宗教界とバチカンとの架け橋 尻枝神父追悼ミサ

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 2007年7月21日、カトリック京都司教座聖堂(京都市中京区)のチャペルにおいて、長年、バチカン(ローマ教皇庁)諸宗教対話評議会において活躍された故尻枝正行神父の追悼ミサが、田中健一名誉司教司式のもとに仕えられ、故人と関係のあった各宗派・諸教団関係者が参列した。


追悼ミサに参列した諸宗教の
代表者たち

 故尻枝神父は、1970年代から90年代の前半にかけて、バチカン諸宗教対話評議会の次官補として歴代長官に仕えたカトリック教会随一の「日本宗教通」であり、現天台座主半田孝淳猊下をはじめ、この間にバチカンを訪問し、歴代教皇に謁見したほとんどの日本人宗教指導者は、尻枝正行神父のお世話になっているといって過言ではない。

 故尻枝神父は、1990年代後半からは、パーキンソン病を患い第一線を引退し、ローマの教皇庁立サレジオ大学修道院病院で治療生活を送りつつも、諸宗教対話評議会の顧問として最期まで後進の指導に当たっていたが、去る6月10日、享年75をもって昇天され、同十二日、サレジオ大学修道院にて葬儀が執行された。

 しかし、尻枝神父昇天の報せが入るや否や、同神父にひとかたならぬお世話になった各宗派・教団関係者から「是非、日本でも諸宗教合同による追悼ミサを」の声が澎湃(ほうはい)として上がり、尻枝神父のカウンターパートとして、カトリック教会の日本国内における諸宗教対話担当司教を永年勤めた田中健一京都教区名誉司教が呼びかけ人になって「追悼式典並びに偲ぶ会」が催されることになった。


 7月21日、カトリック京都司教座聖堂の『都のマリア』チャペルには、各宗派の代表三十数人が一堂に会した中、故尻枝正行神父の追悼ミサが始まった。もちろん、カトリックの聖堂で司教が司式して行われるミサなので、カトリック教会の典礼に従って進められるのであるが、諸宗教対話に生涯を捧げられた尻枝神父に配慮して、「共同祈願」の部分を、臨済宗の宝積玄承京都国際禅堂代表、大本本部の田中雅道国際部長、WCRP日本委員会事務総局の畠山友利次長、日吉神社)の三輪隆裕宮司らが分担して勤めた。


神道界を代表して弔辞を述べる
三宅光雄金光教泉尾教会長

 聖体拝領をもって追悼ミサの部分は終わり、続いて告別式となった。弔辞は、仏教界を代表して比叡山学問所長の小林隆彰天台宗大僧正と、神道界を代表して三宅光雄金光教泉尾教会長の二人が行った。小林師は、今年二十周年を迎える比叡山宗教サミットのきっかけとなった1986年のアッシジの世界平和祈りの集いの折の故山田恵諦天台座主のエピソードについて触れ、三宅光雄師は、1952年から始まった三宅家と歴代ローマ教皇との交流を思い起こしながら、それぞれの場面での尻枝神父の働きに感謝の意を表し、参列者全員の焼香と、故尻枝正行神父の実弟の尻枝毅神父による謝辞をもって追悼ミサならびに告別式は終了した。

 この後、記念撮影に続いて、隣接する京都ロイヤルホテルで「お別れ会」が行われ、西田多戈止一燈園当番と栂正隆臨済宗天龍寺派宗務総長が挨拶を行い、鹿子木旦夫人類愛善会事務局長の発声で献杯となり、追悼ミサ準備事務局を代表して三宅善信レルネット代表の謝辞でもって閉会した。なお、この日の参列者全員に、故人と親交のあった曾野綾子氏直筆サイン入りの尻枝神父との共著『別れの日まで』が偲び草として配布された。


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