「皇帝」と「近代」の不思議な関係
 
04年12月02日


レルネット主幹 三宅善信

▼「近代」突入200周年

今からちょうど200年前の1804年12月2日、パリのノートルダム寺院において、1789年の市民革命によって成立したフランス共和国の終身第一統領であったナポレオン・ボナパルトが、国民からの熱狂的な推戴(註:国民投票の結果は、賛成約357万票、反対2569票の圧倒的なものだった)を得て、時のローマ教皇ピウス7世を招いて戴冠式を行い、史上最初の「フランス皇帝」に登極した。これによって「皇帝」という地位が従前の「フランス国王(ブルボン家)」とは全く別の代物であることを演出しようとしたのである。このときナポレオンは、本来は教皇から授かるべき王冠を自ら被って帝位に就いたエピソードはあまりにも有名である。これが、いわゆる「フランス第一帝政」の始まりである。このことの文明史的意味は、われわれが思っているよりずっと大きい。私は、この瞬間をもって、政治的には「近代」が始まったと理解している。

もちろん、それより以前から進行していた産業革命による社会構造の変化と、資本主義的な富の蓄積による「市民社会」の成立が臨界点に達し、1789年にフランス革命が起きたわけであるが、革命後の社会変化はまだ、欧州世界にどのような影響を及ぼすかは想像がつかなかった。もちろん、さらに以前の1776年には、遠く大西洋を隔てた新開地のアメリカで「独立革命(独立戦争)」という市民革命が起きているが、これは遠く離れた新世界のことであり、当時、世界文明の中心であったヨーロッパにおいて社会の実相が抜本的に変化したことの意味は大きい。

  ナポレオンの文明史的功績の最大のものは、フランス革命によって確立された「国民国家」という存在と、現代に続く市民社会のあり方(註:個人の私有財産の国家権力からの擁護)を、「ナポレオン戦争」という欧州全土を巻き込んで200万人の犠牲を出した戦争を通じて、君主制の制度疲労をきたしていた欧州各地に広めたことである。それほど、国民国家の軍隊は強かった(註:「最高司令官が自分たち自身で選んだ人である」ということの将兵の士気に与える影響は大きい。その対極が傭兵)のである。これらの経験を含めて、世界は後戻りのできない「近代」という時代に突入したのである。例えば、私有財産を保証したいわゆる『ナポレオン法典』(正式には、『フランス人の民法典』)の公布に始まり、刑法や刑事訴訟法なども整備(註:近代以前には、予め定められた成文法よりも、君主のその都度の恣意的決定のほうが優先されることが多かった)された。他にも、1800年のフランス銀行設立や1801年にバチカンと「政府協約」を結ぶなど、軍事的な功績が強調されがちなナポレオンの真の功績は制度的な充実である。

あたかも古代ローマ帝国が、その社会システムをその版図の拡大とともに全ヨーロッパに広げたように、ナポレオンは、フランス革命の成果を全ヨーロッパに広めた。現在の日本の民法も、基本的にはこの『ナポレオン法典』に基づいているというから、彼の世界文明に与えた影響は大きい。オーストリア軍を撃破したナポレオンは、ライン川左岸(西側)の割譲を受け、皇帝の位に就くことによって、中世的な残滓(ざんし)であった「神聖ローマ帝国」そのものの意味がなくなり、伝統的にはたいていハプスブルグ家出身者が帝位に就いた神聖ローマ皇帝は、その「ローマ皇帝」の称号を返上し、以後は、ハプスブルグ家は「オーストリア皇帝」を称えた。その後、「神聖ローマ帝国」は「ライン連邦」とされた。


▼欧州における「皇帝」の意味

ナポレオンのフランス皇帝登極からちょうど丸1年経った1805年12月2日、宿敵ナポレオンとの戦争を闘っていたオーストリア皇帝フランツ2世を支援するために参戦したロシア皇帝アレクサンドル1世の3人が、オーストリアのアウステルリッツで鉢合わせになり、世に言う「アウステルリッツの三帝会戦」という事態となった。この戦闘は、2国対1国の戦いであったにもかかわらず、ナポレオンの天才的な戦術も功を奏し、フランス軍の劇的勝利に終わったのであるが、このことは、欧州諸国に近代国民国家の底力を見せつけるという戦いとなった。

このように、それまでのヨーロッパにおいては、古代のローマ帝国以来、「皇帝」というのはただ一人の人(Princepus)であった。つまり、カエサル(Julius Caesar)の後継者として養子のオクタビアヌス(Octavianus)が初代の皇帝(註:元老院から「尊厳者(Augustus)」の称号を得る)に就いて以来、地中海・欧州世界におけるただ一人の存在を意味するようになった。395年のローマ帝国の東西分裂後、西ローマ帝国がゲルマン民族の大移動により早く滅んだ(476年)ことから、西欧世界では、他の大都市の司教に対するローマ市の司教の特権的地位、いわゆる「教皇権」が伸長して、ある意味、これ(ローマ皇帝の称号)に取って代わった。

しかし、世俗の世界における西ローマ帝国の直接の継承者はいなくなったけれども、中世を通じて約千年間、ドイツ語を話す人々の居住地域をほぼ版図に収める「神聖ローマ帝国」というものが存在したが、その皇帝の地位は、有力諸侯間の話し合い(選挙で選ばれた)によって皇帝が選出されるという、強力な統治権を伴わない形の上だけのものであった。

  ところが、東地中海のギリシャ語圏を版図にコンスタンチノープルに都した「東ローマ帝国(ビザンチン帝国)」という古代ローマ帝国の正当な後継者である政教一致の帝国が千年以上にわたって存在し続けた。案外、知られていないことであるが、中世のヨーロッパの中では、教会(ギリシャ正教会)の長と世俗の国家権力の長を兼ねる東ローマ皇帝のほうが、西の旧フランク王国の版図の内でほぼ現在のドイツ語圏にあたる地域にあった神聖ローマ帝国の皇帝や、イタリアにいたローマ教皇よりも国際プロトコール上の格式が「一段上」と見られていたのである。

そこで、「ローマ教皇の優位性」を金科玉条とするカトリック教会は、この「一段格上」の東ローマ皇帝(=ギリシャ正教会の総主教)を亡きものにするため、「十字軍」を組織したのである。従来、十字軍の目的は「イスラム教徒から聖地エルサレムを奪還すること」と言われてきたが、本当は、ローマ教皇が西ヨーロッパの諸侯をそそのかしたことによって、実際には、西欧諸侯の軍は既に何百年もの間、イスラム帝国によって平和裏に統治されていたはるかに離れたエルサレムを目指すよりも、その途中にあった同じキリスト教で文化的に繁栄していた東ローマ帝国の帝都コンスタンチノープルを奪い、ほんの一時的とはいえ、そこに「ラテン帝国」を建てるという暴挙を演じるのである。

長年、ヨーロッパ世界とアジア世界の境界領域にあって、東方イスラム諸帝国のヨーロッパキリスト教世界への侵入を軍事的にも文化的にも防いできたビザンチン帝国は、この十字軍によって大いに打撃を受け、一時復活するも、セルジュクトルコ帝国の侵略により千年の歴史に終止符を打った。ただし、この最後の東ローマ皇帝の姪ソフィアが、ギリシャ正教会の信仰を受け入れつつあった東欧の僻地に暮らしていたスラブ人たちの新興国のひとつモスクワ大公のもとに嫁いだことにより、それまでは、キエフ(現在のウクライナ)辺りに暮らしていた「ルーシ(Russi)」つまりロシア人(Russian)たちは、このことによって、古代以来、連綿と受け継がれてきたローマ人の「皇帝(Caesar=ロシア語ではツァーリ)」という地位の継承者を主張するのである(註:この当時、モンゴル系タタール族のキプチャク・ハン国の支配下に置かれていたルーシたちの独立のアイデンティティとなった)。いずれにしても、ローマに都した西ローマ帝国、コンスタンチノープルに都した東ローマ帝国、そして、モスクワが「第三のローマ」を標榜するようになるのである。このロシア帝国は、20世紀に社会主義革命に倒れるまで、「ローマ帝国の継承者」としての正当性を主張するのである。それくらい、「(ローマ)皇帝」という概念は、ヨーロッパ世界においては、重みのある存在であった。


▼近代とは複数の「皇帝」が」存在した時代

こういったヨーロッパにおける「King of kings(王の中の王)」と考えられていた至高の存在としての「皇帝」に、血筋によらないコルシカ出身の成り上がり軍人であるナポレオンが名乗りを上げたのである。このことにベートーベンが激怒したことは、有名なエピソードである。都合のよいことに、フランスにおいて誰もが正統性があると考えていた名門ブルボン家のルイ16世とハプスブルグ家出身の王妃マリー・アントワネットが、革命によってギロチン台の露と消えてくれたので、ナポレオンは、血筋による「王」ではなくて、血筋によらない「皇帝」を僭称することができたのである。しかも、成立したばかりの国民国家の国民投票により、国民の圧倒的推薦を受けてその地位に就いたのである。

しかし、いくら希代の天才とはいえ、成り上がり者のナポレオンが「皇帝」になることによって、古代ローマ帝国以来、一種の「神聖な存在」として継承されてきた「ヨーロッパにおける唯一の存在」としての「皇帝」が一挙に相対化されてしまったことは否めない。ナポレオンの皇帝即位語は、オーストリア皇帝・ロシア皇帝といったように、複数の皇帝が乱立することになった。私は、このことが欧州における「近代」の始まりだと思う。例えば、1864年には、名門ハプスブルク家の血を引くマクシミリアン大公が、新大陸で「メキシコ皇帝」になった。当時、中南米の新興地域には「ブラジル帝国」や「メキシコ帝国」といったものが次々と僭称され、片っ端から「皇帝」が存在したのである。また、ナポレオン3世に勝利して(オーストリアを除く)ドイツ語圏を統一したプロイセン国王ヴィルヘルム1世は、宿敵フランスを破った象徴として、ヴェルサイユ宮殿で戴冠式を挙げ、ドイツ帝国を成立させた。これが、いわゆるヨーロッパにおける「皇帝の歴史」である。


▼中華皇帝と諸国の王

  一方、東洋における「皇帝」とは、言うまでもなく、中国大陸において紀元前3世紀に、それまで数百年間続いた春秋戦国の分裂時代を収束させた秦の?(えい)政が、それまでの小さな領国を統治するだけの「王」ではなく、太古の神話的「聖天子」である「三」と「五」から拝借した、全能者としての「皇帝」という尊称を発明し、自らその記念すべき第一号として「始皇帝」を名乗ったことに始まる。天下の総覧者となった始皇帝(?政)は、自らを初代の皇帝とし、「自分以降も、二世皇帝、三世皇帝…と、万世まで続けるように」と遺言するのである。実際には、二世皇帝の胡亥までで、大秦帝国は崩壊し、三代目の子嬰はまた元の秦を名乗ることになるのだが…。

  しかし、その「皇帝」という統治システムは、その後の漢、隋、唐から20世紀の大清帝国に至るまで、中国大陸では二千年間以上にわたって統治者に対して「皇帝」という尊称が用いられ続けたのである。また、歴代中華帝国の周辺に位置する西蔵(チベット)、蒙古(モンゴル)、越(ベトナム)、朝鮮、琉球、日本などの国々において、「中華皇帝」は、自らの国際的地位を決めるメルクマールとして常に大きな意味を持ち続けたのである。

7世紀の初めに、聖徳太子が、久しぶりに中国大陸を統一した(つまり、周辺諸国にとっては大きな軍事的脅威となった)隋帝国の二代目皇帝の煬帝に対し、「日出づる処の天子より、日没する処の天子に書をいたす。恙(つつが)なきや云々」といった有名な国書を送り、中華皇帝の逆鱗に触れたというのはあまりにも有名な話である。なぜなら、唯一の存在である「天子(皇帝)」を東夷の小国倭の国王が相対化したからである。つまり、周辺諸国の「王」と中華「皇帝」とは、同じ「君主」といっても根本的に意味が異なる存在である。この二千年間、北東アジアにおいては「中華皇帝によってある国の統治権を柵封(さくほう)された者を『王』と呼ぶ」ということにされてきたのである。この両者間の外交関係を「朝貢」と呼んでいる。


▼対外対内の二重標準としての皇帝

ところが、実際には北東アジアの多くの国では、二重標準――中華帝国との朝貢外交関係においては、自らを「中華皇帝」によって柵封された「王」と謙遜しながら、自国内の諸豪族に対して自らを「皇帝」と僭称し、忠誠を要求するようなこと――が行われてきた。日本における天皇号も然りである。「天皇」という称号は、第40代の天武天皇が初めて用いたものである(註:当然、初代の神武から天武の兄の天智までの38代の漢様の「天皇」号はみな、あとから遡って追号されたものであることはいうまでもない)。いわば、「天皇」というのは、中華大皇帝とは別の小皇帝として、「日本という世界(註:都合のよいことに、「島国」である日本は、それだけで世界を完結できた)における支配者」という意味を持っていたのである。

しかし、交通手段の発達した近世に至り、明治維新を経て、東アジアで最も早く近代化(欧米化)を成し遂げた「大日本帝国」は、六百年間にわたって朝鮮半島全土を支配していた李氏の朝鮮王朝と条約を締結する際に、それまでの二千年間にわたる中華帝国の一属国として「柵封国の立場を続けてきた朝鮮王のままでは、中国(大清帝国)の干渉を排することはできない」とし、朝鮮王としてではなく、あくまで「大韓帝国」(註:現在の国号である「大韓民国」の根拠はここにある。もちろん、「北」の国号である「朝鮮民主主義人民共和国」の国号の朝鮮は、李王朝の後継者としての金王朝という意味である)という独立主権国家の皇帝として、日本と条約を結ばせるためである。

一方、北東アジアにおける古代から近世に至るまでの二重標準とは違う形での、近代における新たな二重標準を明治国家は画策するのである。それはすなわち、日本国内においては八紘一宇をしろしめす至高の存在として「天皇」という尊称を用いておきながら、同時に、明治時代の外交文書を見ても明らかなように、日本の天皇と諸外国の君主を全く対等な地位に置いたのである。例えば、「ロシア皇帝陛下と日本皇帝陛下の…」というふうに書かれている。なんと、明治期の日本政治は、世界中の君主制国家の君主に対する敬称を一律に「皇帝陛下」と規定したのである。中華皇帝の相対化を意識するあまり…。ナポレオンによる近代国民国家の全ヨーロッパ地域への普及は、「皇帝の相対化」をもたらせたのと同様、明治維新に始まる日本の近代国民国家も「皇帝の相対化」という、洋の東西を問わず、同じ問題をもたらす結果となった。


▼再び唯一の存在としての皇帝へ

問題は、西洋における「皇帝」と、東洋における「皇帝」が同じ意味を持つ概念であるかどうかであるが、ヨーロッパ語圏においては、ラテン語の「インペラトール(Imperator:命令する者)」に由来する「エンペラー(Emperor)」を、彼らは、全く歴史的背景や機能の異なる中華皇帝や日本天皇に対しても使っていたのである。そういう意味で、19世紀の世界は、文字どおり「近代国民国家勃興時代」であると同時に、「帝国主義(Imperialism)」の時代そのものであったのである。つまり、ナショナリズムは帝国主義と同じコインの表と裏であるという訳である。

20世紀という世紀は、多くの国で君主制が廃され、人類史上、最も共和制が一般化した時代でもある。かろうじて命脈を保つことができたヨーロッパの君主制諸国は、統治に重きを置く「皇帝(Emperor)」よりも血統を重要視する「王(King)」を名乗ったもののみが生き残ることができた。

ところが、欧州と北東アジアを除く世界では、話は違っていた。20世紀前半の二つの世界大戦の激動を経てもなお、依然として「統治」に重きを置く「皇帝」が君臨していた。それどころか、中央アフリカの独裁者ボカサに至っては、ナポレオンを真似て、自ら「皇帝」ボカサ1世と僭称するありさまであった。また、19世紀後半に、欧米型近代国民国家として離陸することに成功し、わずか半世紀で列強入り(註:1853年の「ペリー来航」から1904年の「日露戦争」まで)した大日本帝国に触発されて(註:同じロシア帝国に圧迫されていたトルコが、中世的な政教一致のスルタン制のオスマン帝国から脱皮して、ケマルの指導の元に政教分離の共和制近代国家になることができた)、例えばイランで政権を執ったレザーは、ペルシャ伝来の「シャー(皇帝)」と僭称したが、二代目のパーレビまでしか持たなかった。他にも、「シバの女王」以来、「二千数百年の歴史を持つ」と言われる、エチオピアでは、ハイレセラシエ皇帝が君臨したが、いずれも社会変革に失敗し、相次ぐ革命により、1970年代には次々と姿を消し、とうとう国際社会において、英語で「Emperor」つまり「皇帝」と称せられる君主は、日本の天皇ただ一人となってしまったのである。

つまり、古代ローマのアウグストス以来、二千年の時を経て、世界にただ一人の存在として想定されていた「皇帝」が、ポストモダンの時代に図らずも生き残ったのである。しかも、近代の所産そのものであった大日本帝国が消滅してしまったにもかかわらず…。1804年12月2日、ナポレオンが皇帝に就いたことにより、いわば、古代ローマ帝国の中世的残滓であった神聖ローマ帝国に終止符が打たれ、「近代」が始まり、そのことが皇帝の複数化をもたらしたのであるが、21世紀には再び「皇帝が1人しかいない」ということになってしまったのである。ナポレオンの皇帝戴冠二百周年に当たって、そのようなことを思う次第である。

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