嵯峨野宮神社創建1200年斎宮行列   10.18


  2010年10月18日、京都の秋の名勝地である嵯峨・嵐山の野宮(ののみや)神社(懸野直樹宮司)の「創建(嵯峨天皇斎宮仁子内親王卜定)千二百年祭」が営まれ、名物の「斎宮行列」が同神社から御祓(みそぎ)の場である保津川(大堰川・桂川)まで練り歩き、平安絵巻を再現した。

  『源氏物語(賢木の巻)』でも、葵の上との争いに敗れ、源氏の君の愛を完全に失ったと察した六条御息所が、源氏の君との愛を完全に断ち切るために、伊勢の斎宮となった娘とともに伊勢に下向する前に野宮で潔斎するシーンがあるように、平安時代、皇女が斎宮として伊勢の皇太神宮へ下向する際に、嵯峨野宮で御祓を行ったことが知られている。


千二百年祭を終えて社頭で挨拶する懸野直樹宮司

  斎宮(斎王)とは、673年に天武天皇の娘である大来皇女が伊勢の神宮に仕えるために派遣されて以来、南北朝の戦乱で廃絶する後醍醐天皇の代まで660年間にわたって続いた宮中の制度である。考古学者でもある懸野直樹宮司の先代宮司が1999年に、衣冠束帯や十二単をはじめとする平安時代の時代考証に従った衣装を元に復活させた行事で、今年で第11回目となる。今年は特に、嵯峨野宮での潔斎を始めた嵯峨天皇の皇女仁子内親王が斎宮として卜定(ぼくじょう=籤で選出される)されて1200年の佳節に当たり、牛車も新造された。


野宮神社から御祓場へと進む御輿

  祭典はまず、野宮神社の黒木の鳥居を潜って、斎主懸野直樹宮司以下斎員および斎宮代(今年度の斎宮代は、石原夏子さん17歳)が参向し着席した。修祓(しゅばつ=お祓い)、献饌(けんせん=神前に神酒や食べ物を供えること)に引き続き、斎主の祝詞(のりと)奏上と玉串奉奠が行われた。続いて斎宮代の玉串奉奠、また、野宮神社との歴史的関係が深い、嵯峨大覚寺門跡(代理)と賀茂御祖神社(下賀茂神社)宮司(代理)や、三宅善信代表を初めとする来賓たちが玉串を奉奠し、撤饌(てっせん=神前から神酒や食べ物を下げること)して無事、千二百年祭は終了した。


保津川河川敷の御祓場で行われた大祓神事

  引き続き、「斎宮行列」となり、斎宮代を乗せた御輿(みこし)が担がれ、大勢の観光客に見守られる中、嵯峨野の竹藪の中の小柴垣の小道を衣冠束帯・直衣・十二単等に身を包んだ監送使・右京大夫・命婦・采女などが「斎宮行列」として進み、二時間かけて嵐山と嵯峨野を結ぶ大堰川にかかる渡月橋を往復し、高級料亭として有名な「吉兆」からも近い、保津川左岸の河原に臨時で設けられた御祓場へと向かった。



祭のクライマックスは、斎宮代の保津川での御祓

真竹(またけ)注連縄(しめなわ)で結界された御祓場では、斎宮代一行の到着を待って、大祓(おおはらい)の神事が行われた後、斎宮代が保津川の水に手を漬けて御祓を行い、この日の神事は無事終了となった。なお、25日には、京都センチュリーホテルを会場に祝賀会が盛大に催された。



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