ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世との想い出


 4月2日(現地時間)に薨去したローマ教皇(註:「ローマ法王」は日本のマスコミ用語、ローマ・カトリック教会では「教皇」と呼ばれている)ヨハネ・パウロ2世と、三宅善信代表とは因縁浅からぬ関係がある。



ヨハネ・パウロ2世と
握手して言葉を交わす三宅善信代表

  実は、三宅家とカトリック教会との関係は、太平洋戦争中に、三宅善信代表の亡祖父三宅歳雄師が、「米国のスパイ」容疑で京都で収監されていたパトリック・バーン神父を救援したことから始まる。戦後判明したことであるが、同神父は、朝鮮戦争の際には、教皇の特使を務めて北朝鮮へ行くほどの人物であった。また、米国人であった同神父は、敗戦国日本の「天皇制の護持」を連合国に進言して、これを実現させた陰の主役の一人でもある。

  三宅歳雄師は、日本の宗教界における諸宗教対話の草分け的存在であるが、戦後まだそれほど年数の経ていない1952年に、欧米各国を歴訪。一民間人でありながら、バチカンでは、時の教皇ピオ12世と単独会見(註:この際、オーストリアのコーネル大統領や米国のジョン・F・ダレス国務長官らとも積極的に意見を交換するなど活躍をした)のを皮切りに、1960年代には、「第二バチカン公会議」を積極的に推進した教皇パウロ6世と親交を深め、英国国教会の首座カンタベリー大主教や、東方正教会のエキュメニカル総主教らを紹介してもらい、そのことが1970年に京都で開催されたWCRP(世界宗教者平和会議)の創設に繋がった。以後、三宅代表の父や叔父、兄弟たちも次々と歴代教皇と謁見し、その数二十数回に及んでいる。

  三宅善信代表自身、1977年夏、わずか18歳で、当時の教皇パウロ6世と謁見したのをはじめ、90年代には、4回も教皇ヨハネ・パウロ2世と謁見している。このことには、初のポーランド出身の教皇ヨハネ・パウロ2世に期待された東欧社会主義政権のドミノ倒し的崩壊とも関連がある。実は、三宅代表が初めてヨハネ・パウロ2世と謁見するため、フランクフルトからローマへ移動していた1989月11月9日、まさにその日に「ベルリンの壁」が崩壊したことに象徴される。その知らせで「儀礼的な謁見」は中止になったが、バチカン政府が対応に追われたまさにその現場を代表は目撃した。このころ、三宅代表は東欧諸国の宗教的少数派で抑圧されている人々を支援する活動をするため、毎年2回ドイツを訪問していた。

  仕切直しの謁見となったのは、社会主義政権が次々と崩壊してまだ日の浅い東ドイツ・ハンガリー・ルーマニアを代表が訪問した1990年7月に、両親と共にバチカンを訪問した。この際のヨハネ・パウロ2世は自身に満ちたガッチリとした体躯の教皇であった。さらに、翌1991年7月にも、弟と共にバチカンを訪れた三宅代表は、教皇と再開を喜び合って固い握手を交わした(冒頭の写真は、その際のもの)

  1994年2月には、祖父と共に、WCRPPのW・ベンドレイ事務総長を伴ってパレスチナとイスラエルを訪問(現地の政治・宗教指導者と会談)した三宅代表は、その帰途、ローマに立ち寄り、ヨハネ・パウロ2世と会見して、長時間にわたって中東和平への日本の宗教家の貢献の可能性について話し合った。

  また、同年11月には、バチカンのシノド・スホール(註:今回、教皇の葬儀やコンクラーベの日取りが決められた世界中から集まった司教会議を行う部屋。カトリック教会の重要な事項について協議する部屋)で開催されたWCRP第6回世界会議の開会式で、千数百年の歴史を誇るカトリック教会の教義の中心であるシノド・スホールで、歴史上初めて朗々とコーランが奉唱され、また、三宅歳雄師が宗教的伝統を代表して祈りの言葉を述べた。


シノド・スホールで開催されたWCRP6の開会式で
日本の宗教的伝統を代表して祈る
三宅代表の祖父三宅歳雄師

  このように、三宅家の面々と歴代教皇との交流は半世紀以上にわたって続いているだけでなく、1978年に教皇に即位したヨハネ・パウロ2世が、生涯にわたって104回に及ぶ外国訪問を行い「空飛ぶ法王」と呼ばれたが、三宅善信代表の初めての海外訪問が、同志社大学でキリスト教神学を学び始めた1977年その年でからであり、現在、ちょうど104回を数えている(註:105回目に当たる4月6日〜8日で予定されていた台湾での「愛・地球博」に関する記者会見が、偶然、急遽延期された)ことから、奇妙な一致すら考えられる。


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