9.11がスター・ウォーズに与えた影響   
   02年6月9日


レルネット主幹 三宅善信

▼SWエピソードUを観た 

  6月8日、映画Star Wars(以下、題名の場合はSWと略す)シリーズの最新作『エピソードU:クローンの攻撃』の試写会に息子と一緒に行った。ジョージ・ルーカス監督が制作したSF宇宙冒険映画である。スター・ウォーズシリーズについては、あらためて解説する必要もないであろう。25年前に封切られた映画化第1作『SW:A New Hope』(註:当初は単に『Star Wars』と呼ばれていた)は、共に不思議な力(フォース)を持つ悪の権化ダース・ベーダーと、これに立ち向う正義の味方ルーク・スカイウォーカーたちが宇宙空間で繰り広げる一大叙事詩(サーガ)の始まりであった。この作品は、長年、カメラマンのカンに頼っていたカメラワークをコンピュータ制御によってカメラを動かすことによって、実際に人間が経験したことのない宇宙空間での戦闘シーンや、SF映画につきもののミニチュアを使うが故のちゃっちさを克服することができ、映画の世界に新しい表現形式を開いた。もちろん、熱烈な支持者を得た。第1作である(厳密には9部ある原作のうちのエピソードWに相当する)『SW:A New Hope』の大成功によって、数年の間に、次々と、『SW:帝国の逆襲(エピソードXに相当)』および『SW:ジェダイの復讐(エピソードYに相当)』が制作され、記録的な興業成績と共に、これらの3部作で完結した。


『エピソードU:クローンの反撃』のポスター

  しかし、今では中年になってしまったスター・ウォーズ世代の新シリーズ化を望む声が強く、ジョージ・ルーカスはその声に応えて、1999年、十数年ぶりにシリーズ最新作『エピソードT:ファントム・メナス』を制作し、当時の全米映画興行記録を樹立した。『エピソードT』については、当「主幹の主観シリーズ」において1999年6月に上梓した『SAGA(物語)の性(さが):Star WarsにおけるRacism』で論じた通りである。そして、待つこと3年、遂にこの夏、スター・ウォーズシリーズの最新作『エピソードU:クローンの攻撃』が完成したのである。

  言うまでもなく、世紀末から新世紀にかけて作られた新3部作のエピソードT・U・V(未制作)は、旧3部作の最後(『ジェダイの復讐』)で素顔の判明した悪の権化ダース・ベーダーが、実は、正義の味方ルーク・スカイウォーカー父親(アナキン・スカイウォーカー)であり、ルークと同じ、もともとは宇宙の正義と秩序を守る勇敢なジェダイの騎士であったのが、結果的にはフォースの暗黒面に目覚め、自らの超人的な力を悪事のほうへ使うようになった(堕落した)のだが、結局は生きて父を救い出すことができなかったという衝撃的な結末で終えていたのである。父と息子が戦い合うという悲劇的な結末、死に瀕した父アナキンは、息子ルークと、最後には真人間の心を取り戻して、いのちを引き取る。であるからして、新3部作では、エピソードT・U・V通して、いかにして、この少年アナキン・スカイウォーカーが、宇宙の正義と秩序を守るジェダイの騎士になり、そして、いかにして、悪の権化ダース・ベーダーに堕落していったかを辿るストーリーである。


▼旧3部作と新3部作の架け橋

  前作『エピソードT:ファントム・メナス』においては、天才的な操縦技術を有する奴隷の少年アナキン・スカイウォーカーが、偶然、銀河共和国(連邦)を挙げた政治的争いに巻き込まれ、若きジェダイのオビ=ワン・ケノービによって尋常ならざる才能を見出され、ジェダイの騎士への修行の道へ入るというストーリーであった。その中で、助け出されたお姫様(必ずこの手の活劇には、懸命に良き伝統を守ろうとするお姫様と、従順な家来面をしながらその実、その国を乗っ取ろうとする悪家老のような奴がいることになっている)アミダラ女王ことパドメを中心に、ストーリーは展開した。そして、そもそも宇宙におけるジェダイの騎士の歴史および、いかにして彼らがフォースを用い、宇宙の正義と秩序を守ってきたかということが述べられたのである。

  当時9歳の少年であったアナキンは、今回の作品では10年後ということで、19歳の若きジェダイの見習い(修行中はパダワンと呼ぶ)となって、師であるオビ=ワンと共に修行の日々を送っていた。そこで、再び、銀河共和国を揺るがす事件が起こり、パドメと劇的な再会をするのである。そして、いろいろな手に汗握るような事件が起き、お決まりのよう、若い二人は恋に落ちるのである。しかも、今回の話は、旧3部作と新3部作を繋ぐ、すなわち旧3部作に登場したすべての人物(註:どういうわけか、ハリソン・フォードが演じたハン・ソロのキャラクターについての叙述がまったくない。一説には、ハン・ソロはオビ=ワンの息子だと言われているのにもかかわらず)の因縁について、語られるのである。ただし、ハン・ソロは出てこないが、『SW:帝国の逆襲』において、ハン・ソロを狙った賞金稼ぎのボバ・フェットが、その父親ジャンゴ・フェットと共に表舞台に登場し、実は、ボバ・フェット(旧3部作では、ずっとヘルメットを被って顔が見えていなかった)の正体が判明し、しかも彼の存在が、実は銀河共和国を揺るがす最大の対立項(クローン戦争)となる運命が隠されていたのである。


▼反帝国主義から反分離主義へ

  それでは、いよいよ具体的な内容を紹介し、なおかつ、それに対する私の意見を述べていきたいと思う。今回の作品が第1作『SW:A New Hope』の公開から四半世紀を経て、壮大な銀河叙事詩(サーガ)全体のこれまであった別々の話を繋ぐ核心の部分の物語が展開されることになっているのである。映画の出だしは、例によってお馴染みのテーマソングと「Long time ago. In a galaxy. Far far a way…」の書き出しで始まる宇宙空間をいっぱいに文字が現れ、それが画面の奥の方に消えていくというトラディショナルな出だしを踏まえることで、これが、SWサーガのひとつだということを観客にまず印象づけるのである。しかも、文字が宇宙空間の中に消えた後、あまりにも有名な真白な巨大な宇宙戦艦が画面の上を覆って現れた第1作の印象的な演出と同じく、画面の上3分の1くらいのところに、水色の惑星――これは地球ではなくて、銀河共和国の首都コルサントがある惑星――が映し出される。この辺も憎い演出である。

  そこへ、クロムメッキ色に光った小型の宇宙船――前作でアミダラ女王が使用していた宇宙船――が舞い下りるシーンから物語りは始まる。元老院議員専用の駐機場に到着したら、警護のジェダイと銀河共和国の儀典官がパドメを迎えに来る。そこで、思いもかけない爆弾テロ事件が起る。そして、パドメはあえなく死んでしまったと思わせたのは束の間、実は、これはパドメの影武者であり、パドメは侍女に化けて、無事にコルサントの元老院に到着するのである。すなわち、ここでパドメの元老院到着を望まない勢力があるということが明らかになる。

  前作で、トレード・フェデレーション(通商連盟)との戦いに勝利した銀河共和国には、次なる混乱が待ち受けていた。すなわち、前作でアミダラ女王が統治する惑星ナブー選出の元老院議員(註:日本語では元老院議員となっているが、英語では、Senatorだから、アメリカ合衆国の上院議員と同じである)のパルパタインが、まんまと元老院の議長に就任した。しかも、今回はその元老院が直面する銀河を揺るがす大事件というのは、ドラキュラ映画でお馴染みのクリストファー・リー演じるドゥーク伯爵率いる分離主義者たちをいかに抑えて、銀河共和国の連邦を維持するかというテーマなのである。すなわち、米ソの冷戦時代に創られた旧3部作(エピソードW・X・Y)の背景は、「悪の帝国(レーガン大統領の言葉)」ソ連をイメージする銀河帝国に対して、ルーク・スカイウォーカーをはじめとする等身大のヒーローたちが、この帝国主義的な支配に対して、いかにレジスタンしていくかというテーマになっていたのであるが、四半世紀を経て今日の世界状況はまったく変わってしまった。その「悪の帝国」ソ連が崩壊した冷戦終結後、各地で勃発した民族紛争の嵐は、ユーゴスラビア連邦の解体をはじめ、旧社会主義圏だけでなく、欧米においても、民族主義者あるいは原理主義者の手によって、分離独立運動が起るという世界状況を反映しているのである。しかも、今回は、それらの人々から目の仇にされる「悪の帝国」とは、世界唯一の超大国となったアメリカがであり、アメリカがそれらの動きをいかに抑えるかという歴史的な背景の転換があり、今回の作品も、その意味で興味深い。


▼思慮深いはずのジェダイ評議員たちが…… 

  さて、先ほど、パドメが到着した際の暗殺未遂事件によって、ヨーダやサミュエル・L・ジャクソン演じるメース・ウインド、それに、布袋さんのようなキャラのジェダイ評議会メンバー(12人で構成されるジェダイの最高意志決定機関)から、パドメを警護するように命じられたのが、前作ではマスター、クワイ・ガン・ジンに導かれた若きパダワン(註:パダワンとは、ジェダイ騎士の見習いのこと)オビ=ワン・ケノービが立派に成長し、前作では9歳の子供であったアナキン・スカイウォーカーをパダワンとして、引き連れて登場するのである。物語の設定上、10年前となっている『エピソードT』からの話の展開からして、パドメに好意を寄せているアナキンとパドメを一緒にすれば、恋愛感情が生じ、ひいては大きなフォースを有するジェダイの騎士には許されない感情の乱れから来る禍事(まがごと)が生じ得るのは、当然予想されることであるが、いくら物語を進めるためとはいえ、思慮深いヨーダをはじめジェダイの評議員たちは、あっさりとオビ=ワンとアナキンにパドメの警護を任せてしまう。

 そして、再会を喜んだパドメを早速、第2の刺客が襲うのである。間一髪でパドメが殺されそうになるが、2人のジェダイ(オビ=ワンとアナキン)が未然に防ぎ、そして、刺客を追いかけるのである。このあたりは、ローラーコースター・ムービーそのものである。超未来都市コルサントには、無数のエア・カー(註:懐かしい響きである。かつて『鉄腕アトム』でも、21世紀の都市の姿として、必ず描れたものがタイヤ空中を浮遊して走るエア・カーであった。半世紀前に原作が創られた『鉄腕アトム』のシーンに描かれていたものは、ほとんど、現在すでに実現、あるいはもっと進歩(例えば、携帯電話やPC)しているが、エア・カーだけが、どういうわけか、実現していない。SFもので必ず描かれるエア・カーというのは、洋の東西を問わず、人類の共通のロマンといえるのものであろうか)が飛び交う夜のコルサントの街で、カー・チェイスをするのである。

  当然、かつて少年の頃、砂の惑星タトゥイーンで天才的ポッドレーサーとして活躍したアナキンのことである、この手のマシンの操縦はお手のものであった。そして、ついに刺客を追い詰め、「誰が雇ったか?」を聞き出そうとした瞬間に、刺客が吹き矢のようなもので殺されるのである。これも、日本の時代劇でも見られるお決まりのパターンである。そして、この矢尻をヒントに、辺境の惑星へとドラマが展開していくのである。ここで、どういう訳か、「このままコルサントにいてはパドメが危険だ」ということで、よりによって、パドメに好意を抱く血気盛んな青年アナキンを、パドメの警護に付けて、パドメの故郷の星ナブーへと待避させるのである。一方、オビワンは刺客のヒントを求めて辺境の星へと旅立って行った。


▼パルパタインの策略が的中

  惑星ナブーに戻ったパドメは、さりげなくナブーの政治システムについて紹介している。前作では、パドメは10代の若さながら、国民から選挙で選ばれた「アミダラ女王」として、この緑豊かな水の惑星を統治しているが、今回の作品では、女王の任期をまっとうしたパドメの次の「アミダラ女王」が就任しており、パドメは前女王であると同時に、銀河共和国(連邦)へ惑星ナブーから選出された元老院議員という立場になっているのである。しかし、よく考えてみれば、これはおかしな話である。前作で、パドメがアミダラ女王であった時、ナブー選出の元老院議員はパルパタイン(後の銀河皇帝)であった。しかし、いかにパルパタインが銀河共和国元老院の議会の議長に就任したといっても、議長というのはあくまで議員の一人であるのだから、パドメがもう一人の議員になることは論理的には整合性を欠いている。


恋に落ちるアナキンとパドメ

  しかし、そのようなことは、物語のストーリー上は全然関係なく話は進み、美しい緑と水に溢れる惑星ナブーで、アナキンとパドメは、いわば警護する者、される者という(これもまた、映画『ボディーガード』で見られたような恋愛感情が2人の間に生じるのは当然の成り行きである。水入らずの2人は、あろうことか愛を求め合うようになってゆくのである)禁断の恋が人間を堕落させるというのは、アダムとイブの話以来、お決まりのパターンである。しかも、あれほど元老院議員としての立場に熱心であったパドメが――つまり、自らが身の危険を冒してでもコルサントの議会に出席し、投票行為を行うほど熱心であったのに――この重要な任務をあっさりと、惑星ナブーの先住民で、ちょっと知恵の足らないジャージャー・ビンクスを代議員に委任してしまうのである。まんまとパルパタインの策略が的中したのである。


▼クローン兵の遺伝上の親

  一方、銀河の辺境の隠された星に行ったオビ=ワンは、大変なものをそこで目撃するのである。なんと、クローン技術(この作品の題名が『クローンの反撃』となっているように、クローンは重要なテーマである)によって大量に生産された優秀な兵士たちを見るのである。鶴のような格好をしたこの星の支配者に尋ねると、「このクローン兵士を造ることは、数年前にあるジェダイの騎士から頼まれた」と言うのである。しかも、基本的には機器である前作で登場したドロイド軍団よりも、状況に応じて臨機応変な対応のできる優秀な人間を元に兵士を造ったほうが、軍団としてより有効な戦略を練れるというのが主張である。しかも、この何十万人といるクローン兵士のたった1人の遺伝子上の親が登場するのである。

  その遺伝子上の親とは、なんと、旧3部作において、ハリソン・フォードの演じるハン・ソロと、ライバル関係にある賞金稼ぎボバ・フェットの父、ジャンゴ・フェットなのである。前作『エピソードT』で、蛙の化け物ジャバ・ザ・ハットの父親が出てきたように、人間の顔をしていないクリーチャー(宇宙人)や被(かぶ)りものをしているキャラクターについては、何年経っても年齢を取らないので、後からいくらでも話を作れるので、この辺は楽である。ボバ・フェットと同じ格好をした賞金稼ぎジャンゴ・フェットは、クローン軍団を自らの遺伝子を提供し、しかも、遺伝子操作によって、命令に対して疑問を持つという要素だけを取り除いた(絶対服従の)極めて兵士として有効なクローン軍団を造るのである。しかも、そのクローン兵製造のためのDNAの提供に際し、ジャンゴ・フェットはひとつの条件を付けるのである。それは、もうひとり、ジャンゴ・フェットのクローンを創り、このクローンだけは、何も遺伝子操作をしない(反骨精神を除去しない)ジャンゴ・フェットそのもの、100%ジャンゴ・フェットのクローンを創り出し、自らの賞金稼ぎとしての経験を英才教育するのである。これが、少年ボバ・フェットである。


クールな賞金稼ぎジャンゴ・フェット

  オビ=ワンはこの辺境の星における不思議なクローン兵士の大量生産に疑念を抱き、ジェダイの評議会に連絡する。そして、パドメを狙った刺客の親分が、実はジャンゴ・フェットであることを見抜き、また、ジャンゴもジェダイ・マスター、オビ=ワンの登場に身の危険を感じ、これと死闘を演じるのである。間一髪で、ジャンゴ・フェット親子に逃げられるオビワンであるが、これを追跡し、小惑星帯の中に入って行くシーンは、文字通り旧3部作シリーズで、ボバ・フェットとハン・ソロの間で繰り広げられたようなシーンである。旧3部作シリーズで、賞金稼ぎとしてのボバ・フェットが行なった作戦の原点はここにあったのだ。そして、ジャンゴを追跡したオビ=ワンが見たものは、Separationist(分離主義者)であるドゥーク伯爵および彼の支援者であるTrade Federation(通商同盟=怪しげな中国人風の出で立ち)による新たな銀河支配の野望なのである。

  彼らは、大規模な戦争を用意していたのだ。そして、この「大規模な戦争を用意している」というオビ=ワンの報告によって、銀河共和国の元老院も、戦争準備に入るのである。そして、まんまとパルパタイン議長の策略に引っ掛かり、パドメの代理であるジャージャービンクスが、「戦時の非常大権を議長に委任すべきだ」という動議を発議し、元老院は全会一致でパルパタイン議長に戦争を遂行するための非常大権を委任する。パルパタインは、受諾演説で「元老院議員の皆さんの信頼を裏切らないように、全力で敵を殲滅し、戦争が終わればすぐに軍隊を解散し、非常大権も返却する」と言うが、これは、パルパタインの罠であることは言うまでもない。


▼愛欲の日々とダークサイドの発現

  一方、パドメと束の間の愛に満ちた生活を送ったアナキンは、彼が生まれ育った過酷な故郷に残してきた母親シミ・スカイウォーカーの安否が急に気になり、パドメと共に、「ナブーに隠れていろ」というジェダイ評議会の命令を無視して、故郷である砂の惑星タトゥイーンへと赴くのである。タトゥイーンでは、母と子がかつて奴隷として仕えていた商人のもとに行き、商人から「シミは別の人に売り飛ばした」という話を聞く。そして、そのシミを買ったという相手の家を訪れるのであるが、これがスター・ウォーズシリーズの第1作(『SW:A New Hope』)で、パイロットになって宇宙に飛び出すことを夢見る青年ルーク・スカイウォーカーが育った砂漠の中の穴の家なのである。シミを買い取った男性は、ならず者の集まるこの星には珍しく、非常に善良な人で、シミを奴隷の身分から解放し、自らの後妻として迎えるのである。この男性にはすでに息子がおり、結果的にはアナキンと、この子供は義理の兄弟ということになった。この息子が、後のルーク・スカイウォーカーの育ての親となる人なのである。

  砂の惑星の山岳部には、野蛮な狩猟民族が棲んでいるが「そこにシミが拉致された」と義理の父から聞かされたシミが捕えられているのを知ったアナキンは、単身彼女を救出に行く。そして、インディアンのテントのようなところで拘束されているシミを見つけるのである。母は息を引き取る寸前であった。アナキンと再会できたことを喜び、アナキンの見違えるような成長ぶりを喜んだシミは、そこで息絶える。「もう少し早く来てたら…」と、自ら禁断の愛に満ちた生活をしていたことを忘れてアナキンは逆上し、その山岳に棲む種族を、女子供も含めて皆殺しにしてしまうのである。いよいよ、アナキンがダース・ベーダーへと堕ちていく精神の暗黒面(ダーク・サイド)の最初の発現となった事件なのである。


▼見飽きてきたCG戦闘シーン

  このこと自身、本来ジェダイの評議会から厳重に罰せられるべき事件(註:まるで「不婚の誓い」を破ったカトリックの神父のようだ)であるが、歴史の推移は、もっと大きな問題が発生して、それどころではなくなってくる。すなわち、分離主義者ドゥーク伯爵の秘密基地に潜入したオビ=ワンがドゥーク伯爵に捕まってしまう。そして、惑星の位置関係から、オビ=ワンから評議会への緊急連絡の中継を聞いたアナキンは、今度は、パドメと共にオビワンの救出に向うのである。身を隠していたはずのパドメが、どんどんと危険なところへ向かっていく。これを運命的というのであろう。しかし、敵の「首魁」ドゥーク伯爵とは、オビ=ワンの師匠であるクワイ・ガン・ジン(開眼人?)の元師匠であり、あのヨーダから直接指導を受けた剣(ライト・セーバー)の使い手で、暗黒面に目覚めたジェダイ・マスターであり、若きパダワンのアナキンや、経験の浅いオビ=ワンよりはるかに腕が立ち、所詮叶う相手ではなかった。パドメも含め3人共捕まり、競技場で公開処刑をされそうになる危機まで訪れるのである。


ジェダイの証ライト・セーバーを手にしたオビ=ワンとアナキン

  そこにジェダイ評議会のリーダーことメース・ウインド率いる若きジェダイたちが100人くらい救援に現われ、分離主義者たちのドロイド軍団と、大規模な合戦に展開するのである。レーザービームなどの飛び道具を使い、しかも、数は数千機はあろうかというドロイド軍団と、いかに、ひとりひとりの戦闘能力が高いとはいえ、ライト・セーバーという剣を振り回して戦うだけのジェダイでは、多勢に無勢である。あっという間に包囲され、次々とジェダイの騎士たちは射殺され、あと数名というところまで追い込まれ、ドゥーク伯爵から「降服して私の家来にならないか」とまで言われる。

  その、間一髪の時に、辺境の惑星で密かに開発されていた何十万人ものクローン兵士軍団たちを率いて、あのヨーダが参戦するのである。このあたりの映像は、全面的にCGによって作られている画面である。前作において、CGを用いたドロイド軍団の戦闘シーンを見たわれわれとしては、今回の戦闘シーンは新鮮味に欠ける。しかも、個々の戦闘にドラマ性がない。危機一髪のハラハラするところがないのである。当然のことながら、ひとりひとりの兵士たちは、敵はドロイド(ロボット)、こちらは一応、人間の格好はしているが意志を持たないクローン兵士であるから、個別的なドラマが生まれるはずがない。まるでコンピュータゲームにおける戦闘と同じことである。ヨーダが軍団を見事に指揮し、ドゥーク伯爵の野望を打ち破るのである。


▼戦争をするには大義名分が必要

  思わぬクローン軍団の登場によって戦いに敗れたドゥーク伯爵は、これまたドラキュラ映画の本領発揮で、箒(ほうき)の代わりにエア・バイクに跨って、マントをはためかしながら逃げていく。そして、洞穴に隠しておいた小型宇宙船で、この星から脱出しようとするところに、オビ=ワンとアナキンが追いつくのであるが、先程と同じく、往年のジェダイ・マスターであったドゥーク伯爵と、ライト・セーバーを使った戦いでは勝ち目がなく、2人とも負けてしまう。アナキンに至っては右腕を切られてしまうのである (註:確かに、この20年後に、息子ルークと戦ったダース・ベーダーも右腕は、機械仕掛けの義手だった) 。2人が殺されそうになる間一髪のところへ、またまたヨーダが現われ、ヨーダはフォース(どちらかと言えば念力)を用いて、ドゥーク伯爵の2人への攻撃を跳ね返す。私なら真先に、逃走用の宇宙船を破壊しておくのだが、この辺は詰めが甘く、最後には、ヨーダもライト・セーバーを抜いて、なんとドゥーク伯爵とチャンバラを演じるのである。そして、一瞬の隙をついて、ドゥークは宇宙の彼方へ逃げ去る。その後のヨーダは、先ほど大立ち回りを演じた同じ人とは思えぬほど、杖をつきながら、息を切らして歩いていく。

  一方、何食わぬ顔をして、銀河共和国の首都コルサントへ逃げ帰ったドゥーク伯爵を、敗戦にもかかわらず、本当の黒幕パルパタイン議長は笑顔で迎える(作戦が、まんまと巧く行った)のである。すなわち、この戦いの本当の目的は、銀河共和国全体を巻き込んだパルパタインの自作自演の戦争であり、一部の者を分離主義者として共和国相手に戦争を吹っかけさせ、そのことによって「それに対抗するため」という大義名分を立てて(註:「テロリストに対抗するため」という大義名分を立てて、アフガニスタンで戦争を吹っかけたブッシュ政権と構造がよく似ている)銀河連邦の権力を自らの手中に収めるための戦争だったのである。

  これらのストーリーから見られるように、今回の作品においては、これまでの4つの作品(旧3部作と新3部作の『エピソードT』)のストーリーを繋ぐという意味では、よくできているが、全体に貫くジェダイの騎士たちの精神性(神学)という部分が薄められ、ジェダイにしても敵方にしても数の原理、そして、分離主義者たちを許さない帝国の原理というものが全面的に打ち出され、9.11(同時多発テロ事件)以後のアメリカ社会の雰囲気というものを大変色濃く反映した作品に仕上がっているのが、長年、この作品を追ってきた私には気に掛かった。


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