刑は大夫に上らず?   
   02年6月15日


レルネット主幹 三宅善信


▼個人情報保護法のどこが問題か

  個人情報保護法案が俎上に上って久しいが、マスコミ各社が一斉に成立阻止キャンペーンを張ったからか、あるいは他に重要法案(郵政公社化法案や医療制度改革関連法案や有事立法等)があるので、あえてマスコミ受けの悪い本法案を今国会で通すまでもないということで、立ち消えになったのか、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」譬えのとおり、マスコミもその辺りへのフォローが十分なっていないように思える。そもそも「個人情報保護法が必要である」というようになってきたのは、コンピュータ時代において、膨大な個人情報がデータ化(蓄積)され、そのリストが流出あるいは流通しているところに問題があるからである。誰でも、知らない会社から、毎日のようにダイレクト・メール(DM)が届いて、「この会社は、いったいどうして私の情報を知っているのだろう?」と思ったことがあるであろう。

  民間のDM業者(あるいは名簿業者)の場合は、どこかで自らが記したことのある情報が本来の使用目的外で使われているのであるが、この情報は、いわば自ら任意で書いたもので、年齢・性別・職業その他の情報を詐称して書いても問題ないが、行政機関が持つ情報、例えば戸籍・健康保険・国税等の情報は、偽って申告することが処罰の対象になっており、この各行政機関の持つ莫大な情報を、個人情報の電子化が進むことによって、なおかつ、これまでそれぞれの役所が個別に保有していた個人情報が、国民総背番号制の導入によって統合されることによって、プライバシーのない、とんでもない管理社会が出現する可能性がある。このような話は、よくこれまでにもSF映画などでも取り上げられてきたテーマであるが、そういう社会が出現することを防ぐために、今回、個人情報保護法を制定しようということになっていたはずである。

  今回の個人情報保護法に対して、マスコミ各社が批判している点は大きく分けて2つ挙げられる。まず、個人情報保護法は、あらゆる人に適用されるのであるから、政治家や官僚といった「公人」も、その個人のひとりであることには違いなく、疑惑を持たれた政治家や官僚の素行について調査すること自体、政治家や官僚個人のプライバシーに関わる問題として、これを抑制することができ、結果的に政治家や官僚の疑惑追及ができなくなってしまう。という点がまず挙げられている。国会でこの点を追及した野党議員の質問に対して、小泉首相は、「マスコミは個人情報保護法による処罰規定の対象外であるから安心して下さい」と、平然と曰わったが、とんでもない話である。

  ここで言うマスコミとは、いったい誰のことなのであろうか? テレビ・ラジオ・新聞(全国紙)、このあたりまでは、誰もが認めるマスコミであるが、週刊誌やスポーツ誌となると話は変わってくる。現在、国会や官邸、あるいは各官庁ごとにある会員制の「記者クラブ」には、いくつかの週刊誌は会員として入れてもらえない。そして、記者クラブ員として安穏とした地位にいる放送局や大新聞等は、行政機関が出す自分たちに都合のよいブリーフィング情報を、そのまま国民に押し付けてタレ流している。また、ほとんどの外国の報道機関も、記者クラブのメンバーに入ることができずに不満を抱いているというこの国において、「政府御用達のマスコミだけが(処罰の対象にならない)マスコミだ」という危険な態度表明をされる可能性すらある。アナクロニックなことこの上ない。このインターネット全盛のご時世に、やろうとすれば、あらゆる人が全世界に向けて情報を発信することができるのであるから、「全国民がマスコミである」と言っても過言ではない。まず、その点に対する配慮の欠落がある。


▼日本には民主主義はない

  次に、政府提出の個人情報保護法案は、「違反した場合、民間にのみ罰則規定があって、行政の側には罰則規定がないというのが不備である」と指摘し、これを以って「官尊民卑だ」と野党は主張している。この態度は、このところ、政界を騒がせている防衛庁の情報公開請求者リスト作成問題が発覚した時の福田官房長官の記者会見に典型的に見られる。「このような抜け穴だらけの個人情報保護法では、今回のようなケース(防衛庁の職員が、個人情報保護に反した場合)を罰することができないではないか?」という記者の質問に対し、福田官房長官は「だって、行政が悪いことをするなんて想定してないんだから」と、平然と曰わったのである。ここに、日本の政治の本質を考える上での大きなヒントが隠されている。

  私はこれまでたびたび、「日本には民主主義は存在しない」あるいは「日本には民主主義は馴染まない」と主張してきたが、今回の福田官房長官の発言によって、政治家自らの発言として、民主主義を否定していることが白日の下に曝された。民主主義の基本は「政治権力は必要悪だ」と規定することから出発している。人類は長年の専制政治の圧迫という歴史的経験を経て、議会制民主主義というシステムを発明したのであるが、これは、「放置しておけば、権力は悪いことをするから、これを監視するために、人民が率先して政治的意思決定にコミットしなければならない」という制度である。しかし、近代国民国家は規模が大きいので、古代ギリシャのポリスで見られたような直接民主主義ではなく、代議制を用いているだけである。つまり、「役人は悪人だ」という前提から、すべての制度が考えられているのが民主主義なのである。

  したがって、今回の福田官房長官の「行政が悪いことをするなんて想定してないんだから」という発言は、民主主義を真向から否定している発言と言ってよい。このことを与野党の議員が問わないのは私には不思議でたまらない。だからといって、何も私は、「民主主義が絶対的な価値観を持った制度である」と言っているのではない。いや、むしろ、「最大多数の最大幸福」ということを考えた場合、民主主義が最も適した制度であるとは思っていない。その意味では、私は民主主義を信じていない。しかし、日本の政治家やメディアは、民主主義を金科玉条のように戴いていると口では言いながら、その実そうしていないことが許せないと言っているのである。私は民主主義に疑問を抱いているのだから、私が民主主義のことを悪く言うことは許されるが、「民主主義に絶対的価値がある」と、言葉の上で言っている政治家や官僚が、民主主義の根本精神を蔑(ないがし)ろにしていることは、矛盾撞着であると言える。


▼防衛庁が情報収集するのは当然

  同様に、今回の防衛庁による情報公開請求者のリスト作りについても、私は短絡的に「悪いことだ」と言っているのではない。どんな組織でも、自己保存の原理は働く。特に、一国の安全保障に関する任務を受け持っている防衛庁が、独自の諜報活動を行うのは当然のことである。むしろ、今回問題にすべきは、このこと(請求者リスト作成の事実)が簡単に外部に漏れたことである。(外務省にしても、本当によく外部に情報が漏れる) このようなことだからよかったようなものの、これがもし、国家安全保障に関わる重大な秘密情報の漏洩だったら、いったいどうなるのだろうか。この程度の危機管理ができない防衛庁という組織が、「有事」になったときに、いったい何をしようというのか。おそらく、国民の生命・財産を守るようなことは、ほとんどできないであろう。そもそも、堂々と自分の住所・氏名を名乗って、情報公開請求をしてきた人を監視しようなどどいう、発想そのものが間違っている。敵国のスパイは、自分の名前や住所などを名乗ることなく大量に組織に潜入しているはずである。このようなスパイをこそ摘発すべきであるのに、堂々と自らの姓名を名乗って情報公開を請求してきた人を、逆に監視しようなどとは、論外である。

  逆に言えば、まともに敵のスパイから有意義な情報を得ること――スパイを見つけ出すこと――ができないので、せめて諜報関係の職員がこのようなリストを作って、紙の枚数を増やせば、それで仕事をしたように錯覚するという官僚の性質上、このようなものを作っただけのことである。なおかつ、かつてのようにこれが単なる紙の上だけではなく、今は電子情報としてこれが流通するということが、当の役人自身よく理解できていなかったのであろう。今回の防衛庁によるリスト問題についての与野党のやり取りも、お粗末そのものである。この間の防衛庁と自民党と野党とのやり取りについて、滞在先のナイロビのホテルにおいても、衛星放送によるニュースを通じて、逐一フォローできている。インターネットや衛星放送を通じて瞬時にして世界の反対側で起った事件についてアクセスできるこの時代に、相も変わらず防衛庁もお粗末であるし、野党も相も変わらず審議拒否戦術をとり、また山崎拓幹事長をはじめ自民党執行部も、まったく当を得てない体たらくを、アフリカの地で赤面しながらテレビのニュースをフォローしている私である。

  なぜ、野党は「小泉政権が民主主義を真向から否定しようとしている」という点から切り込まないのか、理解に苦しむ。「政府首脳」である福田官房長官自らが民主主義を否定しているのだから、民主主義を金科玉条の如く有難がっている社民党など、もっと大声でピーチクパーチク騒ぐべきである。一発逆転を目指して、焼身自殺くらいし世論に訴えてもいいはずだ。だが、現実はそうならない。なぜなら、答えはひとつしかない。与野党共に、口では民主主義を説きながら、実は民主主義を理解していないからである。「役人は悪人である」と、ハッキリ公言して、議会答弁のできる議員がいないのは、まことにお粗末な日本である。相も変らず、与野党共に「お上」意識に毒されているとしか言いようがない。


▼刑不上大夫(刑は大夫に上らず)

  話は二千数百年前の中国の春秋戦国時代に遡る。儒教の経典のひとつである『禮(礼)記(らいき)』の「曲禮」に、以下のような言葉がある。「刑不上大夫(刑は大夫に上らず)」つまり、高級官僚である士大夫の身分にある者は、当然、高い倫理規範を有しているはずだから、刑罰の対象としなくてもよい。なぜなら、刑罰の対象になるような悪いことはしないはずであるから、という前提から出た言葉である。もし、この士大夫の身分にある者が、故意であっても、また過失であったとしても、悪いことをしてしまった場合には、刑によって罰せられる前に、自ら身を処せ(自害する)よということである。世襲制の武士という身分において、厳格な行動様式が規定されていた官僚が政治を行っていた江戸時代には、まさに、この「刑は大夫に上らず」という概念が、この国においても広く通用していた。しかし、明治から昭和20年までの高等文官制度、そして、戦後のキャリア官僚制度共に、単なる「試験に合格した人」をもって、高級国家公務員にするという日本人の皮膚感覚には似つかわしくない制度が導入されたことにより――しかも、この試験では、個人の倫理的資質というものが一切問われないのであるから――「刑は大夫に上らず」という、いわば儒教の理想的な統治概念が機能しないことになってしまった。

  そもそも、欧米において、市民革命という経験を経て確立された議会制民主主義は、「権力は必要悪である」あるいは「役人は悪人である」という前提を元に、成り立っているのであるから、この「刑は大夫に上らず」という考え方とは、真向から対立する概念である。福田官房長官は、自らこの「刑は大夫に上らず」を想定している人物である。しかも、『禮記』には、「刑は大夫に上らず」に先だって、次のような表現がある。「礼不下庶人(礼は庶人に下らず)」。つまり、「一般の人民には、倫理観など必要ない。その変わり、人民は刑罰で統御すればよいのである」という発想である。つまり、士大夫の身分の者が、公の道を素っ裸で歩くことは許されないが、一般民衆は素っ裸で歩いてもいいということである。下等な人民には、そもそもそのような高級な倫理観など持ち合わせていないはずだから、という前提で成り立っている論理である。

  わが国の個人情報保護法を取り巻く状況を鑑みると、まさに、この「刑は大夫に上らず」、「礼は庶人に下らず」という二千数百年前の中国の社会制度へ逆戻りしようとしているとしか、言いようがないと思う。ならば、せめて政府首脳が「刑人不在君側(刑人は君の側にあらず)」という言葉だけでも実行してもらいたいものである。


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