新型インフルエンザ出現と魚種交替

 09年05月1日



 レルネット主幹 三宅善信            
                   


▼根路銘国昭氏の「政権交代」説にびっくり

  4月末に突如としてメキシコで流行し出した「新型インフルエンザ」(註:当初は、養豚場の豚から人へと感染が広まったと思われていたので、「豚インフルエンザ(英語では、「Swine Flu」、中国語では「猪流感」)」と呼ばれていたが、その後の遺伝子解析等により、件の新型ウイルスはどうやら、人から先にメキシコの養豚場の豚に感染したことが判り、また、風評被害を懸念する畜産関係者に配慮して、WHO(世界保健機関)は、4月30時付で、「Swine Flu」を「Influenza A(H1N1)」へと変更した)は、瞬く間に「地続き」のアメリカからカナダへと拡がった。もちろん、世界中で毎日何百万人もの人が飛行機で移動しているので、感染はメキシコと関係の深いスペインから欧州全土へと拡大の傾向を見せている。運の悪いことに、日本とその周辺の国々は、日本のゴールデンウイークを真似た大型連休期間に突入し、海外旅行も増えるであろうから、東アジアに新型インフルエンザが拡大するのも時間の問題であろう。

  私はこれまで、本『主幹の主観』シリーズにおいて、1999年2月16日に上梓した『旧正月でインフルエンザを撃退』を皮切りに、2004年1月31日の『BSE・鳥インフルエンザ・鯉ヘルペスの奇妙な関係』や、2004年3月3日の『風邪見鶏:鳥とインフルエンザの深い関係』をはじめ、『神道フォーラム』連載シリーズにおいて、2006年1月15日に『インフルエンザと七草粥』や、2009年1月15日の『インフル・金融ダブル危機』など十年以上前から、「新型インフルエンザの出現」と「その対処法」について何度も指摘してきたので、レルネットの愛読者諸氏なら、インフルエンザが持つ生物学的な特性だけでなく、その文化的・歴史的・宗教的意味についても理解をいただいていると思う。

  このように長年インフルエンザについて記述してきた私であるので、パンデミックがいよいよ眼前に迫った今回、多くの人から意見を求められた。それらの中から、特に興味深かったのは、新型ウイルスの出現に伴う在来型との関係についてである。特に、民放のワイドショー番組に、インフルエンザ研究の世界的権威である根路銘国昭(ねろめくにあき)生物資源利用研究所長(国立感染症研究所呼吸器系ウイルス研究室室長、WHOインフルエンザ呼吸器ウイルス協力センター長などを歴任)が出演し、「(ニワトリの受精卵を使って製造するインフルエンザの生ワクチンを大量生産するためには、6カ月を必要とするから)来冬用の季節性インフルエンザワクチンと新型インフルエンザ用のワクチンのどちらを優先して製造するべきかという判断が迫られているが…?」というキャスターからの質問(註:厚労省もその選択肢で意思判断を迷っている)に対して、根路銘氏がいともあっさりと、「新型インフルエンザウイルスが出現した時には、従来型ウイルスとの間で“政権交代”(=従来型のウイルスが消滅してしまう)が起こるので、この冬は従来型の季節性ウイルス用のワクチンを製造する必要はない。毎年、来冬用のワクチン製造にとりかかる5月からは、日本国内のワクチン製造ラインはすべて新型(A/H1N1)ワクチンを製造すればよい」と断言したことの影響が大きかったと思われる。

  科学者としては少々荒っぽい言い方であったが、インフルエンザ研究の世界的権威である根路銘氏の発言だけに、それなりの科学的根拠があるのであろうが、もし、そのように言い切れるのであれば、専門家を多数抱えている厚労省が「判断に迷う」必要はないことになってしまう。私にも、何人かの人から同様の質問があったので、本件に絞って私なりに考察してみよう。


▼A型インフルエンザの流行史

  まず、根路銘氏の言う「政権交代」とはどういう意味であろうか? もちろん、政治用語である「政権交代」という表現を用いて、144種類の亜型あると言われるA型インフルエンザウイルスの世界におけるdominant(支配的)な亜型の盛衰が、劇的に起こると言うことを比喩的に表現したものである。1918年に世界的大流行し、4,000万人の犠牲者を出した「スペインかぜ」と呼ばれるH1N1亜型を皮切りに、1957年に出現した「アジアかぜ」と呼ばれるH2N2亜型、1968年に出現した「香港かぜ」と呼ばれるH3N2亜型、さらには、1977年にはどういう訳か1918年に大流行した「スペインかぜ」と同型(H1N1亜型)の「ソ連かぜ(ロシアかぜ)」が大流行した。

  ここ数年来、致死率60%の高病原性である「鳥インフルエンザ」(註:すべてのインフルエンザは、元来、野生のカモの病気であって、これが、アヒルやニワトリなどの家禽類やブタなどの家畜を経由して、ヒトに感染するように変異した亜型を便宜上「新型インフルエンザ」と呼んでいるのであるが、本来は、すべて「鳥インフルエンザ」なのであるが、ここでは、ここ数年来、「パンデミック直前」であるとされるH5N1亜型のウイルスが引き起こすインフルエンザを「鳥インフルエンザ」と呼ぶことにする)を引き起こすH5N1亜型のウイルスが、東南アジアや中国で出現していたはずである。わが国でも、そのH5N1亜型インフルエンザ用のプレパンデミックワクチン(註:完全なパンデミックワクチンは、実際に、ヒト→ヒト感染のパンデミックが発生した後、そのインフルエンザに罹患した人から採取されたウイルスを元に製造されるので、まだ存在しないが…)として、すでに3,000万人分を製造し備蓄している。しかし、今回、メキシコから流行が始まり、アメリカやカナダで急速に拡大しだした北米型インフルエンザ(註:WHOをはじめ、英語圏のメディアでは「North American (北米型) Flu」と呼ばれている)は、人類にとっては、昔なじみのH1N1亜型というではないか! 根路銘氏の言うように、「政権交代が起こって」いるようには思えない。H1N1亜型なら、人類の大部分はすでに免疫を持っているはずである。

  そこで、私は、日頃からインフルエンザについていろいろと教えていただいているわが国の四大ワクチンメーカーのひとつ「BIKEN」こと(財)阪大微生物研究会理事の上田重晴大阪大学名誉教授に「H1N1亜型なら、人類の大部分はすでに免疫を持っているはずですが…」と尋ねてみた。すると、上田重晴氏は「…目下、米国のCDC(Centers for Disease Control and Prevention疾病管理防疫センター)で検査が進行中ということですが、昨日(4月30日)の情報では、毎年世界中で流行っているA/H1N1ロシア(ソ連)型とは交差免疫がないということです。ですから、従来の免疫は役に立たないということになります…」との回答を頂いた。

  なんと、「毎年世界中で流行っているA/H1N1ロシア(ソ連)型とは交差免疫がない」とのこと…。「交差免疫(cross-immunity)」とは、類似性の高い抗原に対する免疫反応のことであって、(人が)すでに何らかの免疫を持っていた場合、それにより「類似した」抗原に対しては、ある程度の免疫反応が期待できるという理屈である。ここでいう「類似性」とは、抗原タイプ間の「ハミング距離」(註:情報処理用語で、0と1だけの数字を使ったビット列で表現されるある情報と別の情報との「何文字置き換えれば違う意味になるか」という文字列の差異の大小。アルファベットに置き換えて例えれば、「COKE」と「CAKE」のハミング距離は1であるが、「COKE」と「MAKE」のハミング距離は2となる)の大小である。だから、「交差免疫がないので、従来のH1N1亜型の免疫は役に立たない」ということは、全くの「新型」であって、人類の誰も免疫を有していないという意味である。だとすると、事態は深刻である。


▼「魚種交替」説とは何か?

  その意味では、根路銘氏が指摘するように、新型のウイルスは誰も免疫を持っていないから、在来型のウイルスよりも「有利な」立場にいることになる。しかし、それだけの条件で、はたして“政権交代”まで進むとは言い切れないのではないだろうか? このことを考察していた私は、ウイルス学とはまったく畑違いの海洋学者で、水産庁東北区水産研究所資源管理部長を務めた河井智康氏の提唱した「魚種交替説」というセオリーを思い出した。この説は、二十年程前に読んだ『イワシと逢えなくなる日――5億年の結晶「魚種交替」の謎に迫る――』(1988年、情報センター出版局刊)という本で評判になったので、ご記憶の方も多いと思われる。

  この「魚種交替」説というものをひとことで説明すると、外洋の食物連鎖の一番下位――もちろん、最下位は、植物プランクトンであり、その上が動物ブランクトンであるが、ここで言う「下位」とは、「魚類の中」でという意味――にいる小魚(イワシ・アジ・サバといった大量に捕獲される大衆魚の「青魚」のこと)の内で、その海域に棲息するdominantな種(註:その海域における全漁獲量の半分以上を一種に魚が占める)が、定期的に交替するという説。数理統計学の手法を水産資源調査の世界に持ち込み、日本近海では、太平洋側では「マイワシ→サンマ→マサバ」、日本海側では「マイワシ→マアジ→マサバ」、また、南米ペルー沖では「カタクチイワシ→マイワシ」、欧州の北海では「ニシン→サバ→イワシ」の順で、ある一定の周期でドラスチックな変換が起こり、それまで大量に捕獲されていた魚種がサッパリ水揚げされなくなるという説。イワシが空前の大豊漁であった1988年に出版された本で「近いうちにイワシがほとんど獲れなくなる」ことを大胆に予測し、その後、その予測が見事に的中して注目された。私は、他の分野においても河井智康氏の言説に注目していたが、不幸にも、2006年5月30日、帰国子女である長男(本人も自殺したので、真相は闇の中だが…)によって妻共々刺殺され、自宅に放火されるという「予想外の出来事」で、この世を去った惜しまれるべき人材である。

  河井氏の「魚種交替」説のキーポイントは、「魚類は大量の卵を産む」という点に尽きる。しかも、回遊性の魚類(青魚)の卵(浮遊卵)の大きさというのは、巨大なマグロの卵も、小さなイワシの卵もほぼ一定で約1mmである。生物としての魚類(回遊魚)は、何十万から何億個という膨大な数の卵を海水中に産卵し、あとは「運任せ」という戦略を採っているのである。ということは、成魚間の食物連鎖には、マグロ>カツオ>サバ>イワシのように、厳然と「大が小を食す」という法則が当て嵌まるが、産卵直後の時期に当たれば、へたをすれば、マグロの卵がイワシの稚魚に食われるという可能性もありうるのである。このことは、魚類間においてだけではない。なんと、日頃は、魚が餌として捕食している動物(魚食性)プランクトンにも、魚の卵は捕食されているのである。一定の水域の海水の富栄養化の度合いや、水温の変化などの理由によって、植物プランクトンが大量に発生し、その結果としての動物プランクトンの大量発生と、たまたまその海域でdominantな位置を占めていたある種の青魚の産卵時期が重なると、その種の稚魚の数――すなわち、数カ月後の成魚の数――が急激に減少し、その種がその海域で占めていた位置に、わずかに産卵時期が異なる別の種の青魚が取って代わるということ。

  つまり、青魚は、小さなイワシでも、一回の産卵で約10万個の卵を産むので、生存率がわずか1%増加しただけでも、1,000尾のイワシが成魚になってしまうということが起こるのである。およそ魚類(動物一般)というものは、どのような種であれ、1尾の♂と1尾の♀(つまり成魚の数は2尾)の間に、種によっては1,000個しか産卵されなかろうが、1,000万個も産卵されようが、それらの卵たちが運良く成魚にまで生き延びて、次の産卵の機会に恵まれるのは2尾しかいない。さもなければ、地球上のあらゆる海は、あっという間に、その魚で埋め尽くされてしまうことになる。したがって、「大量に産卵する」という行為の中には、「大量に(捕食されて)死ぬ」ということが既に織り込まれているのである。逆に、「親が子育てをする」という手段を選択した鳥類や哺乳類は、その卵や子供の数は魚類に比べて極端に少ない。そこで、卵や孵化直後の時期の環境の違いにおける生存率のちょっとした差が、結果的には次の世代には極端な個体数の差になって現れるという傾向が魚類にはある。そして、一定の周期を以て、ある海域における支配的な魚の種が劇的に入れ替わる(=「政権交代」が起こる)というのである。


▼インフルエンザは究極のDM

  ここまで読んだら、お解りいただけると思う。インフルエンザウイルスは、他の生物に共通して持たれる基本構造としての「細胞」を持たず、「envelope(封筒)」と名付けられたケースの中に「RNA」という遺伝子(註:一般的な生物の遺伝子DNAは、相互補完的なA・G・C・Tの4つの塩基配列から構成される二重螺旋構造をもった高分子であるが、ウイルスや原生生物などの遺伝子RNAは、A・G・C・Uの4つの塩基配列から構成される比較的短い一重螺旋構造をもった高分子であり、偶然、塩基配列に変位が起こったとしても、相互補完関係にある塩基がないため、新しく変異した遺伝情報が次世代に伝えられ易い構造になっている)だけを有している最小単位の「生命体」である。細胞よりも遥かに小さいウイルスは、エンビロープの表面から突き出した引っかけ装置のような構造を持った蛋白質――この蛋白質の型式の違いが、144種類あると言われているH1N1からH16N9までの各亜型の違い――でもって、宿主たる細胞表面に取り付き、そこから細胞内に侵入して、その細胞内にある材料(蛋白質)を利用して、自らのRNAのコピーを作って元のウイルスとして再合成し、宿主細胞の表面を打ち破って宿主の体内に拡散していく。

  この際、増殖する際には、二重螺旋という長いファスナー(zipper)を開いて、自分の完全なるコピー(註:A=G、C=Tと、結合することのできる相手側の塩基がデジタル的に確定しているので、何度、コピーを繰り返しても質が劣化しないDVDのような仕組み)を作り出す一般的なDNAとは異なり、インフルエンザウイルスの遺伝子であるRNAは、宿主細胞内に侵入してエンビロープ(封筒)を開く(この動作を比喩的に「脱穀する」と呼ぶ)なり、比較的短いRNA(封筒内の“手紙”の部分)が8本に分断されて、それぞれが自己のコピーを次々と作成してゆく。一方、脱穀されたエンビロープ自身も自らのコピーを作成し、宿主細胞の表面付近で新たに充填される「手紙(遺伝情報)」の到着を待つ。そして、大量にコピーされた手紙が次々と封入され、新たなウイルスとなって細胞膜を破って飛び出してくる。まるで、1通の封筒を郵便ポストに投函したら、ポスト内で勝手に開封され、同じポスト内にある全ての手紙の内容を勝手に書き換えるようなものである、それぞれの宛名はそのままで…。しかも、それらの封書をウッカリ郵便局員が回収して本局へ持って行ってしまうと、今度はそれぞれの手紙が郵便局内にある全ての手紙の内容を勝手に書き換えて、翌日には日本国中へばらまかれてしまうようなものである。究極のDM(ダイレクトメール)である。

  こういった仕組みで「増殖」するが、その速度たるや、10x10=100→100x100=10,000→10,000x10,000=10の8乗(1億)→10の8乗x10の8乗=10の16乗(1京)というように、わずか4回コピーを繰り返すだけで、途方もない量に幾何級数的に増殖してしまう。もし、体内で12時間に1回新しいインフルエンザウイルスが宿主細胞の膜を破って飛び出してくるとしたら、48時間後には1京個ものウイルスで体内が充満されるという計算になる。タミフル(言うまでもなく、InfluenzaをTerminate(終結させる)という意味で゚「Termiflu」と命名された)は、「48時間以内に服用しないと効果がない」と言われる所以(ゆえん)である。インフルエンザに罹患したら、スピード勝負なのである。


▼ヒトと親和性のあるウイルス

  しかも、質の悪いことに、たまたまある宿主細胞内に、Xという亜型のインフルエンザウイルスが侵入した際に、もうひとつ別のYという亜型ウイルスも侵入してきたら、宿主細胞内でそれぞれのRNAが8つずつ分かれて増殖を繰り返すけれど、RNAの一部が間違って別のRNAの一部と入れ替わってしまう可能性があるということである。つまり、仮にX亜型のRNAの配列が通常「X-1,X-2, X-3,X-4, X-5,X-6, X-7,X-8」というビット列で表現されるとして、そこに別のY亜型のRNA「Y-1,Y-2, Y-3,Y-4, Y-5,Y-6, Y-7,Y-8」の内から2つが入れ替わって、新しいビット列「Y-1,Y-2, X-3,X-4, X-5,X-6, X-7,X-8」という遺伝情報からなる全く新たらしいZ亜型のインフルエンザウイルスに変異してしまう可能性があるということである。このZ亜型は、元のY亜型から比べると6もハミング距離が離れた「全く別物」であるし、近い方のX亜型から見てもハミング距離が2離れているということである。一般の人にも解りやすい表現をすると、元々のスペルがHONGKONG(香港)であったものがKINGKONG(キングコング)に変わるようなものである。2文字違っただけでも大違いである。

  これらの分子的な変化がもたらす、在来型インフルエンザと新型インフルエンザの劇的交替――根路銘氏の表現を借りれば「政権交代」――は、河井智康氏の説く「魚種交替」とほぼ同じ理屈で説明できる。キーワードは、爆発的な増殖力であって、ほんの少しの条件の変化が、大幅な結果の差をもたらすということである。人流社会に新たに出現した新型インフルエンザウイルスは、ほとんどの人が少なからず交差免疫を持っている在来型ウイルスと比べて、誰も免疫を持っていないのだから、急激にその感染者を増やすことによって、在来型が感染する余地を奪ってしまい、結果として、地球規模での支配的ウイルスの「政権交代」が起こるというのである。

  しかし、よくよく考えて欲しい。A型インフルエンザの亜型は144種類しかないといわれている。仮に50年に一度の割合で、新型インフルエンザが出現するとしても、144x50年=7,200年間ですべての新型が出尽くすことになる。当然のことながら、人類の歴史はそれよりも長い。しかも、これまでに発見されたヒトに感染するインフルエンザウイルスは、H1N1(スペインかぜ・ソ連かぜ)、H2N2(アジアかぜ)、H3N2(香港かぜ)、H5N1、H9N2の5種類だけである。論理的には144種類あったとしても、それは野生のカモのことであって、自ずとヒトとの間で親和性のある亜型とない亜型があるのは当然である。そのことは、ブタにはH1N2とH3N3亜型、ウマにはH3N8とH8N7亜型、アザラシにはH5N7とH8N8亜型というように、ヒトとは異なる親和性を持ったインフルエンザウイルスが確認されていることからも明らかである。つまり、これまで人類社会の中で感染を繰り返してきたH1N1、H2N2、H3N2亜型は、ヒトとの「相性が合う」ウイルスということになるのである。


▼インフルエンザにおける「亜型交替」説は?

  しかも、人類がウイルスに対する科学的な知識を持ってわずかな歴史しかない。顕微鏡の発明によって細菌の存在が知られるようになったのはパスツールやコッホが活躍した17世紀後半のことであるが、細菌よりも遥かに小さくて、生物の基本的特色のひとつである代謝すら行わないウイルスの存在が確認されるようになったのは、20世紀に入ってからのことである。したがって、ヒトにインフルエンザが継続的に感染するようになったのは、人類の歴史(註:古代都市文明が成立と感染症の関係については、2002年8月31日に上梓した拙論『都市と伝染病と宗教の三角関係』に詳しく述べているので、是非、ご一読いただきたい)と共にあるのであるが、その科学的な記録が残されるようになったのは、20世紀の初めに人類社会に大きな爪痕を残した1919年の「スペインかぜ」が最初のことである。だから、このウイルスが「いの一番」とも言える「H1N1」亜型の位置を占めているのであるが、それより以前の世界的規模でのインフルエンザのパンデミックについては、残念ながら正確な記録が残されていない。その点では、同じウイルス性感染症であるペストや天然痘(痘瘡)のほうが、千数百年前から歴史的記録が残されている。

  つまり、19世紀中にもヒトと親和性の高いH1N1、H2N2、H3N2亜型のインフルエンザが大流行した可能性は高い。1957年にパンデミックを起こした「アジアかぜ(H2N2)」の場合、どういう訳か50歳以上の高齢者には感染者が少なかったことから、科学的記録の残る以前の19世紀末から20世紀初頭までの時代にかけて、類似の亜型のインフルエンザの世界的流行があったと考えるのが合理的である。また、その11年後の1968年に、「アジアかぜ(H2N2)」とはN(ノイラミニダーゼ)の型番は同じながら、H(ヘマグルチニン)の型番だけがひとつだけずれた(つまり、ハミング距離が近い)「香港かぜ(H3N2)」が世界的大流行を来した際には、11年前の「アジアかぜ」体験者にはそれなりの「免疫」があったとされる。しかし、そのことが災いして(ウイルス側からの見方であるが…)か、根路銘氏が主張するような「政権交代」が起こり、H2N2亜型のウイルスは急速に人類社会の前から姿を消していった。

  最後に、今回の北米型インフルエンザの大流行に当たって、本来なら総合的な免疫力が低下している高齢者に犠牲者が多いはず(毎年のように流行する季節性の在来型インフルエンザでも、衛生環境の整った日本においても、高齢者を中心に年間1〜3万人も亡くなっている)であるのに、どういう訳か、流行の中心地であるメキシコやアメリカにおいても、患者は主に免疫の強いはずの青年層が多く、逆に、60歳以上の高齢者に患者が少ないことは注目に値する。1977年に大流行した「ソ連かぜ(H1N1亜型)」によって退場させられた同じスペインH1N1亜型の「スペインかぜ」ウイルスの再登場かもしれない。人類が遺伝子的解析を行うことができるようになって初めてのパンデミックによって、日本沿岸の青魚類の間で見られる「マイワシ→サンマ→マサバ→マイワシ」のような「魚種交替」と同じような「H1N1→H2N2→H3N2→H1N1」といったインフルエンザウイルスの「亜型交替」説が打ち立てられるかもしれない。

戻る