聖地GROUND ZERO:慰霊のかたち
01年10月31日


レルネット主幹 三宅善信

▼教団の"教義"と現場の"信仰"は別もの 

 10月21〜24日まで、今回の一連の事件を受けてニューヨークで開催された緊急宗教指導者会議に参加した。また、現地で「Ground Zero」と呼ばれている世界貿易センター(WTC)跡での「追悼の祈り」に日本の宗教者を代表して参列した。今回の一連の事件を受けて、その国際政治的な意味についてはこれまで何度も叙述してきたが、今回は宗教国家アメリカの、日頃は見えにくい民間信仰レベルの問題について取り上げてみたい。これまで私は、「政治と宗教」という面から、アメリカ合衆国という国が極めて宗教的に動機づけられた国であり、「アメリカ教」という教義が正しいと信じて、これを世界に宣教する、いわば「神聖アメリカ帝国」であると述べてきたが、国家的な祭祀としてのアメリカ教は、大統領就式や折々の出来事の際にその姿を顕在化させるが、庶民レベルでの民俗信仰という点については、なかなか外国に暮しているわれわれには見えにくい部分がある。



国連プラザで開催された会議に出席した三宅善信代表

 ここで、民俗信仰について少し解説したい。民俗信仰とは、いわゆる教団・宗派などが説いている公式の"教義"と、檀家寺を始めとする布教の"現場"の人々すなわち一般民衆と直接接している布教の現場でのあり方(教義)の違いを指している。例えば、浄土真宗では、公式の教義では、いかなる人もその人の生前の善行・悪行に関わらず、ただ一点、絶対者である阿弥陀如来に帰依するという意志表示――「南無阿弥陀仏」と唱えること(信心決定)――すれば、即、阿弥陀如来がお助け下さるということになっている。そうすると、浄土真宗の門徒が亡くなる時に「南無阿弥陀仏」と唱えれば、即その瞬間に、阿弥陀様が西方十万億土の極楽浄土からお迎えへお救い下さるわけであるから、実際、葬儀における一連の伝統的行事、例えば初七日や四十九日の満中陰というようなことは意味がない。というより教義に反することになる。しかし現場の寺院では、他の宗派同様、やはり初七日の法事もあれば、満中陰・一周忌・三回忌などが行なわれている。また、親鸞聖人が「自分が死んだら死体は鴨川にうち捨てて魚に喰わせろ」と言ったにも関わらず、遺体は荼毘に臥されて丁寧に埋葬されている。これがいわば、教団・宗派における"教義"と現場での信仰レベルでの"信仰"の違いである。

 もうひとつ例を挙げると、浄土真宗の信仰においては、水子供養はナンセンスである。なぜなら、いかなる人でも、人殺しをした悪人でさえ、「南無阿弥陀仏」と唱え、阿弥陀如来の信仰を告白することによって救われるのであるが、逆を言うと、いかなる善人でも信心決定しなければ救われないことになる。いわゆる「悪人正機」ということである。そうすると、まだ「オギャー」と生まれる前の胎児というのは、当然のことながら、自発的に信心をすることもできなければ、「南無阿弥陀仏」と唱えることもできない。したがって、教学的には水子は絶対に救われない(往生できない)ことになっている。しかし、現場レベルで、例えば、浄土真宗のお寺に「うちの水子(の霊)を祀って下さい」というふうに檀家が言ったとして、「それは教義に反します。水子は絶対に救われません」と住職が紋切り型の答えをすれば、おそらくその檀家はそのお寺に参らなくなってしまい、どこか懇ろに水子を供養してくれる新宗教に走るであろう。したがって、現場レベルでは、住職は、たいてい「はい、判かりました」と言って水子の供養を引受ける。民俗信仰と教会の公式の教義との間にはこういう違いがある。


▼採り入れられた民俗信仰
 
 キリスト教においても、そもそも、パレスチナで興ったキリスト教がローマ帝国に拡がり、そして欧州各地のゲルマン民族各部族に拡がり、そして大航海時代以後は、アジア・アフリカ・新大陸にも拡がっていった。その拡がるプロセスで、それまで現地の先住民が行なっていたいろいろな風習を取り入れて拡大していったのである。例えば、当時の小アジア(現在のトルコ)における聖ニコラスのエピソードを取り入れ、これが後にサンタクロースになった話や、北欧神話から採られたクリスマス・ツリーを始めとし、キリスト教が一般化される課程で、現地の民間信仰をどんどん取り入れて拡大していった。

 その中には、アイルランドの先住民ケルト族に由来するHalloweenという伝統がある。特に、この行事はアメリカにおいて盛んになった。Halloweenというのは、日本でいうところの「お盆」である。全ての死者が甦るという11月1日の「万聖節」(Hallows=All Saints Day)の前夜祭として、Hallows Eve → Halloweenが行なわれる。この時に、いわば日本のお盆のような感覚の儀礼が行なわれる。当然、先祖供養など、公式のキリスト教の教義では否定されているが、民衆のレベルではこういう意識がある。そこで、Jack‐O'‐lanternというかぼちゃを刳り抜いたお化けのような顔をした、中に蝋燭の入ったものが各家々の玄関辺りに置かれるのである。これなど、完全にお盆の迎え火・送り火の提灯と同じ原理である。アメリカでは、Halloweenの時には皆で仮装をして、これも元々は悪霊に取り憑かれないためということになっているが、子供たちは家々を廻り、「Trick or Treat(悪戯かお菓子か?)」と言ってお菓子を貰って廻る。これなども、日本の地蔵盆における風習とよく似ている。


▼現場の"砂"の意味するもの 



イスラム・ユダヤ・キリスト・ヒンズー・バハイ・ゾロアスター・仏教を代表する聖職者と共に、
神道を代表してGround Zero横の教会で追悼の祈りを捧げる三宅善信代表

 今回のニューヨークにおけるWTCでのテロ事件は、5,000人に及ぶ死者・行方不明者が出たにも関わらず、実際にこれまで遺体が発見されたのは、数百人に留まっている。おそらく百階建て以上の超高層ビルが一瞬にして崩れて、中にいた人もろとも瓦礫と化したのであるから、この後、あのビルの残骸がすっかり片付けられても、おそらく行方不明の人は千人単位で生じるであろう。キリスト教では一般的に、日本のように荼毘に付すのではなく、遺体は丁寧に土葬される。ベトナム戦争をはじめ、外地での戦争で亡くなったアメリカ兵の遺体が、特別の遺体収容用の袋に詰められて空輸され、ワシントン郊外のアーリントン国立墓地に埋葬されるというシーンをご覧になられた方も多いであろう。

 キリスト教(の教義)では、この世における死というのは、あくまで暫定的な死であり、終末の最期の審判の時点に神の前に引っ張り出されて、人々はその信仰の真価を問われるのである。したがって遺体は、保存されなければならない。であるからして、土葬されるわけである。しかし、今回のように遺体が判らない、あるいは見つかっても、バラバラになった手の一部とか片一方の耳といったような感じで見つかれば、どれが誰の死体だか判らない。そこで、今回ニューヨーク市が主催して行なわれた追悼式では、現地の瓦礫を粉砕した砂のようなものをビンに詰めて行方不明者の家族に配った。

 私は、この「砂」に大変関心を持っている。どこかの砂をもってその場所を代表するという一番身近な例は、おそらく高校球児であろう。試合に負けたチームが、甲子園球場の砂を袋に入れて持って帰る。この奇妙な儀式は、何十年と続いている。夏の高校野球の鎮魂行事としての宗教学的意味付けについては、かつて『8月の鎮魂歌』において論じたので、改めて論じないが、いわば何らかの「遺体のない死」に対する遺体の代用物についての宗教学的なテーマである。太平洋戦争後半世紀を経た今でも、毎年のように日本から南洋各地へ遺骨収集団が派遣され、幸い草生していようと(日本兵のものと推測される)屍が見つかれば、公衆衛生上の問題があるので、そのまま日本に持ち帰ることが難しいが、僧侶を招いて現地で荼毘に付し、慰霊祭を行う。毎年のようにこれが繰り返されているのである。

 本来、「霊肉二元論」のはずのキリスト教世界にあっても、先に述べたように、この世におけるわれわれが常識でいうところの"死"は、宗教的には、あくまで最後の審判を待つための「暫定的な死」に過ぎないのであるから、そのための縁(よすが)としての「遺体」というものが必要になる。それが、キリスト教国において、遺体が丁寧に土葬される最大の理由である。キリスト教の文化的背景においては、霊魂と肉体とは別の物であり、「霊魂は純粋化されたより高次元なものであり、肉体はいわば低次元な物質である」と考えられている。

 通常の死は、この考えは旧約聖書の創世記の冒頭に出てくるエピソード――神ヤハウェイが土くれ(ヒブル語で「アダマー」から創られたもの)である「アダム」という考え方に依存している。この土くれをこねて、神の姿(Imago Dei)に似せて創った人間アダムに、最後に神が鼻の穴からスピリット(精霊)を吹き込むことによって、人が人になるのである。したがって、死によってスピリットが肉体から離れた以上、肉体はただの土くれと変わらないのである。しかし、今回のテロ事件で犠牲になった数千人のWTCビルにいた人々は、いわば一瞬にしてわれわれが常識でいうところの「いのちの終わり」を強制的に迎えさせられたのである。この死者たちのスピリットをいかにして救い出すとかいうのは神学的には大きなテーマとなる。


▼霊肉一元論の可能性

 私は以前から、日本は「霊肉一元論」であると主張してきた。つまり、純粋な精神が尊くて、具体的な肉体(=もの)が卑しいとは考えないのは日本人の特質である。例えば、諺に「身から出た錆」とあるように、もし、肉体がそのまま「単なる物質」であるのなら、身から出た「汚れ」とか「垢」となるはずである。それはすなわち、物理的な水や洗剤で洗い流せるということになる。しかし、「身から出た錆」という言葉が持っている意味は、より深い精神的な意味での汚れも含んだ概念として「身から出た錆」というふうに話されている。

 であるからして、日本人は、例えある人が死んだとしても――この場合の「死んだ」というのは脳死状態のことであるが――心臓であるとか肝臓であるといった臓器を、単なるorganとして、物として扱うのではなく、臓器や髪の毛に至るまで、その人の霊性というものがそこに内在し、あるいは一体化し、表現されていると考えるのが一般的である。

 したがって、医療技術はアメリカと日本はほとんど変わらないのにも関わらず、そして、人口がアメリカの2分の1であるにも関わらず、おそらく「脳死者」からの臓器移植が行なわれる割合は、アメリカの100分の1もない。そのアメリカにおいて、今回のWTCの事件がアメリカ人をして、しかも自分の身内が殺されるシーンをテレビの映像を通して目の当たりに見たアメリカ人の死生観に、あるいは肉体観・霊魂観に対して大きな影響を与えたのが、この瓶入りの砂をニューヨーク市が行方不明者の家族に配ったということに表わされている。

 しかも、この死者の霊が蘇り、その霊魂を生者が迎えるという古代ケルト人に由来するというHalloweenの日が、WTCビルが崩壊した日からちょうど49日目の不気味な満月の日に、迷っていた霊魂が成仏するという四十九日の満中陰に当たるという偶然の一致が、日本人の私には気になる。

 同様に、この大事件の陰に隠れて、あまり報道されないが、ここ数日、今年2月ハワイ真珠湾沖で、アメリカの原子力潜水艦グリーンビルによって沈没させられた日本の実習船「えひめ丸」の遺体回収作業がクライマックスを迎えつつあるが、遺体回収に込める日本人の執念と、やっとの思いで水中から回収された遺体を検視と本人の確認が済む(遺族たちの納得がゆく)と、あっさりと異国の地で荼毘に付し、そして、慰霊行事を行って帰るという日本人の遺体に関する感性の違いと比較して民族学的にも大変興味深いものがあった。今後、本件に関する慰霊の行為の変化を期待している。


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