竹の園生の末葉まで
06年02月11日



レルネット主幹 三宅善信


▼気が付いたときには、富士山はそこにあった

  2月9日、私は十日間で三度目の東京出張の途に着いていた。この時期は、新幹線が雪で遅れることがあるので、大阪・東京間の移動手段は主に航空機であった(註:航空機と新幹線のどちらが早いかは目的地や時間帯によって一概に言えない)が、この日の往路だけは、時間帯の都合で新幹線であった。だが、案の定、滋賀県から岐阜県にかけて、いわゆる「関ヶ原」付近の降雪のため、15分ほど遅れていた。

  ところが、名古屋を過ぎた頃には天気は一変して、青空の澄み切ったいわゆる「日本晴れ」の状態になった。浜松・掛川を過ぎた辺りから、私の期待感は徐々に盛り上がってきた。もちろん、目的は言わずと知れた「富士山」である。静岡駅からは遠くに富士山が見え出すが、なんと言っても、一番の見所は富士川鉄橋を越えた辺りからの富士山の眺めが雄大である。しかも、季節は冬が良い。上から三分の一ほどが白く冠雪するからである。山頂に雪を戴いていない富士山なんかジャワ島のスメール山と大差ない。しかし、冬は天候が悪い日が多いので、裾野から富士山全体が見えなかったり、広大な裾野は見えても、山頂に雲がかかっていたら見応えがない。富士山はやはり、「田子の浦ゆ うち出でてみれば 真白にそ 不尽の高嶺に 雪はふりける」(山部赤人)と万葉の昔から歌に詠まれたように、冠雪が必須アイテムである。


思わず安物のデジカメのシャッターを
押したわりには綺麗に撮れている富士山

  新幹線の切符を取るとき(新大阪→東京)は、必ず、グリーン車の進行方向左側の窓側の席を取る。それもすべて、雄大な富士山を心ゆくまで堪能するためである。私の場合、グリーン券代は、富士山の見物代として含まれているのである。「一富士、二鷹、三茄子」ではないが、綺麗な富士山が見られた日は、それだけで「得」をしたような気分になれるから不思議である。車窓から思わず柏手を打って富士の山を拝んだ。これは、理屈ではない。私の身体に刻まれた日本人の遺伝子がそうさせるのである。だから、せっかく新幹線に乗ったのに、富士山が見えない時は気分が悪い。しかし、よくよく考えてみると、この私が富士山を仰ぎ見ていようといまいと、富士山はそこにどっかとあるのである。もっと言えば、東海道新幹線が走って以来、のべ何十億人も日本人が車窓から富士山を楽しんだであろうし、それどころか、もっと大昔の万葉歌人が富士山を仰ぎ見て感嘆しようとしまいと、そのずっと前から富士山はそこに鎮座ましましていたのである。


▼いでやこの世に生まれては

「つれづれなるまゝに、日くらし硯にむかひて、心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」当サイトの愛読者の皆様なら全員が暗唱しているであろう『徒然草』の有名な出だしの部分(序段)である。今さら、私が現代語訳をするまでもない。高等学校の古典古文の授業で棒暗記させられたはずである。しかし、このすぐ後に続く部分(第一段)を覚えている人は少ない。鎌倉時代から南北朝時代にかけて活躍した卜部兼好(うらべかねよし=兼好法師、吉田兼好とも呼ばれる)は、この『徒然草』という随筆において、京都の摂政関白や鎌倉の執権という権力者から乞食坊主に至るまで、実名入りで当代の多くの人物を辛辣に批評しただけでなく、自らの才能を見せつけるべく本朝の事跡に止まらず、唐(例:第129段の『顔回は』)・天竺(例:第201段の『退凡・下乗』)のエピソードまで繰り広げ、なんでもかんでも蘊蓄を垂れたがる「ちょい悪オヤジ」と言える(読者から「お前(三宅善信)に指摘されたくない」という声が聞こえてきそうである)

  その兼好法師をして、第一段(常識的には、最も書きたいことを書くはずである)の部分に採り上げたのが、この「いでやこの世に生まれては…」のストーリーである。つまり、「この世に生まれてきてしまったからには…」という書き出しで始まる兼好法師の願望の部分とも言える。続きは、以下のとおりである。「(いでやこの世に生れては)願はしかるべき事こそ多かんめれ。帝(みかど)の御位はいともかしこし。竹の園生の末葉まで人間の種ならぬぞ、やんごとなき」と…。あれだけ、この世の権力者たちや高僧の態度までを揶揄した兼好法師が、かくもあっさりと、「天皇のことについてはたいへん畏れ多いので言うまでもない」と論評を放棄してしまっているのである。


国民の新年参賀に応えられる天皇ご一家

それどころか、現時点の天皇だけでなく、将来皇位に就く可能性のある「竹の園生(皇室を指す雅語)の末葉まで」つまり、天皇の遺伝子を受け継いでいる「聖家族(Sagrada Familia)」の枝葉末節まで、「人間の種ならぬぞ、やんごとなき」と、つまり「(遺伝子ごと)この世のモノではない」と大絶賛しているのである。まさに「万世一系」の思想である。私が言うところの「富士山」と同じである。「天皇」も、兼好法師の時代ですら、気が付いた時には既にそこにあった(ましましていた)存在である。


▼メシアはアブラハムの家系から誕生する必要がある

  問題は、この「聖家族」の遺伝子の継承の仕方である。キリスト教国では、中世以来、盛んにこの「聖家族」が芸術のモチーフとなった。アントニオ・ガウディが設計した有名な教会堂の名前も「Sagrada Familia(聖家族)」である。もちろん、ここでいう「聖家族」とは、キリストであるイエスと聖母マリア、それからマリアの夫であったヨセフのことである。ところが、たいていの絵画は三人ではなく、赤子であるイエスを抱いたマリアの二人連れの「聖母子」像である。イエスの父であるヨセフはどこへ行った? そう言うと、読者の中には、「処女懐胎」といって、「乙女マリアは、夫ヨセフを知らずに(セックスせずに)御子イエスを身籠もった」というのは、キリスト教神学の基本中の基本じゃないか。と指摘するであろう。

  確かに、「処女懐胎」は、科学的にはどうであれ、キリスト教信仰のエッセンスのひとつである。しかし、それだけでは、聖書の説いている内容を十分理解していないのである。その答えは、いきなり新約聖書の第1ページに書かれてある。新約聖書の冒頭に収録されている『マタイによる福音書』は、こういう書き出しで始まる。第1章「アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図」もちろん、アブラハムは、旧約聖書の冒頭の『創世記』に登場するメソポタミアの都市国家ウルに生まれた預言者で、「啓典の民」(註:ユダヤ教・キリスト教・イスラム教などの一神教を奉じる中近東の諸民族)の共通の先祖である。アブラハムが神に導かれてメソポタミアからカナン(現在のパレスチナ)へ移住した。ダビデは、旧約聖書に登場する古代イスラエル王国の二代目の王。実質的なイスラエルの建国者。現在のイスラエル共和国の国旗にも採り入れられている「六芒星(ろくぼうせい=Hexagram)」は「ダビデの星」と呼ばれている。

 『マタイによる福音書』は、この後、「アブラハムはイサクの父であり、イサクはヤコブの父…。…ダビデはソロモンの父であり…。…ヤコブはマリアの夫ヨセフの父であった。このマリアからキリストと言われるイエスがお生まれになった」とある。なんと、初代のアブラハム(預言者)からダビデ王(建国)までが14代。ダビデ王からバビロン捕囚(亡国)までが14代。バビロン捕囚からキリスト(救世主=メシア)までが14代と、合計42代を経てイエスまでの「系図」が延々と記述されているのである。しかし、よく考えてもみよ。マリアが「処女懐胎」したのなら、夫であるヨセフの家系なんて関係ないはずである。しかし、身籠もったマリアは、わざわざダビデ王の後継者が生まれるべき土地であるベツレヘムまで移動して、そこでイエスを産み落としているのである。つまり、イエスが正当なメシアであるためには、アブラハム以来連綿と続く“男系の男子”として生まれる必要があったということである。


▼男系天皇を維持しなければならない理由

  さて、話は再び本朝へと戻る。今回の『皇室典範』改訂騒動において、いかに文仁親王殿下(秋篠宮殿下)以来40年間、皇族に男子が誕生していないからといって、皇室の伝統にない“女系天皇”を容認しようなんてとんでもないことである。天皇制のレジチマシー(正統性)は、一片の紙に書かれた憲法なんぞに依るものではなく、「気が付いた時には既にそこにあった」という民族の伝統以外のなにものでもない。そのことは、兼好法師の指摘するとおりである。逆を言うと、天皇制にとって最も大切なことは、頭で考えた合理性でもなければ、多数決の原理でもなく、ただ「伝統に即しているかどうか」の一点に尽きる。つまり、『皇室典範』どころか、日本国の基本法である『日本国憲法』の第一条に書かれているような「(象徴である天皇)の地位は、主権の存する国民の総意に基づく」なんぞというものではないことは明白である。

その「伝統」が“男系天皇”である以上、それに代わる制度なんぞはあり得ないのである。「この頃、雪が積もらなくなったので、富士山の代わりに会津磐梯山を日本の象徴にしろ」というようなものである。富士山は、やはり「不二(ふじ=ふたつとない)」から富士山なのである。それに、皇太子徳仁親王殿下も男系の皇孫誕生を諦められるのはまだ早い(註:現皇太子妃殿下の代わりに皇子を産んでくれる「側室」を設けることは現行制度上ダメでも、より若い女性と「再婚」という手は十分ありえる)し、何よりも秋篠宮妃殿下においては現在ご懐妊中ですらある。もし、秋篠宮家に皇子(男子)がお生まれになったら、当然、その皇子が皇位継承順位第3位になるのに決まっている。もちろん、その後でも、皇太子殿下に皇子(皇孫殿下)がお生まれになったら、その皇子が秋篠宮殿下を抜いて皇位継承順位第2位になるのである。

  もし、秋篠宮殿家に今回も内親王しかお生まれにならず、皇太子のお子が現在の敬宮愛子内親王お一人のままだとしたら、現在の男子皇族(皇弟常陸宮殿下、皇叔三笠宮殿下およびその男系の子孫である寛仁親王殿下と桂宮殿下)は皆、皇太子殿下・秋篠宮殿下よりご高齢なので、常識的には先に薨去されるであろうから、その際は、日本の敗戦によって進駐軍からむりやり「皇籍離脱(臣籍降下)」させられた11家の旧宮家の男子から血縁の濃い順に「皇籍復帰」してもらい、その方と愛子内親王(もしくは秋篠宮家の内親王方)と結婚していただき、その皇子に皇位を継承していただけば良いのである。そうすれば、皇太子殿下の次は、今上陛下の皇孫内親王殿下が皇位に就き(女性天皇)、しかる後に、その方の皇子(男子)が皇位を継承することになるから、奈良時代の何人かの女帝の時と同じように“男系天皇”の伝統は守られるのである。


▼東久邇氏に皇族へ復帰していただく

  そうなった場合、私がお奨めするのは、東久邇(ひがしくに)宮に連なる東久邇家ならびに壬生家には、成年男子が8人もおられる。その内、何人かは未婚のはずである。なぜ東久邇家の皇籍復帰を奨めるかというと、その筆頭の東久邇信彦氏などは、明治天皇の血(DNA)が今上陛下よりも5割も濃いからである。こう書くと、読者の皆さんの中には、明治天皇の直系の皇曾孫にあたる今上陛下よりも「血の濃い(DNAが近い)」人がいるということを聞いて驚かれる方もいるであろうが、事実なのだからしょうがない。東久邇家の先祖である伏見宮家は、現天皇家とは600年も以前の南北朝時代に別れた「超遠縁」だという“女系天皇”容認論を推進する政府やマスコミの宣伝にごまかされているが、もし、彼らが主張する“女系天皇”論から言えば、東久邇家は最も天皇家と血縁が濃いということになってしまい、彼らの論拠が矛盾撞着を起こしてしまうのである。


元皇族の東久邇信彦氏と三宅善信代表

  説明しよう。東久邇信彦氏(以下、血縁関係は皆、同氏を基準に表記する)の父方(元皇族の東久邇盛厚王)の祖母は、明治天皇の第一皇女総子内親王である。因みに、その配偶者である首相も務めた東久邇宮稔彦王は、伏見宮家の直系である久邇宮朝彦王の弟である。つまり、祖父母の代で父方母方共に皇族である。次に、父東久邇盛厚王の配偶者は、昭和天皇の第一皇女成子内親王である。つまり、今上陛下の義理の兄に当たる。しかも、今上陛下の母である香淳皇后は、先述の久邇宮朝彦王の長男久邇宮邦彦王の妹良子女王その人である。つまり、女系からいっても、明治天皇と昭和天皇の皇女をそれぞれ祖母と母に持ち、これだけでも、今上陛下よりも明治天皇の遺伝子は1.5倍多い。その上、男系からいっても、500年にわたって「世襲宮家の筆頭」つまり、もし「直系の皇嗣」が絶えた時には次の天皇を輩出する役を担わされた、徳川幕府で言えば「御三家(尾張・紀州・水戸)」に当たるような、伏見宮家からも明治以後だけでも二度にわたって遺伝子の入っている東久邇家の方々を、まず皇族に復帰していただくのである。

“女系天皇”論の小泉政権の言うように、「60年間皇籍を離れていた人々に皇族に復帰してもらうのは国民感情として理解しにくい」なんぞという世迷い言は、すぐにお門違いなことが判明するであろう。写真をご覧になられても判るように、東久邇氏の姿振る舞いは、どこから見ても「宮様」のそれである。むしろ、戦後「庶民の血」が入った皇太子殿下や、二世代にわたって「庶民の血」が入った愛子内親王よりも、ずっとそれらしい。旧皇族の方々の多くは、皇籍を離脱させられてからも、公式の国家行事には列席していないけれども、「天皇家の親戚」として、皇族の方々とはことある毎に同席しておられるし、有職故実にも明るい人も多い。

しかも、「皇位の安定的な継続」のため、男女ともに「継承権」を与えた方がよいなどという論理もおかしい。そんなことしたら、百年くらいの間に倍々ゲームで皇族の数が猛烈に増えてしまうことになる。やはり、男女のどちらかが継いで、その反対側の性が他家へ移ったほうが、プラスマイナスゼロと一定数が保たれやすい。これをもって「安定的」というのである。

では、なぜ「男系優先」を選ぶのかと言えば、「伝統がそうなっているから」と言うだけで十分であるが、あえて第二の理由を付け足すのなら、「皇位を継いだ一人の女性」が一生に産むことのできる子供の数はせいぜい数人までであろうが、「皇位を継いだ一人の男性」なら、子供を産ませることができる期間は、女性のそれよりも長いので、もし早期にお世継ぎに恵まれなったとしても、「新しいお妃」をもらえば、また、お世継ぎに恵まれる可能性が高いということになる。このほうがよほど「生物学的に安定している」と言えるからである。

それに、「男女同権の時代に、男子優先なんて時代遅れである」などという論理もバカげている。「時代遅れ」がダメなら、古色蒼然たる天皇制そのもののほうが、よっぽど「時代遅れ」であると言えないか? この天皇制について語るときに「時代遅れ」なんて言葉を出すことのほうがナンセンスである。それに、もし、「時代遅れ」というのなら、封建時代でもあるまいし、「(男女を問わず皇位継承は)長子優先」といのもおかしな話である。もし、3人子供が居たとしたら、相続権は3人それぞれに平等のはずである。


▼大宝律令以来の叙勲制度も切り捨てた小泉首相の暴挙

  ことほと左様に、小泉政権の提唱している「皇室典範改正論」は、ことごとく整合性を欠いているのである。まさに、「竹の園生の末葉まで人間の種ならぬぞ、やんごとなき」である。竹は地下茎(筍)を通じてその勢力を伸ばしていくのである。地上からは、見た目には「別の竹」に見えても、地下茎ではちゃんと繋がっているのである。東久邇家もちゃんと天皇家と繋がっているのである。ところが、兼好法師は、この「…やんごとなき」の後にすぐ繋げて「一の人の御有様はさらなり」と、皇族だけでなく、「一の人(摂政・関白・太政大臣等)もその有様は優雅である」と褒めているけれども、どうも平成の御代はそうではないみたいだ。当世の「一の人(内閣総理大臣)」の有様は決して「優雅」とは言えない。そこが、世襲して「一の人」を輩出していた平安・鎌倉期の藤原摂関家との違いであろう。

ところが、もし、小泉政権が本年4月26日まで続いたら、「首相在任5年間」という規定に達して、なんとあの小泉純一郎氏が生前に「大勲位菊花大受章」を授かることになる。この「大勲位」というのは、「勲一等」の上にある日本国の最高勲章であって、通常は、男子皇族(註:皇后陛下をはじめ女子皇族には勲一等宝冠章しか授けられない)と、英国のエリザベス女王やタイ国のプミポン国王ら来日した外国の元首に儀礼的に授与されるものである。小泉氏が「大勲位」ということは、勲位だけからいうと、「皇后陛下より上位」ということになってしまう。皆さん、おかしいとは思わないか? 戦後、生前中に、この「大勲位」を授かったのは、吉田茂首相と佐藤栄作首相(どちらも故人)と中曽根康弘首相の3名だけである。昨今の小泉純一郎氏の目標は、ただ「歴史に名を残す」ことの一点に執着しているだけのように思われる。

そう言えば、小泉首相は、『大宝律令』の時代より1300年にわたって連綿と続いてきた勲一等から勲八等(註:本来は勲十二等まであったが、勲九等から勲十二等までは、明治期に廃止)までの叙勲制度を平成15年11月2日(毎年11月3日の「文化の日」は宮中で叙勲が行われていた日)をもってバッサリと廃止してしまった。そして、わが国に残った勲位は、勲一等の上にある最高位の大勲位のみとなってしまったのである。宮中晩餐会などが行われる際に、皇后陛下以下の女子皇族はどの勲章を着けて列席するのだろう? それにしても、1300年の歴史を有する叙勲制度すら、弊履の如くうち捨てることができる首相が、2600年の歴史を有する天皇制についても、それくらいにしか思っていないのだろうかとすら思われる。叙勲制度廃止の時に、今日の“国体”の危機を予測すべきであったが、今からでも遅くはない。まさに、建国記念の日に、「心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」の心境である。

戻る