「神殺し」の国ニッポン
 06年02月06日



レルネット主幹 三宅善信


▼ギルガメッシュvsスサノヲ

人類最古の都市文明は、5,000年前にチグリス・ユーフラテス河流域に成立したメソポタミア文明である。文字・法律・税金・身分制度…、およそ人類文明と呼ばれるほとんどの要素は、この時、既に存在していた。中でも興味深いのは、その最初の都市国家ウルクの成立にまつわる神話を楔形文字で粘土板に刻んだ『ギルガメッシュ叙事詩』である。概略は以下のとおりである。

太古の時代、この地域はレバノン杉の原生林で覆われていた。半身半獣の森の神フンババが人間たちから神々の森を護ってきたからである。ところが、都市国家ウルクの王となった半神半人のギルガメシュは「人間を自然の奴隷の状態から解放しなければならない」と決意し、友人のエンキドゥと共にフンババ退治に出かけた。フンババとギルガメッシュたちの激しい戦いは、最終的には、青銅の斧という武器の威力によって恐ろしい怪物フンババの首を切り落としたギルガメッシュの勝利に終わる。このあたりの話は、宮崎駿監督作品の『もののけ姫』のプロットになっているから、読者の皆さんも想像が付くであろう。原生林が切り開かれてバベルの塔に至る都市文明が築かれるのである。後の時代に『旧約聖書』にも大きな影響を与えたこの物語は、「人類文明とは自然を克服すべきものである」という結論に導かれるのである。

  一方、ユーラシア大陸の東のはずれにある島国では、このような神話が伝承されている。『日本書紀』によると、その蛮行によって高天原を追放された素戔嗚尊(スサノヲ)は、その子、五十猛(イソタケル)と共に、最初は新羅国に天下ったがその風土が気に入らず、日本列島に漂着し、鬢髭を抜いて杉の木種を、胸毛を抜いて檜の木種を、尻毛を抜いて槙の木種を、眉毛を抜いて楠の木種を創り、五十猛と共に植林をしたとある。そして、鬱蒼と樹木の茂った地域が「木の国(紀伊国)」となった。木を植えることによって、乱暴者は人々から神と崇められるようになったのである。

  この二つの神話だけを比較すれば、「メソポタミア文明の遺児と言えるユダヤ・キリスト・イスラム教といった一神教が、人間による自然の克服を神意として肯定するのに対して、八百万の神々のおわすわが神道は、太古の昔より自然との共生を培ってきた」などという結論を容易に導くことができる。しかし、問題は、はたしてそれが真実であるかどうかということである。


▼二度も「神殺し」をした国

  考えてもみて欲しい。G7と呼ばれる先進主要国の内、非キリスト教国はわが日本一国である。確かに、国土の七割は山林である。しかし、その日本一国で、米英独仏伊加六カ国の合計とほぼ同額の公共事業費が毎年費やされているという事実は、いかように説明するのか? 主要幹線道路は言うまでもなく、寒村の農道に至るまでアスファルト舗装で覆い尽くし、日本列島をぐるりとコンクリート製の堤防とテトラポッドで取り囲んでいるこの国の姿は、とても日本人が神々のおわす自然と共生しているようには思えない。欧州のほうがよほど環境問題には真剣に取り組んでいるように見える。

  西洋文明は、産業革命による市民社会の成立という近代化のプロセスで、ニーチェに見られるような意識的な「神殺し(非神話化)」を行うことによって、「神なき時代」の精神的バックグランドを確立してきたのである。一方、欧米列強による開国要求によって目を覚まされた日本は、仏教伝来以来この国において培われてきた神仏習合の伝統を、神仏判然・廃仏毀釈という強硬手段に訴えることによって破壊し、新たに、欧州の国教会制度を元にして創設された後に「国家神道」と呼ばれたシステムを構築したのである。

  ところが、この明治維新によって創造された新たな神も、1945年の敗戦の結果、翌1946年元日に発せられた昭和天皇のいわゆる「人間宣言」によって、自ら放棄(非神話化)されたのである。近代150年の間に、二度も「神殺し」を行ったのは日本人だけである。その意味で、日本は欧米より遙かに世俗的な国家であると言える。畏れというものを知らない公共事業によって、神々の棲む森を破壊しても平気なはずである。

神道国際学会では、来たる3月19日、京都会館において、私がモデレータとなって『森に棲む神々』と題する公開セミナーを開催する。海外の研究者も多数来朝するので、われわれ日本人が「自然と人間の関係」について、今一度、考えてみる絶好の機会であると思う。


▼「女系天皇」こそ、三度目の「神殺し」である

  さらに言えば、現在、この国では三度目の「神殺し」の計画が、日本人自らの手によって着々と進んでいる。一度目の「神殺し(神仏分離)」は、幕末維新期という、一歩間違えば欧米列強の植民地にされてしまいかねない状況のもとで、伝統精神文化の破壊という大きな犠牲をもたらしたが、国内を排するためには致し方なかったと言えないこともない。二度目の「神殺し(天皇の人間宣言)」も、敗戦という国家存亡の危機の中で、国体を護持するためには致し方ない選択であった。しかし、現在、小泉政権が性急に進めようとしている「皇室典範の改訂」問題が、三度目の「神殺し」に繋がりかねない。

歴代天皇の皇后・中宮・女御等の内、藤原摂関家から嫁した女性は百人はくだらないであろう。また、それらの女性たちの腹から次代の天皇が誕生したのである。男系・女系どちらでも良いというのなら、遺伝子的には「藤原天皇」と呼んでも良いくらい天皇家には藤原氏の血が大量に入っているのに、天皇家は天皇家で決して藤原氏ではないのは、天皇という家柄が「男系」によって連綿と引き継がれてきたからである。この伝統は、後に、平氏が天下を取っても、足利氏が天下を取っても、徳川氏が天下を取っても、権力者たちは自らの娘を妃として入内させるだけで、決して、皇女(天皇の娘)と結婚した権力者やその子孫が皇位に就くということはなかったのである。

これは、善し悪しや合理性の問題ではない。将棋に喩えれば、敵陣の三段目まで侵入すれば、歩兵でも、香車でも、桂馬でも、その出自に関係なく「金将」になるのと同じことである。つまり、それが将棋というゲームのお約束であり、そのルールを変更するというのでは、もはやそのゲームを「将棋」と呼べない(註:チェスと将棋は似ているが非なるものであって、ある行為を「チェスでは可能だから将棋でも認めよ」というのと同じくらい乱暴な論議である)のと同様、たとえ先代の天皇と何親等離れていようと、男系の皇嗣が皇位を継承するというのは、日本史のお約束ごとであって、このルールを変更するというのでは、もはやそれは「天皇」と呼べない代物になってしまうのである。

嘆かわしいのは、ちょっと国民に人気があるからといって「自分はなんでもできる」と思いこんでいる総理大臣と、その人気に付和雷同する政治家やメディアの連中である。先の二度にわたる「神殺し」の時代とはうって変わり、なんら「外圧」がないにもかかわらず、自ら三度目の「神殺し」を行うつもりであるが、いったい誰が歴史に責任を持つつもりであろうか? 「根幹的な制度」は、眼前にある特定の人物や事情に合わせて変更すべきものではない。少なくとも百年、できれば千年という歴史の批判に耐えうるものを想定して制定すべきである。自然に限らず、歴史の限らず「畏れ多い」という感情こそが、人間をして自然との共生を図らせる指標であり、また、個人をして正しい歴史認識に導くメルクマールである。このことを決して忘れてはならない。


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