毒饅頭喰ったのは誰か
 03年09月30日


レルネット主幹 三宅善信

▼平成研と毒饅頭

  注目された自民党総裁選挙も、終わってみれば小泉純一郎総裁(=総理大臣)の再選という、日本の国の将来にとってどうかと思われる結果(註:小泉首相の「盟友」ブッシュ米国大統領とブレア英国首相が再選される可能性は低く、そうなった際には、国際的には日本がひとり孤立することになるい)となったが、今回の総裁選(註:首相をはじめとする公人たちは登場するので、多くの人々が勘違いしているかもしれないが、この選挙は、あくまで自由民主党という私的団体内のトップ選びであり、違反すれば罪に問われる公職選挙法など一切関係ない買収・恐喝なんでもありの業界内の権力闘争にすぎない)の中で、私が一番印象に残ったのは、なんといってもの野中広務氏の言動である。従前から亀井静香元政調会長や石原慎太郎東京都知事と組んで「小泉おろし」に執念を燃やしていた「平成研(橋本派)」の実力者野中広務元幹事長が、日頃から小泉首相の政策に真っ向から反対していたにもかかわらず、ただ単に目先の参議院選挙に勝つためだけに「小泉再選」の流れを決定的なものにした同派の重鎮、青木幹雄参院幹事長の「小泉再選支持」という行動に対して、頭に来て9月9日に行なった、突然の「政界引退宣言」の中での一連の野中氏の発言である。

  この種の局面の常套句としての「自ら退路を断って(背水の陣で)戦う」という表現は以前からよく耳にする(註:実際には、自ら退路を断つのではなく、断たざるを得ない状況に追い込まれるのであって、その意味では、既に「四面楚歌」の状態になっているのである。この手の作戦で本当に効果があるのは、なんといっても、形勢が悪くなる前に機先を制して相手と刺し違える「自爆攻撃」である)が、その一連の発言の中で、道路公団や郵政の民営化等について、小泉首相とは全く意見を反対にする青木幹雄参院幹事長が小泉支持に回ったのと同様に、平成研(橋本派)の副会長である村岡兼造元官房長官も、橋本龍太郎会長に無断(註:ええ格好しいで、汗をかく仕事が嫌いな、飾りものにすぎない橋本元総理に、曲者だらけの国会議員たちを束ねてゆけるはずがないことは、はじめから判っていたことである)で小泉支持に回ったことに対して、あの独特のカン高い声で野中氏が発言した「(村岡さんは)毒饅頭を喰わされたと考えざるを得ません!」という発言である。もちろん、政治の世界は、権謀術数が渦巻く権力闘争の世界であるから、脅したり賺したり、あるいは、戦後の論功行賞(ポストの約束)等は付きもの(註:郵政民営化だけに、ポストは付きものである)であるが、自民党政権の実力者ともあろう者が、これほど具体的な人名を表に出して、同じ派閥の人を批判するケースは稀であると言える。


▼家康VS秀頼 二条城の会見

しかし、私は何もここで、世間で溢れている今回の自民党総裁選挙の結果を分析しようというのではない。私には「毒饅頭」と聞いて思い出す歴史上の出来事がある。今年は徳川家康による江戸開府400周年に当たるが、江戸に幕府が開かれてからも、なお暫くの間は、大坂城には亡き太閤殿下豊臣秀吉の遺児右大臣秀頼公がおり、武家政権の唯一の中心としての征夷大将軍の権威(註:この時代の諸大名にとっては、「征夷大将軍」職を言えば、すぐ前の次代に、各地を転々と逃げ回った足利義昭のイメージがあり、確固たる権威が確立されている職責とは言い難かった)は未だに確立されておらず、この精算が「狸爺」こと徳川家康の晩年の政治的課題だったのである。

秀吉在世中の「豊臣>徳川」の君臣関係が明白な形で逆転したのは、慶長16年6月のいわゆる家康と秀頼の「二条城の会見」の瞬間である。歌舞伎『清正誠忠録』等の芝居でも人気のある場面で、テレビ時代劇でも多く演じられているので、皆さんご存知の話である。それまでは、秀吉の死後も、形の上では、年長の家康が「豊臣家五大老」の一人として大坂城に出向いて、年少の秀頼に対して「臣下の礼」を取っていたのであるが、今度は、家康の居城である二条城へ秀頼を呼びつけるという場面である。そのことで、天下の形勢が「徳川>豊臣」に逆転したことを諸大名に示せばよかっただけであるが、実際に二条城で秀頼に会見してみると、家康が知っていた幼子の秀頼は、今や立派な若武者に成人していた。しかも、あの秀吉の息子とは思えないほどの気品まで備えて・・・・・・。会見前には、単に徳川と豊臣の力関係が変ったことを満天下に示せばよいと思っていた家康であったが、秀頼の堂々たる様姿と老い先短いわが身とを比較して、徳川家の将来に不安を感じた家康は、豊臣家の抹殺を決意するのである。

そこで、秀頼に毒饅頭を供すのであるが、現在は石田三成との不仲により徳川家の家臣の列に加わっていた豊臣恩顧の加藤清正は、毒饅頭と知ってこれを自ら喰らい、秀頼を助けるのである。しかし、このことは、家康をして、現在徳川政権の列に加わっている豊臣恩顧の大名の中にも、場合によっては豊臣方に先祖返りするかもしれないと思われる大名が多々あると思いこませることになった。その筆頭の危険人物のように加藤清正は認識され、毒饅頭を喰った清正は、熊本への帰途に亡くなるが、肥後熊本藩52万石は、清正の死後、二代目加藤忠広の時代に幕府から難癖をつけられて改易されるのである。

  そもそも、本来ならば、豊臣恩顧で大坂方に着かなければならないはずの「賤ヶ岳(しずがたけ)七本槍(註:本能寺の変の後、いち早く明智光秀を討ち、信長後継者レースに名乗りを挙げた羽柴秀吉と、織田家普代の家臣団の筆頭であった柴田勝家が、天下の覇権を争い北近江の賤ヶ岳で戦った際、活躍著しかった秀吉子飼の加藤清正・福嶋政則・片桐且元らの七人の若武者たちは、「賤ヶ岳七本槍」と呼ばれるようになり、百姓出身ゆえ譜代の家臣を持たなかった秀吉の重要な家臣団となっていった)」の武将たちが豊臣家と距離を置いたことが豊臣家滅亡に繋がったのである。そのきっかけとなったのが、秀吉による朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の際に、加藤清正を初めとする武闘派の大名たちを敵地に派遣して(年老いて判断力の落ちた秀吉から遠ざけて)危険な目に遭わせながら、自らは安全な内地に身を置き、秀吉や淀殿の機嫌をとった実務畑の官僚石田三成との不仲が原因とされる。私はこの9月15日、台風14号で大きな被害が出た韓国の南東部慶尚南道にある清正が築いた「西生浦倭城」跡を見学してきた。

  もちろん、現在の「西生浦倭城」跡は、日本の多くの戦国時代の城郭同様に、その石垣しか遺っていないが、明らかに当時の日本の城郭と同じ様式で石積みがなされているのである。このことは、朝鮮出兵により、高麗青磁の陶工を初めとする技術者が多数日本に連れて来られたとよく言われるが、同時に、日本からも近江坂本の穴太(あのう)衆を初めとする築城専門の技術集団や、北近江の国友鉄砲衆などが多数、彼の地に渡っていたことを証明するものである。文化の一方通行はないのである。


▼饅頭を発明したのは諸葛孔明!

  いずれにしても、「毒饅頭」と聞いた時に、私は加藤清正のことを真っ先に思い出した。しかし、そもそも、饅頭(まんじゅう)とはいったい何なのであろうか? という基本的な疑問が湧いてきた。今でも中華料理のメニューには「饅頭」と書いて「マントウ」と呼ぶ食品がある。この料理は、われわれに一番馴染みの深い食品で言えば、「豚まん」の生地で中身に何も入っていないものをイメージしていただければ判るであろう。これがマントウ(饅頭)である。マントウは14世紀に中国から日本に伝わったと伝えられているが、この中に小豆などで作った餡(あん)を入れたものが、今日われわれが言うところの「まんじゅう(饅頭)」である。まんじゅうというお菓子は日本のオリジナルである(註:近代に至るまで、砂糖がとても貴重な食材であったことは、狂言の「附子(ぶす=毒)」でもお馴染みであるい)。中国では、マントウの中に挽肉や魚介類・野菜その他のものを入れた食品は「包子(パオズ)」と呼ばれている。人気の「小龍包」も包子の一種である。

もっとも、現在の豚まん(註:これを東京あたりでは「肉まん」などという下品な呼び方をしているようだが、大阪では、ただ単に「肉」と言えば、それはすなわち肉のことであり、豚肉の場合は、わざわざ肉と呼び分けている。したがって、豚肉の入ったものを決して「肉まん」とは呼ばない。因みに、大阪と東京の一人あたりの牛肉の年間消費量を比べると、大阪人のほうが東京人よりも4倍多く牛肉を食べているのである。さすがに「食いだおれ」の街である。この十数年の間に、全国チェーンのコンビニが広く普及したが、私は長い間、冬になるとコンビニの店頭で売られている「肉まん」なる食品の正体が何なのか判らなかった)や「中華まん」と言われる食品は、近代になって日本が中国大陸に進出するようになった際に、満州地方で食べられていた饅頭(実は包子)にヒントを得て作られ、神戸元町の中華街南京町から日本全体に広がったものと伝えられる。

関羽や曹操が活躍する『三国志演義』によると、なんと最初に饅頭(マントウ)を作ったのは、諸葛亮(孔明)ということになっている。ある時、蜀の軍勢が荒れ狂う揚子江を渡河しなければならないことになり、こういう時には、川底に住むと信じられていた怪物に、生け贄として人間の頭と生きた牛や羊を捧げることになっていたのであるが、稀代の軍師である孔明はこれを改め、人間の頭ほどの大きさの小麦粉をこねたマントウを作り、その中に羊や豚の肉を詰めて生きた牛や羊とともに、川に放りこんだ――すなわち、川の怪獣を騙した――のである。すると、荒れ狂っていた揚子江は見事鎮まり、孔明が率いる蜀の軍勢は無事、渡河できたというエピソードが紹介されている。この時に名付けられた「蛮頭(マントウ)」が後に現在の「饅頭」という字になったそうである。ことの正否は判らないが、諸葛孔明ほどの人物になると、この手のエピソードはいくらでも創られるのである。


▼竹下七奉行の命運

さて、加藤清正に話は戻るが、羽柴秀吉の子飼の武将たちが「賤ヶ岳七本槍」と呼ばれて異例の出世を遂げたのと同様に、自民党の実力者にして最大派閥「経世会」の領袖でもあった竹下登氏(故人)にも、かつての“親分”田中角栄氏(故人)から派閥「木曜クラブ(田中派)」を乗っ取った際に活躍した「竹下七奉行」と呼ばれる若手の政治家たちがいた。すなわち、小渕恵三(故人)、橋本龍太郎、羽田孜(民主党)、小沢一郎(民主党)、奥田敬和(故人、民主党)、渡部恒三(衆議院副議長、無所属)、梶山静六(故人)の七人である。これらの武闘派の政治家のうち3人は、自民・非自民と問わず、すでに内閣総理大臣として位人臣を極め、あるいは衆議院議長として、あるいは小沢一郎氏のように、現在も自民党政権の転覆を狙って虎視眈々と活動しており、ある意味で、過去二十数年間にわたり、日本の政治の中枢を背負ってきた人々であった。自民党最大派閥であった「経政会(竹下派)」は、竹下氏の死後、「平成研(小渕派→橋本派)」と看板を掛け替えたが、一貫して「数は力なり」という政治手法を実行してきた集団である。因みに、今回、敵役となった青木雄幹参院幹事長は、故竹下登氏の秘書から身を起こした政治家である。

その田中角栄氏以来の幾多の困難を勝ち抜いてきた武闘派集団「平成研」が、今回の自民党総裁選挙で崩壊したことの意味は大きい。総裁選期間中に自民党議員団に流布された『橋本派分裂』という首相周辺から発信されたとみられる怪文書によると、極めて興味深い数字が出ているのである。そこでは、国会議員100名の勢力を誇った平成研は、派閥としてはすでに分裂したものとされ、新たに、青木派40名、村岡派21名(この両派が今回小泉氏支持に回った)、総裁選に立候補した藤井派は29名、そして、なんと野中派は10名の弱小勢力とされているのである。もちろん、これは小泉氏側の戦術で、平成研の所属議員同士を疑心暗鬼にさせ、何の罪も(裏切って)ない議員までもが、平成研内部で粛正されることによって、さらに(藤井・野中側から、青木・村岡側に)「こぼれる」議員を増やそうという汚ないやり方である。


▼清正が毒饅頭喰ったおかげで細川政権ができた

この数字で注目されるのは、今回の騒動の一方の主役、野中氏がわずか10人しか所属議員を押さえることができなかったということである。しかも、今回、野中氏から「毒饅頭を喰らった」と名指して批判されている村岡派には、小泉氏の圧勝に終った総裁戦後、幹事長代理から党「三役」のひとつ政調会長に昇格した額賀福志郎元防衛庁長官や、新たに幹事長代理(しかも、幹事長が若年の安倍晋三氏であるから、来たるべき総選挙を実質的に采配し、党務を仕切るのは、幹事長代理である)には、同じく村岡派の久間章生元防衛庁長官らが就いた。さすがにこう露骨な人事だと、明らかに野中氏の言うところの「毒饅頭を喰った」と言われても致し方あるまい。

しかも、野中氏の9月9日の爆弾発言では、「派閥副会長の村岡氏が、会長である橋本氏に報告せずに勝手に小泉氏支持に回ったのはけしからん!」ということであったが、なんとこのリストでは橋本龍太郎氏は村岡派のメンバーのひとりに成り下がっているのである。初めから、橋本氏は、形の上での会長であったが、実質的には副会長の村岡氏の子分だったのである。まさに、政界は一寸先が闇である。涼しい顔して毒饅頭を喰っていたのは、橋本元総理かもしれない。

最後に、毒饅頭を喰って死んだ加藤清正の築いた熊本城は、加藤家改易後は、口先ひとつで、足利将軍家の奉公衆から、信長→光秀→秀吉→家康と巧みに「時代」を読んで、主を変えて生き残ってきた細川家のものとなり、その子孫は平成の時代に熊本県知事から内閣総理大臣にまで出世した細川護熙その人であった。加藤清正の喰った毒饅頭は400年後の政治にも影響を与えているのである。本当に「饅頭怖い」としか言いようがない。


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