「ラジオたんぱ」放送特別番組「ミレニアム平和サミット」
   〜21世紀への心・愛・平安〜
2000年10月9日 9:00―11:00オンエア
における三宅善信レルネット代表へのインタビューをそのまま文字化した
収録8/31――ニューヨーク市――ウォルドルフ・アストリア・ホテル

 NGO関連を中心に、海外での国際会議に70回以上出席した経験を持つ、三宅善信金光教泉尾教会執行のお話を伺います。三宅氏はアメリカハーバード大学大学院、世界宗教研究所研究員として国際感覚を身に付けられた新世代の宗教者で、海外の宗教者に対しても歯に衣着せぬ発言をするスポークスマン的役割を果たし活躍されています。

(インタビュアー 編成局報道制作部 次長 翠 洋氏)
 今回のミレニアム平和サミット全体を通しましてどのようなご感想をお持ちですか?

(三宅)
私は、これまでこの種の国際会議に何十回となく参加してきたのですが、過去30年間を見て「あまり変わっていないな」というのが一番の感想ですね。というのも30年前の現状というのは、まだ戦後25年しか経ってないという状況で、世界の、ともかくいろんな異なった宗教の人たちが一同に介する…。考えの違った人たちが一緒になって考える…。そのこと自体意味があったのですけれども、そういうことを、世界各地でいろんな似た(ような)宗教団体の連合の機会がございますが、いずれも同じことの繰り返しで、その次のステップが一向に踏み出せていないのです。

もちろん、宗教ですから、それぞれの信念、価値体系に基づいた違ったものがあって、違った宗教になっているのですから、それを「一緒にせい」というような乱暴な論議は、もちろん考えていません。しかし、その中で価値論を(ひとまず)横において、意味論というか、実際の具体的な問題――たとえば環境問題、たとえば難民問題、たとえば人権問題――そのような問題で実際話し合いがなされるわけで、今回のサミットでも、いくつかの分科会でそのようなことがなされて、一応理解を得たような気はお互いしているわけですが、実はそのことだけでは不十分で、実際には、もう一歩踏み込んで宗教の価値に戻って、自分たちの宗教のあり方に還元されなければ意味がないと思うわけです。

今日の会議の中でもございましたが、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教という一神教の人たちと、ヒンズー教、仏教、神道という多神教の人たち――いわゆる価値の併存を認めるという宗教――とは、根本的に違うわけです。そういう人たち(同士)が話し合いをする中で、私が数年前に参加したユニセフの子どもの会議で、「子どもの人権をいかに守るか?」という主旨の会議をしたときに、いくつかの意見の対立を見て、イスラム教の方がこう言ったのです。「(基本的な)価値観を共有していない人同士がいくら話し合ったとしても、それは(dialogueではなく)表面的な話し合い(encounter)に過ぎない」ということを指摘されました。本当にそうだなと(思いました)。たとえば私たちが"愛"と言ったときに、「愛といえば愛だろう」、と皆お互いに思ってしまうわけですが、(実は)お互いが意味する"愛"がそれぞれ違うわけです。たとえば"正義(justice)"、"真理(truth)"…。指しているものが微妙に違うわけです。

経済の世界における"共通言語"としての"マネー"のように、お互い商売で、売る人と買う人は敵同志なわけですが、マネーというものを通じて、お互いに"共通言語"を共有しているという、世界がグローバルに動いているということと同じように、宗教や文化といった全く根源を別にする人同士がおたがいに理解して話し合うために、「共通の(普遍)言語」というものをまず最初に形成する。(言葉の)定義づけをきっちりとする。かっこ付きの意味での"愛"、かっこ付きの意味での"正義"、かっこ付きの意味での"難民救援"…。いろいろなことをまずきっちりと明確に、お互い概念や歴史の違うもの同志が定義しあった上で、具体的な問題に一歩一歩迫っていかなければ、いつまでたっても会っただけで、「久しぶり」とか「Very nice to meet you」とかいう、極めて儀礼的な集まりになってしまう。もちろん儀礼というものも大事ですが、2000年という段階からしますと、もう一歩、さらにお互いの価値観に踏み込むことで、厳しいところをつかれることにもなるでしょうが、そうすることで相互理解を深めていく以外にはこういった会議をする意味が半減する、と今回の会議に参加して思いました。

(インタビュアー)
 これからも是非とも日本のスポークスマンとして宗教界で活躍していただきたいのですが、どのような課題をお持ちでしょうか?

(三宅)
日本の宗教界につきましては、あまりにも社会的な問題についてのレスポンシビィリティーが弱い。たとえば、臓器移植、中絶、いろいろな問題があります。そういう問題に対して、「自分の宗教ではこうだ」という信念の体系があまりにも希薄な感じがします。もちろん強すぎるのもよくない。原理主義になって、「人殺しもOKだ」というのはよくないことですが、さりとて「ああでもない。こうでもない」というのも、やはり宗教としては(社会的)責任を十分果たしていない。

個人の内面に迫るというのが宗教の第一義ですけれども、もう一方、社会集団としての宗教教団ということを考えた場合に、環境問題にしても、さきほどのようなバイオの(生命倫理)問題にしても、自分の宗教の価値観に照らして、「わが教団ではこうである」ということをもっと積極的に主張できるように…。また、社会の側も宗教に対する偏見――宗教はカルトの問題をおこすだとか、伝統教団は習俗となったような年中行事だけを取り上げるとかいうのではなくて、具体的な現代における人々の生きている宗教の問題ということを取り組むようなことにならないと、どちらにしても本物ではない。そのためには、やはり宗教に対する情報公開ということが叫ばれるのであります。

なかなか今までなされていませんが、一般の人が宗教に対してどのように考えているのか。Aという教団ではこう、Bという教団ではこう、Cという教団ではこうというメニューが解りやすい形で開陳されて、人々はその中で自由に(宗教を)選んで、"消費者"という言葉は適切ではないかもしれませんが、"消費者"として自由に(宗教を)選ぶことができるということが、今の現代の社会でもっとも大事だと思います。(また、)宗教においてもしかり、宗教教団の側も、情報提供をすることにもっと積極的にならなければなりませんし、またメディアの側もそういうことを拒むべきではないと私は思うわけです。

(インタビュアー)
 情報提供において、いい方法はございますでしょうか?

(三宅)
これは非常に難しいのですが、現代たまたまインターネットが普及しまして、これまでですと大教団――信者さんを何百万人も抱えた大教団は、テレビのCS放送や巨大な出版というものを使うことができるので、大教団の声が大きく反映されていた。あるいは小さな教団では、ゴシップがあったりする時だけになっていた(報道された)のですが、インターネットという世界は、ある意味では、大きなものも小さなものも対等…。大企業でも街角の零細企業でも、インターネットのサイトの中では同じ対等の競争ができるということがありますから、これからはインターネットを活用して、宗教の情報をお互いに公開していく。そしてお互い相互信頼を深めていくと。違いや多様性というものを認めながらお互いというものをもっとよく知って行くという点では、インターネットという媒介は非常に優れている。  
宗教の世界は、実は、教義が世界を変えておるのではなく、(現在)世界の新しい技術が宗教(の教義)にも大きな影響を与えている。たとえば、中世の終わりごろ、ヨーロッパでルターが宗教改革というものを行ったのですが、これは、実はルターという個人の資質の問題ではなく、その前のグーテンべルクの印刷技術の発見・発明というものが大きく作用しております。というのはルターがその中で、それまでのカトリック教会を中心とした動きではなく、「聖書のみ」と、「真理は(ローマ法王=教会の言うことじゃなく)聖書に書かれていることだけなんだよ」ということを言ったのですが、そのことが成り立つためには、聖書というものが広範囲に印刷されて、みんなが読める状態になっていなければならない。それまでの大きくて分厚い、羊の皮に手書きで写された聖書で、教会の聖壇に飾ってあるような、置物のような立派な聖書ではとてもそんなことはできないわけです。それが、みんなが印刷物として読めるという(社会的)前提が生じたなかで、ルターという人がたまたま現れ、「実は教会の歴史ではなくて、聖書に書かれているのがキリストの教えなんだよ」と言ったのです。
たとえば、20世紀におけるテレビというメディアあるいは放送、マイクロフォンという技術…。また、マイクロフォンがなければ1000人の人に一度に話すことはできないわけです。今はテレビというメディアを通して、一度に何百万人、出版を通して一度に何百万人という人に情報を伝えることができるんですね。
来たるべき21世紀は、インターネットという双方向的な、これまではマスメディア、一方方向の大量生産という形でしたが、これからは双方向的なインタラクティブな意味での宗教というものの情報公開というものがされ、より個別的な問題に対して入っていけると思いますので、そういう意味で、インターネットの活用は非常に大事だと思います。

(インタビュアー)
ありがとうございます。多少前後しますが、今回の海外の宗教の代表者の方々について何かご意見ございますでしょうか?

(三宅)
いつも宗教会議に参加して思うんですが、レプレゼンタビリティー=代表制の問題があります。国連なんかの場合は主権国家を一つの単位とする。たとえば、アメリカや中国のような大きな国でも一票、そしてトンガや人口10万人くらいの小さな国でも一票です。そういう意味で、主権国家というものをひとつの構成単位としているのです。まあそれ以外にも、国連には実際は力のある国は安保理の常任理事国などなっておりますが、基本的には総会では一国一票。これは国会の議決と同じでございます。宗教会議といった時に、どういう形でレプレゼンタビリティー、代表制というものを確保するのか? もし人口別にということでしたら、中国が一番多くて次ぎにインドで…、とこうなるんですが、どうも見ていますと、使用される言語が英語ということもあって(欧米中心的な運営で)、どうしてもこういう会議は、ユダヤ、キリスト、イスラム教といったアブラハムの宗教、すなわち、一神教というものの考えが決議文などで、基準としてそういった宗教の観点から見たものになりがちです。それ以外に、インドは英語ということで非常に有利なのかもしれませんが、インド系、ヒンズー教系あるいはそれに属する宗教の代表が非常に多い。多いことは別に構わないのですが、発言の中で、ややもすればそういった宗教(の声)に偏りがちになる。そうではない、たとえば先住民族の宗教であるとか、もっとアジアの儒教ですとか、ゾロアスター教ですとか、あるいは神道、あるいは大乗仏教といったような人たち。かなりの人口がいると思うんですけれども、そういった人たちの考えというものを同等に反映される形で会議が構成されればいいな、と思っております。

(インタビュアー)
今回はそれがある程度、実現されたと思いますか?

(三宅)
ある意味では、そういうことに対して、主催者もインド系の人ですから、気を遣っておられたと思いますが、やはりどうしても会場がアメリカということもありまして、使用言語が英語ということもありますし、もちろん同時通訳がついていますが、ややもすれば、発言を「聞く側の同時通訳」で、「話す側の同時通訳」になってないわけで、たとえば日本から来られた、日本語しか話せない先生方というのは、聞くばかりで、自分の意見を言うことは実際無理なわけで、そういうものに対する配慮を確保したうえでの宗教会議になればよりありがたいな、と思っております。

三宅善信金光教泉尾教会執行のお話をお伺いしました。


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