丹波・丹後でフィールドワーク

2014年3月4日、5日

2014年3月4日から5日にかけて、春とはいえ山間部にはまだ雪の残る丹波路(兵庫県北東部)と丹後路(京都府北西部)で、三宅善信代表がフィールドワークを行った。最初に、大阪から車で2時間の距離にある「天空の城」あるいは「日本のマチュピチュ」と呼ばれる兵庫県朝来市の「竹田城址」を訪れた。近年、TVコマーシャル等で急激にブームになって来場者が増えたので、地元自治体としても、観光名所化するためにいろいろと規制を加えることになり、直近まで自家用車で登れなくなったので、隣の山の峠まで車で行って、そちらからの観察が中心になった。

「天空の城」こと竹田城を遙かに見る三宅善信代表 「天空の城」こと竹田城を遙かに見る三宅善信代表

 続いて、丹後半島の「付け根」の部分に当たる兵庫県と京都府の境に与謝野町を訪れた。平成の大合併でできた町名なので馴染みがないが、かつての地場産業「丹後縮緬」は衰退する一方である。観光的には、「鬼伝説」で有名な大江山もあるし、「日本三景」のひとつ天橋立もある。しかし、今回、三宅代表が訪れたのは、旧加悦町にある古墳時代の遺跡群である。ロシアの沿海州や朝鮮半島と直接「対面する」若狭湾一帯は、古代遺跡の宝庫である。数千年前から人が生活していた痕跡のある加悦谷一帯には、円墳・方墳・前方後円墳などの古墳が点在する。5世紀には、古墳や高床式倉庫跡や大量の埴輪などの出土品から見て、かなり強力な豪族が居たものと思われる。

保存状態の良い円墳や前方後円墳を視察する三宅善信代表 保存状態の良い円墳や前方後円墳を視察する三宅善信代表

  3月5日には、天橋立の「付け根」の部分にある「籠(この)神社」に参拝した。伊勢の神宮では、昨秋、第62回目の式年遷宮が仕えられたが、これは、天武天皇によって7世紀後半に定められた制度であり、天照大神(内宮)と豊受大神(外宮)を祀る神宮が伊勢の地で現在のように鎮座するまで各地を転々と遍歴したことは案外知られていない。丹後国には、「元伊勢」と呼ばれる神社がいくつかあり、その中でも最も有名な神社が、その奥宮に当たる真名井神社で豊受大神を祀る籠神社である。雄略天皇の時代に伊勢の外宮として勧請された。したがって、籠神社の本殿の建築様式は、神宮と同じ珍しい「唯一神明造り」である。ある意味、海の中をまっすぐに進む全長3.2kmの「天橋立」は、籠神社の参道であるとも言える。伝説によると、「天橋立」はかつて、伊弉諾尊が高天原と地上世界を行き来する梯子として使っていたが、居眠りをしている間に倒れてしまって、あのような長い砂州になったとされる。

伊勢の神宮と同じ「唯一神明造り」の社殿形式を持つ籠神社を視察する三宅善信代表 伊勢の神宮と同じ「唯一神明造り」の社殿形式を持つ籠神社を視察する三宅善信代表

 この神社の宮司として代々奉仕してきたのが、丹波国(後に丹後国が分立)国造家の海部氏(あまべ)である。現在の宮司、海部光彦師は82代目の海部氏の当主であり、日本には、他にも出雲大社の宮司を世襲してきた出雲国造家の千家氏が84代目、日前(ひのくま)・国懸(くにかがす)神宮の宮司を世襲してきた紀伊国造家の紀氏が81代目と、天皇家だけでなく、千数百年間にわたって連綿と神代の昔から祝(はふり)=神職を守っている家系がいくつも存在しているところが、この国の人々の倫理の規範となっているとも言える。




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