三宅善信代表 白柳枢機卿葬儀とワヒド元大統領弔問に 1/5


◆白柳枢機卿の葬儀ミサに参列

 1月5日、三宅善信代表は、カトリック東京カテドラル聖マリア大聖堂で仕えられたペトロ白柳誠一枢機卿(享年81)の葬儀ミサ・告別式に参列した。白柳誠一師は42歳の若さで東京大司教の要職に就き、諸宗教対話活動も熱心に進め、WCRP(世界宗教者平和会議)へは1970年に京都で第1回世界大会が開催された時から関わった。66歳の時、教皇ヨハネ・パウロ2世から枢機卿に列せられ、(財)WCRP日本委員会の理事長や日本宗教連盟の理事長も歴任した。


聖マリア大聖堂で仕えられた白柳枢機卿の葬儀ミサ

 故白柳枢機卿と三宅家とは40年来の交誼があり、三宅善信代表の亡祖父故三宅歳雄師や亡父故三宅龍雄師の葬儀の際にも、時の天台座主や浄土真宗本願寺派門主と共に、白柳枢機卿が「友人代表」に名を連ねている。


白柳枢機卿の葬儀ミサに参列する三宅善信代表

 葬儀ミサは、岡田武夫東京大司教の司式の下、池長潤大阪大司教・高見三明長崎大司教をはじめ、日本にある全てのカトリック教会教区長(司教)が列席、さらには、教皇ベネディクト16世のメッセージを持参した法王庁駐日大使のアルベルト・ボッタリーニ大司教や海外のいくつかの司教と百数十名におよぶ教区司祭(神父・修道士等)が参列する日本カトリック教会における最大級の葬儀であった。三宅代表は、立正佼成会の庭野日鑛会長や松緑神道大和山の田澤清喜教主らと共に、最前列でこの葬儀ミサ・告別式に参列した。


◆インドネシア大使館にワヒド元大統領を弔問

 三宅善信代表は、白柳枢機卿の葬儀ミサに引き続き、昨年12月30日に逝去したインドネシア共和国の元大統領アブドゥルラフマン・ワヒド師の弔問のため、品川区の駐日インドネシア大使館を訪問し、館内に特設された遺影を掲げた祭壇に拝礼し、記帳した。

 三宅善信代表とアブドゥルラフマン・ワヒド元大統領との関係は、ワヒド師が大統領に就任する2年前の1997年秋にまで遡る。ワヒド師は、イスラム教国としては世界最大の人口を誇るインドネシアの最大のイスラム教団体「ナフダトゥル・ウラマ(NU)」の議長を永年勤め、スハルト長期独裁政権崩壊後に行われた初めての自由選挙に国民覚醒党(PKB)の党首種として臨み、「建国の父」スカルノ初代大統領の娘であるメガワティ・スカルノプリ女史率いる闘争民主党(PDI)と協力して政権を獲得し、インドネシア共和国第4代大統領(任期1999年10月〜2001年7月)に就任した。


ワヒド元大統領の遺影に記帳する三宅善信代表

 ワヒド師の祖父は、1926年に「ナフダトゥル・ウラマ(NU)」を創設し、父のワヒド・ハシム師はインドネシア共和国の初代宗教大臣を務めたインドネシアでは最も有名なイスラム教指導者の家系であり、アブドゥルラフマン・ワヒド師は、「イスラム法の最高学府」と言われるエジプトのアズハル大学やイラクのバグダッド大学への留学経験もあり、44歳の若さでNUの議長に就任している。

 三宅代表とワヒド師は、三宅代表の父、三宅龍雄師の特別寄附によって1997年の9月から10月にかけてドイツのヒルデスハイムで開催されたWCRP(世界宗教者平和会議)の国際評議員会(註:三宅龍雄師は体調不良で欠席し、その名代を三宅善信代表が務めた)の際に、5日間にわたって席を同じくして世界の諸問題について語り合った。ワヒド師は、目が不自由であったため、毎日、宿舎のホテルと会議場の往復のためのタクシーを三宅代表が手配して同乗した。ワヒド師は、日本の歴史にも造詣が深く、特に、徳川家康のことを尊敬していた。


 その2年後に、スハルト独裁政権の崩壊が起こり、国民各層からの親任の厚かったワヒド師が大統領に就任したが、その3週間後に、最初の外遊先として、インドネシアにとって最大の援助国であった日本を訪問し、時の小渕恵三首相に協力を要請した。ワヒド大統領の日本訪問はわずか二十数時間の短い日程であったが、その時、ワヒド大統領から宿舎の帝国ホテルの部屋に招かれて会見した日本人は、河野洋平外相や経団連の今井敬会長らほんの数人であるが、三宅善信代表もその中の一人として招かれ、「大統領」して、思いがけず政治の最前線に立たされたワヒド師は、再会を喜ぶと共に、2年前のドイツでの日々を変わらない気さくさで、諸宗教対話のますますの重要性や、欧米中心の価値観をグローバルスタンダードにすることの危険性等について話し合うことができた。この時、ワヒド大統領は「さらに2年後は、世界はどう変わっているかもしれません」と話したが、果たして「9.11」米国同時多発テロ事件が勃発し、アフガン戦争が始まり、世界は本当にすっかりと変わってしまった。



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