大阪国際宗教同志会平成十二年度総会記念講演
「これからの日本宗教」

白鳳女子短期大学学長
山折哲雄

2月21日、神徳館国際会議場において、大阪国際宗教同志会(会長津江孝夫今宮戎神社宮司)の平成12年度総会が、著名な宗教民俗学者である山折哲雄先生を講師に招いて開催され、神仏基新宗教各派から約七十名の宗教者が参加した。


★感性の地殻変動

 山折でございます。1995年のオウム真理教によるテロ事件が起こりましたとき、いろいろな方面から、実にさまざまなご質問、ご詰問をいただきました。最近になりまして、日本列島各地で凶悪犯罪・少年犯罪、また、不可思議な事件が頻発しておりますが、その度に、またいろんな質問を受けるようになりました。そして「今の宗教は何をしているのか?宗教学者は世の中の診断がきちんとできていないのではないか」といった批判も受けるようになりました。ある面では、ここにいらっしゃる皆様方も同じような経験をなさっているのではないかと思います。

 最近の一連の問題は、宗教に関わる関わらざるを問わず、その問題を考えていく上で、非常に重要なことがあるのではないかと私は考えてまいりました。それは、1995年の阪神淡路大震災とオウム真理教のあの事件が起こったときにも、漠然と考えてはいたことでありましたが……、そのことについてまず、申し上げたいと思います。

 実は、ここ数年のさまざまな事件を引き起こした最も大きな問題は、新しい世代、子供たちの感覚の世界が大きな地殻変動起こしているのではないかということです。感性の変化というものはなかなか掴みがたい。掴みがたいが、気がついたときは、もう時すでに遅し……。それくらい影響力を持っている問題だと思います。この問題は、これまで教育界、宗教界で必ずしも自覚的に考えられてこなかったのではないか。こういう非常な不安感を私は持っております。

 それを象徴するようなことをひとつ申し上げてみたいと思います。それは、ちょうど今から18年前のことでございます。昭和57年、1980年代の初頭にひとつの危険な徴候が現れていた。昭和57年、毎日新聞に、ある若い母親からの投書がございました。自分の子供に子守歌を聴かせたところ、子供がむずかり始めた。おかしいと思って再びゆっくりと子守歌を聞かせたところ、拒否反応を示して布団の中に潜り込んだ。わけが解らないので、どうしたらいいかという投書を毎日新聞に出したわけです。

 新聞のほうでは、なに気なしにそれを投書欄に載せたわけですが、そうすると、翌日から同じようなことを訴える投書が母親たちから殺到したというのです。「これはもう偶然ではない」ということで、毎日新聞の家庭欄の編集者たちが手分けをして取材調査をした。結局、原因は判らない。そしてそのまま取材は打ち切られた。そんなことがございました。


★短調排除の時代


 私はその新聞記事を切り抜いております。解らないままだったんですが、翌年になりまして、3月のことだったと思いますが、藤原新也さんという作家の方が、同じく毎日新聞にひとつの推論を投稿をされておりました。驚くべき推論でございました。藤原さんによりますと、おそらく、朝から晩まで民放放送局で流しておりますコマーシャル・ソングに原因があるのではないかというのです。当時の代表的民放各局が流しておりましたコマーシャル・ソングを全部集めて、分析をした。その結果、それらのコマーシャル・ソングの中に短調のメロディーがひとつもなかった。ほとんどが四音階の快活なリズムに基づいていました。

 最近の子供たちはほとんど、悲哀のメロディー、哀調のメロディーを聞くことなしに育っています。朝から晩まで、生まれてから成長するまで。それで藤原さんはこう言われるわけです。「現代は短調排除の時代である」ちょうどその年のことです。18年前、横浜で中学生たちが浮浪者ホームレスを襲って殺す事件が起こりました。少年犯罪の走りであったと思います。あの事件が社会に与えたショックの大きさというものを、われわれは既に忘れておりますけれど、それが1995年に再現されただけであると言えなくもない。深いところで少年少女たちの感性が地響きをたてて変わりつつある。つまり、短調のリズムを知らない、人間の悲しみの感情を知ることのない人間が育ち始めている。そのことを象徴的に示す事件ではないか。こういうことを藤原さんはおっしゃっておられる。短調を忘れた子供たちは人の痛みを感じる能力が低下している。そういう世代ではないか……。

 世界のさまざまな宗教は、五百年・千年・二千年の歴史を貫いて、人々の心に染み透る短調のメロディー、哀しみの旋律といものを宗教音楽というかたちで伝えてきたと思います。讃美歌でもそうです。仏教讃歌でもそうです。お経でもそうです。祭文、祝詞、全部そうではありませんか……。宗教がその漸進的な生命としてきた短調のメロディー、悲哀のメロディーというものを現代の日本の若者たちは忘れ始めている。こちらのほうが遥かに、宗教的意味においても教育的意味においても重要な問題ではないか。私はそう思うようになったのであります。

 しばらくして、京都・奈良・大阪どこででも、ミュージックショップに参りまして、現代の低学年音楽教育に使われている音楽教材CDを調べてみたのですが、驚くべきことに、どのCDの中にも日本の伝統的子守歌はひとつも収められていない。五木の子守歌、島原地方の子守歌、中国地方の子守歌。あの懐かしい、まさに宗教音楽と言ってもいいような、人生の悲しみ、苦しみ、そしてそこからの脱却をメロディー・リズムのかたちで教えてくれていたはずの、あの伝統的な子守歌の旋律が全く消え去っていた。

 ちょっとお調べになれば判るのですが、今、妊婦の胎教用の音楽教材というものがちゃんと販売されているんです。そして、零才児用・一才児用・二才児用・三才児用……の情操教育の音楽教材、小学校一年・二年・三年生用……の音楽教材がずーっとあるんです。しかし、その中に伝統的な子守歌はひとつも収められていない。今日の子供たちにあの子守歌に歌われていた悲哀のメロディー、人間の痛みに対する感受性というものが、もう、失われ始めているということがそれだけで判るんです。

 もっとも、子守歌そのものが完全に失われているわけではない。ブラームスの子守歌とシューベルトの子守歌は胎教用のCDにも、小学校低学年向けの音楽アルバムにもきちんと収められている。ブラームスとシューベルトの子守歌というのは、いい歌です。私も暗記するくらいに歌ってまいりました。あれは既に明治時代に国定教科書に採用されていまして、ちゃんと翻訳もできている。その中身というのは、ヨーロッパ近代の中産階級の、幸福な豊かな、優しい家庭における子供たちのための子守歌である。それはわが伝統的な子守歌が歌っている、封建時代の、暗い陰々滅々とした世界とは違います。

 明治国家は、日本国民の教育のために、まさにヨーロッパの近代を実現するために、封建的な日本の子守歌に歌われていたようなああいう生活を、乗り越えるためにこそ、ブラームスやシューベルトの子守歌を採用したんだと思います。それはそれで当然であったと思います。しかし、そのことによって、日本の封建的な、陰々滅々とした、乗り越えるべき、暗い子守娘たちの経験した世界を否定するあまり、人間の悲哀の根底を歌い上げていたあのメロディーさえ根こそぎ捨て去られてしまったという問題です。

 これはジレンマであります。しかし、もしかすると、そのジレンマこそが、日本の新しい世代、近代日本人の感性の世界に痛烈な打撃を与えてしまったのかもしれない。おそらく、そういう近代化の問題に正面から立ち向かって、そのジレンマをなんとか乗り越えようとするのが本来の教育の使命であったのに違いない。それ以上に宗教界のなすべき仕事であったのに、それをサボってきた。気がつかないままにサボってきたのではないか。そういう反省を私は持っています。

 そこで、どうするかです。もう、ちょっと手遅れだなという感じもするのですが。私はこの3年間、女子短期大学で学生たちを教えております。子守歌を歌ったことのある学生はひとりもいないのです。私の大学は社会に開放されていまして、母親たちも受け入れています。私の講義にも20人くらいの母親たちが見えられています。ちょうど、あの18年前に初めての子供を産んだくらいのお母さんたちです。彼女たちも日本の伝統的な子守歌を心を込めて歌った記憶がないとおっしゃる。メロディーを正確に歌っても、歌詞を正確に歌っても、それは子守歌の世界を相手に届けるというのとは全く別のことです。


★日本をダメにした三種還元の方式


 実は、オウム真理教の事件が起こったとき「新聞・世論・思想家・宗教家の全てが、事件に対してどういう反応をしたのか」と私はよく言います。「皆、同じパターンで反応した」ということが非常に気になっていました。

 ひとつは、ああいった事件が起こりますと、新聞の論説、テレビの解説の冒頭にまっさきに出てくるのは、「犯罪を犯した人間の心理的動機を明らかにせよ」という命題であります。最近、東京で「春菜ちゃん事件」が起こり、京都で小学生を殺した「てるくはのる事件」が起こる。「その犯罪者はどういう動機で犯罪を起こしたのか?」ということがまっ先に重大な問題として取り上げられます。

 テレビに出てきた「心理学者がコメントをする」といったことが最初に起こります。それとほぼ同時並行的に出てくる問題が、今度はその社会的背景はどういうものであったのかということです。そこで登場するのが社会学者です。家庭の問題か、地域の問題か、学校の問題か。そういうことがいろいろと議論されます。社会的背景の分析です。

 しかし、動機を心理的に分析しても、社会的に分析しても、ハッキリしないということがだんだん判ってきます。そうすると、犯罪者自身の精神病理的問題が原因ではないかということが、次に言われるようになります。そこで、登場するのが精神病理学者です。

 どうでしょう。横浜で中学生が浮浪者ホームレスを襲ったあの事件以来、ずっと変わらずあるパターンなんです。目に見えない、良く判らない異常な事件が発生したときに、近代日本人が示すごく一般的な反応です。まず心理学的意味はなにか?次に社会学的背景はなにか?そして、精神病理学的原因はなにか?その都度、登場するのが心理学者であり社会学者であり精神病理学者であります。いったい、そのどこに宗教家が出てきてコメントをする場があったんですか……。

 業界においては、宗教家はいろいろな発言をされている。しかし、日本の一般的な社会というレベル、マスコミというレベルにおいて、どれだけの発言があったのか。また、世間がどれだけ要求したのか。ほとんどゼロに近い。日本に異常な事件が発生したとき、常に出てくる命題は、心理学的動機・社会学的な背景・精神病理学的な原因だけです。私はこれを「三種還元の方式」と言っているんです。

 日本の近代社会は、この「三種還元の方式」によって完全に汚染された。抜け出ることはできない。私ももちろん、心理学者や社会学者や精神病理学者の優れた方々から多くのものを学んでいます。そういう方々のおっしゃることには半分、あるいはそれ以上の真実が含まれているとも思っております。完全否定するわけではありません。しかし、問題はそういうところにあるのではありません。どの程度が真実で、どの程度が真実ではないかを、腑(ふ)分わけすることではありません。

 私が非常に心配しますのは、「人間の行動というのは異常なものであれ、正常なものであれ、『三種還元』をすることによって理解できるんだ」という、この信念です。何とか人間というものを理解しようとして、心理的動機や社会的背景を分析しようとする。客観的で科学的な方法に基づけば、人間の行動というものは、最終的には理解可能なんだという、こういう信念体系。これは平均的日本人においてかなりの割合で信じられています。

 それどころか、宗教界においてもそういうお考えを持っておいでの方のほうが多いのではないでしょうか。「心の闇」というものが人間にはあるということを認めながら、実際に発言したり、行動したりするときには、その三種の分析方法に頼っているのではないか。ある程度、人間というのは判るんだという、そういう信念を持っているのではないでしょうか。私自身、そうでした。それが一番危険なことです。

 「『三種還元の方法』によっては人間というのは理解できないんだ」という断念のような、諦めのような考え方を排除してきた。しかし、考えてみますと、宗教とか哲学というものが千年、二千年の間やってきたことというのは、「人間というのは究極的に未知なる存在である」ということの認識だったと思います。人間とは未知なるものだからこそ、「人間とは何か?」という問いを続けざるを得なかった。それが宗教・哲学の仕事であったと思います。

 その時初めて、人間というものに対して、畏れの感覚、畏れの感情というものを人間は持つのだと、私は思います。その畏れの感覚に基づいて人間はもっともっと謙虚になるんだと思います。ですから、哲学のやった仕事ですとか、宗教のやってきたことというのは、人間をして人間に対して徹底的に謙虚な態度をとらせる、そういうインパクトとして、哲学の力、宗教の力は歴史的に働いてきたはずだと思います。ところが、今日、宗教の力は失われている。哲学を頼る者はほとんどいない。むしろ、今日、宗教は嘲ちょう笑しょうされ、哲学は無力を嘲あざ笑わらわれている。


★心の教育に宗教家は必要ない?


 文部省のさまざまな委員会に出て感じるのは、委員会を構成するのは、理科系の人間と心理学者、社会学者、精神病理学者だけです。宗教家はひとりもいない。哲学者もいない。文学者がひとり、ふたり、ちらほらといるだけです。私が中教審で関わりました「心の教育を考える委員会」で、そこに登場した文学者は俵万智さんただひとりだった。俵万智さんというひとは私は好きです。たいへんな歌人だと思いますが、俵万智さんが日本の文学界を代表するとは、とてもとても思えない。いかがですか?哲学者はひとりもいない。宗教家もひとりもいない。

 私はあの委員会で二度、正面から言いました。「心の教育を考える委員会で、ひとりも宗教家の出席していない委員会なんて、ちょっと異常ではないか」と……。アメリカやヨーロッパでこういう委員会を作るとしたら、ありえないことです。アジアなら言うまでもない。日本だけです。「心の教育を考える委員会」に宗教家がひとりも参加していない。

 そのことに対して、宗教界はひとつも異議申立てをしなかった。どうしてですか?これが私の自己反省を含めて、今、考えていることです。その、人間の行動に対する反応のパターンが画一化していることを突き破るために、何が必要か。それはこれからの日本の宗教を占う重要な試金石だと思います。

 今日、「心」という言葉が世の中に氾濫していると思います。「心の時代」「心の教育」だと。テレビでもラジオでも新聞でも文部省でも。心、心、心。そこで語られている「心」の問題は、私の経験から言いますと、ほとんど心理学的レベルにおける「心の問題」なんです。

 今日の学校におけるいじめの問題、不登校の問題、学級崩壊等々の問題をどう解決するか。まさに、子供たちの心の問題だとして、さまざまな対策を国家的レベルで、自治体レベルで、考えているわけです。その現場に出される問題はほとんど、心理学的な治療・治癒の問題です。心理学者の提言というものは非常に大きな意味を持っている。               


★心の探求

文部省の「心の教育を考える委員会」が打ち出した大きな予算を伴う施策のひとつが、小中学校にカウンセリングルームを設けるということでした。それだけの人数のカウンセラーを全国的に確保できるのかという問題が今、起こっていますが、それは心理学的な対応策です。

私は、教育にはふたつのカテゴリーがあると思っています。ひとつは、短期的に対応する対症療法的な教育であります。これを私は「丁稚(でっち)教育」と言っている。これも必要であります。そこで犯罪が起こっている。刃物を持ち出す人間が教室にいる。これをどうするか?それはもう、短期的に対症療法的な対応をしなければならない。文部省は、それは確かにやっています。しかし、それは「丁稚教育」にすぎない。

もうひとつの教育というのは、五十年先、百年先を見通した教育です。これは「人間教育」ではないでしょうか……。それに手を着けなければならないところにきているが、それに対する議論はほとんどなされていない。これが文部省の現状であります。その「心の教育を考える委員会」で言ったのですが、この日本の歴史というのは、「心を探究する歴史であった」と読みかえることができるはずです。「世界の様々な文明文化の中で、人間の心というものに対して、これだけ集中的に議論を重ね、著作を創り、人間的な活動が行われてきた民族は、そうあるものではない」と、強調して言ったのです。例えば、神道で申しますと、神話の時代から「清き、明き心」ということが重大な問題として説かれています。

日本人の歴史における心の探究はすでに六世紀に始まっている、自覚的には……。おそらく実際にはそれ以前からだと思います。やがて、仏教が入ってくる。比叡山に最澄が天台宗の本山を創りますが、その最澄が終始一貫して主張していたこと、それは道心という問題ではなかったかと思います。道を求める心。最澄仏教を象徴する言葉が道心という言葉ではないかとさえ、私は思います。

同じ時代に高野山に真言宗を開いた弘法大師空海。空海の最大の著作が『十住心論』であります。心が主題であります。人間の心には十の段階がある。動物的な段階の心、人間的な段階の心。その上が小乗仏教で、さらに大乗仏教、そして最高の心の状態が真言密教の心と……。心というのは変化し、成熟していくという考え方であります。私は空海においても心の探究は非常に重要な問題であったと感じます。

鎌倉時代になりまして、例えば法然と親鸞。「二種深心」ということを二人は説きました。深い信ずる心であります。深心という言葉であります。それはほとんど最澄の道心、あるいは空海の十住心という考え方と同じディメンションに立つ心の探究の試みであったと思います。明恵上人は菩提心ということを強調されました。

私たちは歴史的な文献によってしばしば誤解するのですが、明恵は「法然は菩提心がない」と言って批判した。教義論争的にはそうかもしれないが、明恵は明恵なりに菩提心という道を求める心を重視して、生きていた。同じように法然も阿弥陀如来を信ずる深き心というものを大事なものと考えていた。心を重視するという点では二人は全く共通していた。そういう観点が、宗派的な仏教史の研究の中からなかなか出てこないんです。宗派の垣根は取り払わねばならない。取り払わなければ日本人の心の探究という問題は見えてこない。共通の重大な課題が消えてしまうではないかという問題であります。

さて、曹洞宗の道元はどうか。道元の有名な「信心脱落」という言葉があります。彼は中国へ行きまして、天道山で如上禅師に出会って只管打(しかんだ)坐ざ(ひたすら坐禅する)修行を続けていって、あの「信心脱落」ということを体験するわけです。心と体が一体になっている。心を離れて体はない。体を離れて心はない。その心と体が一体になって、透明になって、自分の全体が宇宙とひとつになる。そういう体験だろうと思います。

それは法然の「三昧(ざんまい)発得(ほっとく)」という体験と同じです。念仏を唱えていると、その内、ずーっと仏と一体になるような神秘体験が起こるということを言っている。あるいは、親鸞の「自じ然ねん法ほう爾に」とも同じかもしれない。心を探究していって、阿弥陀如来とか大日如来とか、そういった絶対的な大いなるものとの一体感というものを体験したに違いない。自力と他力に真っ二つに分けようとすることは「賢さかしら」と私は思います。それでは心が逃げていく。

考えてみますと、万葉の時代からずーっと、神道・仏教を貫いて日本人というのは、心、心、心……。こう思い続けてきた民族。そういう文化を創り上げてきた。そういう心の探究の歴史というものを芸術的にリファインさせた人物が、十五世紀の世阿弥だった。世阿弥という芸術家アーティストは「初心忘るべからず」と言っているわけでございます。「舞台に立つ芸術家の心すべきことは、まず、初心だ」と言っているわけです。これは今日、結婚式でどなたかがかならず言う、日本人の好きな言葉です。

この「初心」についても、実に様々な議論がなされておりまして、世阿弥自身も生涯「初心」という言葉について、いろんな意味を与えておりますので一概には言えません。記紀・万葉以来、日本の仏教者たちが神道思想と共に深めてきた心の探求の歴史というものが、そこで芸術に昇華した。その世阿弥の芸道論というものは、その後の日本人の美意識に限りなく大きな影響を与えてきたと思います。

武道・芸道・お華・お茶、われわれの生活を律する日常的なマナー。そういうものの全てに、世阿弥の「初心」という問題が陰に陽にさまざまな影を投げかけている。特に江戸時代以降になりまして、「心・技・体」という言葉が出てきますと、これまた日本人に愛好されるようになっていく……。心と技と体。それが一体になった時、真の芸が生まれる。真の武道が生まれる。真の倫理の道が開けてくる。こういう考え方です。

よく私は言いますが、この伝統は、近代になっての夏目漱石の「則天去私」の考え方になっていく。天に則のっとって己を知る。「去私」というのは無心になるということだろうと思います。無私無心の世界。漱石自身果たしてその境地になり得たかどうかは別として、血を吐いて死ぬその直前、漱石は、「できることなら則天去私の世界に至り得たい」と思っていた。日本人の願望が、ああいう言葉になって現れた。

もう少し言いますと、近代批評を打ち立てた小林秀雄さんがおられましたが、小林さんの好きだった言葉が「無私の精神」ですね。私を捨て去った無心無私の世界。無私になった時、ものが見えてくる。「批評の達人はまさに無心になることである」というのが小林秀雄の信念だったと思います。あの小林秀雄や夏目漱石の考え方というのは、神道の「清き、明き心」というのと無縁ではない。最澄の「道心」、空海の「十住心」とも無縁ではないと思います。

そういう日本人の心の探究の千年、千五百年の歴史を、ひとつこれからじっくり構えて、教育界で、宗教界で考えていこうではないか。そういうことを、私は文部省の中教審の委員会で言ったんですが、「記録に留められた」だけでありました。現場の興味は、何億の予算が付いて、どういう教材が買えて、どういう人員配置をするか、それだけです、役所の関心は……。今日はあまり悲憤慷慨するつもりはないんですが……。(会場・笑)


★西洋人の捉えた「日本文明」

話は変りますが、最近話題の本にハンチントンの『文明の衝突』という本があります。これは政治学界、経済学界、さまざまな分野で大変に話題になっている本であります。「世界には七つの文明がある。その七つの文明の背後には、宗教が横たわっている。二十一世紀は宗教とか民族を背景にした七つの文明が、それぞれ衝突を始めるであろう。その中でアメリカ合衆国がいかに漁夫の利を得るか」そういう世界戦略のもとに書かれた本であります。

そこは警戒して読まなければいけないところでありますけれど、しかし、なかなか予見性の高い書物だと私は思います。現象的にはハンチントンが予測する通りに二十一世紀は進んでいくのではないかという気がします。不気味な存在が、イスラーム文明です。これはご承知の通りであります。

その七つの文明の中に日本文明がひとつ入っているんです。これはすごいことだ。さすが、ハンチントンは見ている。日本の存在、日本のプレゼンスの大きさというものをきちんと認識しているわけです。一国で一文明を代表しているのは日本文明だけなんです。

他の六大文明は全部、複数の国々によって形成されているものばかりです。日本だけが、一文明一国家なんです。「大変な評価を日本に与えたものだ」と思って、まぁ、よく読んだわけではありませんが、斜めに読み飛ばした。 

この本の中で、日本文明の内容についてハンチントンはどのようなことを言っているかと、メモを取りながら読んだわけなんですが、これが、ほとんど無内容(会場笑い)。七大文明のひとつに日本文明を位置づけながら、「さて、それだけ大きなプレゼンスを示す日本文明の中身は何か?」ということになりますと、ほとんど何も書いていない。

政治学者・経済学者の中に、そのことを言う人がいないんです。「二十一世紀に日本がアメリカや中国との関係において、どのような国際政治上の働きをするのか」ということばかりです。それだけ大きな意味を持った日本文明の中身はいったい何だったのか?五百年、千年、千五百年の歴史の中身はいったい何か。そういうことには一言も触れていない。

やっぱり、あれは「幻の本」と言ってもいいかもしれません。日本人のプライドをくすぐるだけの本だったかもしれない。しかし、あの本に触れて私がハッと思いましたのは、「ああ、似たようなことを議論している人がいたな」ということでした。

今から約半世紀前のトインビーであります。A・トインビーの『歴史の研究』全十五巻。これは世界に冠たる業績です。世界の文明の興隆・衰退について、実にダイナミックな歴史的な仮説を出した研究でありますが、あの中でトインビーはやはり日本文明に着目しているんです。不思議な文明だ。ある時代、世界に対して大きな役割を果たした。到底、無視することはできない。無視するどころか「これは重大な文明だ」という認識を持っている。ところが、トインビーが『歴史の研究』の中で日本文明の中身について、どういうことを言っているかというと、ほとんど、中身がないんです。

ハンチントンと同じです。外から見て「これはすごい」と思っているだけです。なぜそういうすごい文明が創り出されたかということについて、ほとんど分析がないのです。日本というのは軽く見られてきたんでしょうか。あるいは、恐ろしい存在として、ハリネズミのように外から恐る恐る眺められてきただけなのでしょうか。不思議ですね。

そのトインビーが、戦後十年くらい経ってからだったと思いますが、来日しております。二、三度来日しておりますけれど、時の京都大学人文科学研究所の教授でありました東洋史家貝塚茂樹さんと対談をしたことがありました。その時の対談の内容を鮮明に覚えております。どういうことが問題になったか?「明治維新というのはすばらしい革命だった」とトインビーが言いました。「あの明治維新という革命はほとんど無血革命に等しい。血を流していない。なぜ、それが可能だったのか?」という問いでした。

もっとも、明治維新でも、戊辰戦争から西南戦役まで、多くの血が流れております。完全な意味での無血革命ではないわけでありますが、しかし、フランス革命やロシア革命と比較すれば歴然としています。ほとんど無血革命に近い。逆にそれだけ多くの血を流しているんですね、フランス革命とロシア革命というのは……。

それはなぜか?それに対してトインビーは「仏教の影響だと思う」と答えています。おそらく仏教の「不殺生・非暴力」の考えを念頭に置いてそういうことを言ったんだろうと思います。ところが、それに対して貝塚さんは「いや、そうではない。それは儒教の影響だ」と答えております。彼は中国が専門ですから……。中国には「禅譲」の思想がある。「武力を用いずに、帝位を譲る」という考え方がある。あるいは日本式の武士道ということを考えておられたかもしれない。「仏教の影響だ」、「いや、儒教の影響だ」……。「なんとまぁ、単純な議論をしていることか」と思いました。


★平安時代と江戸時代に注目

「仏教だ、儒教だ」と言うのなら、神道という問題も考えに取り入れなければならない。では、儒教・仏教・神道で解決がつくか。そんな簡単なものではないだろう。明治維新が無血革命という歴史上希有な仕事をやってのけた原因を、それだけのことに帰すことはできないのではないかと、私は漠然と考えておりました。

最近は、その問題について、次のように考えています。トインビーと貝塚さんが存命ならば、ぜひお聞かせしたいと思う仮説ですが、ちょっと遅すぎました。

日本の歴史の中で、長い平和が続いた時期が二度あります。ひとつは平安時代です。平安時代は平安遷都から保元・平治の乱まで三百五十年間、平和の時代であります。第二番目が江戸時代であります。徳川家康の江戸開幕から明治維新まで二百五十年間、平和の時代であります。

日本の歴史の中で三百五十年間の平和の時代と二百五十年間の平和の時代があったんです。このような時代はヨーロッパの歴史のどこを探しても見出すことができない。アジアのどの国にも存在していません。いったいなぜ、この日本列島において長期にわたる平和の時代が可能だったのか?ずいぶん文献を調べました。しかし、こういう平和に関する研究の蓄積がどれだけあったか、ということです。ほとんどないのです。

特に、戦後の日本の歴史観――明治維新以降と言ってもいいかもしれませんが――歴史学の重要な問題は革命の理論であります。「変革の理論」であります。「転換期の理論」であります。鎌倉時代は、いろんな方面から繰り返し、繰り返し、研究がなされてきた。そして、明治維新でしょう。変革の理論、変革の歴史に対しては、日本人は実に多くのエネルギーを費やしてきた。

しかし、その変革と変革の間をつなぐ長期にわたる「平和の時代」に対して、どういう態度を示してきたか。「平安時代の平和、あれは単なる貴族たちの時代である。貴族文化の時代である。江戸時代は封建時代の平和である」と否定的にしか評価しなかった。これが大きな間違いだったと思います。

どんな理由であれ、戦争のない、大量虐殺の存在しない時代というのはそれ自体で価値があるんです。戦後の宗教界はそういうご発言をなさったかどうか……。私はこれから、宗教界だけではなく日本人全体が、なぜ、平安時代には三百五十年間も平和が続いたのか?江戸時代に二百五十年間も平和が続いたのか?その原因を追求するそういう仕事に取りかかるべきであると思います。まっ先に声を上げなければならないのは宗教界ではないかとさえ思います。

もう、あまり時間がありません。いえ、これ以上しゃべるとボロが出るので、ちょうど時間が切れるところでこういう話をしているわけです。ひとつだけ申しますと、私はこのふたつの時代、長い平和な時代が続いた重要な理由のひとつに、「政治と宗教の相性が良かった関係」というものが大きな役割を果たしていると思います。国家と宗教、政治のシステムと宗教のイデオロギーの在り方に調和が取れていた。ここを皆嫌がるんです。歴史学者たちはそういう見方をするのを嫌がるんです。

宗教学者も嫌がります。それは「宗教が国家と手を結んだ」ということだからです。「鎮護国家」というものがどれだけダーティーなイメージで捉えられ論じられてきたか。そう考えてはいけない。宗教と国家の関係がバランス良く、調和が取れていた。ここに重要な問題が横たわっていると思いま
す。

ヨーロッパの近代というものが生み出される過程で、どれだけ宗教が国家に異議申立てをしたか……。プロテスタントの運動がまさにそうではないか……。そのためにどれだけの血が流されたか。戦争が起こったか。インドでもそうでした。中国でもそうです。宗教と国家は絶えず戦争をしていた。

日本にそういう現象がなかったとは言えません。一向一揆、これは動乱の時代です。平安時代と江戸時代を結ぶ、変革の時代に起こっている。本願寺教団の存在理由は、まさにそこにあった。「それではいけない」ということを自覚した本願寺の思想家のひとりが蓮如だったと思います。蓮如は十五世紀の人間でありますが、十七世紀以降の江戸幕府の平和な時代を準備した思想家の、先駆的ひとりだと私は評価しています。蓮如のやった宗教政治、政治的宗教というのは、その後の戦国武将たちが模倣していった。最終的にそれを完成の域に高めたのが家康だったと思います。


★平和の遺産を未来へ

そう考えた場合、その宗教と国家の調和の取れた関係をもう少し具体的に言うと何か?非常に単純なことであります。神道と仏教の平和共存。これであります。今までの歴史学がどのように言ってきたか。「神仏習合、本地垂迹ほんじすいじゃく」。これは宗教の宗教としての自立性という観点からすると「非常に遅れた前近代的な体制だ」という認識です。冗談ではない!神仏習合とか本地垂迹という考え方を、宗教と国家の共存の関係、宗教と宗教の共存の関係というものに置き換えなければならない。それは神仏の共存の関係であります。

二十一世紀にかけて世界の平和を唱えるのならば、われわれ宗教界の人間には既にこれだけの遺産がある。三百五十年と二百五十年の遺産です。それを再評価し、それをどう活かしていくかということを考えることなしに、これからの日本の宗教の可能性を考えることはできない。この可能性を言葉で客観的に考え直し、表現することができたとき、世界の宗教界に向けて説得力のあるひとつのグローバルスタンダードを作ることができるのではないかと私は思っています。

ちょうど時間になりましたので、これで私の話を終わらせていただきたいと思います。

司会 ありがとうございました。休憩の後で、山折先生へのご質問の時間を設けたいと思います。「政治と宗教の問題」ということでは、途中で代議士の左藤恵先生がお帰りになられましたが、「憲法調査会でその問題を取り上げるので、本当は残って聞きたいのですが……」とおっしゃって私、ご質問を申し付かりました。

それから、休憩の前に、清風学園の平岡英信先生のご代理として、先日、大阪知事選にご出馬なさいました平岡龍人先生がお越しになっておられて、皆様にお礼のご挨拶をなさりたいということです。平岡先生、どうぞ、お願いします。

平岡龍人でございます。この場を与えていただきまして、どうもありがとうございました。皆様から熱いご支援を頂きまして、特に、自民党本部からの非常に厳しい締めつけがありました中で、五七四、八二一票という票を頂きました。本当にありがとうございました。微力でございまして、皆様のご期待に応えられなかったのが非常に残念でございましたが、皆様から頂いた票というのは、真心を頂いたと思っております。これから、教育あるいは宗教を通して少しでも世の中に恩返しをしたいと思っています。本当にありがとうございました。

司会 山折先生から、本当に貴重なご意見を賜わりました。私ども宗教界が叱責されていると申しましょうか…。私も前々から思っておりましたが、国民的関心事、社会的な関心事に対して宗教界が十分に反応をしない。あるいはメディア等からも聞いていただけないという現状があります。これが米国でしたら、何か事件が起こると、すぐにカトリックの大司教や、ユダヤ教のラビの所にテレビ局から取材が行って、研究者の意見と併せて、宗教家の意見も報道しています。先ほどの山折先生のお話を承りまして、できるだけ多くの方に質問をしていただきたいと思います。 松井天理の松井と申します。最初のところで、お聞かせいただいた「さんしゅかんげんの法則」というのが、ちょっと判らないのですが、どういった字を書くのでしょうか?

山折 あんな難しいことを言わなければ良かったのですが……。「ある犯罪行動を心理学的な動機に還元する」という意味で「還元」という言葉を使ったのです。「それに基づいて解釈する」というのが「還元」です。

それから「三種」というのは心理学的な還元と、社会学的な還元と、精神病理学的な還元の「三種」の意味です。それで「三種還元の法則」です。

司会
 他にございませんでしょうか。

棟高弁天宗の棟高光生です。初めのほうの「子供たちの感覚世界が地殻変化を起こしており、感受性が喪失しているのではないか」というお話の中で、「子守り歌が残っていない」とおっしゃいましたが、それ以外に悲哀の感情を表現するような音楽にはどのようなものがあるのか、具体的にお聞きしたいのですが?

山折 ほとんどの演歌が該当しますね。私は美空ひばりさんのファンですが、昭和天皇が崩御された昭和六十四年、つまり、平成元年の五月二十六日が美空ひばりの命日なんです。

私は昭和天皇が崩御された時より、美空ひばりが亡くなった時の方が「これで昭和が終わった」という実感がありました。 なぜかというと、特に戦後五十年の日本の社会を同時代的に生きた人間のひとりとして、ひばりの歌というのは戦後日本人の感覚世界を過不足なく歌ってくれていたという感じがするからです。

そういうふうに絞ってみた場合、美空ひばりの『哀しい酒』という悲哀のメロディーが、非常に大きな役割を果たしたのではないかと思います。 私は、あれは大人たちに対する一種の子守り歌であったという見方をしております。『哀しい酒』は昭和四十一年に出ました。それまでは、美空ひばりという歌手は、ポップスを歌ったり、クラシックを歌ったり、アメリカやヨーロッパのさまざまな音楽に挑戦していました。いろんな才能を持っていた。

実は、ひばりのCDのひとつに『ジャズ・アンド・スタンダード」という盤がありますが、これは『ラバー・カムバック・トゥ・ミー』とか『ラビアン・ローズ』とか、当時われわれにとって忘れることのできない、英語とかフランス語で歌われていた流行歌を、全部英語で歌っているのです。その英語が実に素晴らしいのです。フランク・シナトラやビング・クロスビーなどの英語よりもよっぽど良い英語に聞こえる(会場・笑)。本当ですよ……。

ところが、彼女は英語なんてものは全然知らないわけです。耳で聴くだけです。楽譜も読めなかったわけですけれど、それは素晴らしい多角的な才能を持った人間だった。「マリア・カラスと匹敵する歌手だ」なんてまじめに言っていた人が、岩城弘之さんじゃなかったかと思います。それほどの歌手です。その彼女が、昭和四十年代から演歌一本やりでいくわけです。悲哀のメロディーにのめり込んでいく……。そのクライマックスが『哀しい酒』だと思います。

なぜ、『哀しい酒』がいわば国民的歌謡として、あの時代から、日本人にずーっと歌い継がれてきたかという問題があります。それは、日本人の中には悲哀の世界、哀しみの世界というものに深い共感があったからだと思います。ところが、あの時代の日本の社会はどうだったかといいますと、昭和四十年代というのは「日本列島改造」です。建設ラッシュであり、農村から労働者がドーッと大都会にやって来て、過疎化が急激に始まった時期です。日本の企業戦士たちが世界各地に散って、プラントを建て工場を建て、商品を売りに売りに売りまくった時代です。

経済的にはものすごい上昇カーブを描いていた時代です。しかし、その時、日本人は心の底に次第次第に空洞を感じ始めていた。悲しみを感じ始めていた。それを歌ってくれたのが美空ひばりだと私は思います。あの『哀しい酒』というのは、若い世代だけではなく各世代によって歌われた歌だと思います。つまり、悲しみをまだ共有できる時代だった。

しかし、気がついた時、つまり昭和が終わった時、あの高度成長によって、そういうものが失われていたということではないでしょうか?それを象徴するのが子ども世代における、例えば子守り歌に対する反応の仕方ではないでしょうか? しかし、よく考えてみると、子守り歌を否定するイデオロギーというのは明治からすでに始まっていた。こういう文脈で私はよく語るんです。『哀しい酒』は古賀政男の作曲ですが、古賀政男の曲はもっとテンポが速いのです。最初この曲が世に出たときは、スリーコーラスで台詞せりふが入って四分三十秒くらいだったのです。ところが、ひばりは「このテンポじゃだめだ」と主張したのです。演歌の神様古賀政男に抵抗してゆっくり歌う。それを通してしまうわけです。そして、十年後の『哀しい酒』の長さはツーコーラス台詞入りで五分を超えているんです。スリーコーラス台詞入りで四分三十秒だったのがツーコーラス台詞入りで五分を超えている。いかにゆっくり歌っているか、自分のものにしたかったか判ります。

なお面白いのは、台詞の後に三番が歌われるわけですが、美空ひばりはその二番目のところから涙を流すのです。私は十本くらいビデオに撮って分析しましたが、例外なく台詞の後の歌の二行目から涙が出るのです(会場笑い)。

そして、四行目歌い上げる時に涙が乾ききっているんです。これがすごい。本当に涙を流して歌っているんですが、しかし、完全にそれをコントロールしている。あの人はすごいな……。 私は子守り歌の問題とひばりの問題をパラレルに考えるんです。

戦後日本人の心の風景を捉える場合に欠かすことができない。こんなこと学会で言ったらバカにされますけどね(会場爆笑)。それほど、日本の学会はダメになっているということなんです(会場爆笑)。

司会 ありがとうございました。山折先生の演歌についてのご造詣がかくも深いとは……。別の面を見せていただきました。私(三宅善信)にとりましては、平成元年は手塚治虫が亡くなった年なんです。そういう意味で、私の世代にとっては手塚治虫さんが亡くなって、そこで「昭和が終わった……」と、密接に関連して感じるんです。では、他にご質問のある先生はいらっしゃいますか?

福島金光教佐野教会の福島と申します。よろしくお願いします。

実は私、ゲームメーカーに勤めておりまして、テレビゲーム等を扱っております。一九八〇年以降、ファミリーコンピューターがブームを起こしましたが、同じBGMを繰り返し繰り返し何時間も聞かせるというシステムがゲームには組み込まれているんです。そのことが心理面に及ぼす影響は強いと思います。

これ以外にも、画面の反応などもありまして、この頃の子供たちがすぐに自殺してしまうのは、「リセットしたら簡単にいのち(ゲーム)のやり直しができる」というゲームのシステムに問題があるのではないかと思います。それから、過激な暴力を現実のものと思わずにやってしまうものもテレビゲームには多いですが、そのゲームのほとんどが、今アメリカで大ブームを巻き起こしている『ポケモン』のように日本から始まったものです。そういうものが日本の精神文化に及ぼす影響というものを先生はどのようにお考えでしょうか。

山折 確か八〇年代だったと思いますが、アメリカで『チャイルド・プレイ』という映画が大ヒットしたことをご存知でしょうか。

翌年日本で公開されまして、日本でもかなり衝撃的な影響を与えた映画でした。粗筋(あらすじ)は、人を殺しまくって刑事に追いつめられた殺人鬼が最後に射殺されるのですが、射殺されるのがおもちゃ屋の中なんです。殺人鬼が死ぬ時に、人形のひとつに自分の魂を乗り移らせて絶命するというところから話は始まるのです。 その殺人鬼の魂を乗り移らされた人形が、回りまわってある母子家庭に引き取られるのです。その母子家庭の子供がその人形を非常に可愛がります。そして仲良くなっていくうちに、人形が動きだすのです。殺人鬼の魂を持った人形ですから、奇怪な行動を始める。それがだんだん恐ろしげなことを始める。人形の目が殺人鬼の目にだんだん近づいてくるという嫌な映画です。 ところが、この人形は母親がやってくると静かになるのです。母親がいなくなると子供と妙なことを始めるんです。

ある時、その人形が動きだして子供と会話をしているのを母親が見てしまうんです。電池なしに動いているということを知って、母親は驚愕するんです。判ってしまったために、人形が母親に対して襲いかかるんです。危機一髪のところで免れるという、後味が悪いといって、これ以上後味の悪い映画はないというくらいの映画です。

私はそれを見て思いましたのは、「電気と魂の等価関係」ということです。コンピュータの画面でパッパッパといろんなキャラクターが出て来て、ボタンひとつで自由自在な動きをするという状況になったのは、ちょどその時代でしょう。

私はその『チャイルド・プレイ』の恐ろしさというのは、電気製品が日本の家庭に浸透する過程で怪しい新興宗教がどんどん続生したということと共通していると思います。このことを最初に小説にしたのが林真理子さんです。 新興宗教を舞台に、電気製品と新興宗教の相関関係を鋭く見抜いて、そういう小説を書いたんですね。『チャイルド・プレイ』もまさにそうだったと思います。電気も目に見えない、悪霊も目に見えない。その相関関係で宗教怪奇ホラー映画を作ったというところだろうと思います。私はそれを評論家の大塚秀樹さんに言ったことがあります。そうしたら、大塚さんが言うには、ソフトを作る産業に関わっていて知ったことだけれど、ゲームに出てくるいろんなキャラクターに様々な性格を付与するそうです。知性、感性、意志とか……。

その中に超能力というものを与えるソフトがあるそうです。それを動かしていくと、まさに超能力的な動き方をするというのです。私には信じがたいですがね。 そういう時代が八〇年代から起こってきていますから、おおいに関係があると思います。それでいわば、他人の痛みを感じることのできない子どもたちの感性というものがそれに乗っていくと、簡単に殺人を犯してしまうのではないでしょうか。

司会 ありがとうございました。意外な方向へ議論が展開していますが、他にはご質問ございませんでしょうか。

樟葉 今日はありがとうございました。私は臨済宗の一住職でございます。先生も触れられた、東京で幼稚園児がある母親によって殺害された事件ですが、容疑者は僧侶の妻ということで、私ども臨済宗とも全く関係のないものではございませんでした。

私どもは心から忸怩(じくじ)たる思いでおるわけですが、こういう問題が起こりました時に、評論的な評価はよくいたしますが、私どもの教団として、どう対応したか、どういう発言をしたかということを思いましても、ほとんど何の対応もありませんでした。

私は東京の地区のことはよく存じませんが、私どもの教区の中で具体的な動きがあったのかどうかも判りません。業界紙に、そのことが掲載されたということもないように思います。 私はあの事件につきましては、被害者に対して心から懺悔(ざんげ)しなければいけないということは当然ですが、同時に加害者もああいう方向に歩まざるえなかった、向かわせてしまった私ども宗教者の責任というものもあると思うわけです。そういう意味で、被害者はもちろん、さらに加害者に対する思いも深くいたさなければならない。

そこに、両者に対する懺悔をもって、祈って……。「じゃあ、おまえはどうするのか」ということになると、私はほとんど何もしていないわけですが、教団として組織として、どういう発言をしなければならないか、どういう形ですべきか。そういうことに関して、何かお教えいただけることがありましたら、ご教授いただきたいと思います。 山折それは一番難しい問題ですね。私はあれは一教団、あるいは宗教の問題を超えていると思います。日本の社会全体の問題だと思います。たまたまご主人が臨済宗に属していたから、臨済宗が特に他の宗教の人々よりもこのことを考えなければいけないというのは、ちょっと厳しすぎるように思います。

また、世間もマスコミもそういう見方はしていなかったと思います。「臨済宗けしからん!」なんていうことはなかったと思います。 講演を熱心に傾聴する国宗会員の宗教者たち それだけ根が深く、広がりを持った事件だと思います。おっしゃるとおり、祈り、懺悔、そういうところに行き着くと思います。その上で、ああいう事件が起こるたびに感じますのは、人間の嫉妬ということです。嫉妬というのはすごいなと思います。

嫉妬をどうコントロールするかということが、もしかすると宗教や哲学の最大の課題ではないかとさえ思います。われわれはよく、近代的社会における「上昇志向」と言いますが、全ての人間が「上昇しよう。上昇しよう」と欲望を持っている時に、そこから外れて、上昇カーブを持つことができなかった人間は当然、怨念というか恨みというか嫉妬というか……そういうものを持ちます。私も持ちます。持ってきた。この嫉妬とどう対面するか、ということが実は大変大きな問題ではないかと思います。

私は女子大学に勤めるようになってから、週に一回だけは学生たちと会って講義をするようにしていますが、そういう時にかならず嫉妬の問題を主題として持ち出すのです。どういうふうに教えていったらいいのか、どういうふうにしてこの嫉妬の感情からの解放の方法を教えればいいのか。

至難の業です。自信はありません。しかし、問題はそこにあるのです。嫉妬から自由になったら、どれだけ人間は楽になれるかと思いますが、なかなかそうはいかない。解決のない、出口の見えない問題なのです。最終的には祈り、懺悔というところにいくしかないと思います。

司会 ありがとうございました。先ほど、山折先生がおしゃったもうひとつの大きなテーマですが、日本の歴史の中で平安時代と江戸時代が、三百五十年間と、二百五十年間平和が続いた。

それは「政治と宗教の良好な関係があったからだ」と、おっしゃいました。私、実はもうひとつ気が付いたんですが、平安時代と江戸時代、どちらも鎖国していたんですね。外国と交渉がなかった。偶然だったのかどうか、因果関係がよく判りませんが、そういう方面の、平和・宗教・社会という観点のご質問、どなたかいらっしゃいませんか?

上田法華宗の上田です。司会の方がおっしゃった問題に関連して、日本では「戦争に負けたことによって武器を放棄して、平和が続いた」と大衆は考えていると思います。ただし、バブルが弾けて経済が大きく変動して、必ずしも平和とは言えない現状ではありますが、平安あるいは江戸時代に比べて現状を先生はどう判断されますか?

司会 すみません。もうおひと方ご質問があるんですが、今日は、韓国最大の仏教宗派である曹渓宗の日本曹渓宗管長をされておられます釈泰然猊下がお越しになっていますので、ご質問をお願いします。

釈日本曹渓宗高麗寺の管長をしております釈泰然でございます。私は日本仏教の招待によって来日して三十三年になります。招待を受けて日本に来て、戦時中亡くなった在日韓国・朝鮮人の方の遺骨が二千何百人分保管されていることを知りました。その話を聞いて行ってみると、案内の方の言うには「日本全国に散らばった遺骨は整理できていないまま、何十万人がそのまま眠っている」ということです。

それまでは、私は僧侶として、民族の問題は全部乗り越えたという気持ちがありましたが、そのことを聞き、また、見て、胸が一杯になりました。悲しくなって、慰霊祭を済ませた後、遺骨の前で大声で泣いてしまいました。どの時代も現在も、先祖は大切であると思いますが、戦争で犠牲になった三千四百万もの方々……。

それを宗教の立場から解決する方法はないでしょうか。

今も三十八度線の警戒で南北に分かれて難しい条件はありますが、この問題を宗教の立場、人類平和の立場から解決する方法はないでしょうか?

山折 まず、遺骨のほうからお答えしたいと思います。これが恐らく、国家と宗教の関係にも及ぶ問題だろうと思いますので……。

かねてから、日本人の宗教の根底に「遺骨信仰」があると思ってきました。それは単にお骨に対する信仰だけではなくて、お骨と不離一体の関係にある死者の霊魂の問題があるから、「遺骨信仰」というものが日本人の間で重要な役割を果たしてきた。

それを別の言葉で言いますと、日本人の「先祖崇拝」というものを形作っている。日本には神道とか仏教・儒教・キリスト教、さまざまな宗教が歴史的に重層化して存在してまいりましたが、そういうさまざまな宗教のエッセンスとして「先祖崇拝」というものを作り上げてきた。これも奈良時代以降だと思います。

なぜそうなったかというと、例えばヨーロッパ世界においては、一神教という「天上の絶対神」に対する信仰というものがございました。それに対して日本というのは、山川草木緑と山に覆われているという風土の関係もありまして、死んだ人の魂が山に昇り、森に昇り、そこで神になるという信仰を創り出したといえると思います。

ですから、人はやがて神になり、先祖になり、再び魂として蘇り、この世に生きている人に福を授ける。これが日本人の信仰の核だと思います。 そういう中で、遺骨というものを非常に大事にしてきた。

その点では、政治的支配者も庶民も武士も貴族も、共通に遺骨信仰というものを大事にしてきたと思います。国民的宗教のもっとも重要な基盤が、この遺骨信仰だったと思います。その点で、遺骨崇拝を通して社会の秩序、共同体の秩序、家族の平安というものを求めようとする。そういう気持ちも強かったと思います。

今おっしゃったように、遺骨を収集し、鎮め、祀ることによって平和の関係を築き上げていく……。私はその通りだと思いますし、日本の歴史がそれを証明している。これはもっとわれわれが自信を持っていいものなのです。日本の近代の教育―宗教教育―というものは、遺骨信仰とか先祖崇拝というものを非常に低く評価してきた。ヨーロッパ一神教の世界が最高の宗教だという観念があったからです。それはそれで立派なものです。伝統があるわけですから尊重して当然ですが、同時にこの日本列島という風土の中で生み出された宗教心、遺骨信仰を中心とした宗教心というものも、ひとつの重要な世界であります。少なくとも日本の国家・社会の歴史においては、社会を安定させ平和に導く過程の中で、この信仰は大きな役割を果たしてきたんだという自覚を持つべきです。

お国の韓国とも、そういう信仰を通して交流を続けるということは宗教界のひとつの役割ではないかと思います。これでよろしいでしょうか。

私はここまでしか申し上げられませんが……。 国家と宗教の調和の問題で、現在の日本はどうかというご質問ですが、私は判らないんです。

ただ、私は日本の将来にはふたつの選択肢があると思います。ひとつは、ひょっとするとこれからの日本は第二の応仁の乱の時代になるのではないかと思います。十五世紀の「応仁の乱」です。この時代、伝統的な価値観が崩壊しました。新しい勢力が出てきて、それまでの政治権力というものが完全に地に落ちたわけです。

経済のシステムも変りました。何よりも大きいのは衣食住のライフスタイル全ての大転換です。歴史学者では内藤コナンという人が「応仁の乱で日本の歴史は真っ二つに分けることができる」言っております。応仁の乱前後で、政治のありかた、経済のありかたが全く違うと言っています。また、民俗学者の柳田国男さんが、「今日、日本人が享受している衣食住のライフスタイルの全てが、応仁の乱以降作られた」と言っている。それだけの大変動期だと考えられるのです。

その応仁の乱の時代に現れた宗教家が、蓮如であり、一休であり、日親です。彼らは変革の時代に出てきた宗教家だと思います。現代の日本というのはあらゆる価値観が崩壊し始めている。政治のありかた、経済のシステムが変りつつある。そういう意味では「第二の応仁の乱」が始まったばかり。「騒ぐな、慌てるな。あと五十年くらいは大動乱の時代が続くよ」と。それを覚悟しなければならないのかもしれません。

しかし、もうひとつは逆に、平安時代の三百五十年と江戸時代の二百五十年の遺産があるわけです。この遺産を大事にして、その知恵に学んでいけば、第三の平和の時代を始めることができるかもしれない。その時に、宗教の役割は何かというと、仏教と神道が共存してきた伝統にいかに学ぶかということだと思います。そのふたつの宗教を統合してきたものは先祖崇拝、遺骨崇拝であったと思います。ちょっと話を合せすぎたところがあったと思いますが(会場笑)……。

司会 ありがとうございました。時間があれば、まだまだ伺いたいと思いますが、今日はちょっと時間がなくなってしまいました。機会があればまた、山折先生をお招きしてリターンマッチといきたいところですが……。本日は本当にありがとうございました。 (終わり)