フセインは偉大なり
 04年04月28日


レルネット主幹 三宅善信

▼サダム・フセインの誕生日

  今日4月28日は、イラク共和国の大統領(註:サダム・フセイン氏が今でもイラク共和国の大統領であるのか、もはや大統領でないのかは、実は厳密にはハッキリしない。というのも、フセイン氏が自ら大統領職を辞任した訳ではないし、また、議会(革命評議会)によって弾劾されたわけでもないからである。ただ、昨年からの米軍等の占領によって、彼の実効支配がイラク国土の全域に及んでいないというだけである。しかし、もし、「実効支配がある国家の全土に及んでいなければ、(彼もしくは彼女が)大統領(国王)でない」というのであれば、ポル・ポト政権崩壊後の反ベトナム三派連合時代のカンボジアなんぞ、シアヌーク殿下やキュー・サン・ファン氏やソン・サン氏などは、皆、「国王」だの「首相」だの「議長」だのと僭称していただけ、ということになってしまう。この問題は、太平洋戦争敗戦直後の天皇制の問題とも絡んで、さらに難しい問題を孕んでいるので、いずれ機会を改めて論じてみたい)サダム・フセイン氏の満67歳の誕生日である。もちろん、2002年までは、この国では4月28日は特別な日であった(参照:『「国民の祝日」の不思議』)。法的な祝日ではなかったが、国営テレビでは、サダム・フセイン大統領の功績を称える番組が終日放送されていたし、また、各種の華やかな催しが国を挙げて行われた点では、キム・ジョンイル(金正日)氏の誕生日、2月16日と同じような意味合いを持っていたことは容易に想像がつく。

  では、「いまさらなぜ、(敗軍の将である)フセイン大統領の誕生日を問題にするのだ?」と思う読者もおられるかと思うが、実はこの「4月28日」という日が大きな意味を持っているのである。話は1年前に遡る。バグダッド中心部の大統領宮殿を制圧した米軍の装甲車によって、引き倒されたパレスチナホテル前のフセイン像の象徴的な映像と共に、「フセイン政権の崩壊」という姿がメディアを通して世界中の人々の目に飛び込んできたのは、2003年4月9日のことであるが、イラクで「抑圧されていた」はずの民衆の「解放」への喜びは、わずか3週間のうちに、占領軍であるアメリカおよびその眷属である有志連合諸国(註:1991年の湾岸戦争時は、国連安保理決議に基づく「多国籍軍」であったが、今回のイラク戦争で国際社会のお墨付きを得ることのできなかったアメリカは、新たに「有志連合(coalition)」という概念を創り出し、その盟主に収まった。有志連合は、より恣意的な集合体であり、国連を無視して自由に行動できるというメリットがあるものの、脱退も自由という緩い連携を生み出した)へと向けられることになった。その後、丸一年を経ても、イラク国内は治まるどころか、なお混迷の度は深くなり、ほとんど泥沼化さえしている。そんな中で、現在、イラク国内において最も激しい戦闘の行われているのが、いわゆる「スンニ・トライアングル」の南西角であるファルージャという町であることは、連日報道されているので、読者の皆さんもよくご存じであろう。


▼当局は一切関知しないから…

  それではいったい何故、ファルージャの人々があれほどまでに、反米感情を抱くようになったのか? ということから分析すべきであろう。そもそも、本年4月の1カ月間(註:米軍の犠牲者数も、この4月がもっとも多く、1カ月間で130名以上の米兵がイラク国内でいのちを落した)にわたって繰り広げられた戦闘で、アメリカ軍(海兵隊)がファルージャの街を封鎖して行ってきた一般市民を巻き込んだジェノサイド(大量虐殺)のきっかけは、アメリカ側から言わせれば、3月31日にファルージャにいたアメリカの「民間人」4名が嬲(なぶ)り殺しされたことに端を発している。すなわち、今回の事件(註:単にファルージャ市の攻防戦だけではなく、そのことに関連した日本人人質事件等も指す)が起きたきっかけは、3月の末に、アメリカの民間人――といっても、彼等は皆、元米軍特殊部隊の兵士たちで、退役した後、民間の危機管理会社に務めていた、いわば「戦争のプロ」の人たち――が、もともと反米感情が強かったファルージャという町で活動中に捕まり、彼等を米軍のスパイだと知って興奮した群衆にリンチ(死体を陵辱)されたことに端を発している。

  そもそも、一国の政府というものは、面と向って正規軍を出撃させたり(戦争)、あるいは、側面からCIAやKGBといった国家機関直属の特殊工作組織を用いるだけでなく、もし、工作員(スパイ)が敵方に捕まったりした時に、当該政府は「知らぬ。存ぜぬ」を通すために、金で民間の工作員を雇うということがよくある。近頃の流行の言い方をすれば、業務のアウトソーシング(外部委託)ということである。30年ほど前に、日本でも人気を博した米製テレビドラマ『スパイ大作戦(Mission Impossible)』の名台詞(ぜりふ)ではないが、番組の冒頭で、主人公の主宰する民間のエージェントに、政府機関から指示が下される時には必ず、「…例によって、君(主人公のフィリップス)もしくは君のメンバーが捕えられ、あるいは殺されても、当局は一切関知しないからそのつもりで…」というふうになっている。これが国際政治のいわばダーティな部分なのである。

TVドラマですらこんなシーンがあるのだからして、実際このような戦闘地域において、各国のスパイが入り乱れて暗躍していることは容易に想像がつくのである(註:今回の戦争の「主役」である米英をはじめとした有志連合諸国だけでなく、表向きは戦争に反対した仏独露の三国をはじめ、中国やイスラエルはいうまでもなくアラブ各国のスパイも、国益を確保するために黒躍していた)が、この民間人になりすました「戦争のプロ」のアメリカ人4人がファルージャで正体がバレ、反米感情の強い勢力によって、見せしめに惨殺されたわけであるが、本来ならば「知らぬふり(当局は一切関知しない)」をしなければならないアメリカ政府は、ソマリアの例を思い出したのか、激昂してファルージャの街を包囲して女子供を含む600名もの一般市民を殺してしまった。このことによって、決定的に全イラク国民を敵にしてしまった。その上、敵がモスクに逃げ込んだので、これを爆撃して、全世界のイスラム教徒まで敵にしてしまった。これがテレビ時代の恐ろしいところである。


▼死せるフセイン、生けるブッシュを走らす

  アメリカ側からいえば、2004年3月31日の出来事がファルージャにおける事件のスタートポイントということになっているが、実はファルージャの出来事はバグダッド陥落直後の2003年4月28日、そのフセイン大統領が姿を消して最初の彼の誕生日に、ある事件が起きたことに端を発しているのである。

  すなわち、3月から始まったイラク戦争の際に、米軍は、一気に敵の本陣であるバグダッドの陥落を目指して、バグダッドから適度な距離(車で1時間)にあるファルージャの街を戦略的に占領した。その際、わりとしっかりとした建物であった地元の小学校の校舎をアメリカ軍が陣営として摂取した(註:この判断自身は間違っていない)のであるが、バグダッド陥落後も、アメリカ軍は危険なバグダッド市内を避け、安心して眠れるファルージャの町に駐留を続けた。それに対し、「(米英軍は目的を達成したのだから)その小学校を返して欲しい」という趣旨のごく穏健なファルージャの住民たちのアメリカ軍に向けてのデモ行進が、たまたま4月28日というフセイン氏の誕生日に行われたのである。ご承知のように、中東の人々が集団で政治的な意思表示をする時は、銃を空中に向けて乱射したりして、他の文化的背景を持った人から見れば――特に、アラビア語が理解できなければ――彼らが自分たちに向かって何らかの敵意をもって迫ってくるように見えることもあって、数の上では劣る米軍海兵隊員が、平和裡に正当な意見を主張しようとしたファルージャの住民に対して発砲し、一般市民に多数の死傷者が出たという事件に端を発しているのである。

  この事件がファルージャ市民のアメリカに対するマイナスのイメージを決定的なものにしてしまったのである。その後、2003年11月にはファルージャで米軍のヘリが撃墜され、その残骸の横で勝ち誇るイラク市民の様子が放映されたり、また、本年2月には米国のアビザイド中東方面軍総司令官襲撃事件がこの町で起こるなど、とかくファルージャは、アメリカ人とイラク人双方にとって「譲れない」メンツのかかった特異点となってしまったのである。それらの経緯をすべて含んで、3月31日の出来事があるのであるが、そもそものきっかけは4月28日のフセイン氏の誕生日の事件が大きな影を落している。

  そのことへの配慮を欠く、アメリカ政府がした行為によって、今やアメリカのイラク統治は完全に行き詰まってしまった。まさに、「死せるフセイン、生けるブッシュを走らす」である。「囚われの身」で死に体も同然のフセイン氏が、世界唯一の超大国の大統領をして、「やりたい放題」に見えるブッシュ氏をいかに蹴飛ばすか(11月の米大統領選)見ものである。1300年前に五丈原の戦いで、死してなお、敵の軍師・司馬仲達を敗走させた諸亮孔明のように…。あるいは、一度は「囚われの身」となってエルバ島へ流された後も、見事にパリの政権にカムバックしたナポレオンのように…。近い内に、米軍がファルージャの町どころか、イラク全土から敗走しなければならない事態が生じるやも知れない。ちょうど、サイゴン陥落時のベトナムのように…。いずれにしても、サダム・フセインという人物の評価は、後の世の歴史が決めることになりそうである。

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