中座全焼は芝右衛門狸の祟り?

  02年09月27日


レルネット主幹 三宅善信

▼中座"自爆"説の怪

  「重陽」の節句(註:古代中国では、奇数を陽数とし、偶数を陰数とした。9月9日は奇数で一番大きい九が重なるので「重陽」というめでたい節句になった。また、聖徳太子の『十七条の憲法』も、世界のすべてのことを含むという意味で、陽と陰の最大数を加えて、すなわち、9+8=17ということで十七ヶ条にまとめられた)あたる9月9日の未明、350年の歴史を誇る上方芝居文化の聖地、道頓堀の中座が爆発炎上し、面積3,000平方メートルの鉄筋コンクリート造りの建物がほぼ全焼するという衝撃的な事故が起きた。警察・消防合同の原因調査によると、9月1日から始まっていた解体工事の一工程として、安全確保のため、地下のガス配管に残存していたガスを抜き取る作業を行っていたが、配管図の間違いにより、管内に残っていないはずの大量の都市ガスが地下室内に放出され、それに何かの火が引火して爆発炎上したということになっている。一般のニュース的に言うと、「上方芸能文化を長年支えてきた歴史的な建物が火災事故で全焼した。ただし、既に取り壊しが決められていた中座は、その解体作業中の事故であったので、いずれにしても中座は消えてなくなる運命であった」と括られるであろうが、この事故の後、芝居好きの間で、奇妙な噂が流れていることを耳にした。


爆発全焼した中座の焼け跡

  曰く、「中座は自爆した」という穏やかでない話なのである。中座自爆説を考察する前に、大阪在住以外の読者のために、そもそも「中座とはいかなる代物か?」ということについて簡単に説明する。豊臣秀吉が石山本願寺の跡に、大坂城を築き(天正12年=1584年)、現在の大阪の街割り(註:「水の都」大阪の街割りは、すなわち、堀割りであった)の基礎が作られた。大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡した元和元年(1615年)に、安井道頓によって道頓堀が開削された(註:安井道頓自身は、「夏の陣」で討ち死にしたが、子孫がこの事業を継承して完成させた)ことはあまりにも有名である。この時期、大阪市内を縦横に流れる横堀川、長堀川、土佐堀川などの運河が開かれ、「浪速八百八橋」と称せられる大都市が形成された。関ヶ原合戦後、政治の中心が江戸に移ってからも350年間(註:大阪の経済が地盤沈下し出したのは、戦後の高度経済成長の頃からである)にわたって、大阪が「天下の台所」として商業の中心となってきたのは、日本史上類を見ない都市インフラ整備が充実した街だったからである。

  道頓堀の開削に伴い、この界隈には多くの商人が集まってきた(註:信長との抗争で中世の先進都市堺は大打撃を受け、大挙して隣接する新興都市大坂に拠点を移した。また、秀吉の以前の居城長浜からも近江商人が多数移ってきた)が、中でも道頓堀川に併走する吉左衛門通り(註:もちろんこれも芝居興行主の名前)に面して芝居小屋が立ち並び、大いに賑ったのである。この度、焼失した中座は、承応2年(1653年)に、現在の中座の建っている場所に「中之芝居」という名称の芝居小屋でスタートした。今から350年前のことである。江戸時代後期の爛熟期である文化3年(1806年)に出版された『摂州大坂地図』には「道頓堀五座」と呼ばれた竹本座・中座・角座・豊座・竹田座が、西から順に吉左衛門通りに面して並んでその賑わいを競っている様子が描かれている。

▼千穐萬歳楽

  江戸時代、芝居興業にとって2つの大きな障害があった。ひとつは幕府当局の取り締まりである。(朝廷と違って、法的にはあくまでも「暫定軍事政権」であった幕府からは、歌舞音曲を戒める)「倹約令」や「奢侈禁止令」が度々発令された。しかし、将軍のお膝元である江戸と異なり、役人のほとんどいなかった大坂では、かなり自由に芝居興業が行われた。また、もうひとつの障害は、芝居小屋には火災が付きものであったのである。現在のような鉄筋コンクリート造りの「常設の劇場」が造られるようになったのは近代になってからのことであり、江戸時代には、芝居(相撲も同じ)小屋といえば木造の極めて仮設的な要素が強い施設であった(註:現在でも、演劇などではよく「テント公演」が行われる)。芝居用語に「千秋楽(興業の最後の日)」という言葉がある。相撲の番付に書かれている千秋楽(註:「千秋楽」そのものは、雅楽の曲目のひとつ。いつも最後に演奏される曲だったから、「千秋楽」が最終を現わすようになった)という字(註:番付の末尾には「千穐萬歳大々叶」と書かれている)や、古い芝居の案内に書かれている千秋楽という字をよく見ていただくと判るように、「秋」という文字が、普通に使う「禾偏(のぎへん)に火」という字ではなく、「禾偏に亀」と書く「穐」という字を当て、「千穐楽」と読ませてある。これは、当時の人が本当に火災を恐れて、火という字を避けた名残である。

  あにはからんや、350年の歴史を誇る中座も今回こうして全焼してしまったのである(註:これこそ本当の「千秋楽」である)が、実は、中座はこれまでにも、何度も焼失している。20世紀に入ってからだけでも、昭和3年(1928年)に一度火災に遭っており、再建されてまたすぐの昭和5年(1930年)には台風で倒壊し、昭和20年(1945年)3月13日の大阪大空襲の際にも全焼しているが、復興も早く、昭和23年(1948年)の正月にはもう再建されて、上方芝居文化の聖地として戦後の大阪の人々に娯楽を提供し続けてきた。この由緒ある中座がこの度、焼失してしまったのであるが、ここに「中座自爆説」というものが巷の芝居好きの間で噂され出してきた。中座の舞台の「奈落(舞台の下のこと)」に、いつの頃からか「芝右衛門狸大明神」という芝居の神様が祀られるようになり、長年に渡って多くの役者から厚い崇敬を受けていたのである。この「芝右衛門狸」には面白いエピソードがある。

▼芝右衛門狸と藤山寛美

  この芝右衛門という狸はその昔、淡路島の三熊山(現在の洲本市)に住んでいた。この狸は化けることが非常に得意で、鳴戸海峡を越えて阿波国(徳島県)や明石海峡を越えて摂津の国(兵庫県南東部と大阪府北部)などに遠征(どうやって潮流の早い海を渡ったのだろう?)しては、その地の狐狸と化け合戦をしては、いつも勝っていた。化け狸のお決まりのパターンとして、木の葉をお金にして人を騙したりもしたが、逆に、山道で迷った旅人の道案内をして助けたりもして、村人たちから非常に親しまれていた。ある時、芸能の本場浪速の中座でおもしろい芝居がかかっていると聞き、芝右衛門は大坂まで出かけて行って三隅八兵衛という侍に化けて、木の葉のお金を木戸銭にして中座の芝居に通っていた。しかし、とうとう千秋楽の芝居を観終わった後、油断したのか番犬に正体を見破られ、皆から寄ってたかって殺されてしまった。

  そんなこととは露知らず、地元淡路洲本の人々の間では、「このごろ芝右衛門の姿を見なくなったな」ということで心配していたが、ある時、旅の行商人から、「浪速の中座で大狸が犬に噛まれて死んだそうだ」という噂が伝わり、地元の人は「その大狸こそ芝右衛門だったに違いない」ということで、古巣三熊山に祠を建ててこれを祀ったのである。江戸時代初期の話である。ところが、不思議なことに、中座ではそれ以後、客の入りが悪くなり、いつの頃からか芝居関係者の間で「芝右衛門狸を殺したことの祟りに違いない」ということになって、芝居小屋の奈落(舞台の下)に芝右衛門狸を祀り、この霊を慰めたところ、またかつてのように、大勢のお客が入るようになったのである。以来三百余年。中座では芝右衛門狸が「人気の神様」ということで、この芝居小屋で芸を披露する役者たちから厚い信仰を受けてきた。なかでも、上方歌舞伎の名優先代の中村雁次郎や先代の片岡仁左衛門、さらには、この中座が松竹新喜劇のホームグラウンドになっていたこともあり、藤山寛美たちによって厚く信仰され、昭和32年(1959年)には「淡路へ里帰り」ということで、洲本城内に寛美や仁左衛門などの寄進により、芝右衛門狸の祠が建てられたりもした。


洲本城内にある芝右衛門狸の祠

  しかし、時代の流れというか、一枚看板であった藤山寛美亡き後、松竹新喜劇は衰退し、また、お笑い産業の吉本興業への一極集中化というか、松竹芸能の経営合理化により、平成11年(1999年)遂に、350年の歴史を誇った道頓堀の中座が閉鎖されることになった。私も閉鎖された中座の前を何度か通ったが、繁華街のど真中にあるだけに、かえってどことなく物寂しい感じがした。大阪の中座を知らない人でも、FIFAワールドカップの際に大勢の若者が道頓堀川に飛び込んだ戎橋(註:通称「ひっかけ橋」と呼ばれる「ナンパ」の名所で、大阪を紹介する番組では、必ず写る道頓堀川の水面に写るグリコのネオンサインや、かに道楽の巨大な動くカニの看板や食い倒れのおっさんの人形のあるところ)のすぐ近くにある劇場だといえば、ロケーションが理解できるかもしれない。その後3年を経て、今年の秋、中座を解体することが決まっていたのである。その解体作業の矢先に、中座が爆発炎上するという、常識ではちょっと考えにくい極めて衝撃的な幕切れとなったのである。

▼狐と狸の奇妙な同棲生活

  中座の南側には、これまた演歌(「包丁一本 晒に巻いて 旅に出るも板場の修業♪」で始まる『月の法善寺横丁』、桂春団治を歌った「芸のためなら女房も泣かす♪」で始まる『浪速恋しぐれ』)や、小説(織田作之助の『夫婦善哉』)などで有名な飲食店の立ち並ぶ法善寺横丁が隣接しており、その法善寺横丁も約半分が火災の被害を受けた。「夫婦善哉」や「水かけ不動」で、大阪南の芸能文化には欠かすことのできない装置のひとつだが、その水かけ不動さんが消防署の放水をもろに浴びるというシャレにならない事態まで至ってしまった。1999年に、中座が閉館になった折りに、関係者がこの奈落に祀られていた「芝右衛門狸をどうしようか?」ということになり、同じく大阪南の生国魂(いくたま)神社(註:朝廷で天皇即位に伴う大嘗祭が行われた翌年、大嘗祭の関連行事として、摂津浪速の地で新帝の御衣を海に向って振り動かすという神武天皇東征神話の難波津上陸の故事に基づく、生島・足島の神を祭る八十島(やそしま)祭が行なわれる由緒ある官幣社。また、近世の作家、近松門左衛門や井原西鶴の作品にも度々登場するのでも有名)の摂社のひとつである源九郎稲荷神社(註:源九郎義経が吉野に落ちのびた時に側室静御前を白狐が送り届けたことに因んで神として祀られた)に合祀された。

  しかし、このこと自体少し無理があるように思われる。なぜなら、生国魂神社のによると、芝右衛門狸は中座で「八兵衛大明神(三隅八兵衛は化けていた侍の名前)」として祀られていたということであったが、いくら侍の名前が付いているといえ、白狐を祀った源九郎稲荷(註:この白狐は「忠臣」ということになっている)に芝右衛門狸を合祀するということのバランス感覚が問われると思われる。おそらく、いったんは生玉の森(註:上町台地上に残る大阪市内唯一の自然林)に鎮まった芝右衛門狸も、自分がいのちを掛けて護ってきた上方芝居の聖地中座が解体されるという話を聞いて、居ても立ってもおられなかったのであろう。そして、中座の変わり果てた姿を大阪の人に晒すよりは、今回のガス爆発事故を引き起こし、自らの手で350年におよぶ中座の歴史にピリオドを打つことによって、大阪の人々に芝居文化が衰退することへの喚起を促したのだと思う。

  大阪の繁華街における大規模な火災と言えば、誰でも昭和47年(1972年)5月に起きた死者118名という戦後最悪の被害を出す大惨事となった千日デパートビルの火災を思い浮かべるが、中座と千日デパートビルとは直線距離で百数十メートルしか離れていない。この千日デパートビルのあった場所(註:その後、この場所のテナントは、プランタンからビックカメラに移った)も、実は以前、歌舞伎座があった場所である。つまり、芝居小屋であった場所なのである。今回の火災は、経済的合理性ということだけを考えて、上方の芝居文化の火を消し続けてきた企業や行政に対する一種の警鐘のように思えてならない。まさに、陽の極まりである「重陽」の日(9月9日)は、別の意味でいえば、陰のスタートの日でもあるのだ。そう言えば、今年は「上方演劇の神様」と呼ばれた故藤山寛美の十三回忌にあたり、各地で「藤山寛美十三回忌追善公演」が行なわれているが、寛美さんの御霊は、地獄の奈落の底(註:どう考えても極道者である芸人は、死んでから極楽へ行ける道理がない。しかし、大芸人ともなれば、赤鬼青鬼をその芸で笑わせているに違いない)から今回の中座の火事についてどのように思っておられるのであろうか? 案外、芝右衛門狸と仲良く並んで「よくやってくれた」と礼を言っている姿が想像されてならない。


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