天然痘:難波宮と大江山を繋ぐもの
 04年02月03日


レルネット主幹 三宅善信


▼疱瘡(天然痘)は見目定め

  節分である。古来この国では、月の満ち欠けに基づく公式の暦(太陰暦=1年354日)を補う目的(註:純粋の太陰暦を用いたら、太陽暦とは3年間で約1カ月のズレが生じ、18年経てば夏と冬が反対になってしまうので、約3年に1度の割合で閏月を挿入し、ズレを補正する太陽太陰暦が用いられていた。因みに、低緯度の砂漠地帯であるアラビア半島で成立したイスラム暦は、夏冬間の日照時間に大差がないので、現在でも純粋な太陰暦を使用していることは、2000年1月に上梓した『大閏年で景気回復』述べたとおりである)で、特に、毎年、季節に合わせて決まったことを繰り返す農作業を円滑に進めるため、気温等を決定する最大の要素である太陽光の消長の周期を正確に24等分した「二十四節気(にじゅうしせっき)(註:昼と夜の長さが同じである春分を起点に、太陽の黄道を15度づつ24等分(360度÷15度=24)し、太陽がそれらの分点を通過する日を二十四節気と定め、実際の季節の変化を掴む目安とした。ひとつの節気から次の節気までの期間は約15.2日)に基づく1太陽年の旧年と新年(立春)の「境」の節目の日として「節分」を設けてきた。

  現在では、「鬼は外! 福は内!」の豆まきで知られるこの行事は、古来、「追難(ついな)」あるいは「鬼やらい」と呼ばれ、災厄を祓わなければならない特別の日として、宮中から市井の庶民に至るまで、盛んに節分行事が実施されてきたのである。しかも、この厄介な禍々しい魔力は、毎年毎年、異なった方角からやって来ると信じられていたので、現在でも「今年の恵方(えほう)」と称して、そちらの方角を向いて、巻き寿司を一気にまるかじりする習慣が行なわれている。

  私は、これまで『主幹の主観』シリーズにおいて、何度も「鬼」の正体について考察してきたので、読者の皆さんは既にご存知のことと思うが、(註:「鬼」の漢字の意味は、上半分が頭蓋骨の形象で、下半分は折り曲げられた脚の形象。「鬼籍に入る」という言葉が示すように、魂魄や魑魅魍魎と同様、死体と関連した言葉だった)というのは、おそらく伝染病、なかんずく一度罹患すると、たとえ一命は取り留めても「見目(みめ)定め」(註:江戸時代、日本では「はしか(麻疹)の命定め、疱瘡(天然痘)の見目定め」と恐れられ、一度、天然痘に患った人は、たとえ一命は取り留めたとしても、顔面に痘痕(あばた)が残り、醜くなった)と恐れられた痘瘡(疱瘡・天然痘=smallpox)のことであろうと推察してきた。この、記録が残っている中では人類最古の伝染病(註:紀元前12世紀のエジプト王ラムセス5世のミイラにも痘痕がある)として、人類始まって以来これまでに約5億人を死に至らしめてきたが、地球上から最後の天然痘患者(註:1977年10月、西アフリカのソマリア人男性が人類最後の天然痘患者。彼は患者を搬送する車の道案内のために、わずか3分間同乗して感染した)がいなくなって四半世紀が経過し、天然痘の脅威は既に過去のものとなったかに思えた。


▼最初の生物兵器はインディアンに対して使用された

  しかし、米ソ冷戦構造の中で、「生物兵器」として保管され続けてきた天然痘ウイルス(註:既に天然痘患者がいなくなって四半世紀が経過した21世紀初頭の世界において、もし、今、天然痘ウィルスが意図的にばらまかれたら、ほとんどの人は免疫がないので、当該地域の国家体制の安定――ひいては全人類の生存――にとって致命的な影響を与える効果がある)を最後まで頑なに保持し続けてきたアメリカとロシアの研究機関の間で、1999年の6月30日を期して同時廃棄し、地球上から天然痘ウイルスが完全に消滅することになっていた。因みに、日本では、古代以来、6月30日は、奇しくも「水無月(みなつき)の晦日(つごもり)の大祓(おおはらい)」という「災厄(伝染病)封じ」の宮中行事が行なわれてきたその日である。

  ところが、両国とも「微生物テロ」の可能性を理由に全面廃棄を3年間延長した。その間に、2001年9月11日、米国で、思いもかけない同時多発テロと、引き続いて、炭疽菌テロ事件が発生し、米露ともにこの約束(2002年6月30日に全面廃棄)も反故にし、それどころか「国際テロと闘う自国の兵隊の身の安全を守る予防接種を打たせるため」と称して、アメリカだけでも年間250万本もの種痘ワクチンが急ピッチで増産され、日々、兵隊に接種されているのである。しかし、種痘ワクチンの本数が増えれば増えるほど、悪事に利用する輩が出てきたり、どこかで管理上の手落ちが起こるものであり、たとえ天然痘ウイルスがテロリストの手に渡らなくても、何かの事故や取り扱い上のミスが生じて、環境中に活性化したウイルスが拡散してしまうということの危険性が常に考えられる。

  彼ら欧米人の頭の中には、常に「生物兵器」という発想への潜在的警戒感が拭えないのである。天然痘が最初に生物兵器として使用されたのは、なんと18世紀中頃のフレンチ・インディアン戦争に遡る。英国軍は、天然痘患者の使っていた毛布をインディアンに贈答し、この病気に全く免疫のなかったアメリカ先住民に壊滅的打撃を与えたのである。他にも、故意ではなかった(疫学的知識がなかった)としても、16世紀に「新大陸」に侵出したスペインによってインカ帝国等が滅ぼされたのも、主たる原因は、その武力の差によってではなく、ヨーロッパ人が持ち込んだ天然痘であることはほぼ間違いない。


▼鬼の正体は天然痘


ある天然痘患者の写真。
まるで「鬼」のような面相である

  本論は、そのようなテーマ(生物兵器テロ)について考察するのが主旨ではないので、これぐらいにしておくが、いずれにせよ、天然痘患者の写真を見ていただければお判りように、顔中が真っ赤に腫上がり、ボコボコのできものから出血し、元の人物とは全く別の人相の「鬼」と呼んでもよいような無気味な面相になるのである。しかも、現代のような科学的知識のなかった古代や中世においては、ある日、突然、目に見えぬ(原因不明の)伝染病が流行だし、バタバタと人々が倒れてゆき、都市国家を大きな混乱に陥れたのである。この事象への事後説明として、人智を越えた何らかの「デモーニッシュ(鬼的)な力が働いた」と解釈するのは当然のことであろう。都市と伝染病と宗教が密接な関係を持っているのには、そういう訳がある。

 

  わが国における天然痘についての記述、および、そのことに古代国家がいかに対処したか(といっても呪術的にではあるが)についての記録は、わが国最古の大都市である難波宮(なにわのみや)(註:4世紀末の仁徳天皇期の「高津宮(たかつのみや)」があったと伝えられる地点は、現在の大阪城あるいは難波宮跡の辺りと言われるが、本論で取り上げる「難波宮」とは、「大化の改新」(645年)の際に「長柄豊碕宮(ながらとよさきのみや)」と呼ばれた「難波宮」へ遷都した孝徳天皇の時代のこと)に見られる。「茅渟(ちぬ)の海」と呼ばれた大阪湾岸の湿地帯を見下ろす上町台地(註:大阪市内唯一の水はけの良い強固な地盤がある台地。仁徳天皇の「高津宮」から遅れること200年後に、上町台地の上に、わが国最初の官寺である四天王寺が聖徳太子によって建立され、さらに遅れること1000年後に、豊臣秀吉によって大坂城が築城された)の周りを取り囲むように、東には大和川と河内湖(入江)、北には淀川、西側には茅渟の海に囲まれた極めて水運のよい土地であった。


三方を水で囲まれた古代難波の上町台地


▼大江山の鬼は元もと、難波宮にいた!

  この「難波津(なにわづ)」と呼ばれた古代史上最大の国際港の水運設備の管理をしていたのが渡邉(辺)氏と呼ばれる一族(註:全国の「渡辺」姓の総本家である渡邉紘一氏は、現在も大阪市中央区久太郎町4丁目渡辺3号にある坐摩神社の宮司をされている)であった。150年後に都が平安京(794年)に遷ってから、摂関家に近づき、武家としての清和源氏で最初の「有名人」となった摂津国に本拠を置いていた源頼光の『鬼退治』の話に、坂東出身の坂田金時(『金太郎』のモデル)ら「四天王」の一人として、摂津国出身の渡辺綱(わたなべのつな)が登場するが、その渡辺綱は、頭目である源頼光と共に丹後国にある大江山に鬼(酒呑童子と呼ばれた)を退治しに行った(註:他にも平安京の羅生門の鬼=茨木童子も綱が退治したことになっており、綱は鬼退治のスペシャリストとして理解されていた)ことになっているが、実は、その原型は、早くも難波宮において確立されているので ある(註:「大江山難波宮起源説」については、『大阪人』56号(2002年8月)で、 高島幸次氏が指摘している)。」

  それは、現在の大阪市役所がある堂島川と土佐堀川の中州である中之島(註:400年前に全国の諸大名の蔵屋敷が置かれ、米相場に基く世界初の商品先物取引市場が形成された)に掛かる渡辺橋と大江橋という二つの立派な橋の名前となって残されているのである。後に、都が難波宮から飛鳥→大津→藤原等々を転々とした挙げ句、平城京へ遷り、そして山城国の長岡京を経て平安京に遷ったのに伴い、わが国最初の大都市であった難波宮で信じられていた伝染病封じとしての鬼退治の話は、民族の遠い記憶として引き継がれ、さらに人口が集積(註:外部との交流がない離島等では、ヒト→ヒト感染しかできない天然痘ウイルスは、人口5万人以下では、新生児の数が限られているので、次々と免疫を持たない寄宿主を確保し続けることができず、自然と流行が終息してしまうことが疫学的に証明されている)した平安京においては、より脅威のあるものとして増幅されるのである。

  隋・唐や渤海・百済・新羅といった外国からの交易船が日常茶飯事に到着した難波宮では、「いつ外国から未知の伝染病が伝わるかもしれない」という意味(註:後世の知恵として、都から遠く離れた大宰府に外国からの使節を暫く留め置いて、伝染病の侵入を抑止するようになった)でもはすぐ近くにいたが、淀川という水運があるにはあったが海から遠く離れた盆地にある平安京では、もう少し遠い距離感をもって的存在が意識されていたものと考えられる。それが、当初は帝都平安京と当時の「表日本」であった日本海側に開いた山陰道との国境である「老ノ坂」(註:「坂」が「境」の意味を持つことは『峠と辻:岐路に坐す神々』で述べている)の大枝(おおえ)に移され、後に、もっと遠ざけられた丹後国の大江山にその舞台は移されたが、いずれも山とはほど遠い、水辺に関係する「大江(おおえ)」という地名と渡辺綱という登場人物名に、遥か大昔の難波宮時代の記憶を留めている話なのである。

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