南インドでIARFの現地プログラムを視察

2012年2月6日〜10日

  2012年2月6日から10日の日程で、南インドのケララ州を訪れ、親先生が会長を務められるIARF(国際自由宗教連盟)の南アジア連絡協議会(SACC)事務局を訪問し、実務議長トーマス・マシュー博士と会談、また、IARFが進めるHRE(人権教育)プログラムの現場視察等を行った。


▼「遠路遙々」は向こうの台詞(せりふ)

  立春を過ぎたとはいえ、寒気の残る2月6日のお昼前、関空を発つシンガポール航空便で、16時間かけて(乗り継ぎ1回)インド南西端のケララ州最大の都市コーチ空港に降り立った。深夜の到着というのに、気温は30℃、湿度は80%と、日本の真夏のような気候にクラッときたが、一昨年9月に当地で開催された第33回IARF世界大会およびその準備会合のために、過去3年間に4回も訪れた「勝手知りたる地」であり、南アジア特有の空港出口付近の雑踏をサッと抜けてタクシーに飛び乗り、30分後には最初の宿泊地であるコーチ市内のホテルにチェックインしたが、それでも、日付は既に7日になっていた。

  2月7日と言えば、二代親先生の誕生日であり、1993年、万国宗教会議百周年記念行事と第28回IARF世界大会がインド中部のバンガロールで開催された際に、二代親先生のお供をしてインドを訪れた時のことが昨日のことのように懐かしく思い出された。その頃から比べると、インド社会の発展ぶりには目を見張るものがある。当時は、インドへ行くに際して、コレラなどの感染症の予防接種をした上に、食べ物には細心の注意を払って行ったものだが、最近では現地で供せられるものをそのまま食しても何の心配もないし、ホテルの予約もインターネットで取れるし、少々の僻地へ行っても、日本で使っている携帯電話やメイルがそのまま現地でも通じる。まさに隔世の感がある。

  7日の午前中は、IARFの前会長であり、SACCの実務議長であるトーマス・マシュー博士と数々の問題について話し合った。112年もの歴史を誇る世界最古の諸宗教対話団体であるIARFであるが、それを取り巻く環境は、ここ数年来激変しており、2007年末に泉尾教会が国際事務局業務を引き受けてからでも、その変化は留まるところを知らないことは、これまでにも何度も報告してきたので、周知のことであろう。一昨年9月の世界大会時にインドから選出された国際評議員の動静等について意見交換を行った。

  そうこうしている内に、「コーチ近郊」の7人のIARF関係者が私と話し合うために集まってきてくれたが、よく聞くと、脚に障害のある弁護士のシャビアー・アフメッド氏(国際評議員)がわざわざ250kmも離れたマイソールからバスに乗って、また、その2倍も遠いチェンナイからインドチャプター副会長のラマチャンドラム氏らが車を飛ばして駆けつけてくださり、インドにおけるマシュー博士の影響力を再確認し、日本から来た私に対するインドの人々のホスピタリティに感激した。一国で欧州より広く、10億の人口を抱えるインドから選出されている国際評議員は4人しかいないので、なかなかインドの人々の「生の声」を聴く機会がなかったが、今回は、昼食を挟んで5時間近く彼らと直接、忌憚のない意見交換をし、他日の再会を期して別れた。

南インドのIARF幹部役員と懇談する三宅善信総長
南インドのIARF幹部役員と懇談する三宅善信総長

  私は「大切なのは、ローカライゼーション(現地化)とサステイナビリティ(持続可能性)である。永遠に外国からの支援に頼るのではなく、各地元の事情を鑑み、HREのプログラムを体験した若者が、何年か後には、自らの意志と能力によってこの活動を人々に与える側になってこそ、この活動の意味が増す」ということを説いた。私はこれまで、何度もコーチでIARFの会合をもってきたので、マシュー博士自身、コーチ近郊の人だと思っていたが、なんと彼は、100kmも離れたパタナムチッタという町から私に会いに来てくださっていたのである。新幹線をはじめ公共交通機関の発達した日本で100kmといえば、大阪・岡山間ぐらいの距離で、鉄道にしても高速道路にしてもたいした距離ではないが、インドでの陸路の長距離移動はそれだけで、一大事である。


▼社会を豊かなものにする要素

  翌8日は、朝8時にコーチのホテルを発ってパタナムチッタへ向かった。自身は鉄道で往復しながらマシュー博士は、インドの地理に不慣れな私のために、エアコン付きで快適なトヨタ車をわざわざ差し向けてくださり、一路、パタナムチッタを目指したが、日本のような自動車専用の高速道路がないので、荷物を満載したトラックや「リキシャ(語源は、日本の人力車)」と呼ばれるオート三輪や歩行者が入り乱れる一般道を3時間かけてパタナムチッタに到着して、初めてその「距離感」を実感した。ケララ州は、長期間にわたって世界で唯一の「自由な選挙で選ばれた共産党政権」が統治する地域(註:暴力革命によって成立した旧ソ連や現中国は「独裁」国家であり、そもそも、国民が自由に政治的指導を選ぶ「選挙」という概念が存在しない)であり、貧困層にまで教育制度が行き届いており、識字率はアメリカのそれよりも高い。どうやら私の滞在日程とほぼ重なる日程で、その共産党の全国大会がケララ州で開催されるみたいで、コーチからパタナムチッタまでの沿道100kmにわたって、今ではすっかり見かけなくなった旧ソ連の国旗と同じデザインの赤地に鎌とハンマーのデザインの小旗や歓迎のバナーが至る所に掲げられていたのが印象的であった。

  パタナムチッタでは、まず、SACCの事務所を訪れたが、これがまたバナナの山林の中にあって、インドでも珍しくなった地道でほこりだらけの場所で、こんなところに事務所を作って人々に不便ではないかと思われたが、そこにはSACC事務所だけでなく、マシュー博士が会長を務める社会活動団体SEEDSインディアの本部や横浜のフェリス女子大の支援で行われている活動の事務局、「ダリット(不可触賤民(アンタッチャブッル))」と呼ばれる被差別民でしかも障害を持つ人々への内職機会を提供する施設などが集まっており、200名以上の人々がマシュー博士の事業によって生計を立てており、ヤマノシタさんという日本人ボランティアが7年間もマシュー博士の下で、まったく地元の人々と同じ施設で生活し、裸足で作業しているのには驚かされた。ここでは、インドにおけるIARFの活動の記録等を拝見し、いろいろな問題について詳細に検討したが、ふと気がつくと私の足下に小さなサソリが迫っており、このような環境下で裸足で生活している人々のことが心配になった。

  ところが、このような環境にもかかわらず、この椰子の木やバナナの木だらけの山林では大変な建設ラッシュで、ヨーロッパの宮殿のような豪華な門扉を構えた、けばけばしい壁色に塗りたてられた、日本で建てれば2億円ぐらいはかかりそうな「豪邸」が至る所で建築中であり、訳を聞くと、どうやらこの町には世界遺産に指定された寺院があって、わずか1kmのところに、国際空港が建設中で、3年後には世界中から大勢の観光客が押し寄せるのを見越して、大変な好景気に沸いているようである。SACC事務所での話し合いを終えた私は、車で5分の所にあるマシュー博士の自宅に招かれ、遅い昼食を頂き、やっとこの日の宿泊先のホテルに旅装を解いた。このホテルも、築後まだ5カ月しか経っていないインドとは思えない清潔さで、「初めての日本人客」である私に、去年までドバイの日本食レストランで働いていたというマネージャがいろいろと親切に取りはからってくれた。

地元紙に三宅善信総長の訪問記事が紹介された
地元紙に三宅善信総長の訪問記事が紹介された

  この日の晩は、地元のYMCAを訪れ、幹部数名が歓待してくれた。理事長の歓迎の挨拶─饒舌なインド人は挨拶が長い─の間にも、近所のモスクからは夕暮れの祈りを呼びかけるアザーン(註:イスラム教の礼拝への呼びかけ。街中に聞こえるような大音量で流される)の声が響き、インドのほとんどの地域ではヒンズー教徒が圧倒的多数派を占めるのに対して、ケララ州では、約四割のキリスト教徒と三割ずつのイスラム教徒、ヒンズー教徒が平和裏に同居していることを印象づけた。本来キリスト教徒の団体であるYMCAの理事にもヒンズー教徒も名を連ね、「信教の自由」を尊重する地域性が見て取れると同時に、「信教の自由」は豊かで文化的な社会を構成するのに必須の条件であることが証明されたような地域であった。もちろん、YMCAへの特別ゲストとして招かれた私も、インド人に引けをとらない得意のマシンガントークで、IARFの活動の趣旨について説明した。この日の模様は、100万部の発行部数を誇る地元紙『マノラマ新聞』にも掲載された。


▼教育大学で人権教育プログラム

  翌9日は、朝からミッション系のティトゥス2世教育大学を訪問した。ケララ州にキリスト教が伝来したのは、一般に考えられているような16世紀初頭にポルトガルからアフリカ大陸最南端の喜望峰を回ってインドに拠点を築いたバスコ・ダ・ガマやフランシスコ・ザビエルの頃ではなく、それに遡ること1,500年! イエス・キリストの十字架刑からわずか20年後には、十二使徒(弟子)の1人トマスがこの地に到達し、キリスト教を宣教したとされる…。以来の2,000年の歴史を有し、中東やインドで独自の発展を遂げてきたシリア正教会の流れを汲んでいる。

  日本人はインドを「ひとつの国」と理解しているが、それはある意味では正しいが、ある意味では間違っている。インドの面積は、旧社会主義圏であった東欧とロシアを除くヨーロッパ(西欧と南欧)の合計面積より広く、人口も、全部で50カ国が含まれる全ヨーロッパの合計より五割も多い。インドの通貨であるルピー紙幣に印刷されている公用語だけでも16言語もあり、インド人同士で言葉が通じない場合もしばしばである。その違いは、欧州におけるイタリア語とドイツ語あるいはギリシャ語と英語の違いぐらいの差は十分にある。もちろん、いろんな民族がその中に混在している。だから、「連邦公用語」として英語が用いられているのである。このような広大なインドであるから、宗教的少数派や民族的少数派も大量に存在して、しばしば彼らの人権が侵害される。他にも、インド社会には伝統的な「カースト制度」と呼ばれる身分差別や女性差別も厳然と存在し、異なったカースト間に生まれた赤ちゃんが、上級のカースト側の家族から「家系が穢れる」という理由で殺されたり、「ダウリ」と呼ばれる結婚時の持参金が少ないという理由で、嫁がDV(家庭内暴力)の対象となるケースが頻発している。

  このような状況を改善するため、IARFは2005年以来、インド全土でHREと呼ばれる人権教育プログラムを実施してきた。このプログラムは、最初の3年間はオランダ政府の助成金を得て実施されたが、その後は、主にJLC(IARF日本連絡協議会)加盟教団からの支援金を基に実施されている。ティトゥス2世教育大学では、9・10の両日にわたって、150人の学生がIARFが制作したHREプログラムを利用して、「信教の自由」に関する人権教育を実施することになっており、その開講式に私とSACCの責任者であるマシュー博士が招待されたのである。

  歓迎セレモニーに続いて、突然挨拶を頼まれたので、本プログラムの趣旨を織り交ぜてスピーチを行った。私が強調したのは、「教育大学におけるHREプログラムはひときわ意義がある。何故なら、この教室でプログラムを受けるのは150人に過ぎないが、学生たちが教師となって各地の高校に赴任した際、「信教の自由」に関する人権意識を高めた教育を子供たちに施すことによって、今日のプログラムの効果が何百倍、何千倍にも拡大し、ひいてはインドの社会の悪弊を変える原動力になる」という点であった。

三宅善信総長のスピーチを真剣な眼差しで傾聴するインドの大学生たち
三宅善信総長のスピーチを真剣な眼差しで傾聴するインドの大学生たち

  学生たちは、目を輝かせて私のスピーチを聴いてくれ、私も時間の許す限り、その後のプログラムに参加した。HREプログラムが用意した教材ビデオは良くできており、「カトリックの女性が生まれた赤ちゃんに夫の宗教であるプロテスタントの洗礼を受けさせたことにより、彼女の職場であるカトリック系学校の教師を解雇される」という極めて具体的な実例が示され、よく訓練された進行役の下、学生たちが賛否両論様々な立場からディベートを繰り広げた。この大学自体、ミッション系大学であるが、学生はクリスチャン以外に、ヒンズー教徒やイスラム教徒も約半数ほどおり、また、夫の側の立場や妻の側の立場等によって変化しうる、観念としての「信教の自由」ではなく、具体的な事例としての「信教の自由」侵害について、問題意識を深め合っているのが印象的であった。

  この教育大学を辞した後、最後の訪問先であるラーマクリシュナ・ミッションの僧院を訪問して、スワミ・サマグラナンダ師と話し合いを行った。ラーマクリシュナ・ミッションは、スワミ・ヴィヴェーカナンダによって19世紀末にカルカッタで設立されたヒンズー教系の新宗教で、1893年のシカゴ万国宗教会議に参加したヴィヴェーカナンダは、キリスト教絶対主義の欧米の思想家たちに大きな衝撃を与え、その7年後にリベラルなユニテリアンの人々によってボストンで創設されたIARFに大きな影響を与えた教団である。その後、マシュー博士と遅い昼食を摂りながら時間の許す限り意見交換を行い、夕方にパタナムチッタを発ち、陸路3時間半の移動の後、深夜にコーチ空港を発つ便で帰国の途に就いたが、途中の道路で出くわしたシリア正教会の聖人のパレードが延々数キロ以上も続いていたのに、あらためてこの地でのキリスト教の定着度合いが根深いことを知った。



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