先生

アッサラーム・アレイクム(皆様に平安がありますように)。三宅善信先生のご依頼により、本日皆様の前で、こうして現在の中東の情勢や宗教の役割についてお話しすることができて嬉しく思います。また、私も日本の宗教者の皆様からいろいろと教えていただく機会にもしたいと思います。

現在、われわれは中東だけでなく、世界規模で大きな変革が起こっていることを目の当たりにしています。それらの中で、宗教的次元の問題というものを看過することはできないと断言することができます。イスラム教をひとつの宗教として理解すること、あるいは、イスラムの旗を掲げるグループの役割を理解することは、中東を悩ます諸課題をよりよく理解する機会を提供することになります。皆様には、意外なことと思われるかもしれませんが、中東情勢が今日のように流動化したことは歴史上、ほとんどなかったことです。中東に関する最新のレポートが毎日更新されるので、何をもって本日のお題でもある「今、中東では…」と言うかは、決して容易なことではありません。実際、今回三宅先生から中東に関する講演の依頼を受けて書き始めた翌日に、中東の情勢が変化したため、私は一から書き直さざるを得ませんでした。そして、またその3日後に…と、中東情勢は日々変化しています。

2011年の年頭から、チュニジア・エジプト・リビア・イエメン・シリア・イラクの各国で、政権交代が起こりました。西側諸国は、これらの出来事を注意深く観測しており、場合によっては、隠れたプレーヤーとして背後からその政権交代に関わってきました。そういった複雑な状況が、多くの人々にとって中東情勢の理解を困難なものにさせています。これ(写真)はアラブの国々で使われていたカレンダーです。写真にはチュニジアのベン=アリー前大統領、リビアのムアンマル・アル=カダフィ大佐、エジプトのホスニー・ムバラク元大統領などが写っていますが、既に全員居られない方々です。

中東には、長い間、イスラム教・キリスト教・ユダヤ教という異なった一神教が存在し、かつ、それらの宗教にはそれぞれの「セクト(宗派)」が存在します。例えば、イスラム教においてだけでも、皆様ご存知のスンニ派、シーア派の他にも、クルド人のヤズディ教、レバノンのドゥルーズ派等々といった具合です。歴史学においては、宗教的な統治が、他の宗教とあるいは同じ宗教内における事象の結果として、何世紀にもわたっていかに進化してきたのかということに光を当てることになりました。

それが、私がここで述べる「異なった宗派間の対立」の主たる理由です。イスラム教は、神と人間との間の直接的な関係を強調し、クルアーン(コーラン)は、イスラム教徒を生活すべての局面において導きます。しかし、すべてのイスラム教のグループやセクトは、彼ら自身のイスラム教、あるいはクルアーン、あるいはハディース(註:預言者ムハンマドの言行録)の解釈に基づいてその社会を規制したいと思っています。


▼諸悪の根源「サイクス・ピコ協定」

西側では今、「われわれが知っているところの中東の終焉」という言葉が公然と語られるようになりました。ベルリンにあるドイツ国際・安全保障研究所のヴォルカー・ペレス所長は、その著作『中東の終焉』において「『サイクス・ピコ協定』(註:第1次世界大戦後のオスマン帝国の分割について、1916年5月に英・仏・露3カ国によって結ばれた秘密協定)によって中東に引かれた国境線は終わりを迎えているのか?」と問うています。ペレス氏は、1916 年に西洋列強によって結ばれた「サイクス・ピコ協定」によって創られたシステムが、中東の国々によって拒絶されはじめてきたと考えています。

日本人の思う「中東」とイスラム教徒の思う「中東」の領域
日本人の思う「中東」とイスラム教徒の思う「中東」の領域

今、地図をご覧いただいていますが、アラブの人々が思うところの「中東」―この言葉自体、ヨーロッパ中心史観に基づく呼称ですが―は、東はイランから西はアフリカ大陸の最西端のモロッコまでを指しますが、多くの日本人は、サウジアラビア、イエメン、シリア、トルコの辺りが中東だと思っています。「エジプトは?」と尋ねると「アフリカじゃないのか?」という答えが返ってくるので、来日した当初は、私はそのギャップに非常に驚きました。「中東」を地理的概念として捉える日本人は、アフリカ大陸にエジプトがあるため、「エジプトはアフリカであり、中東ではない」と思いがちですが、「中東」を歴史的・文化的概念として捉えるイスラム教徒やアラブの人々の実感からすると、地図で示した範囲(イランからモロッコまで)が「中東」となります。ですので、そもそも「中東」とはなんぞやと言う前に、その中東の範囲が人によって異なります。

コロンビア大学のジェフリー・ザッハ地球研究所所長は、彼の重要な著作『西洋のムスリム世界に対する100年間の干渉と中東の新世紀』において、将来の新しい展望を示しています。ザッハ氏は西側諸国、とりわけ、軍事クーデター、政府転覆、そして当該地域へ数千億ドルにも及ぶ武器の供与を通じて介入してきた米国を非難しています。

また、『インディペンデント』紙の中東特派員であるロバート・フィスクは、その論説『中東における「ISIS後の時代」のために確立すべきプラン』において、「ヨーロッパ人たちは、テロ事件を云々する代わりに、恐怖と共に行動するよりも、これらの悲惨な難民を生み出した根本的な原因(サイクス・ピコ協定による国境線)について取り組む必要がある」と提言しています。西側、特に現在ではアメリカがさまざまな役割を演じていますが、それはゲーム自体を背景としたものです。彼らは、〈ワシントンの国益のための最高戦略〉という枠組みの中で、原油の安定的供給を確保し、イスラエルの安全を保証し、ペルシャ湾や紅海での航行の自由を維持し、原理主義的諸団体とジハード・テロリズムを自己のコントロール下に置きたいと欲しています。

英仏間の「サイクス・ピコ協定」による「中東」の分断
英仏間の「サイクス・ピコ協定」による「中東」の分断

中東における諸問題の根っこの多くは、第1次世界大戦に起因しています。「サイクス・ピコ協定」はロシアの同意の下、英国とフランスの間で秘密裏に結ばれました。1916年5月に締結されたその協定―先程、三宅善信先生が仰いましたが、協定が結ばれてから今年でちょうど100周年に当たります―は、「オスマン帝国の統治下だった地域の内のアラブ領域を、将来、英国とフランスのコントロール下に置く」というものでした。そのことが、西側による支配と各地の独裁体制の始まりでした。


▼ムスリム同胞団とCIA

各国の諜報機関がこの地域に浸透し、過激派を用いて、特定の目標を達成するためにそれらを指示することがよく知られています。私は、ムスリム同胞団の1953年におけるエジプト革命(註:アブドゥル=ナーセルら自由将校団による汎アラブ主義の革命)と、アフガン戦争とアルカイーダ、「アラブの春」と「IS(イスラム国)」、アラビア語で「ダーエッシュ」と呼ばれている組織に光を当ててみたいと思います。私は外国の諜報機関が、如何にこれらの過激主義のうねりから利益を得ているかについて説明いたします。

私自身のことを付け加えると、私はエジプトで生まれ、若い頃にムスリム同胞団が発展してゆくプロセスをこの目で見ました。1979年にロシアがアフガニスタンに侵攻しましたが、私はちょうどその折、パキスタンに留学していたため、ロシアの侵攻後、アフガニスタンやパキスタンが混迷を深める過程を目撃し、体験した訳です。そして、サウジアラビアのリヤドに居た2003年に、アメリカがイラク戦争を始めたため、実際に米軍の巡航ミサイルやイラク軍のスカッドミサイルが飛び交う様子を目撃しました。しかし、イスラム国が勃興した頃、幸運なことに私は京都に居ました。

日本人には馴染みの薄い中東情勢について解りやすく講演するサミール・ヌーハ教授
日本人には馴染みの薄い中東情勢について解りやすく講演するサミール・ヌーハ教授

ムスリム同胞団は、1928年にシェイク・ハッサン・アル=バンナによって設立されました。ムスリム同胞団は、1930年にスエズ運河公社(註:19世紀の中頃、フランスによって開削されたスエズ運河は、その後、英国の支配下になったが、20世紀の中頃、エジプト政府によって国有化された)から資金援助を受けましたが、この公社は非営利の団体ではなく、まったくもって植民地主義の手先でした。そして、10年も経ない内に、ムスリム同胞団は、エジプト中のありとあらゆる町や村にその支部を形成しました。1952年のエジプト革命の2、3年後に、サイード・クトゥブは社会、殺人、サボタージュと破壊の償いを求めるすべての組織やテロリストグループのための憲法であると考えられた本を書きました。

サイード・クトゥブは、米国中央情報局(CIA)の機関のひとつである「第4ポイント」プロジェクトによって資金提供を受けた奨学金で、アメリカを訪れました。アメリカから帰国した彼はムスリム同胞団に加入して、共産主義や共産主義者に反対して、資本主義を賞賛して、宗教的な思想も転向しました。クトゥブとムスリム同胞団の一部の指導者たちは、ナーセル大統領から死刑を宣告されましたが、他の指導者たちは、ヨーロッパ、アメリカ、サウジアラビアや湾岸諸国に逃れることができました。ジハーディストの組織は、密かにその活動を開始し、1974年と1981年の事件に関与し、1984年のサダト大統領の暗殺を実行しました。これらのメンバーの多くは、和解を創り出したいサダトの後継者であるムバラク政権によって.自由の身となりました。


▼アルカイーダを産み出したCIA

次に話題をアフガン戦争とアルカイーダへと移しましょう。1979年にソ連がアフガニスタンに侵攻した際、アメリカと西側のメディアは、「ソ連がペルシャ湾岸の原油を確保するための第一歩を標して、アフガニスタンの隣国パキスタンを支配しようとしている」と宣言しました。「戦略的国益」のスローガンの下、アメリカの仲介で、パキスタンとサウジアラビアの情報部の長官が、アフガニスタンにおけるソ連の存在に対処する計画を開始するために、アフガニスタンで会いました。

そして、イスラム世界に暮らす若者たちがイスラム世界であるアフガニスタンをソビエト共産主義の魔の手から守るためのジハードのために招聘され、イスラム世界のシンボリックな思想家や政治家が、この罠にはまりました。湾岸諸国がジハード主義者に資金を提供している間、CIAとアメリカ人は軍事訓練を行っており、ジハーディストを養成していました。ソ連軍は、ジハーディストの抵抗によって1989年にアフガンから撤退しましたが、その後も、1992年に至るまで、若きムスリム教徒たちは引き続きアフガニスタンへ行きました。たとえば約13,000人の若いエジプト人がアフガニスタンへ行き、軍事訓練を受けてから帰国し、エジプト国内での反政府活動に従事するようになりました。

オサマ・ビン=ラディンがアフガニスタンに来たとき、彼は過激主義について、あるいは、アルカイーダのような組織を如何に統率するか、全く知りませんでした。サウジアラビア人のオサマ・ビン=ラディンは、エジプト人のアイマン・アル=ザワヒリと彼の友人たちによって指導されたのです。ここで問題は、そもそも米国の国益に基づいてCIAのために働いていたビン=ラディンの考え方を変えた人は誰か? ということです。イスラム世界において、「何がなんでも、彼(ビン=ラディン)こそがアラビアにおける米国の存在と戦うリーダーである」という感じがありました。それ故、サダム・フセインがクウェートに侵攻した際、ビン=ラディンは、「クウェートにおいて10万人のジハーディストをサダム・フセインに対抗させることができる」とサウジ当局に申し出ましたが、サウジ当局はこの申し出を拒否しました。アルカイーダは、ジハード主義者のためのイスラム世界を統べる新たなカリフ制国家の樹立を想起させる軍事訓練基地を拠点として形成されました。


▼アラブの春とイスラム国

もしわれわれが「9.11同時多発テロ」攻撃の起こった日に戻れたとすると、われわれは、多くの政治アナリストたちが、CIAが米軍がイラクへ侵攻する過程、そしてジョージ・W・ブッシュ大統領(当時)の背後にあるすべてのアメリカ人を動員することに対して見て見ぬ振りをしたことに、われわれは気付いています。エジプトの情報部は、二度にわたって「アルカイーダが米国中枢を狙った同時テロ攻撃を準備している」とアメリカ当局に話しましたが、CIAはこれを無視しました。

2003年のアメリカによるイラク侵攻(イラク戦争)時に新しく樹立されたイラクの中央政府は、「イラクを構成するそれぞれのグループにより大きな自治を与える連邦国家に変更することが、イラクの政治的問題解決のためのチャンスとなる」とアメリカに提言しましたが、このアイデアは、アメリカ人によって受け入れられませんでした。

この考えは、多数派であるシーア派が(イラクの)中央政府を、少数民族として抑圧されていたクルド人が安定した地方政府を構築し、フセイン政権時代に少数派にもかかわらず、権力を恣(ほしいまま)にしていたスンニ派が、一転抑圧された少数派へと落ちぶれる結果を招きました。


▼「イスラム国」を皆が利用した

2014年に、深刻な衝突がシリア政府を転覆しようとしていた様々な反政府グループ間で勃発しました。反政府グループのひとつは、暴力的なテロリストによって構成されていましたが、彼らは「ISIS(イラクとシリアあるいはシャムのイスラム国)」、あるいは、単に「IS(イスラム国)」または、アラビア語の頭文字を取って「ダーエッシュ」というふうに、多くの名前で呼ばれてきました。それらの個別の行動も、彼らは「カリフ制やイスラム国家を樹立するために、アッラーの名の下に戦っている」と主張していますが、正しいイスラムの教えを反映するものではありません。

情報当局が今日の中東における諸問題の要因を宗派対立のせいにしようと仕向けているにもかかわらず、メディアはしばしば今日におけるイラク、シリアその他の衝突を「宗派対立の問題というよりは民族問題である」というように記述しています。中東のテロリストに対する情報操作の結果として、われわれは中東における最も重要な領域に、レバノンのヒズボラ、シリアとイラクにおけるダーエッシュ(IS)、イラクにおけるシーア派の親イラン・グループ、そしてシリアにおけるアンサール・アル・シャリアやヌスラ戦線やリワ・シハダ・アルヤムークといった火種を抱えた地帯が帯状に広がっていることを見て取ることができます。サウジアラビア東部のフーシ派、イエメンのフーシ派、リビアのアンサール・アル・イスラムやイスラム同胞団、そしてエジプトやスーダンの他のグループといった爆発寸前のベルト地帯は、英国や米国の諜報機関の管理、そしてイランやトルコの諜報機関の活動の結果として生じました。現在は、11カ国の空軍が、彼らの敵である5つのムスリム国家を分断し破壊しようとしています。

ボタンの掛け違いさえなければ、ダーエッシュは初期の段階で簡単に排除できたと思います。しかし、それは以前からの湾岸諸国からの資金援助やアメリカの諜報機関の助けによって敷設された基礎の上に構築されたため、強力な組織へと成長しました。サウジアラビア、アラブ首長国連邦(UAE)は、最初からシーア派の勢力が拡張することを防ぐためにダーエッシュを公然とサポートしました。一部の専門家は、アメリカによってイラクの首相に引き立てられたシーア派のヌール・マーリキ首相(当時)のスンニ派抑圧政策が、結果としてダーエッシュがより多くの土地を支配統括することを後押ししたと信じています。マーリキ首相がイラクを支配した7年の間に、彼はイラクの重要な機関の全て、資源の全てをアメリカに手渡しました。その結果、イラクのすべての国家機関やフセイン政権の残党がダーエッシュに参加することになってしまいました。

2003年3月にバグダッドから撤退したサダム・フセインの軍隊はダーエッシュ(IS)に加わり、フセイン政権のナンバー2だったイザット・イブラヒーム革命評議会の副議長率いるスーフィー派の一派である1,200万人のナクシュバンディ教団も、バース党員も、シーア派のアラブ人を含む全ての組織までもがダーエッシュに参加しました。その結果、短期間の間にサラーウディン県とアンバル県のほとんどの地域でそういった動きが起こりました。

現在、シリアとイラクで多くの諜報機関が暗躍しています。シリアにおいては、イランの革命防衛隊、ヒズボラ、CIAは言うに及ばず、トルコやサウジアラビアの諜報機関、そしてロシアもこの地域に深く関わっています。今日では、あらゆる外国勢力がシリアやイラクで暗躍しています。


▼イエメンにおいてサウジとイランの競合の要因となっているフーシ派について

この組織の始まりは、「アシュシャバーブ・アル・ムメン(信仰心に厚い青年たち)」と名付けられた小さなグループがイエメンの首都のサヌアから240キロ離れた片田舎サアダ県で発足した1991年まで遡ります。実は、私はかつてこのアル・フーシという名の青年にイランで会ったことがあります。アル・フーシは単なる一家族の名前であり、部族名でも政治的あるいは宗教的組織でもありません。彼らは、イエメンに戻るまで2人の息子と共にイランに2年間住んでいたバドル・アル・アディン・アル・フーシの息子であり、ザイド派の流れをくむフーシ派の精神的な父です。ザイド派の教義は、スンニ派のそれと非常に近いことが知られており、主な違いは、預言者ムハンマドの正当な後継者が誰であるかということであります。

イエメン人はシーア派に近いザイド派の人(ほぼ30パーセント)とスンニ派の四大法学派のひとつシャーフィー派(70パーセント)で構成され、彼らはイランから戻った際、イランのシーア派とザイド派の教義をミックスし、新たにフーシ派という派閥を生み出しました。フーシ派の人々は、武装してイエメンにおけるアメリカの支配に対して抵抗運動を始めましたが、彼らはイランの助力により、(地図を指しながら)この黄部分の地域を占領することに成功しました。革命が起きた際、アリー・アブドッラー・サーレハ前大統領は、いったんサウジアラビアへ逃亡しましたが、再び戻ってきました。

フーシ派はサーレハ前大統領と共にあり、彼らはひとつのグループとして、スンニ派と対立していますが、現在、彼らはサウジアラビアの国境付近で内戦を繰り広げています。ザイド派とシーア派の最大派閥であるイスナ・アシュリア(十二イマーム派)の混合は「フーシの教義」と考えることができます。フセイン・アル・フーシのスピーチは、組織と彼の支持者にとって、最初の、そして最重要な資料となりました。フーシは、将来起こり得るかもしれない米国の軍事介入からイエメンを守るための準備として、武器を取って戦い始めました。

2004年から2014年にわたって、フーシ派はイエメン政府に対して多くの紛争をしかけました。2009年8月には第6次紛争が起き、イエメン政府は反逆者への武器供与によるイラン政府の介入を示す証拠を開示しました。フーシ派への武器を満載したイランの船が拿捕されました。

反逆者による国境付近への攻撃、それに続くサウジアラビアの領土であるジャバル・アド・ドゥハーンの占領は、サウジアラビアに懸念をもたらしました。そして2014年3月に、7度目となる紛争によって、フーシは、イエメンの北部地域を実効支配の下に置いたことで、アル・フーシのリーダーシップの下、様々なシーア派グループや部族が結束しました。ザイド派の人々はスンニ派の主流(改革党)またはサラフィスト運動(いわゆる「イスラム国」)と相対するために、十二イマーム派へと転じました。

現在、サウジアラビアはイエメンと湾岸地域におけるイランの介入を注視しています。イランやアリ・アブドラ・サーレハ前大統領のイエメン軍が支援するフーシ派はサウジアラビアの国境に達し、この地域におけるさらなるイランの野心はもはや隠し立てのないものになっています。現在、イラン大統領の顧問を務めるアリ・ユネシ前情報大臣は、2015年8月に、ベイルート、ダマスカス、バグダッド、カイロを通過し、現在イエメンの首都であるサヌアに戻っているペルシャ帝国(イラン)が得るものが何を意味するかについて言及しました。

私は革命軍がそれぞれの目標を達成する前に、長く困難な闘争のために長期にわたって準備をしなければならないことに言及して結論としたいと思います。国際軍と反革命軍は2つの悪い選択肢―独裁あるいは紛争のいずれかを生き延びる―の狭間に反逆者を置こうとしています。もし、節度が失われた場合、過激派のジハード主義者の活動は、代替案になるでしょう。

しかしその前に、われわれは「アラブの春」を引き起こした歴史上における大きな不正義に取り組むべきです。われわれは、中東における正義を持つ必要があります。その正義によってのみ、テロリズムを克服しイスラム国を破壊することができるのです。正義の名において、最後にパレスチナについて1点付け加えておきます。この緑色の地域はかつてパレスチナでしたが、徐々に失われつつあります。

ご清聴有り難うございます。詳細な説明を十分提供できませんでしたが、その分、質疑応答の時に多くの質問を頂戴できればと思っております。三宅善信先生には、適切な補足説明を加えつつ、私の講義を英語から明快な日本語へと通訳していただき有り難うございました。


(連載おわり 原文は英語 文責編集部)