善と善信の恥隠し 
01年10月01日


レルネット主幹 三宅善信

▼生きることの意味?

 9月27日、東宝は宮崎駿監督のアニメ映画『千と千尋の神隠し』が、観客動員日本記録を樹立したと発表した。東宝によると、26日までの入場者総数は1,687万人に達成し、それまで『タイタニック』(1997年12月公開)が持っていた1,683万人の日本記録を上回ったそうだ。しかも『タイタニック』が62週間(1年以上もロングラン!)かけて達成した数字を、『千と千尋の神隠し』は公開からわずか10週間の69日目で塗りかえたことになる。もちろん、私も『千と千尋の神隠し』は、公開早々に映画館に足を運んで観たが、果して、この映画が観客動員の日本記録を達成するほどの価値のある映画なのかと聞かれると、必ずしも両手を挙げて賛成するわけにはいかない。

 もっとも、映画の観客動員数は、作品の中身の良し悪しとは関係ない部分で決められることが多い。例えば、公開直前のスポットコマーシャルの流し方や、各種の広告イベントの打ち方。あるいは、関連グッズの販売戦略……。その上、最近では、この『千と千尋の神隠し』もそうだったのであるが、全国でごまんとあるコンビニで、切符の前売り(ディスカウント)券を売っていた。したがって、必ずしもいい作品が、多くの観客を動員できるわけではないということはテレビの場合と同じである。最近の例で言えば、最悪の映画『パール・ハーバー(Pearl Harbor)』が結構、観客を呼んだことからも明白である。

 もちろん、『千と千尋の神隠し』が月並な作品とは決して思わない。しかし、同じ"宮崎駿監督作品"という言い方をすれば、メッセージ性という点では、私個人に言わしていただければ、やはりなんといっても、1番が『風の谷のナウシカ』で、2番が『もののけ姫』である。『千と千尋の神隠し』は宮崎駿監督作品の中でも3番目に入るかどうかというくらいの作品にしか思えない。にもかかわらず、この作品が大ヒットした原因が、どこか違うところにあるはずである。

 この作品は、巷間では、「生きることの意味ということを問う作品だ」と言われているが、果してそうであろうか? 何をするにも無気力な主人公の10歳の少女荻野千尋は、何不自由なく育った典型的な現代日本の女の子である。否、千尋の両親の世代ですら、高度経済成長期以後に育った世代である。10歳の千尋は、いわば、社会制度や家族、経済のシステム等によって守られており、自らの力で「生きている」ということの実感がなかなか持てなかった。しかし、トンネルの向こうの不思議の町(異空間)を冒険することによって、極限状態になると、人間にとって何が大切で、何がどちらでもいいものであるのかが鮮明になり、判断力や忍耐力、適応力など(極貧国や紛争当事国の子供たちなら皆、自ら身につけている常識)も生れる。また、本当の"献身"とは何かいうことが判るようになる。ということになっているのであるが、果してそうであろうか。


▼手術中に着メロが…

 実は、私は今、静脈瘤抜去手術を受けるために、大阪市内のとある病院に入院中である。今まで43年間の人生の中で、看病を除いては、病院に泊まった(入院した)という経験は一度もなかった。私の病気についていちいち原因やこれまでの経緯等については触れないが、今回の入院でいろいろと貴重な体験ができた。下肢静脈瘤の抜去手術というのは、瘤状になって本来の機能を果さなくなった静脈を除去するために、鼠径部と足首にメスを入れ、足首からワイヤーを通して鼠径部で本管から切り離した静脈の端っこに括りつけ、足首から一気に静脈を引き抜くという荒っぽい手術である。私の足首から静脈を引き抜くドクターが、「イチニノサンッ!」という声をかけて引っ張り抜く際に、私が乗せられている手術台そのものが動くぐらいの荒々しい手術なのである。もちろん、この静脈に繋がっている他の細い血管はみな、接合部分でブチブチブツッと引きちぎれる。また、表層部に走る静脈瘤を取り去るためにも、あちこちにメスを入れる。

 下半身の手術ということでもあったし、私自身、手術中もはっきりと覚醒しておきたかったので、下半身だけの腰椎麻酔にしてもらい――脊髄に麻酔を打つのであるが――上半身ははっきりと覚醒した形で手術を受けた。であるから、不思議なことに、自分の下半身をメスで切り刻まれているのに、上半身はそれをはっきりと認識しており、時々、執刀医と会話をしながら――例えば「あっ少し麻酔が切れてきたみたいで、ひざが痛いです」と私が言うと、ドクターがその部分にさらに局所麻酔をして作業を続け、いよいよ麻酔が切れてくると、「もう少しですから、急いでやってしましますから…」といった感じの――非常に興味深い手術であった。特に、手術中に執刀医の携帯が鳴ったのには、笑ってしまった。しかも、着メロがディズニーランドのエレクトリカルパレードの曲では、力が抜けてしまう。たくさん精密機器があるであろう手術室ですら、この具合なのだから、「病院内では携帯電話のスイッチをお切り下さい」というキャンペーンが空しく聞こえる。


▼看護婦は因果な仕事

 手術そのもののあり方や手はずについては医者の領分であるから、私は別に何も言わないが、その前後の"儀式"については面白い体験をしたし、宗教儀礼の専門家としては、一過言もニ過言もある。まず、虫垂炎(盲腸)などの手術などでもお馴染みの「剃毛」である。下半身の鼠径部の辺りにメスを入れる場合に、体毛が邪魔なので、これを予め剃り取るという作業をする。いわゆる「毛剃り」というやつである。私の場合は、問題の脚はもちろんのこと、へそから下すべての体毛をきれいに剃ったのである。手術前日の午後に入院し、真っ先にしたことが看護学校を出たて(のように見える)若い看護婦による剃毛であった。看護婦さんは、局部の毛を剃られる患者の身を気遣って、気の毒そうに言っていたが、私からすると、臨床上、必要な処置であれば、なんの躊躇もない。サッサと看護婦さんの前でスッポンポンになって、ベッドの上で大の字に寝転んで「さあ、どうぞ。思う存分やってください」というふうにお願いした。

 "儀式"は、小一時間かけて、世間話などしながら完了した。大股開きで尻の毛まで剃ってもらったが、私に言わせれば、患者(私)より、中年オヤジの局部の毛を剃らなければならない看護婦のほうがずっと気の毒だ。このようにして、入院初日を終えたのである。2日目の朝、手術中は下半身麻酔が効いて、自律神経が機能しないため、術中に大便等が出てしまってはまずいので、12時間の絶食をし、さらに腸内のものを予め排出しなくてはならないということで浣腸をした。これも、貴重な体験であった。既に局部がツルツルでスッポンポンの私に、若い看護婦さんが病院用の立派な浣腸器で液をたっぷり注入して、「できるだけ我慢してください」と言って、その挙句に排泄し終わるまで見ていてくれるのである。看護婦というのは、ほとほと因果な仕事だなと思った。そして、問題の手術を受けた。


▼術後はさながら陵辱刑

 手術そのものについては、先程述べたとおりである。しかし、ある意味で、手術中よりも手術後のほうが、はるかに大変であった。私は体重85kgもあるので、まず手術台からストレッチャー(移動用の台車)に私の身体を移し、ストッレチャーで病室まで運び、ストレッチャーからベッドの上に私の身体を据えるのが一仕事であった。私自身、手を貸そうにも、腕は輸液しているし、下半身は麻酔で痺れて動くことができない。「麻酔が切れたら(患部が)痛むだろうな」と思い、手術室から戻ると、予想に反して最も大変だったのは排尿であった。手術中の急激な血圧の低下に備えて、予め輸液(点滴)が朝からひっきりなしに行なわれている。手術を終えて、自屋に戻ってきてからも点滴は続けられた。おそらく500mlの輸液を4、5本したであろう。すなわち、2mlないし2,5mlの水分が私の体内に入っている計算である。

 大量の輸液をしたので、本来ならば相当の尿意をもよおすはずである。しかし、へそから下の神経が麻痺しているということは、排尿するにも力の入れようがないということである。これが一番参った。もう、下腹部はパンパンなのに、尿瓶を当ててもどうしてもおしっこが出せない。そこで、窮余の策で、カテーテルを尿道に入れて、つまり、ペニスの先から膀胱まで直接導尿管を通して排尿させるという処置を行った。導尿管を挿入して、看護婦さんが下腹部を押してくれると、見事に尿が勢いよくほとばしり出て、とうとう病室に備え付けてある尿瓶1本(容量1,000ml)では足りず、1本半くらいの尿が一気に放出された。満タンになった尿瓶を見て、よくもこんなに入っていたものだと感心した。

 当コーナーがアダルトサイトではないので、その様子をお見せすることができないのが残念(?)ではあるが、ベッドの上でツルツルスッポンポンのトドのような巨体を横たえる私は、手術後の出血を排出するためのカテーテルが鼠径部から体の外に出ており、そこからドロドロの血液が流れ出て、ベッド傍の袋に溜まっていく。そして、片腕には相変わらず輸液のための注射針が固定され、もう片腕には血圧計および血中酸素濃度を測るための装置が付けられ、なおかつ、ペニスの先からは導尿管が伸びているという、非常に滑稽な、ある意味では人間の尊厳性を奪い取られるような状態で、しばらく放置されていたのである。


▼病床六尺褌

 しかし、へそから上、なかんずく頭の働きは極めて明晰であり、かえっていろいろなことを考えることができた。『千と千尋の神隠し』で、異界で名前を奪われた主人公の千(千尋)は、生死の極限状態(註:本人の承諾や状況説明のないまま、最悪の場合、取って喰われてしまうかもしれないという状況)になると、何が大切で、何がどうちらでもいいものであるかという究極のプライオリティー(いわゆる「状況倫理」の問題)や、忍耐力、適応力を自ずから自然と発揮することができて、人間は生き延びようとする存在であると主張されていたが、本人の了解を得ているとはいえ、私の場合も短時間であったが、ある意味では一種の極限状態であった。その後、すぐに導尿管が外され、血圧を測る装置も外されて右腕が自由になったので、テープレコーダーを使って口述筆記作業を始めた。

 すぐに看護婦さんがT字帯を装着してくれた。褌(ふんどし)のことを病院ではT字帯というそうである。笑ってしまった。トドのような身体に褌一丁の私の姿は、『千と千尋の神隠し』に出てくる擬人化された大根"おしらさま"を想像していただければ判りやすい。ああいう絵図である。どこからが脚で、どこからが胴か判らないような体型である。褌の紐すら肉の間に隠れてしまう。ただ、違うのは"おしらさま"のように白くない。時々、フィットネス・プールに行くので、結構日焼けしているところが違うことぐらいであろう。俳人正岡子規の闘病句集をもじって『病床六尺褌』を書こうと思ったくらいだ。"おしらさま"状態になった私は、辛うじて動く右手と、首から上の感覚器官を使って、本作品を書き始めた。本作品だけでなく、最近の何作かは、実は入院中に書かれたものである。


▼異界へのトンネルをくぐり抜けて

 映画『千と千尋の神隠し』では、10歳の少女がトンネルをくぐり抜けることによって別世界に迷い込むという設定であったが、このトンネルをくぐって別世界という設定は、例えば、『不思議の国のアリス(Alice in Wonder Land)』や『すずめのお宿』(雀荘も考えようによっては異界だが、もちろん雀荘のことではない)の話のように、"穴"がこの世とあの世の境界領域であり、別の世界の住人として生れ変るためには通過しなければならない装置のようなものである(註:茶室におけるにじり口にも同じような効果がある)。しかし、実は、人はどんな人でも、人生において最低1回はこの不思議のトンネルを通り抜けているのである。それは、出産の時に、母親の胎内からこの世(体外)に生れ出るために、産道という暗いトンネルをくぐり抜けるという体験をするのである。

 このトンネルをくぐり抜けることによって、それまでとは全く違った世界に人は生れ出るのである。へその緒から栄養と酸素が供給されていた、そして、羊水という培養液の中に浮いていた胎児(ほとんど映画『マトリックス(Matrix)』の生命培養装置で生かされている人間と同じような感じである)が、母の体外へ生れ出ることによって、自ら外界の空気を呼吸し、自ら母の乳を吸うという主体性を持たなければ生きていけない存在になるのである。

 これは、たいへん大きな人としての原体験である。つまり、人がこの世に生きているということは、すでに1度トンネルをくぐり抜けているということを表わしているのである。弥生時代の甕棺墓を見ても判るように、多くの古代人が、死者の手足を屈折させた形で埋葬しているのは、甕棺という第2の子宮に再び戻ることによって、生れる前の赤ちゃんの体勢となることによって、新たな死後の世界に生れ変ることを願って、あのような埋葬の仕方をしたのであろう。このような埋葬の仕方(屈葬)は、世界の各地で見られる。


▼"溺れる"という原体験が創り出した世界

 それでは、『千と千尋の神隠し』の主人公荻野千尋は、いったいあのトンネルを通って、どの世界に行ったのであろうか。私は、彼女は、自分自身の内面の世界へと旅したと考える。『風の谷のナウシカ』や『もののけ姫』では、主人公は明らかに外界で活躍したのであるが、この千尋の行った世界は、現実に存在する世界というよりは、人間の潜在意識の中にある世界であると考えたほうが解かりやすい。不思議の世界の主宰者である湯婆婆(ゆばーば)をはじめ、釜爺(かまじい)、オクサレさま、カオナシ(仮面男)そして、彼女を助けてくれるリンやハク、これらのキャラクターは皆、実は彼女自身のイメージならびに潜在意識が創り出した代物である。

 であるからして、この映画に登場する八百万の神々から魑魅魍魎に至るまで、皆、恐ろしい面と優しい面の両方を持っているのである。当然である。彼らは実在ではなくて観念であるからして、千尋がそれぞれに対してどう思うかによって相手の表現が変わるからである。この異界の主宰者で、悪の権化と思われた湯婆婆にも、実は双子の姉銭婆(ぜにーば)がいて、千尋を助けてくれる。しかしこれは、湯婆婆と銭婆が姉妹(別の人物)というのではなく、同じ人物の2つの面と考えたほうが自然である(それにしてもこの姉妹は黒柳徹子に似ている…)。

 実は、彼女は10年間というその短い人生において、以前にも"異界"を体験しているのである。あるいは、その時の体験が原体験となって、今回(映画で描かれた世界)の仮想体験を創り出していると言っても過言ではない。その原体験とは、幼児期にコハク川で溺れ、九死に一生を得たことであった。そのことは画面のそこしかに表現されている。現実世界と異界を隔てる大きな水(海)。湯婆婆の統治する湯屋。オクサレさまこと河の神。水上を走る列車。銭婆の住む沼の底。そして、今は亡きコハク川そのものであったハク(白龍=ニギハヤミコハクヌシ)等々、あるいは、「すごく深い」という意味にもとれる「千尋」という彼女の名前自身も、すべて"水の中"に還元される存在である。幼児期に一度「三途の川」を渡りかけた者のもつ感性ともいえる。そして、彼女は、最後にはこの異界に棲む多くのタマやモノを助けるということは、自分の精神の中で、混沌を整理し、新しい秩序をつけるということなのであるが、それは、かつて入って行ったトンネルを、再び反対方向へ抜けて、元の現実世界に戻っていくことである。

 しかし、このトンネルを抜け出た"元"の世界というのは、実は彼女が来た"元"の世界とまったく同じものではない。物語の冒頭に描かれていた「引越し」という現実世界の移動が、このことを暗示している。なぜならば、あたかも、人生における通過儀礼のごとく、トンネルを通り抜けることによって、彼女自身が大きく変容したからである。"世界"とは、その世界を認識する人の認識によっていかようにでも変り得るものである。"世界"は不動の実在ではないのである。私も今回、ほんの数日ではあるが、初めて入院生活を体験したことによって、客観的には、人間の尊厳ある姿からは程遠い状態になってみて、なおかつ、そこで親切に接してくださった「掃除のおばちゃん」にいたるまで、病院スタッフとの心の交流を通じて、退院というトンネルを抜け出たら、また違う存在になれるかもしれないと思っている。


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