そろそろサラリーマン中心の発想を改めたら
03年12月30日


レルネット主幹 三宅善信


▼日本の年金制度は初めから破綻していた

  自衛隊のイラク派遣問題と並んで、小泉政権が抱える大きな政治的課題のひとつに「年金改革」の問題がある。論議の叩き台となった坂口厚生労働大臣案では、サラリーマンは、「現役時代」に年収の20%(註:12月17日、政府・与党間で決着した関係各省庁の折衷案は18.35%だが、この数字に何の合理性があるとも思えない。単に、それぞれの勢力の「顔を立てた」だけであり、いちいち細かい数字を挙げてつじつま合わせをするのが本論の目的ではないので、本論では、計算しやすいように、保険料率を一応20%として算定する)を年金保険料として支払い、「定年後」の65歳から直前の年収の50%を受け取れることになっている。官僚は細かい数字を弄(いじ)くって、なんとか、説明がつくように誤魔化そうとするであろうが、わざわざ詳細なディテールを考えなくても、ザックリと概算しただけでも、問題の存在は明らかである。20歳から60歳まで40年間働いて、その間、年収の20%を年金保険料として納付し、65歳から50%を受け取るということは、単純に計算すれば、{(60―20)X0.2}÷0.5=16、16年間つまり81歳まで長生きすれば、そこから先は国民の側のゲイン(=国の側のロス)になり、それ以前に死亡すれば、国の側のゲインになるのである。

  しかし、ひと口に「年収の20%」と言っても、厚生年金の場合は、雇用主(企業)と個人の負担率が折半ということであるから、個人の側からすれば、年収の10%を年金保険料として支払っていることになり、その計算だと、65歳からわずか8年間生きれば、つまり73歳まで生きればゲイン(=国の側のロス)になる。こんな不利な率で計算していたのでは、当然、国庫は大赤字となり、年金会計が早晩破綻することは火を見るより明らかである。強いてこの方法を採るのなら、日本人男性の平均寿命は約78歳であるから、先ほどの81歳(20%案)と73歳(10%案)のちょうど中間ぐらいの値(自己負担率約16%)を取れば、計算上はあまり収支バランスが崩れないであろう。

  ただし、それには「世代間格差」という大きな問題がある。愚かにも、日本の年金制度は、その制度がスタートした時点で、大きな間違いを犯した。本来ならば、最初の20〜30年間は、保険金を集めるだけ集めて、その掛金を支払った人たちが「老後」を迎えた時点から、掛金を払った人にのみ給付をスタートすべきであったのに、年金制度が始まったその時点で、既に給付年齢に達していた高齢者は、自分たちは一銭も掛金を支払うことなしに、年金を受け取ることになった。つまり、初めから、大盤振る舞いでスタートしたのだ。たまたま、当時の日本は、戦後のベビーブームによる勤労年齢人口の急増と高度経済成長があまりにもハイペースで進んだので、新たに入る現役世代からの給付金の総額が急激に拡大し、この矛盾を誤魔化すことができていたまでのことである。一方、近い将来、もし年金制度が破綻すれば、長年、保険金を納め続けてきた「団塊の世代」以下は、結果的にぼったくられることになる可能性が高い。


▼理想の年金制度は完全な個人別年金である

  そもそも、「現役世代が退役世代を支える」という考え方で年金システムを構築するのであれば、その大前提として、日本の人口動態(出生率や平均余命)が一定であり、経済成長率も一定であるという条件が満たされなければ、世代間格差の問題が解消されないが、そのようなことはあり得ないのであるから、そもそもこのような制度自体が間違っていると考えるべきである。理想を言えば、自らの納めた年金保険料をそのまま40年間プールしておいて、それを自分自身が65歳から受け取るようにすれば、たとえその世代の人口が多かろうが少なかろうが、個々の世代の人々が受け取る金額はほぼ同額になり、「世代間格差」の問題は解消される。もし、現在のような年金制度を維持したいのであれば、まずそのように改めるべきである。

因みに、現在の日本の年金制度では、1935年(昭和10年)生まれの人は、自分の納めた年金保険料総額の約8.5倍もの給付金を老後に受け取っているのに、1975年(昭和50年)生まれの人は、納めた金額の2.5倍しか受け取れず、2005年生まれの人に至っては2.3倍しか受け取れない計算になり、この世代間格差の不平等というものは著しいものがあるので、現在の現役世代、特に、若年層に「納金したくない」という意識が生じるのも当然である。しかし、いったん、このような行為を許す(註:事実、国民年金に至っては、未払い率が40%に達している)と、生活が苦しい中でも、真面目に納金している人が馬鹿を見るので、もし、本当に公的年金制度を維持したいのなら、現在のような徴収システムではなく、国民総背番号制を導入して、税金と同じように、強制力を執行して国民全員から徴収すべきである。

  しかも、いわゆる「第3号非保険者」という問題まである。現在、日本には、サラリーマンの妻で、いわゆる「専業主婦」と呼ばれている人々が約1,100万人もいるが、この人たちは、「収入がない」という理由だけで年金保険料を納めていないにもかかわらず、65歳になれば、自動的に年金が受け取れる(註:つまり、夫の保険料には妻の分も込みと考えられている)のである。一方、同じサラリーマンの妻でも、夫婦共働きの家は、夫も妻も共に保険料を払わなければならないというところにも著しい不平等がある。このたびの改正案では、これまでは、夫婦が離婚した場合、当たり前のことであるが、長年、年金保険料を納めていた夫に重く、納めていなかった妻の側に給付配分が軽くなっていたのであるが、これを男女50/50で折半するという案が出ている。

  これも、一見、男女平等そうに見えて、実はおかしい。なぜなら、生涯に一度だけ離婚した人(いわゆる「バツイチ」)なら「男女折半」でもいいかもしれないが、もし、3回結婚して、3回離婚した場合、その間その女性がずっと専業主婦を貫いていたら、その人は、生涯に年金をいくら受け取れるというのだ? そえぞれの「元夫」から50%ずつ貰えるのであれば、その女性の年金収入は平均の3倍にもなっている。一方、3回結婚して3回離婚したサラリーマンの夫は、「元妻」たちに150%の年金を支払わなければならないことになる! 事実、何度も結婚して何度も離婚を繰り返している人が私の周りには数多くいる。中には、実際には結婚生活を営み、子供まで為していながら、公営住宅に応募する時や子供を保育園に入れる時には、わざと法的な結婚状態を解消し、つまり、形式上の「母子世帯」を作り出し、保育料を無料にしたり、安い家賃で公営住宅に入居しながら、実際には、夫婦それぞれ外車を乗り回している人までいる。


▼標準的な家庭などというものは存在しない

  そもそも、日本のような世俗化した先進社会で、国民全体の福祉政策を考える時に、何らかの「標準的なパターン」を想定して、そこからものごとを考えること自体に無理があるのではないだろうか? ところが、この国では、あるべき社会制度を考える連中は官僚で、彼らの頭の構造が公務員の人生を標準にしていたり、よく行っても、大企業に勤めるサラリーマンのことぐらいまでしか考えが及ばないのかもしれない。あまりにも多様化した現代社会において、「夫がサラリーマンで、新卒から定年までずっと同じ会社に勤め(終身雇用)、妻が専業主婦で(家計の足しに年間百万円分ほどパートに出て)、子供が二人いる」といったような「標準世帯」を想定し、その人々の生涯設計を基準に社会福祉制度の雛形を考え、そこから、例外的なケース(例えば、子供が3人いるとか、妻のパート収入が150万円だとかいった具合に)に対する要素を適度に加減するというあり方そのものが、既に限界に来ている。

  あるいは、そもそも最初から間違っていると言える。企業の年功序列や終身雇用制も守られなくなってきたし、個人レベルでも生涯結婚しない人や結婚しても離婚する人の割合いも増えてきた。現役世代に年収の20%を年金保険料として約40年間納め、65歳から年収の50%ずつ受け取るといっても、極端な例かも知れないが、もしその人の職業が相撲取りだったら、力士の現役引退年齢は約30歳である。中卒の15歳で入門して、運良く20歳で給金の貰える関取(註:「十両」と「幕内」力士だけを「関取」と呼ぶ。それより下位の「序の口」から「幕下」までの力士は、無給である)になれたとしても、現役を引退する30歳まで国民年金を納めたとしても、受け取れるのが65歳からでは、その間の35年間、彼は何をして食い繋げればよいというのか? 席数が全部で105しかない高額(億単位?)の年寄株を買えなかった元関取は、元横綱曙みたいにK1に転出して「晒し者」にならなければならないのか? そもそも、元関取の平均寿命は60歳前後であるから、たとえ加入していたとしてもほとんどの力士は公的年金(註:「年寄」制度自体が、日本相撲協会独自の年金制度と言えないこともないが、実力も人気も抜群であった元横綱の若乃花(花田勝氏)や元大関の小錦(KONISHIKI氏)ですら、相撲協会内に残れないのだとすると、「年寄」制度は、かなり厳しい擬似年金制度と言える)を受け取れないことになる。

  一方、私のような宗教家には、一般に「定年」というものがない。それどころか、この世界では、齢(よわい)を重ねれば重ねるほど有難い存在になる。実際に、宗教家(註:ここでいう「宗教家」とは、神職や僧侶といった伝統的な意味での宗教家を指す)の平均寿命は、日本人全体の平均よりかなり高い。ゆったりとした環境で、規則正しい生活をするからであろう。たまに早死にする連中がいるが、たいていは、酒(註:「御神酒」や「般若湯」といった便利な表現があるくらい宗教家には酒飲みが多い)の飲み過ぎが原因だ。例えば、まったく酒を飲まなかった私の亡祖父は、96歳で亡くなるまで72年間の長きにわたって生涯現役(教会長という法人の代表役員)を勤め、その間、所得税をはじめ、年金・社会保険料その他の公的負担を払い続けていた(註:事実、報酬額が大きいのだから高額の所得税を支払うのは当然だとしても、生涯にわたって収入があるのだから全く必要のない年金のために、数十年間にわたって総額億単位の年金保険料を取られ続けたのには納得がいきかねる)。このような人は、現行の年金制度からいうと、いわば「取られ損」になってしまう(しかも、70歳を超えた時点からは高額の年金の給付も受けていたので、その年金が所得に加算され、所得税の累進税率がさらに上がり、かえって「手取り額が減少する」という嘆かわしい状況であった。現在、75歳の父も、その状況に填り込みつつある)。


▼年間労働時間6750時間!

  2、3年前に「ハッピーマンデー法」と称する『国民の祝日に関する法律』(註:本件については、『「国民の祝日」の不思議』を是非、ご一読いただきたい)の改定を行ない、国民の祝日のいくつか(註:現時点では、「成人の日」と「海の日」と「敬老の日」)を「所定の月の所定の週の月曜日」になるようにすることによって、「土日月の三連休を増やす」という馬鹿げた祝日法が実施されたが、そのことの大前提には、「土日が休みである」という大企業のサラリーマンや公務員の便宜のみを図っているとしか言えない。一年間にしなければならない仕事の総量がだいたい決まっている宗教家・作家・弁護士などといった専門職の人にとっては、自分の休みでもないのにもかかわらず、担当者であるサラリーマン氏の休みである「週末」までに仕事を一区切りつけなければならない三連休は、迷惑以外の何者でもない。

そもそも、国全体の社会福祉制度を考えるときに、公務員や大企業に勤務するサラリーマンを前提にするという自由業・自営業者を亡き者にするような制度を組み立てること自体、私には許し難いものがある。私の場合、定年退職もなければ土日の休みもなく、基本的には死ぬまで年中無休である。しかも、45歳現在の1日の平均労働時間は18.5時間であるから、平均的公務員の年間総労働時間1,680時間と比べて、約4倍の6,750時間も働いていることになる(註:しかも、労働基準監督局が就労時間について、うるさく指導するので、役所に提出する書類上は、1680時間しか「労働」せずにあとの4070時間は、ボランティア活動=実は、全く同じ業務をしていることになっているという、バカげた話である)。仮に、年収が公務員の1.5倍だったとしても、時給で割り算すれば、3分1しかないことになる。

  さらに、日本の税制は累進制が高いため、実際に受け取る時給はもっと低くなってしまい、下手をすれば、ファーストフード店のバイト並みかもしれない。しかも、給与はすべて、年金・社会保険料や所得税・住民税等を天引きされた上で、宗教法人から給付されているので、給与所得上の形式は、サラリーマンと全く同じことになり、全額、税務当局に捕捉されている(註:「坊主丸儲け」というのは嘘。税金がかからないのは宗教法人であり、宗教家自身はサラリーマン)。しかも、わが宗教法人は非営利の公益法人のため、年俸の月割り制で、夏冬のボーナスなどもなく、昨年までは、所得税率や社会保険料率は、ボーナスに対しては極めて低く設定されていたので、これまた、年収の約1/3をボーナスによって得るサラリーマンには有利な制度であり、12カ月の均等割りのわれわれには極めて不利な制度であった(註:この悪制度は、やっと改正されたが、まだまだ「退職金の税率が極めて低い」という、多額の退職金を貰える公務員やサラリーマンを前提とした悪しき優遇税率が残っている)。これでも、比較的ゆとりのある生活が行なえるのは、学生の頃から四半世紀にわたって行なっている株式投機等の勝率の高さのおかげだ。来年はこれに加えて、出版にも取り組んで「夢の印税生活」と洒落こみたいものだ。


▼イチローや松井を日本に呼び戻すためには

  このように、就業形態や結婚あるいは育児等の形態がますます多様化している現代社会において、あらゆる人々に不平等感なしに適用される社会福祉政策など、初めからあり得ないのであるから、この際、国が年金や社会保険に関わることを一切止めるべきだと思う。そして、各個人がそれぞれ勝手に民間の保険に加入し、自らの判断で自らリスクを取って将来の設計を画るという方法以外になく、また税制度としては、付加価値税(消費税)と定率の所得税(人頭税)を採用することが正解だと思う。香港では、所得税率は一率10%と決まっており、年収100万円の人は10万円を納め、1000万の人は100万円を納め、1億円の人は1000万円を納めるという極めて分かりやすい平等な制度になっており、経済の活力はそこから生まれていると言える。所得額が極端に低い人には、「健康で文化的な生活を送る」ための公的生活保護(社会保障)を行なえばよい。

  さもないと、国の経済に大きな貢献のできる所得の大きい人ほど税率の低い外国へ逃げてしまい、政府からみれば、納税額より社会保障の支払のほうが多い「赤字の出る人」ばかりが日本国内に残ってしまい、その結果、どんどんと日本社会の活力が失われてゆくであろう。事実、巨額の年棒を得ているイチローや松井が、大リーグの野球シーズンが終わってもすぐに帰国しないのは、年間に183日以上、米国内で暮らさないと有利な米国の税制が適用されず、累進税率がべらぼうに高い日本の税制が適用されてしまうため、食事の美味い日本に戻りたくても戻れないのである。しかも、いつバラバラになるか判らない夫婦や親子といった「世帯毎」の所得として捕えるのではなく、赤ん坊から寝たきりの老人に至るまで、こと金に関しては、全て「個人単位」で捕えるようにすればよい。日本もそろそろ、公務員やサラリーマンを基準にした社会制度を改めるべき時期に来ていると思う。それが、中国をはじめとする中進国の経済的追い上げをかわしつつ、日本がある程度の経済的繁栄を維持しつづけることができる数少ない方法であると思う。

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