誰がアフガンの"関中王"になるのか
01年11月19日


▼ 始皇帝とナポレオン

 今から2,220年ほど昔の話である。秦王政が、広大な中国大陸を統一し、中華史上初の皇帝(始皇帝)となったのも束の間、始皇帝が崩ずるとすぐに、中原の地は群雄割拠の時代に逆戻りした。始皇帝の強引な中央集権政策は、それまで千年間続いてきたこの大陸独特の封建的価値観(仁・義・礼など)というものを破壊したが、一方で、この大陸に暮す人々に、ひとつの「中華世界」という共通概念を創り出した。その意味で、始皇帝の没後は、一見、始皇帝以前の群雄割拠した戦国時代に戻ったように見えるが、本当の意味での歴史の回帰は起こらなかったのである。

 18世紀末から19世紀初頭にかけてナポレオンがヨーロッパ大陸を席巻し、1789年のフランス大革命(市民革命)の精神をヨーロッパ各地にばら撒いたのと同様、ナポレオン失脚後のウィーン会議に参加した人々の共通目的は、すべてを「ナポレオン以前」の状態に戻すことであった。しかし、一度、市民の権利というものに目覚めてしまった西欧の人々にとって、形の上では、ナポレオン登場(フランス大革命)以前のヨーロッパ各国の封建君主たち(ハプスブルグ王朝やブルボン王朝など)をナポレオン戦争以前に各地で君臨していたままの形で国家を統べさせることが成り立たなくなっていったのと同じ理屈である。

 中国史上初の中央集権的な官僚システム郡県制と丞相李斯の法治主義の採用、度量衡の統一により、万世まで及ぶ盤石の帝国が築かれるや見えた大秦帝国であったが、統合の象徴である始皇帝が崩ずると、たちまちにして各地で叛乱が続発し、陳勝呉広の乱で有名な陳勝の「王侯将相、寧有種乎(いずくんぞ種あらんや)」という言葉に代表されるように、農民出身者までが天下に号令する野望を持つことが可能になり、一応は、封建的な身分秩序内での覇権争いであった秦以前の「春秋の五覇」や「戦国の七雄」状態をはるかに凌ぐ、天下はまさに下克上の流動状態と化したのである。この意味で、欧州におけるナポレオン同様、始皇帝以後の中国は、始皇帝以前の中国とは全く違う世界に変質していた。

 始皇帝以後の群雄割拠状態は、最終的には2つの大きな勢力に収斂されていく。いうまでもなく、楚の項羽大将軍と沛公こと劉邦の2人である。始皇帝によって千年の伝統を持っていた周室をはじめとする春秋戦国の王侯たちは廃せられ、代わって"中央"政府から派遣された官僚たちが"地方"を統治したが、始皇帝の死後、人々には、まず「アンチ秦」という感情があったので、とりあえず、始皇帝によって廃されたこれらのアンシャンレジームが悉く復活したかのように見えたが、今回の"主役"は、すっかり権威の失せた王侯ではなく、名もない庶民階級出身の者たちであった。


▼ 項羽と劉邦の"倒秦"先陣争い

 かつての「戦国の七雄」の中でも、北西の秦と並んで"大国"であった東南の楚(共に、周室など伝統ある中原の"中華文明"からは「野蛮人」と蔑まれていた)が、始皇帝亡き後の倒"秦"の旗印となった。楚の武将の家柄である項羽と、彼の叔父でブレーンでもある項梁とは、秦の天下統一によって楚が滅亡してから、雲散霧消(実は、どこの馬の骨か判らない落ちぶれた暮らしを)していた"元王族"を連れて来て、秦を倒すための一種のシンボルとして担ぎ上げたのである。その人が楚の懐王である。そして、項羽らはその懐王を戴き、懐王からの"勅命"を中国全土の成り上がり者の自称"将軍"たちにどんどんっと発し、倒秦の求心力にしていった。

 その時、楚の懐王が、倒秦の諸将にした約束とは、「真っ先に、(天下の要塞である)函谷関を突破して、帝都咸陽のある秦の本拠地(関中)に入ったものを、"関中"王にしてやる」という約束であった。そのことによって、自分が求心力となって諸将を競わせ、まさに「人の褌で相撲を取る」作戦であった。もちろん、軍事的に最も精強であった(つまり、ポスト始皇帝の大本命)のは楚の項羽であることは言うまでもなかったが、もののはずみで後に漢の高祖となる劉邦が、先に関中に入ってしまった。咸陽を落とした劉邦は、本来ならば"三世皇帝"になるはずだった子嬰をはじめ、投降した秦王朝関係者を許し、自らの将兵たちには、帝都における乱暴狼藉を厳しく禁止し、有名な「法三章のみ」の暫定統治政策を宣言して、過酷な秦の"法治政治"に辟易していた民衆から喝采を受ける。

 しかし、この時の劉邦のスタンドプレーは、これまで、「倒秦」という一点で"同盟"関係にあった項羽を出し抜き、なおかつ、懐王と項羽の「出来レース」をぶち壊すことになってしまった。「このままでは、遅れて関中やって来た天才的戦闘家項羽に生命を奪われる」と思った劉邦は、わざわざ、せっかく手に入れた咸陽の外に出て、鴻門という場所で項羽に謁見を請い、恭順の意を表わすことになる。これが歴史に名高い「鴻門の会」である。さまざまなかけひきで一命を取りとめた劉邦は、関中から兵を撤退した。ところが、劉邦軍に代わって、咸陽へ入場した項羽軍がしたことは、本来ならば"三世皇帝"になるはずだった秦王子嬰をはじめ、秦王朝関係者を皆殺し(一説には、投降兵20万人を虐殺)に、帝都の財宝を略奪し尽くし、阿房宮に火をかけ、その炎は3カ月にわたって燃え続けたという。もちろん、旧秦の将兵および民衆の人心が項羽から離反してしまったことはいうまでもない。項羽は、懐王を"義帝"に祀り上げ、自ら"西楚覇王"を僣称した。


▼ 早く陥ちすぎた首都カブール

 今回のアフガニスタンに対するアメリカ軍の苛烈な空爆のおかげで、首都カブールまで軍を進めることができた北部同盟のラバニ前大統領(数年前タリバンによって政権の座を追われた将軍)の軍勢が、アメリカの制止も聞かずに、タリバンが撤退したことによって統治権力が空白になった首都カブールに、真っ先に入ったことと関連づけられる。北部同盟の"盟主"ラバニ将軍は、「積年の恨み」とばかり、カブールでタリバンが置き去りにした少年兵たに残虐行為を行ったと伝えられている。

 今回のアフガン戦争で言えば、独裁者だった秦の始皇帝に当たるのがタリバン政権のオマル師である。そして、その思想的なバックボーンである厳格な法治主義者の李斯に当たるのがオサマ・ビン・ラディン氏である。アフガニスタン国内だけの事情で言えば「盤石」に見えたタリバン政権が、アメリカの空爆(始皇帝の行幸先での急死に匹敵)という、言わば「天変地異」によって、アラー(神)を奉ずる神学生たちの権威が傾きかけたときに、辺境地域から"倒タリバン"の火の手が上がったのである。それぞれのムジャヘディン(ラバニ派やヘクマチアル派)の将軍たちは、まさに、項羽や劉邦や陳勝や韓信といったいわば群雄たちである。

 「タリバン政権打倒」という目的を持っていた国際社会は、今回のアフガン戦争において、首都カブールがあまりにも早く陥ちすぎたことにはショックを受けたに違いない。現在の状況は、ラバニが勝手に"関中王"を僭称している状態である。当初は、タリバンならびにアルカイダの連中をアフガニスタンの国家運営から排除することを目的にしていたにも関わらず、同時に、このタリバンと闘っている北部同盟(所詮、少数民族の「寄せ集め」に過ぎない)のうちのひとつの勢力がカブールを制圧することを、また嫌っていた。これでは、多数派のパシトゥーン族の合意を得ることができない。これまでタリバンの無茶が通っていたのも、ある意味で、この政権が多数派民族のパシトゥーン人と一衣帯水であったからである。

 国連やアメリカが意図するところは、国際社会の管理の元に安定したアフガニスタンに全国民的な政権を建てなければならず、そのためには、北部の少数民族の「寄せ集め」に過ぎない群雄の誰か一人が第二のオマル師になってもらっては困るのである(しかも、北部同盟各派には、隣接国に同じ民族がいるので、別のややこしい問題が生じる)。その意味で、体裁のためだけに推戴された"義帝"こと楚の懐王は、アフガニスタンで言えばザヒル・シャー元国王である。ザヒル元国王(シャー)の利用価値は、単にタリバン政権を倒すための国民統合の象徴という意味だけであって、この長年イタリアに亡命していた87歳の年老いた元国王に、それ以外の何の価値もないと、北部同盟の諸将は思っているに違いない。みんな、自分が"覇王"になりたがっているのだから…。


▼タリバンの思うツボ

 アメリカや国連が予想してたより遥かに速い速度で、ほんど戦火を交えることなしに、戦力を温存して、いわば「戦略的撤退」とも言える形で、タリバンが首都カブールを放棄し、南部のタリバン本拠地カンダハルへと移動した。そこに権力の空白ができ、北部同盟のラバニ前大統領派が、カブールを制圧。たちまち"報復"として、タリバンの少年兵100人を殺し、また、最近では、顔中に釘を打ち込まれた惨殺死体の首が300体も発見されたそうである。カブールの市民たちは、新たな"支配者"に対する忠誠をパフォーマンスするために、イスラム原理主義者のタリバンがいなくなった途端、これまで茫々に伸ばしていた髭を慌てて剃り、「タリバンとは関係のない人」であることをアピールするという滑稽なことまで行われた。

 タリバンによって政権の座から追われていた人々が、積年の復讐を果たしたことになる。しかし、この様な"蛮行"が続くのならば、復讐が復讐を呼び、アフガニスタンに安定は訪れまい。最近では、信賞必罰の厳しいタリバン政権時代には形(なり)を潜めていた山賊や強盗の類まで跋扈しだし、民衆は、少し窮屈ではあったが、ルールさえ守れば安全であったタリバン時代を懐かしむようになるであろう。国連の安保理は、大至急でカブールの治安維持のために多国籍軍を構成して現地に派遣すると決議したが、自分自身の実力でタリバンを放逐したと思いこんでいる北部同盟の将軍たちは、「アフガニスタンを治めるのはアフガン人自身だ」と言って、国連の介入を強く拒否した。しかし、考えるまでもなく、北部同盟の群雄たちの力によってタリバンが放逐されたのではない。アメリカ軍の圧倒的な空爆によって、タリバン勢力が放逐されたのであって、アメリカ軍が手を引けば、たちまち北部同盟の群雄たちは、また元の「ローカル勢力」に押し戻されることは目に見えている。

 何故ならば、客人(アラブ人)であるビン・ラディン氏が復権できるかどうかは別として、アフガニスタンの多数民族であるパシトゥーン人がタリバン政権を構成していたのであり、ウズベク人やタジク人といった隣接する諸国系の民族から構成される各北部同盟の諸将たちは、アフガニスタンの大部分の地域においては異民族であり、そのまま一般国民から受け入れられるとは思われない。また、彼らも「タリバンを倒す」という共通の目的でもって北部同盟を形成していたのであるから、いったんタリバン政権が崩壊してしまえば、彼らが"同盟"を継続する意味がほとんどない。またまた"内戦"に突入することは目に見えている。これこそ、タリバンの残党勢力の思うツボだ。

 中国の歴史では、大秦帝国を倒した稀代の軍事的天才項羽が、いったん自らの手に権力を握ると、すぐに傀儡であった懐王義帝を殺し、自ら「西楚覇王」を宣言したが、最終的には、後に「大漢帝国の高祖」となる劉邦の勢力によって滅ぼされてしまうのである。歴史は後戻りしない。ナポレオン以後のヨーロッパがそうであったように、タリバン政権以後のアフガニスンタン、そして今回の多国籍軍の進駐以後のアフガニスタンは、これまでのアフガニスタンとは性格を変えてしまうのである。果して、気が付いた時は「四面楚歌」状態になっているのは、どの勢力なのか。また、漢の劉邦の如く、この国を永らく統べていく勢力は誰なのか。今から興味深いところである。


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